二三
レオポルドとキスカが宿泊している宿のある地区へと戻ってきた頃、食堂や飲み屋はちょうど書き入れ時で多くの人々が集まって食事をして、酒を飲み交わし、話に花を咲かせていた。
そこで今最も多く話題に上がっているのはレッケンバルム卿の屋敷に飛び込んだ急使の知らせについてだった。その後、屋敷に多くの高官が参集したという話も飛び込んできて、何か重大な案件だということは多くの人々が認識していた。
とはいえ、その重大事が戦争だと推察している者は多くはなく、中には戦争があると察しをつける者もいたが大勢を占めているようではなかった。
また、戦争があると推察する者も、では、一体、どこで誰と誰が戦争するのかという点では明確に答えることができなかった。これはレオポルドも同様である。レッケンバルム卿の屋敷に入った高官連中の顔触れを見れば、軍事関係の重大事があったものと推察することはできるが、それではその戦争がどういうものかを知るのは難しいというものだ。
果たして戦争はどこで行われるのか。敵の軍勢がハヴィナに迫っているのか。或いは遠く離れた地域で第三者同士が争うのか。そこに辺境伯軍は介入するのか静観するのか。
次の行動に移るにはもっと情報がいるだろう。そう考えてレオポルドたちはその日は宿に留まることにした。戦争がハヴィナに迫っているとしても、そこから逃げた方がいいのか、その戦争に関わった方がいいのか。今の段階では判断できなかったのだ。
レオポルドが動きを止めて静観することに決めた頃、レッケンバルム卿は矢継ぎ早に指示を下していた。
夜中のうちに、すぐに動員できる五〇〇名ばかりの兵士を招集して、市内各所に送り込んでいく。市内の要地には関所が設けられ、城壁や塔に兵員が配置される。武器庫からは銃や槍、剣が取り出され、火薬や弾薬が火薬庫から運び出される。普段から夜の間、閉められている市門の閉鎖を更に厳重に行い、朝になっても開門せず、誰一人市内には入れず、誰一人市内から出さないよう厳命された。
ところで、ハヴィナは平素から十の街区に区分けされており、街区は更に細分化されて小街区というものに区分けされている。街区には街区長という役職が置かれ、小街区にも小街区長が設けられていた。小街区長は小街区に籍を置く住民による投票で決められ、住民を代表している。街区長は小街区長の中から市参事会が任命する仕組みである。彼らの多くは有力な役人か富裕な商人であった。
街区長たちは夜半にも関わらず市参事会に呼び出された。いくつかの命令が発令され、各々の街区の住民に布告し、小街区長と共にその命令を実行するよう指示された。
各街区からそれぞれ壮健な若者二〇〇名を兵士として徴募し、正午までに中央広場に集合させること。それとは別に市内の警備要員として二〇〇名を出し、市内各所の関所や市門に配置し、街区内を巡邏させて治安維持に努めること。市民は原則として自宅待機し、不要の外出は控えること。全ての宿は宿泊者の名簿を提出すること。食糧などの備蓄を確認し、その備蓄量を報告すること。事前に定められている有事の行動計画を確認すること。
これは元々、緊急時の行動計画として定められていることなので街区長たちは特に戸惑うこともなく実行した。
翌朝、市門は閉鎖され、市内各所には関所が設けられて、人々の往来を制限し、住民は家に、旅人は宿に待機することを余儀なくされた。
それはレオポルドも例外ではなく、宿の主人から宿の外に出ないよう布告されていることと、それでも外出した場合、当局に通報しなければならないことが告げられた。
「さて、どうしたものか」
「どうもこうもこんなところに閉じ込められてどうすんのさ」
レオポルドがぼんやり呟くとフィオリアが刺々しい声で言った。
「どうしようもないな」
宿を抜け出すことは強行しようとすれば不可能ではないだろう。
ただ、その後、手詰まりになることは明白である。市内の各所には関所が設けられ、往来を制限しているし、巡邏が通行人を片っ端から捕まえて事情聴取している。上手くそれらを潜り抜けられたとしても、市門は閉鎖されている為、市外に出ることはまず不可能と考えてよい。
そういうわけで、レオポルドたちはその日はずっと宿で大人しく情報収集の為に同宿の旅人らと世間話していた。
動きがあったのは翌日だった。
翌朝早く、宿の主人が持ってきた宮廷からレオポルドに宛てられた手紙の中身はレッケンバルム卿の屋敷へ出頭するよう求める内容であった。差出人の名はレッケンバルム卿その人であり、宛名にはレオポルドのフルネームが書かれていた。
この手紙から分かることは、つまり、レッケンバルム卿はレオポルドの存在と立場を知っており、この宿に滞在していることも承知していたということだろう。
ただ、辺境伯の後継者となり得るレオポルドの立場を承知していながら手紙一枚で出頭を求めてくるあたり、次期辺境伯として敬っているというわけではなさそうだ。
そういうわけで、レオポルドたちは軽めの朝食を摂ってから宿を出て、レッケンバルム卿の屋敷へ向かった。途中、何度も巡邏の兵士に呼び止められたり、関所を通ったりしたが、手紙を見せると無事に通ることができた。
レッケンバルム卿の屋敷に入るとレオポルドは大広間へ通され、他の連中は別室に控えるよう指示された。
大広間には大きなテーブルが一つ置かれ、最奥に座した初老の貴族が気難しげな顔をして書き物をしていた。
背は高く細身。目つきは鋭く、鼻は高く、顎は細く尖り、灰色の短い髪、素晴らしく綺麗に整った口髭と尖った顎鬚を生やしている。濃い緑色の上着の襟元には純白のレース飾りを付けている。
来客の到着に気が付いたレッケンバルム卿は書類から顔を上げ、杖を手に立ち上がった。
「これはこれはレオポルド・フェルゲンハイム・クロス卿。御足労頂き感謝する」
渋くしわがれて乾いた声だ。深い皺が刻まれた顔をぴくりとも動かさず、口だけで話すように言って、レオポルドに椅子を勧めた。レオポルドが座ると彼も座り、レオポルドを暫し見つめてから口を開いた。
「状況は御理解しておられるかな」
「戦争が近いことくらいは」
「勿論、そうだろうとも。今のハヴィナを見て、そう思わない者はおるまい」
レッケンバルム卿は不機嫌な顔をしてから吐き捨てるように言った。
「ブレド男爵だ。あの野蛮で強欲なテイバリ人め。サーザンエンドを我が物にせんとしている」
キスカから聞いた話によれば、ブレド男爵はサーザンエンド中部で勢力を持つテイバリ人の領主で辺境伯位に食指を動かしているらしい。詳しいことは知らないが、レッケンバルム卿は非常に嫌っているようだ。
「彼奴めは前の辺境伯が崩御して以来、長く宮廷に対し、自らを辺境伯にするよう圧力をかけてきたが、それが上手くいかぬと知って、今度は武力に訴えてくるつもりのようだ。まったく蛮族らしい乱暴で粗野で道理の通らぬやり方だ」
老齢の侍従長は苛立たしげに嫌悪感たっぷりな様子で言い連ねる。
「知っているかね。奴の城には妾が数十人どころか百人もいて、東方大陸の皇帝の後宮のような有様だそうだ。その上、民には重税を課し、逆らう者は斬り捨てる。法も秩序もあったものではない。貴族の風上に置けん輩だ。あのような蛮族の族長風情に貴族の称号が与えられているとは甚だ不愉快なことだ」
彼はブレド男爵をとことん嫌い抜いているらしい。
帝国が異民族の有力者に貴族の爵位や称号を与えて、一定の統治権を認めているのは彼らを支配階級に取り入れることによって、異民族を統治しやすくしているのだが、そんなことはこの老練な侍従長は百も承知だろう。知っていて理解していても、なお、不愉快なことには変わりないらしい。
「まぁ、そのような言語を喋る野獣の如き輩に辺境伯位を与えるわけにはいかぬし、サーザンエンドの支配者の椅子に座らせるわけにもいかん。ましてや、あのような屑に仕えるなど言語道断である。私の目の黒いうちは死んでも奴に頭なぞ下げぬ」
理由としては公私混同しているが、とにかく、レッケンバルム卿としては断固としてブレド男爵を辺境伯にしたくないらしい。
「私としては君を辺境伯にしたかったのだ」
「私をですか」
レッケンバルム卿の口から自身を支持する意味の発言が飛び出してきて、レオポルドは驚く。宮廷ではウォーゼンフィールド男爵を支持する動きが盛んだと聞いていたからだ。宮廷でも主導的な立場の実力者であるレッケンバルム卿が自身を支持してくれるとなれば、心強いことこの上ない。
「ウォーゼンフィールド男爵は優柔不断で統率力に欠ける。そのくせ、矜持だけは一人前だ。故に臣下の言葉に判断を左右されても言うがままにはならぬ。下手に我を通そうとして無用に決断を延ばして判断を鈍らせる。あの坊ちゃんでは情勢不安な南部を支配しきれんだろう。せいぜい、小領主程度の器だ」
レッケンバルム卿は自身よりも格上のサーザンエンドの領主層では筆頭格である男爵に手厳しい評価を与えた。
「それに比べ、貴君の能力と人格は未知数ではあるが、聞いた話によれば、それほど異常でも無能でもないらしいからな」
褒められたのかどうなのか判断に困ったレオポルドは曖昧な顔で黙っていた。
「少々若すぎるが、その分、臣下が自由に取り仕切ることができる。君が辺境伯になることは私にとって非常に好都合と言えよう」
「あの、そういうことは本人に言わないものでは」
「そう言われてヘソを曲げるようならば、それまでの器ということだ」
レッケンバルム卿の言葉も一理あるとレオポルドは考えた。相手に利用されていても、それを逆に利用し返すくらいでなければ、権謀術数入り乱れる伏魔殿のような宮廷、貴族社会を生き延びていけないだろう。どうにか生き延びていけたとしても、その中で主導的な立場に立つことは不可能というものだ。
「それに今となっては私の思惑通り貴君を辺境伯の椅子に座らせるのは中々困難な情勢となりつつある」
レッケンバルム卿はそう言って、不機嫌そうにレオポルドを睨む。
「君にはまだサーザンエンドに来るべきではなかった。最も有力な辺境伯候補がのこのこと無防備にサーザンエンドまで来てみよ。辺境伯の椅子を狙う者どもは君を亡き者にせんと策謀を巡らせるであろう」
卿はレオポルドを支持してはいるが、その行動は支持していないらしい。
「では、あの手紙を出したのは」
「私だ。君にはこの危険なハヴィナから離れていて欲しかったのだ。そもそも、帝都から出てほしくなかった。帝都にいる限りは安全だからな」
そうは言われてもレオポルドにはレオポルドで帝都にはいられない事情があったのだ。あのまま帝都にいても一文無しの貴族の坊ちゃんが一人で生きていけるほど、世の中は甘くない。
「しかし、帝国政府からは早急にと求められているのでは」
「確かに皇帝はそう言ってきているが、そんなことはどうとでもなる。帝国も本音を言えば、南部など放っておきたいのだ。今、皇帝は大貴族連中を如何にして抑え、従わせるかに注力しており、辺境の地に構っている暇などない」
先々代皇帝カール三世による大貴族の粛清で、一時は高まった皇帝の権威であるが、その後を継いだ前帝ゲオルグ五世の早すぎる若死。続いて皇帝位に就いた帝国初めての若き女帝ウルスラの為に皇帝の権威は大きく揺らぎ、大貴族の勢力は再び盛り返しつつあった。両派は武力衝突こそしていないが、事あるごとに激しく対立している。
このような情勢下で南部辺境に注目している暇などあろうはずがない。帝国が南部統治に本腰を入れるのは皇帝が再び権威を確かにしたときか、大貴族たちが皇帝を傀儡としたときだろう。
「故に君は安全な地にいるべきだったのだ。この地が落ち着き、安全が確保できた頃に来て、しっかりと安全に確実に辺境伯の椅子に座るべきだった」
「それならば、そうと言って頂ければ」
レオポルドの言葉にレッケンバルム卿は口をへの字にして彼を睨んだ。
「君の所在がわからなかったのだ。私が報告を受けたときには、いつの間にか帝都を発っていて、時折、見かけたと思ったら再び姿を暗ます。ようやく、行方を掴んだと思ったら、いつの間にかハヴィナに入っておった」
どうやら、レオポルドたちは見事に行方を掴ませぬ隠密行動をしていたらしい。
彼自身はキスカにただただ付いて行っただけであったが、そういえば、彼女はたまに街道から外れた近道を進んだり、あまり旅人が寄らないような隠れた場所を野営地に選んだりしていた気がする。彼女はただハヴィナに向かうだけでなく、当人たちも気付かぬうちにレオポルドを付け狙う輩から巧妙に身を隠すような旅をさせていたのかもしれない。
「君の身の隠し方は非常に巧妙で見事であった。しかし、こんな近くまで来てしまうと、さすがに誰の目からも隠し続けることはできぬ。連中はもう君の存在に勘付いていよう。今回、ブレド男爵が性急な動きに出てきたのも君の存在を察知したからだ。長々と宮廷工作をしている暇がないと感じたのであろう」
つまり、今回のブレド男爵の軍事行動はレオポルドの登場が発端となっているらしい。今まで自分は誰にも相手にされていないどころか、存在に気付かれてもいないと思っていたレオポルドにとっては意外で衝撃的な知らせだった。
「事ここに至ってはあの野蛮で強欲な蛮族の頭目を迎え撃ち、討ち取るより他に手はあるまい。その戦いにおいて君が功績を挙げれば未だウォーゼンフィールドに期待を寄せている輩も君に乗り換えるかもしれぬ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
不意に聞き逃せない言葉が耳に飛び込み、驚いたレオポルドは思わず声を上げていた。
「それは、つまり、私も戦に出ると、そういうわけですか」
レオポルドの言葉にレッケンバルム卿は渋い顔で彼を睨みつけた。
「何を言っておるんだ。当たり前だろう」