二三三
サーザンエンド議会において救貧法が無事成立したことにより、救貧基金は正式に発足することとなったが、活動開始には一つ課題があった。それは基金の活動拠点についてである。
前述の如く、救貧基金はハヴィナにおける様々な福祉事業を担う機関であり、その業務は広範かつ膨大なものとなろう。この為、代表理事を務めるドルベルン内務顧問官は自身の家臣に加え、内務長官や都市参事会の下級役人、教会職員などから適任と思われる者を起用し、基金の職員は合わせて一〇〇人近くに及ぶ見込みであった。となると、当然彼らが業務を行う拠点が必要となる。
しかしながら、公的な儀礼や式典の会場であり、辺境伯の住居と執務室、枢密院や議会、各種の役所、近衛連隊の兵舎などが置かれたハヴィナ城内は言うに及ばず、城壁に囲まれたハヴィナ市内は予てより人口過密気味で、適当な広さのある空き家や空き地というものはほとんどない状況であった。
官僚機構の整備が未発達であった時代には貴族高官の私邸が実質的に官庁など公の機関の事務所として使用されることも多いのだが、ドルベルン男爵家はハヴィナ市内に屋敷を有しておらず、ドルベルン内務顧問官とその家臣たちは灰古城の一区画を間借りして居住しており、基金の事務所として活用できる余裕などあろうはずもない。
そこで、レオポルドはウォーゼンフィールド男爵がハヴィナ市内に有している屋敷を貸与するよう要望することとした。
ウォーゼンフィールド男爵はサーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の分家であることから、ハヴィナ市内に大きな邸宅を構えて家臣を常駐させていた。それに加え、前男爵の娘であるエリザベートと婚姻して男爵家を継承したアルトゥールもハヴィナ市内に別の屋敷を有している。
つまり、ウォーゼンフィールド男爵はハヴィナ市内に二つも家を保有しており、しかも、常に居住しているわけではないので、有効活用されているとは言い難いのである。何か別の用途に使った方が合理的というものであろう。
勿論、君主といえども、何の理由もなく臣下の財物を取り上げるなどということが許される道理はない。そこで恥を忍んで邸宅の賃貸を要望、つまり、お願いすることにしたのだ。その際、賃貸料については敢えて触れなかった。あわよくば無償で借り上げようという思惑である。
お願いとはいえ、その相手が君主となると臣下は慎重な対応を余儀なくされる。応じられないと思えば拒絶することは当然の権利ではあるが、無下に断って君主の不興を買うというのは避けたいところであろう。或いは君主のお願いを受け入れて覚え目出度くして、恩を売っておこうというのも一つの手であろう。
特にウォーゼンフィールド男爵の立場は極めて微妙である。辺境伯の庶孫という血統であり、筆頭分家の当主に収まった彼をレオポルドの潜在的な競合相手見做す風潮は宮廷のみならずサーザンエンド全土にあり、両者の関係性は極めて高い注目を集めていた。
そのような状況での屋敷貸与の要望である。
辺境伯はウォーゼンフィールド男爵のハヴィナにおける拠点を減らすことによって影響力を弱めることを狙っているのではないか。ドルベルン男爵の子息が宮廷に出仕し、ハヴィナに常駐するようになったことも、ウォーゼンフィールド男爵を相対的に弱める狙いの一環と見ることもできるのではないか。仮に屋敷の貸与を拒めば、不忠で反抗的という印象が生じ、辺境伯に目を付けられたくない貴族らは男爵との付き合い方を考え直すかもしれない。これもまた影響力を弱めることとなろう。或いは辺境伯は男爵に理不尽な要求を重ねて反乱を起こさせて、これを討伐し、競合相手を消し去ってしまおう魂胆があるのではないか。というように考える者も少なくなかった。
実際、それはレオポルドの思惑と大きく外れたものではなかった。自分に万が一のことがあった時、まだ幼い嫡子ヴィルヘルムを無条件で支えてくれると思うほどアルトゥールのことは信用していないし、フェルゲンハイム家の分家とはいえ、自身とはあまり縁のないウォーゼンフィールド男爵家の影響力も小さい方が好ましい。
そして、何よりもほとんど利用されていない空き家同然の建物を利用したいのだ。できるだけ安価に、可能であれば無償で。
レオポルドの要望に対するアルトゥールの返答は「当家の屋敷がハヴィナの貧民を救済する崇高ある事業の拠点となることは大変な名誉であり、光栄である」というものであった。賃貸料は当面の間、無償とし、救済基金の運営が順調に進んで資金的な余裕が生じた時点で、改めて賃貸料の交渉を行うこととした。
サーザンエンド貴族の多くはこの行動を、辺境伯の競合相手と見做されていることを自覚しているアルトゥールが忠誠心を示す為、つまり、レオポルドの忠実な臣下であることを内外に示す為に応じたのだというように受け止めた。
レオポルドはこの忠儀を賞賛し、彼を辺境伯軍大将に昇進させ、軍事長官に任じることとした。
軍事長官はサーザンエンド辺境伯の宮廷に古くからある官職であり、辺境伯軍を監督し、辺境伯の武器庫と軍馬を管理し、軍権を司る役職であるが、実質的な権限は軍事評議会や辺境伯軍司令官に移されており、今では名誉職という意味合いが強く、レオポルドが辺境伯位を継承する以前から空席が続いていた。それでもサーザンエンドにおける軍権の頂点という名誉ある地位であることに変わりはない。
多くの貴族にとって名誉ある地位や称号は極めて重要なものであり、時と場合によっては物質的な財物や利権よりも価値が勝ることもあるし、大きな意味を持つこともあり得る。
レオポルド自身はあまりそういうものに興味や関心はなく、基本的には形骸化した有名無実な宮廷官職は廃止する方針であったものの、いくつかの名誉職は己の懐が痛まずに与えることができる便利な恩賞の道具と見做して適度の活用していた。軍事長官職はその中でも最も名誉ある官職である。
これまで軍事長官にはジルドレッド家などの軍事貴族が任命されることが多く、ウォーゼンフィールド男爵が軍事長官に任命されるということは前例にないことであったが、最近のレオポルドは既にドルベルン男爵を内務長官に起用しようとしたり、その子息を内務顧問官として宮廷に出仕させたり、サーザンエンド議会に貴族ではない都市参事会の幹部を出席させたりという前例に囚われない人事や施策を多々行っていた為、サーザンエンド貴族からの反響はそれほど大きなものではなかった。多くのサーザンエンド貴族はこの恩賞人事をレオポルドとアルトゥールの関係を緩和させるものと見て、どちらかといえば好意的に受け止め、慣習に反するとして反発する声はあまり聞かれなかった。
軍事長官に任命されたアルトゥールは、名誉ある官職を与えられたことに感謝し、これまで以上に忠勤に励むとする礼状とともに謝礼として、見事な大きさの大砂漠猫の毛皮一〇枚と飼い慣らされた鷹一羽を献上してきた。
聞くところによるとアルトゥールは最近狩猟に興じることが多く、暇さえあれば大規模な鷹狩りなどを行っているらしい。これには幾人かのサーザンエンド貴族が客人として招かれることもあり、令状には機会あればレオポルドも招待致したいと書き添えられている。
狩猟は貴族の代表的な嗜みであり、王侯貴族の狩猟用として指定され、領民の立ち入りが厳しく制限されている森林や狩猟地も多く、狩猟長官などの狩猟を司る官職を設けている宮廷も少なくない。王侯の中には数百、数千、或いは一万人以上もの臣下や将兵を動員し、数日にも及ぶ大規模な狩猟を催す者もある。
たかが趣味と見ることもできるが、獲物を効率よく見つけ出し、追い詰め、狩る大規模な狩猟は軍事演習にも通じ、また、馬首を並べ、目的を同じくして協力する他の参加者との友好を深める意味合いもあり、単なる貴族の遊興と軽んじることはできない。
ただ、レオポルドはあまり狩猟には関心が薄く、好んで参加したいとは思わない性質であった。だからといって、サーザンエンド貴族たちが狩猟に興じることを咎めたり、制限しようという意図はないので、アルトゥールが狩猟を催して、これにサーザンエンド貴族が参加することによって、彼らが満足するならば、それは好都合というものであった。
アルトゥールからの狩猟の誘いについては、またの機会に。と誤魔化し、レオポルドは趣味である入浴と読書、そして、大量の仕事に没頭するのであった。
救貧基金の設立と活動開始に目途が立つとレオポルドはまた別の施策に取り組み始めた。
それはハヴィナの都市再開発事業である。
救貧基金の活動拠点を設ける際に適当な施設がなく難儀したように、城壁にぐるりと取り囲まれたハヴィナ市は以前より狭隘であり、人口過密気味であった。
その上、レオポルドは帝国本土やムールドからの移民を奨励し、様々な行政機構を整備、発展させ、多くの官吏を雇用したので、ハヴィナ市内の混雑は悪化する一方であった。
この為、前々からハヴィナの都市再開発が必要であると感じていたのだが、第二次フューラー戦争への出征などがあって、十分に取り組むことができていなかった。
また、ある高名な医学書によれば、人口過密な環境では空気や水が淀み、流行病を発生、蔓延させやすくなるという。これが真であるならば、先の流行病はハヴィナの狭隘な環境が原因であったのではないだろうか。
となれば、流行病の惨禍が再び繰り返されることを防ぐ為にも、ハヴィナ市内の居住環境の改善する都市再開発事業は最も優先すべき施策であると言えよう。
再開発事業の責任者は先の人事異動でハヴィナ長官に任用されたキルヴィー卿であり、これを都市参事会が輔弼し、都市計画の策定などは専門家である建築家や土木技術者の意見を参照することとなろう。
しかし、都市計画や建築には些か拘りがあるレオポルドは彼らに全ての仕事を丸投げするつもりはなく、いくつか具体的な指示を含む方針を示すことにした。
まず、ハヴィナ城内にある近衛連隊の兵舎と厩舎を取り壊して、建物を新築し、ここに各種の行政機関を集約させることとした。
城内に常駐していた近衛連隊は郊外にある駐屯地に移り、この駐屯地に入っていた騎兵連隊及び歩兵連隊はハヴィナ北方に新しく建設する基地に移す。新しい基地の近郊には広大な放牧地、武器工場、弾薬工場なども併設する。
また、城壁の外に救貧基金が管理する公共住宅を建設する。およそ一〇〇〇戸が居住できるほどの規模となるだろう。この住宅地には城壁内よりも安価な使用料で商売ができる公設市場と公衆浴場、水場と下水などを整備する。
城内及び都市を囲む城壁の内側が狭隘化してしまったならば、もう城壁の外に街を作るしかないというわけだ。
レオポルドが示した方針を聞いた都市参事会の顧問官と土木技術官僚の長である建設顧問官は渋い表情を浮かべる。
「恐れながら、市外に住居を移すことに抵抗感を示す市民は多かろうかと存じます。城壁に囲まれていなければ、治安に不安が生じるでしょうし、城壁内との行き来も不便となるでしょうから、仕事や生活に支障をきたし、不満を覚える者も少なくないでしょう」
「それにですな。これだけの規模の建物を建設するとなれば、少なからぬ費用と手間を要すかと思われます。一番の問題は建材です。日干し煉瓦の生産や輸送にはかなりの時間と労力がかかりますので」
二人が述べた懸念は至極尤もと言うべきであろう。
いくら家賃が安く、生活に必要な施設が揃っていると言っても、これまで生まれた時どころか先祖代々から城壁内で暮らしてきた住民としては、城壁の外に追い出されることに強い抵抗感を抱くだろう。
また、野盗や野獣、外敵からの攻撃に晒されやすくなるし、従来の常識で考えると城壁外に住むということは有事の際には防衛されないということを意味する。住民としては良好な居住環境とは思えまい。
工費と工事期間も大きな問題であろう。植物資源に乏しいサーザンエンドにおける建材は主に石材か日干し煉瓦であるが、石材は石切り場から切り出して輸送するのに多くの費用と時間、労力を要すものだ。日干し煉瓦については、粘土と藁と燃料があれば生産できるものではあるが、大量に用意するとなればかなりの時間がかかるだろう。
とはいえ、レオポルドも何の考えもなしに言ったわけではない。彼には妙案があった。
「その二つの問題を一挙に解決する良き案がある」
彼の自信ありげな様子に二人の顧問官は不安げな表情を浮かべる。
「城壁を解体して、その建材を活用すればよかろう」
城壁には多くの石材や日干し煉瓦が使用されており、これを解体するとかなりの建材がはるかに少ない時間と労力で手に入れることができる。
その上、城壁がなくなってしまえば、城壁の外に住む抵抗感や不自由や不安といったものも無意味なものとなろう。
「それは、そんなことをしてしまっては、ハヴィナの防衛に大きな問題となるのではないでしょうか」
「いや、それは昔の話というものだ」
都市参事会顧問官の発言をレオポルドは直ちに否定する。
「今日の戦ではかつてと比べ遥かに強力な大砲が数多く使用される。戦となれば砲撃によって城壁は瞬く間にただの瓦礫の山と化し、都市の防衛にはほとんど役に立たんだろう」
かつては都市と住民を守る防御の要であった城壁や塔というものは、火器が発達し、大いに活用されるようになった今日の戦争においてはほとんど無価値と化しているのだ。砲撃に晒された城壁はただの大きな標的でしかなく、崩れ落ちるのを待つことしかできないだろう。
この為、少し前の時代から要塞を建設する場合は、低く分厚い土塁や堀を幾重にも構築することが主流となっており、都市を丸ごと城壁で取り囲むという防衛戦術はかなり時代遅れと言っても過言ではなかった。
ハヴィナに未だ城壁が健在なのは、これまでサーザンエンド辺境伯が仮想敵としていた異民族の軍隊があまり有力な火器を保有していなかった為である。もっとも、その異民族であるムールド諸部族も今やレオポルドの傘下に入っている。
よって、レオポルドから見ればハヴィナの都市を取り囲む城壁は今や何の役にも立たない。ただ都市の拡張を阻み、不必要に往来を制限する障壁としか思えなかったのだ。
レオポルドの指摘に二人の顧問官は顔を見合わす。
「そういうわけで、サーザンエンド議会及び都市参事会に城壁解体について説明するとともに、城壁の解体に向け、早急に解体すべき区画を選定し、作業手順と行程を策定せよ」
「承知いたしました」
キルヴィー卿はレオポルドの指示に異論はないらしい。彼は帝都に生まれ育った人間なので、城壁の解体に抵抗感がないのだろう。
もっとも、その帝都にも巨大な城壁があるのだが、これは皇帝の権威と力を誇示する為に維持されている性格が強く、軍事的利用価値が低いことは誰もが認識しているところであった。
自分たちよりも上席であるキルヴィー卿がレオポルドの指示を素直に受けた為か、顧問官たちはそれ以上異論を述べることもせず揃って頭を下げた。
後日、城壁解体について説明が行われたサーザンエンド議会やハヴィナの都市参事会においては少なからぬ反対の声や不安の声が聞こえたものの、都市再開発事業の重要性や費用と労力を大幅に縮小できる利点に加え、昨今の軍事情勢からして城壁の価値が著しく低いものとなっていることが説明されると、それでも強硬に反対し続けるという者は極めて少数となり、議会及び都市参事会は城壁の解体に同意した。
ハヴィナ北方に建設される新基地建設及びそこまでの道路の敷設には辺境伯軍の将兵が動員されるが、城壁の解体と公共住宅の建設等の工事は民間の建設事業者などに発注された。
この大規模な工事の為、多くの労働者が新たに雇用され、彼らの飲食、娯楽によって、より多くの経済効果が生み出され、流行病の蔓延によって沈滞していたハヴィナ経済は活況を取り戻すことができた。