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二三五

 レオポルドが目を覚ますとそこはいつもの寝室で、ベッドの周りにはキスカ、アイラ、リーゼロッテ、フィオリア、レンターケット、ライテンベルガー侍従長といった面々が揃って沈鬱な表情を浮かべていた。

 彼らはレオポルドが目を覚ましたことに気付くと一様にほっとした表情を浮かべた後、キスカやアイラは安堵したように表情を緩め、レンターケットは「やれやれ」と呆れ顔で溜息を吐き、リーゼロッテ、フィオリア、ライテンベルガー侍従長の三人の表情は見る間に険しくなっていく。

 レオポルドはもう一度目を瞑って寝たふりをして誤魔化そうと思ったが、ベッドの傍らにいた宮廷医が「失礼」と言いながら強引に瞼を開いて瞳孔を見たり、口を開けさせて喉の様子を見たり、首に手を当てたり、脈を測ったりしはじめたので、寝たふりをするのはさすがに無理というものであった。

「もう大丈夫ですな。今日は安静にされた方が宜しいですが、明日からは普通に生活しても宜しいかと。無論、寝不足や疲労の状態で炎天下の外に出るのはお止め下さい。それと脱水症状の恐れがありますから、こちらをお飲みください。薄めた塩水です」

 宮廷医に勧められたコップに口をつけ、あまり美味しくはない薄めた塩水を飲み終えると、レオポルドは気まずそうに口を開く。

「迷惑をかけて申し訳ない……」

「えぇ、全くその通りねっ。前々から忠告されていたのに、無理を続けた挙句がこの様よっ。自業自得としか言いようがないわっ。皆がどれだけ心配したか分かってるのっ」

 フィオリアにキンキン響く声で怒鳴られ、レオポルドは母親に叱られる小僧のように黙って大人しくしていた。

「私は別にそれほどあなたのことを心配してあげていたわけではないけれど」

 リーゼロッテが氷のように冷たい顔で言い捨てる。

「でも、自らの体調管理を疎かにして倒れるようなことは統治者として失格というものではないかしら」

 この指摘は至極尤もである。反論の余地は一つもない。

「恐れながら、閣下は辺境伯としての自覚が今少し足りないと言わざるを得ません」

 ライテンベルガー侍従長が厳しい表情で言い放ち、くどくどと説教を始めた。

 レオポルドは助けを求めるように宮廷医に顔を向けたが、彼は「それでは」と言い残して退出してしまった。

 この後、一時間余に渡って三人から代わる代わるお叱りを受けたレオポルドはすっかり憔悴してしまうのだった。

「まぁまぁ、皆さん、ご心配とお怒りはご尤もですが、これくらいにして。レオポルド様の体調もまだ十分に回復したわけではないでしょうし」

 レンターケットの言葉に三人は矛を収め、一同はぞろぞろと部屋を出ていく。

「あの、レオポルド様……」

 最後尾だったキスカが振り返り、珍しく弱々し気な様子で言った。

「皆、とても心配していたんです。三人が怒ったのも本当に心配していたからなのです。ですから、もうこんな心配させるようなことはなさらないでください」

 一人寝室に残されたレオポルドは天井を眺めながら彼是考えた結果、つくづく反省するに至る。ソフィアを伝染病で亡くし、自分が家族に対して夫らしいことや父親らしいことを何もできていないと後悔に苛まれたにも関わらず未だ仕事にかかりきりになっている。全く何も進歩していないではないか。

 これではいけない。レオポルドはそう強く思い、どうすればよいか考え込む。

 ついでに、ふと寝る前に風呂に入りたいが、そう言えば怒られるか顰蹙を買うことは目に見えていたので我慢することにした。


 翌日未明、目を覚ましたレオポルドは、まず最初に入浴を済ませた後、キスカ、アイラ、フィオリアとともに朝食を取ることとした。

「昨日は君たちには大いに迷惑と心配をかけて申し訳なかった」

 そう言って頭を下げた後、続けて言った。

「これからは仕事のやり方を一から見直してもう少し君たちと過ごす時間も増やしていきたいと思う」

「是非そうするべきよ。仕事は勿論大事だけれども、もっと家族と過ごして、父親らしいことをしなさい」

 フィオリアの言葉にキスカとアイラは遠慮がちに頷く。

 実際、辺境伯領の統治に係る全ての仕事を一から十まで端から端までレオポルド一人が目を通して確認することなど、いくら彼が事務処理能力に長けていると言っても不可能というものであり、限界であったのだ。

 レオポルドの書斎に様々な書類が停留し、ありとあらゆる行政事務が停滞するというような致命的な失態が起きる前に見直しの機会が訪れたことはある意味で好機とも言える。

 また、フィオリアのもっと家族と過ごすべきという指摘はレオポルドも同感であった。

 王侯貴族の子女が両親の手によって育てられることは極めて珍しく、傅役や乳母、家庭教師などに養育・教育されることが一般的である。

 家族以外の者によって養育や教育が行われることが全く不適切であるとは言えないし、家族の愛情が万能とも言い切れまい。優秀な者が養育や教育に当たることによって、人間的に成長したり、才能が花開くこともある。

 一方で、多感な幼少期において家族の愛情を十分に受けられず、人格形成に大きな悪影響を及ぼすということも少なからず見られる。

 子育てや教育というものに万能の正解というものは存在せず、人格の形成や才能の開花、成長というものは様々な要因が複雑に関係しあった結果と言えよう。

 故に、レオポルドがこれまでほとんど父親らしいことをしていなかったからと言って、直ちに人の親として失格であるとして非難すべきではなかろう。

 しかしながら、フィオリアは子女の成長には家族の愛情が不可欠であるという信念を持っているようで、前々からレオポルドに子供たちと一緒に過ごす時間を作るよう求めていたのだ。

 それは彼女自身が孤児で、幼少期に十分な愛情を得られなかった実体験からそのように感じているのかもしれない。

 レオポルドも彼女の主張には一理あるとは思っていたものの、これまでハヴィナ城から離れていたり、前述の如く大量の仕事を抱えていたりして、家族と十分に向き合うことができていなかったのである。

 今回の一件はこれまでの状況を改める極めて良い機会となろう。

 レオポルドはフィオリアの言葉に頷いた後、キスカとアイラを見やった。

「今日明日からとはいかないが、夏が終わる前には君たちといる時間を増やせるようにしたいと思う」

「それはとても嬉しいことです」

 アイラは控えに微笑み、キスカも黙って頷く。

「一緒の時間を増やすにあたって何かしたいこととかしてほしいことはないか」

 その問いにキスカはあまり思いつかないようで難しい顔をして考え込んだが、アイラの方は何かしら言いたげな様子を見せた。

「何でも望みを言ってくれ。可能な限り叶うよう努めよう」

 促されてアイラはようやく遠慮がちに唇を開く。

「団様と過ごせる時間が増えるだけで望外の喜びではございますが、叶うなら少しの間でもファディの様子を見に行ければと思います」

 言われてみれば彼女が生まれ育ったファディを離れ、サーザンエンドの首都ハヴィナに移ってもう何年も経ち、その間、彼女は一度として故郷に帰っていないし、帰りたいと言ったこともなく、そのような素振りすら見せたことはなかった。軽々と帰られるような立場ではないということを彼女は理解し、納得しているのだろう。

 とはいえ、故郷とは特別なものであり、長く離れていれば懐郷の念を抱くのも無理からぬことであろう。長らく離れ離れになっているファディに住む親類や友人知人の顔だって見たいに違いない。

 レオポルドも生まれ育った帝都から遠く離れた地に移り住むことになり、幾度か帝都に赴いたときに懐かしさを感じたりしているのだから、アイラも同じような感慨を抱いているのではと察しても良さそうなものだが、そういう発想に至らないのがレオポルドという男であった。

「そうか。そうだな。確かに」

 アイラの言葉で初めてそのことに気付いたレオポルドは一人納得したように呟き、フィオリアは呆れ顔で溜息を吐いた。

 キスカの望みはといえば、

「特にありません」

 とのことであった。


 サーザンエンド辺境伯たるレオポルドの場合、自分の仕事のやり方を変えるとは、即ち統治機構の改革となることは必定である。

 そこで、彼は統治総監のヘーゲル卿、侍従長のライテンベルガー卿、官房長のレンターケットの三人を書斎に呼び、顔を寄せ合い、彼是と考え話し合った結果、統治総監の権能を拡充し、これまでレオポルドが行っていた行政文書の確認や行政事務の監察を担うことによって、辺境伯個人の業務負担を軽減させることとなった。

 また、レオポルドが高官や顧問を集めて頻繁に開催していた各種の宮廷会議を統治総監や担当する長官らが主催する会議に改め、辺境伯の出席は重要重大なものに限ることとした。

 具体的には、統治総監の下に三つの部門を設け、必要な人員を配置する。

 まず、これまで文書業務を司っていた書記官を増員し、その長として書記官長の職を設け、辺境伯政府全体の行政文書の記録、保管を監督させることとした。書記官は報告書や調査書、議事録などの書式や記載要領を定め、諸機関から提出させた行政文書を審査し、これを整理、保管する。

 辺境伯の書斎には定期的な年毎や月毎の定期報告書が届くようになり、目を通さなければならない書類は大幅に削減されるであろう。

 勿論、辺境伯や統治総監は適宜自由に保管書類を閲覧できる為、必要であれば直ちにあらゆる書類を確認することは可能である。

 また、首席監察官を長とする監察部門を設け、定期的な行政監察を実施する。

 これでレオポルドが全ての公共工事の進捗や様々な契約、出納などを細かく確認する必要はなくなり、現場視察は特に重要で関心が高いもに限定され、その頻度は大幅に減ることになるだろう。

 更に、首席調査官を長とする調査部門を設け、サーザンエンド内外に調査要員や連絡要員を派遣させるとともに情報提供者と連絡させ、情報収集や調査活動、情報の整理、分析などに当たらせることとした。

 レオポルドにはより分かりやすく整理、分析、評価された報告書が届けられるようになり、情報の整理や分析に彼是と頭を悩ませる時間を大きく減らすことができよう。

 問題は誰をこの重職に就けるかである。

 前述の如くこれらの職は今までレオポルドが自ら行なっていた仕事を彼に代わって担うものとある。いわば、レオポルドの目や耳となる役目となるのだ。

 この職にある者が怠慢を働けば、情報は迅速適宜に届かなくなり、不正を働けば情報が歪曲され不正確なものとなろう。

 レオポルドは何日か考え込んだ後、書記官長はレンダーケットに兼務させ、首席調査官にはフェルディナント・ネルゼリンク卿を当てることとした。卿はリーゼロッテに従ってレウォントからハヴィナに移ってきた人物で、生まれは帝都であるので、帝国本土やレウォント、アーウェンの事情に通じ、先にレオポルドが仲介した神聖帝国と三王国の間の和平交渉でも実務担当者を務めたこともある。

 最も悩ましいのは首席監察官の人選である。その役目は行政機関の仕事ぶりを確認し、不正や怠慢を指摘し、改善や是正を勧告し、その全てを辺境伯と統治総監に報告することである。

 その仕事が杜撰で緩く甘いものとなれば、行政の不正や失態を放任することとなりかねず、厳格かつ教条的に過ぎれば、役人たちの不平不満の種となり、行政事務の停滞や士気の減退を招くであろう。厳しすぎず甘すぎないちょうどの良い塩梅が求められるのだ。なおかつ、私情や賄賂などに惑わされない公平潔癖な人格でなければならない。

 レオポルドは悩みに悩んだ挙句、枢密院議長であり、最も有力なハヴィナ貴族であるレッケンバルム卿に相談することにした。

 長らく辺境伯宮廷を実質的に取り仕切りサーザンエンドの表も裏も様々な事情に通じている卿ならば、適任者を推薦してくれるだろうと期待してのことである。

 言うまでもなく、今となっては辺境伯であるレオポルドの方が主なのではあるが、実力者で年長者でもある卿に敬意を払い、レオポルドの方が卿の執務室がある赤獅子館へと足を運んだ。赤獅子館はハヴィナ城内にあり、枢密院の会議場や事務局、貴族の控えの間などがある建物である。

「監察などという仕事をやりたがる役人は多くはあるまい」

 対面に座ったレッケンバルム卿の言葉にレオポルドは頷く。

「同輩の仕事ぶりを見直して、ケチをつける仕事が面白いなどと思う輩は碌なものではない。とはいえ、そのような仕事は必要であり、重要でもある」

 卿は髭の先を摘まみながら暫し考え込んだ後、再び口を開く。

「私の秘書官はどうかね。もう一〇年以上仕えている老いぼれだが、その前は内務長官の書記官や都市参事会の書記などをやっていた男だ。サーザンエンドの内政に詳しく、ハヴィナ貴族や役人にも顔が広い」

 気難しく傲岸であるが、切れ者でもあるレッケンバルム卿の傍近くに一〇年も仕えているのは、有能の証と言えよう。使えない部下をいつまでもそのままにしておくようには到底思えないからだ。

 その上、レッケンバルム卿の元秘書官となれば、それだけで貴族も役人も一目置かざるを得まい。監察官を蔑ろに扱ったり、不正や怠慢を見流してもらおうと脅迫したり懐柔したりしようものならば、直ちにレッケンバルム卿の耳に入り、とんでもないしっぺ返しを食らう恐れがあるのだから。

「不愛想だがつまらんおしゃべりをしない清貧で潔癖な男だ。信頼に足るであろう」

 卿がこれだけ言うならば、おそらく適任なのだろう。

 レオポルドは推挙の通り起用することにした。

「それと、書記官、調査官、監察官の報告書は枢密院にも提出願いたい」

 枢密院は辺境伯の諮問に与り、政治への助言などを行う機関であるが、実態としては実力者であるレッケンバルム卿が貴族たちの意見を調整してまとめ、政府に助言という形で要望する機関となっている。

 各種の報告書を枢密院にも提出させるということは、枢密院が諮問機関としての権能を発揮する為には必要な仕組みと言ってよかろう、

 レオポルドとしてもレッケンバルム卿の牙城である枢密院と協調していると内外に示すことは貴族対策として極めて重要かつ有効であると考えている為、異議などあるはずもない。

 レオポルドとレッケンバルム卿が協力関係にある限り、少なくともハヴィナにおいては様々な施策が大きな抵抗なく実施できるのだ。

「ところでだ」

 人事の話が終わったところで、レッケンバルム卿は話題を変えた。

「アルトゥールを軍事長官に据えた人事だが、あれはあまり良くなかったやもしれんな」

「任命にあたっては枢密院に諮問し、異議なしとの回答を得たはずですが」

「いや、そうだな。確かに、私も異議なしとは答えたが、あれから少し考えるに、些か拙かったかもしれぬ」

 レッケンバルム卿にしては歯切れの悪い言葉である。

「アルトゥールが軍事長官になってしまうとジルドレッド家のカール・アウグストが軍事長官に任命される可能性が低くなる」

 カール・アウグスト・ジルドレッド卿は辺境伯軍司令官を務め、レオポルドの下で幾度も戦ってきた将軍である。彼の家であるジルドレッド家はハヴィナ貴族の名門で、代々軍事を司ってきた家柄でもあり、これまで多くの当主が軍事長官に任命されてきている。

 この軍事長官務は今では名誉職と化してはいるものの、ジルドレッド家にとっては特別なものであるようだ。

 しかも、この職は慣例では任期がなく、終身まで務めた者も少なくない。

 つまり、カール・アウグスト・ジルドレッド卿より年下であるアルトゥールが軍事長官に任命されたことで、通常であるならば、卿が軍事長官に任命される可能性が限りなく少なくなってしまったのである。

 とはいえ、ジルドレッド卿も枢密院の一員であり、アルトゥールを軍事長官に任命する人事に同意している。だからこそ、レッケンバルム卿は枢密院として異議なし。と回答したのだ。

「ただ、改めて考えるに、腹の底ではどう考えているのか。表立って反対などしては、格好が悪いと考え、黙したのやもしれぬ。よくよく気を付けることだ」

 そのように言われては、レオポルドもなんだか落ち着かない気分になってしまう。

 とはいえ、今更どうこうすることもできないし、実際にジルドレッド卿がどう考えているのかもわからないのだ。

 レオポルドは微妙な気分を抱えて、赤獅子館を後にした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 組織改革とはなかなかうまく運ばないことがありますので、今回の改革が八方丸く治まる結果になればと願います。 それにしても毎話不安要素には事欠きませんね(笑) [一言] キスカ推しの私としては…
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