二三四
本格的な夏が訪れ、ハヴィナでは毎年のことながら灼熱に襲われる日々が続いていた。
太陽は地平線から姿を現すや否や焼き尽くさんばかりの勢いで過酷な熱線を地上に浴びせ、ありとあらゆるものを干からびさせ、人々を屋根の下に追いやる。屋外に十分もいれば卒倒しかねない程の暑さなのだ。
この日も太陽は容赦なくギラギラと燃え盛り、朝早くから既にこの夏一番の暑さではないかと思われるほどの高温であった。
「全く忌々しい暑さだ。頭が茹だってしまいそうだ」
長袖のシャツに青い上着を羽織り、キュロットと乗馬靴を履いたレオポルドは馬に跨って、幅広帽を被りながらぶつぶつと呟く。
この気候に似つかわしいとはとても思えない服装であるが、神聖帝国をはじめとする西方諸国の文化圏では、紳士は顔以外の素肌を晒さないものであり、諸肌を晒すのは庶民や野蛮な男の風習と見做されているのだ。
もっとも、西方諸国の文化圏は主に夏でも冷涼な大陸北部から西部を中心としている為、酷暑に見舞われる帝国南部においては全く適切とは言い難い服装と言える。
それでもサーザンエンド貴族、特に帝国本土を出自とする帝国系貴族は、この地に移住して百数十年が経った今でも西方風の装束に拘りを持ち、酷暑の夏においても外で肌を晒すことは品のない行為と見做していた。
帝都に生まれ育ったレオポルドも外出着はそのようなものであると考えており、夏でも素肌を出すようなことはあまりなかった。
「いやはや、確かに今日は暑いですなぁ。とはいえ、昨日も一昨日もその前も同じくらい暑かったですし、明日も明後日も明々後日も同じくらい暑いでしょうなぁ」
傍に控えていた辺境伯の官房長レンターケットが飄々とした様子で言いながら扇子で自分の顔を扇いでいる。そう言う割に彼は意外と平気そうな様子である。
その隣に立つキスカはムールド生まれの為、暑さには慣れているのか暑さに苦しんでいるようには見えないが、少し不安げな様子でレオポルドを見つめていた。
「レオポルド様、外出は控えた方が宜しいのではないでしょうか。ここ最近は御多忙ですから、このような時に暑さに晒されると体調を崩し易いものです」
キスカの懸念は尤もというものであろう。
南部の夏の気候は前述の如く昼間は猛暑であるが、日が落ちると急に気温は下がり、夜も更けるとやや肌寒く感じられ、就寝時には毛布が欠かせないほどである。
日中は屋外で仕事や家事などをして体に熱を溜め込んだ後、夜になって急に体を冷やされる寒暖差の急変によって体調を崩すということも珍しくない。
その上、ここ最近のレオポルドの一日の過ごし方は、酷暑が続く環境で生活する上で模範的とは全く言い難いものであった。
まず、就寝時間が極めて遅く、夜遅くまで報告書に目を通したり、帝国本土から取り寄せた本を読んだりと、日が落ちても中々寝床に入らず地平線の彼方に日の気配が見られ始めた頃にようやく寝床に潜り込むということも稀とは言い難かった。
しかも、彼はどんなに遅い時間に就寝しても必ず決まった時刻に起床する為、睡眠時間が三時間程度という日も珍しくない。
「確かに暑さで体調を悪くすというのはよく聞く話だ。このような体調不良を防止する為には、夜更かしを避け、早寝早起きという規則正しい生活を心送り、就寝時にはきちんと布団を被って眠り、栄養のある食事をすることが肝要である」
医学書を読むこともあるレオポルドはそのように講釈を垂れながら馬を進める。
キスカとレンターケットは顔を見合わせてから、それぞれの馬に跨って彼の後を追う。
ハヴィナ城の城門が開き、近衛騎兵連隊の中隊長、旗手を先頭に一二騎の騎兵に警護されたレオポルド、キスカ、レンターケット、数名の役人、その後に近衛歩兵連隊の中隊長、旗手、軍曹、喇叭手、鼓手、二四名のマスケット銃兵、伍長が続く。
「何よりも体調の維持管理に重要なのは入浴だ」
その言葉にキスカとレンターケットは「また始まった」と言いたげな表情を浮かべる。
「暑い日には体が怠く感じられ、温かい湯に浸かるのも億劫に思えるものだが、それは誤りというものだ。そういう時でも毎日の入浴を欠かしてはならない。温浴には体の中の温冷と乾湿のバランスを直し、保つ効果がある」
病的と言っても過言ではない程、入浴に熱心な彼は今朝も朝風呂を済ませている。朝昼夜と日に三度以上の入浴を彼は欠かさないのだ。
「しかし、入浴さえすれば体調不良にならないというわけではありませんからなぁ」
「その通りです。もう少し仕事を減らして休息を取るべきです」
口煩い側近たちの諫言にレオポルドは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
仕事を減らすと言ってもそう簡単ではない。辺境伯である彼がしなければならない仕事は膨大かつ多岐に渡るのだ。
辺境伯政府の高官や顧問、側近らと会議をしたり、報告を受けたり、サーザンエンド貴族やムールド諸部族の族長、都市参事会や商人組合、職人組合の幹部を謁見し、陳情や要望を受けたり、時には今日のように臣下を引き連れて城を出て、辺境伯軍を閲兵したり、都市再開発事業による工事の進捗状況を視察したり。その合間に昼食と入浴を行い、日が沈んで夕食と入浴と着替えを済ませて、書斎に戻ると机の上には計画書や報告書、調査書、その他諸々の書類が山と積まれているのが常であった。それは彼がありとあらゆる事柄について書面での報告を求めているからに他ならない。
その理由は、几帳面で事務的な気質によるものでもあるが、全幅の信頼が置ける臣下が少ないという事情もある。誰かに事業や仕事を一任してそのままにできるほど彼はお人好しではなく、怠惰でもなく、豪胆でもない。
ありとあらゆる報告を書面で求めれば、仕事の進捗や途中経過、結果は数字や文字として記録され、明らかとなる。目を通して不可解な記載があればそれを補完する書面と照合して確認し、納得できなければ担当者を呼んで具体的な説明を求め、不満があればその要因の調査と改善を書面によって報告させる。
例えば、公共工事を実施する際には事前に予算と工期、目的等を明示した計画書を提出させ、実際に工事を行う事業者に設計と工法、予算、工期等を記載した提案書を提出させ、工事の監督官には何故その事業者を選定するに至ったのか記述した理由書を提出させた後、更に詳細な計画書を再び提出させる。工事が着工した後も定期的に進捗状況を書面で報告させ、事前に提出した計画書と差異が生じた場合にはその理由を具体的に記述させる。場合によっては適宜に現場視察を行い、現場で計画書や報告書に記載された箇所の説明を求める。工事完了した後にも、工事完了をいつ誰がどのように確認したのか。工事の計画から事業者の選定、設計、工法、予算、工期は妥当であったか。より改善できる方法がなかったか検討した報告書を提出させる。
レオポルドは前述のような公共工事に限らず救貧基金による救貧事業の状況、サーザンエンド銀行、南洋貿易会社の経営状況、辺境伯軍の将兵の募兵、訓練、装備や物資の補給・管理の状況、帝都やカロン・フューラー・アクゼンブリナ三王国、アーウェン、レウォントといった諸国、諸侯との外交交渉、犯罪の検挙と訴訟、刑の執行に係る状況、宮廷経費の出納状況、宮廷が管理している飲食料、服飾品、調度品などの管理状況などについても事細かな報告を求めていた。
このようにレオポルド自身がほとんど全ての政策や事業、資金や人の出入りを監視することによって臣下の不正や怠慢を予防し、進捗や結果が意に添わない場合にも、これが取り返しのつかない失敗となる前に適宜に是正を指示、指導しているのだ。
ともなれば書類が膨大な量となるのは必至であり、その全てに目を通し、翌日、確認したいことなどをメモしれば就寝時間が真夜中過ぎになるのは必然というものであろう。
これがここ最近の彼の日常であり、仕事と私事の境目は混然としており、休息や休憩と言える時間は食事と入浴、睡眠が全てであった。
この日もレオポルドはキスカとレンターケットを伴ってハヴィナ市内及び郊外で行われている工事の状況を視察に出かける予定であった。視察するのは西側城壁の解体現場とその近くの公営住宅の建設現場、ハヴィナから北へ延びる街道の拡張工事の現場、最後にハヴィナ北方の軍事基地の建設現場である。朝早くから出かけ、途中昼休憩を挟んで、ハヴィナ城に戻るのは夕方近くになる行程であった。
一行は地獄のような暑さに辟易としながら市内の大通りを進む。大通りに人気は少なく、
人々は通りに面した商店の狭い軒下を日差しから隠れるように歩いている。多くの住民は日中は少しでも陰の中に入るように努めて、屋根の下から出るのを避け、強い日差しの下を歩くのは必要最低限に抑えているのだ。
もっとも、大人数で騎乗でもあるレオポルドたちは軒下に入るわけにはいかず、太陽の熱線に容赦なく晒されながら目的地へと向かう。
当初の計画案によれば、ハヴィナ西側の城壁の解体と公営住宅の建設は同時並行で進められ、約二マイルに及ぶ城壁の解体は着手から二月以内には終わり、バラバラにされた石材や日干し煉瓦はそのすぐ近くに建設される一〇〇〇戸の公営住宅の建材として活用され、今年中には全工程が完了することとなっていた。
城壁の解体と公営住宅の建設は同時並行で進められ、城壁解体が終われば、その工事に従事していた工員はそのまま公営住宅の建設に移ることとなっている。
しかしながら、着工から二月が過ぎた先月の段階でレオポルドに提出された進捗状況の報告書によれば、城壁の解体は未だ三分の一にも及んでいない状況であった。
当然、同時並行で進められる予定であった公営住宅の建設の進捗も滞り、ここ数日は建材が足りず工事は休止状態となっている。
都市再開発に大きな関心を持っているレオポルドにとって愉快な状況ではないことは言うまでもない。
そこで、レオポルドはサーザンエンドにおける建設行政の長である首席建設監督官を呼び出し、工事の遅延について説明させた。
首席建設監督官曰く、確かに工事の進捗には大きな影響が及んでいることは当局としても深く憂慮しており、これまで以上に工事の進捗状況を注視し、公営住宅の建設工事に与える影響を最小限にすべく有効な対策を検討するとのことであった。
この説明にあまり満足できなかったレオポルドは工事現場に赴き、自ら状況を確認しようと考えたのである。
とはいえ、報告書を受け取ってからは既に半月が過ぎていた。日々大量の仕事や予定に追われる多忙な身である為、市内の視察へ行く時間を確保するのも一苦労なのだ。
大幅に遅延している城壁の解体工事現場では、大急ぎで作業を進めているかと思いきや、工事に従事している工員は半分ほどで、残りの半分は城壁の日陰に入って休んでいる。
「この暑さですから、日中は三〇分毎に交代で休憩を取らせております」
現場でレオポルドたちを待ち受けていたハヴィナ西地区の建設監督官は落ち着いた様子で説明した。頭の禿げた痩せた初老の役人で、立場としては現場責任者と言える人物なのだが、工事の遅延に焦っているようには見えない。
「工事遅延の原因は何か」
「まず、起重機の設置に時間を要しました」
レオポルドの問いに監督官は冷静に答える。
城壁の上には三基の起重機が設置されており、今もゆっくりではあるが確実に稼働を続けている。主要な部品は木製で、大きな車輪が付いており、この中に数人が入って歩くことによって車輪が回転し、鎖を巻き取って物を吊り上げることができる。
城壁の上から建材を落とすのは極めて危険であり、建材が破損してしまうし、一つ一つを人の手で持って下ろすのでは時間がかかってしまうが、起重機であれば、ある程度の量の建材を安全かつ速やかに地上へ下ろすことができる。
しかしながら、大型の起重機を城壁の上に設置するとなれば高い技術力が必要となり、安全に作業するには時間も要すだろう。
「また、先々月の終わり頃には雨の日が続き、城壁の上での作業を中断しておりました。その上、先月からは先程ご説明いたしました通り工員の健康を配慮した作業に努めております」
雨に濡れた高所での解体工事は危険であり、工事を中断させるのは適切な対応と言えるだろう。また、猛暑の中、長時間の肉体労働に従事させるのもこれまた危険であり、短時間の作業と休憩を繰り返す作業手順も工員の安全を第一に考えるならば妥当と言えるだろう。
「恐れながら、この環境ではこれ以上の早さで工事を進めることはできません。事故や災害を防止する為には現状以上に工事を早めることは極めて困難であると存じます」
建設監督官の傍に控えていた若い小柄な監督官補が苛立たし気に苦言を呈した。監督官補は現場の実務担当者であり、本来であれば辺境伯どころか貴族にすら意見できるような立場ではないのだが、彼はあまりレオポルドの不興を買うことをあまり恐れていないらしい。
「では、公営住宅建設の工員をこちらに回してはどうか」
「城壁解体は高所であり、起重機の数も限られ、作業場所も狭隘ですから、工員を増やしてもあまり効果はないかと思います」
レオポルドの提案を監督官補は無下に却下した。
「では、あとどれくらいで工事は完了するのだ」
「秋になれば工事の進め方を早められるでしょうから、あと三月といったところでしょうか」
当初の計画の倍以上の時間である。
「つまり、当初の工事計画がそもそも無理な日程であったということか」
「その通りですな」
監督官補は何を今更とでも言いたげな表情で言った。
「そもそも、この工事の計画案は極めて楽観的な見通しで作成されたとしか思えず、現場の状況を全く考慮していないものと思われます」
かなり初期の段階で、現場では無理な日程だと考えられていたのだろう。
「わかった。極めて過酷な環境下で困難な作業に従事している監督官らと事業者、工員に感謝申し上げる。引き続き、安全を第一とした工事を進め、事故や災害がないよう努めてほしい」
レオポルドは建設監督官たちにそう述べた後、レンターケットに指示する。
「首席建設監督官には現場からの意見を十分に考慮した上で、工事計画を適切に修正し、その分に要する予算を算定して、財務長官に要求するよう伝達しておいてくれ」
「了解いたしました」
レオポルドの言葉を聞いていた建設監督官と監督官補は僅かにほっとしたような表情を浮かべた。
その後、レオポルド一行は休工状態の公営住宅建設現場を眺めた後、ハヴィナから北へと延びる街道の拡張工事の現場へと向かった。
次の現場はハヴィナの更に郊外であり、城壁の日陰から離れ、炎天下の中を数マイル行かねばならない。
太陽は天頂に差し掛かり、光と熱は頂点に達しようとしている。
「彼らには現場を知らない机上の計画を押し付ける君主だと思われているだろうか」
額から流れる汗をハンカチで拭いながらレオポルドが陰鬱な声を漏らす。
「いやはや、まぁ、どこの社会でも現場では上は何も知らないと言うものですからな」
行政事務に通じているレンターケットが応えた。明確には言っていないものの、同意しているようなものだ。
「やはり、書類だけ見ているのでは実際の状況が分からんな。もっと現場を見て、現場の意見を取り上げる必要がある」
レオポルドはこれまでの自分の仕事が書類偏重であったと後悔し、これからは現場視察を増やすべきだとの考えを強める。
「ですが、このような時期に長時間外に出るのはやはり危ないと思います」
「しかしだな。今日のように報告書と現場の状況が乖離しているようなことが……」
キスカの苦言にレオポルドは反論し、その途中で言葉を詰まらせる。
ふっと意識が遠のき、その身体は支えを失ったように馬の背から落ち、強かに地面に叩きつけられた。
毎日遅くまで起きて書類仕事に没頭し、慢性的な睡眠不足の状態で、猛暑の野外へ出て何時間も歩き回っていればどうなるかは神でなくとも医者でなくとも分かろうというものである。
キスカの悲鳴のような叫び声と周りの将兵の慌てた声、駆け寄るいくつもの足音をどこか遠い世界の物事のように感じていたレオポルドの意識はやがて霞のように薄れていき、間もなく途切れた。