二三二
サーザンエンド議会における救貧法の審議に都市参事会の参加を認めるというレオポルドの決定に、議員であるサーザンエンド貴族は強い反発を示した。
そもそも、サーザンエンド議会は辺境伯とともに領民を統治・支配する側である貴族が国政の諮問に与ったり、辺境伯が施行する法案に同意を与えたりする合議体であった。
レオポルドが即位した後はムールド諸部族の代表が加わったものの、その代表は族長など部族の中で高い地位の人々であったし、あくまでもムールドというサーザンエンド貴族にとってはあまり縁のない土地の代表者であったし、レオポルドがムールド諸部族の支持を背景とした軍事力によって辺境伯の地位を獲得したこともあって、異民族・異教徒の首領たちと肩を並べることに不満はあれど表立って強く反対する動きはあまり見られなかった。
しかしながら、都市参事会、つまり、市民の代表者となると話は違う。市民は統治・支配される側の身分であり、陳情や請願という形で政治に働きかけを行うことはあっても、高貴な身分の人々と同じ席に着き、同じ立場で議論をするなどということは従来の常識で言えばあり得ないことなのである。
不満を持つサーザンエンド貴族の議員たちは都市参事会が審議に参加することに反対する動議を行う動きを見せたものの、レオポルドに近い立場である議長ライテンベルガー卿(ライテンベルガー侍従長の父)は議事進行を調整する為として一時休会を宣言した。
動議が賛成多数で可決されるかどうかはさておき、議会において反対の意思が表面化されることを避けたのである。
この休会の間、レオポルドの意を受けたライテンベルガー議長とブラウンフェルス内務長官による説得工作が行われ、それでも翻意を示さない特に強硬な反対派議員は灰古城の辺境伯執務室に呼び出されることとなった。
レオポルドは反対派議員に反対理由を述べさせ、その意見を否定することもなく一通り黙って聞き流してから、ゆっくりと口を開いた。
「では、諸君に救貧税を負担して頂きたい。都市参事会は自分たちの意見が聞き入れられなければ救貧税を払わないと言っている。その分を諸君が支払うというのであれば、市民の意見を聞く必要などなかろう」
その言葉に議員たちは沈黙した。
結局のところ、市民の政治参加を認めるか否かという議論はこの点に収斂されるのだ。
貴族や聖職者は諸々の免税特権が認められていることもあり、その納税額は微々たるものに過ぎない。一方、都市参事会を代表とする富裕市民は多額の税を納めている他、事あるごとに様々な献納(事実上強制的な献納も少なくない)を行っており、辺境伯領財政に大きく貢献している。
税負担者である彼らが自分たちの意見を政治に取り入れてほしいと主張することは当然であり、これを無下に却下することに道理的な理由などあろうか。
もっとも、この理屈に立てば、免税特権が認められている貴族や聖職者が政治を独占している現状は如何かという疑問が生じ、また、税収の大半を負担している中下層の都市労働者や農民の意見こそ政治に反映されるべきであるが、この時代においては未だそのような主張は表立ったものではなく、顧みられることもない。彼らの政治力は甚だ乏しく、民主主義というべき思想は未だ萌芽を見ていないのだ。
更に言うなれば、納税は政治参加の権利を有することの代償ではなく、全ての人々は等しく政治参加の権利を有するという思想に発展するには暫しの時間を要す。
とにかく、政治参加の権利云々はさておき、都市参事会は議会の審議に参加することが認められなければ、新たな負担は拒否すると主張している。
実力を行使して救貧税を取り立てるという強硬手段もないではないが、それは市民との間に深刻な対立を生じさせ、今後の統治に大きな禍根を残すだろう。前述の如く、都市を統治するには市民の協力が不可欠であり、彼らの協力が全く得られなくなれば、市政は瞬く間に機能不全に陥ることは明白である。故に、救貧税を強制的に取り立てるなどという愚かで危険な選択などできようはずもない。
「市民が議会に入ることがどうしても罷りならんと言うのであれば、諸君に都市参事会を説得して頂きたい。それで参事会が引き下がるならば、私にも異論はない」
この言葉にも議員たちは反論しなかった。
彼らとて市民と対立することは避けたいのが本音なのだ。サーザンエンド貴族の多くは有力な市民である商人や職人と様々な付き合いや取引をしている。日々の生活用品や衣服、食材、家具、宝飾品、美術品を購入するだけでなく、ゴミや不用品の引き取り、家屋の修繕、使用人の募集や派遣の斡旋など。家計が苦しい折に金を借りる者も少なくない。
これらの取引の中でも特に重要なのは年貢の現金化である。
貴族が所有する領地において農民が収穫して納める年貢は基本的には現物のまま領主の蔵に入る。しかしながら、貨幣経済が浸透した時代においては、そのままでは商取引に用いることができない為、市場などに売り出し、現金に換える必要がある。とはいえ、小貴族などが個別に市場まで輸送し、市場で買い手と交渉するとなると相当な手間と労力がかかるし、輸送料や管理料など多くの費用が生じてしまう。更には一人一人の小貴族が比較的少ない量をバラバラに売り出していたのでは、いいように買い叩かれるのは明らかであろう。
そこで、多くの貴族は付き合いのある親しい商人に年貢を買い取らせるという手法を用いる。商人はいくつかの貴族から年貢を買い集め、まとまった分量でこれを輸送し、市場に送るのだ。こうすれば効率的に必要最小限の費用で輸送・管理することができ、市場でもより有利な条件で売り出すことができる。
貴族としては輸送や管理、市場での取引といった様々な労力から解放され、より手軽に現金を手にすることができる。
或いは農民から直接商人に農作物を買い取らせ、領主は現金という形で年貢を受け取ることもあるし、事前に商人から金を前借し、年貢をそのまま返済に充てるということもあり、特に小貴族の場合はこのような前借と年貢での返済を繰り返す生活を送る者が大半を占めていた。更には領地の管理を商人に委託し、年貢から委託料を差し引いた分を収入として受け取るという場合も珍しくない。
そういったわけで、今や貴族の収入と生活に商人との取引はなくてはならない存在であり、市民との間に深刻な対立を招き、様々な取引が打ち切られれば、彼らの収入には大きな打撃となり、ゆくゆくは生活が立ち行かなくなる者も続出することは明白というものであった。
「で、如何か」
レオポルドに発言を促され、議員たちはもごもごと言葉にならない何かを呟いた後、改めて協議いたしたいと述べて退出した。
結局、サーザンエンド議会において、今般審議される救貧法は主に都市の貧困層を対象とする施策である為、市勢に通じた都市参事会の意見を求めるべく、例外的に参加を認めるということとされた。特権を侵された貴族に配慮する為の名目であることは言うまでもない。
とはいえ、一度認めた例外というものは前例と化し、いつしか恒例となってしまうのは常のことである。議会審議に市民の代表が参加することが恒常化し、議席を有するようになる日も遠からぬことであろう。
サーザンエンド議会が再開され、救貧法の審議が始まると、参加が認められた都市参事会は救貧税の金額、徴収の時期や方法、救貧基金の運営方法について事細かく尋ね、市民側の要望を伝えた。この審議の内容に基づいて救貧税を徴収や救貧基金の運営について具体的かつ詳細に定めた規則が作られることなる。
また、救貧基金を監督する定員五名の理事のうち二名を都市参事会が推薦する者を任命することとなった。残る三名のうち一名は教会から、一名は議会から推薦し、最後の一名で基金の代表権を持つ理事は辺境伯が任命する。
レオポルドはこの代表理事にドルベルン男爵の子息であるドルベルン内務顧問官を任命した。
卿を臣下に迎えたのは、ドルベルン男爵家の独立性を弱め、より強く従属させることが主な目的であるが、レオポルドにはただ廷臣の席を与えて遊ばせておくつもりはなかった。どうせならきちんと仕事をして頂きたい。というわけで、ドルベルン卿には救貧基金の運営実務を任せることとしたのだ。
「貴族の中には、救貧基金の役目を貧民の世話役などと揶揄する者もあるが、この役割は極めて重要である。貧困は犯罪や不衛生、疫病、火事など様々な災厄の温床となるものだ。この貧困を根絶することこそが救貧法の目的であり、救貧基金の役割である。これは統治者として、最も重要にして崇高なる使命の一つであることを十分に理解して頂きたい」
レオポルドは代表理事に任命したドルベルン卿にこのように説示した。
「また、既に存じておられるかと思うが、救貧基金は救貧税を財源とする資産を運用し、貧民の収容施設、病院の建設と管理を担い、貧民に職業訓練と就職斡旋を行う組織である。これを行うにあたって、救済する貧民の扱いについては公平と慎重を期し、その利益となることを心掛けて頂きたい。怠惰なる者を矯正することを否定はしないが、彼らの健康と幸福を侵すことなきよう心掛けよ。不公正で強圧的な扱いは、却って彼らを苦しめ、不品行や犯罪に走らせることとなろう」
言うまでもなく、救貧法の先行地であるグリフィニアでの失敗を踏まえた発言である。
「閣下のお考えは至極ご尤もでございます。配下の者一人一人にもその理念を十分理解させたいと存じます」
ドルベルン卿の返答にレオポルドは満足げに頷く。
「都市参事会からは当座の運用資金として五万セリンが無利子で貸し出されております。この資金を元手として法施行とともに活動を開始することができるよう準備を進めております」
都市参事会会長のヴィッテルが言っていた資金援助というのは資金の無利子貸し出しであった。ただで金を恵んでくれるほど彼らもお人好しではない。もっとも、五万セリンという大金を無利子で貸し出すだけでも破格の好条件である。
「病院についてですが、都市参事会は先の伝染病の患者を収容していた城外の施設を病院に改修することを提案しております」
ハヴィナ市内に伝染病患者が溢れ、市内の病院のみならず教会や修道院まで満員状態となってしまった結果、患者を収容する施設が城壁外の西側に急造された。この施設は伝染病の終息とともに役割を終え、今ではがら空きとなっている。急造された建物なので、設備などは不十分ではあるものの、然るべく手を施せば十分に活用できるだろう。城壁外の為、土地の余裕もあるので、施設を増築したり、拡張したりすることも容易い。
何よりも一から建てるより既存の建物を改修した方が早く安くできる。
「宜しく取り計らえ」
「承知いたしました。つきましては、病院の名前なのですが、都市参事会からはレオポルド記念病院と命名しようとの提案がございますが、如何いたしましょうか」
レオポルドは思わず苦笑いを浮かべる。学校や病院など公共施設に君主や有力者の名前を付け、その業績などを記念することは珍しいことではなく、それによって自己顕示欲を満足させる人間も少なくないが、生憎と彼はそのようなことを好まない性質であった。
「それは遠慮したいな」
「では、どのような名前にいたしましょうか。都市参事会もおそらく閣下のご意向を尊重するかと思われます」
レオポルドは暫く考えた後、ふと思いつく。
「名前については後日伝達しよう。それ以外の諸々については貴卿に任せる。万事滞りなきよう準備するように」
ドルベルン卿が退室した後、レオポルドは青い小宮殿に行き、アイラの寝室の扉を叩いた。
「今日は顔色が良く見える。体調は悪くなさそうだな」
「旦那様に毎日お見舞いに来て頂いているお陰です」
寝室に入り、顔を見たレオポルドが声をかけるとアイラは微笑を浮かべた。
娘であるソフィアを失ったことにより、寝込んでしまった彼女は未だ復調しておらず、寝室から出られていない。医師の見立てによれば特に病気などの異常は見られず、体調が回復しないのは精神的なものであろうということであった。
そういったわけで、帰国以来、レオポルドは毎日彼女の寝室を訪れていた。
今日は顔の血色が良いように思われるが、自分が訪れる前に彼女が化粧をして、顔色の悪さを誤魔化していることを彼は知っていた。
「こんなに毎日旦那様を独り占めしていては、リーゼロッテ様やキスカ様に怒られてしまいそうです」
「そうかな。そんなことはなさそうだけど」
アイラの言葉にレオポルドは疑わし気に顎を擦る。
この頃はレオポルドと話す間は笑顔を見せ、冗句めいたことも言えるまでにはなってはいるものの、お付きの侍女や下女によれば、レオポルドと会う時以外はほとんどずっと塞ぎ込んでおり、食も細く、寝つきも悪いようで、涙を流していることも多いという。レオポルドの前でだけは努めて明るく振舞おうとしているのかもしれない。
レオポルドは彼是と取り留めもない話をする。帰国したばかりの頃は、出征していたレウォントで見聞きしたことなどを話していたが、その話題も尽きたので、最近はその日にハヴィナや宮廷で起きたことなどを話していた。
「そういえば、救貧法はもうすぐ可決されそうだ。これで貧困が全てなくなるとは思わないが、少しでも貧民の生活が改善されると良いのだが」
「旦那様はとても優しく事細かに配慮されますから、きっと上手くいきますよ」
レオポルドの呟きに彼女が微笑む。
「貧しい方々に仕事を斡旋されるということでしたが、それはどのような仕事になるのでしょうか」
「技術や知識のない者の仕事は市街のゴミ拾いや不用品の回収、水路の清掃、雑貨の製作や行商とかだな。女子供や体の弱い者が多いから、あまり過酷な仕事は向かないだろう」
「そうですね。あまり辛く苦しい仕事に従事するようなことになるのは望ましいことではないように思います」
そう言ったアイラの眼差しは真剣なものであった。
救貧法を制定することとなった契機は伝染病被害者遺族の救済であるから、伝染病で娘を失った彼女としても思うところがあるのだろう。
「それでだな。救貧法に基づいて貧民を診ることができる公営の病院を設立することとなったのだが」
レオポルドはそこまで言って口を閉じた。迷うように視線を泳がせた後、アイラを見つめて再び口を開く。
「その病院にソフィアの名前を付けたいと思うのだが、どうだろうか」
アイラはきゅっと唇を噛み、拳を握った。
「貧民を診る病院を設立するのは、先のような伝染病が再び襲ってきても早期の対策ができるようにする為でもある。その為には、先の伝染病の被害を忘れることなく、これを教訓として、二度と同様の被害を出さぬよう記憶されなければならない。この多くの犠牲について考えることを放棄し、いつしか忘れ去るようなことがあってはならない。それは同じ悲劇を再び繰り返すこととなろう。ハヴィナの全ての者が知る犠牲者であるソフィアの名を冠することは過去の悲劇を想起させ、それを教訓とし、忘却を戒めることとなろう。ソフィアは伝染病の被害に遭って亡くなった辺境伯の娘として歴史に埋もれていくのではなく、ハヴィナに公共病院を設立する経緯となった犠牲者の筆頭として歴史に名を残すことになるだろう」
レオポルドの説得するような言葉をアイラは俯いたまま黙って聞いていた。
「それが君を苦しめることになることは理解している。ソフィアの名前を見聞きする度、君が心苦しめられることはわかっている。それでも、私は伝染病の被害を忘れず、二度と繰り返さない為に、ソフィアの名前を使いたいと思う。そのことをどうか許して欲しい」
伝染病にかかって死ぬ人間は古今東西に数万数億とあり、それは庶民のみならず君侯の子女にも少なくない。その多くは日記や家系図、墓碑にしか記録されず、終いには名前や存在すら忘れ去られてしまうだろう。忘却されるということは無かったことになるということであり、それは死と同等或いはそれよりも残酷な宿命である。
しかし、病院の名となるならば、その病院が存続する限り、改名されるようなことがなければ先の伝染病の被害と合わせて半永久的に記憶されるだろう。
ただ、レオポルドはそれを価値あることと認識しているが、アイラが同じように考えるかどうかは分からない。
そもそも、子を亡くした母親の気持ちなど本人以外の誰かが理解などできるはずもない。父親にだってその気持ちの半分も理解はできないだろう。母と子の関係というものは、人間関係の中で最も濃密にして深い繋がりなのだから。
「旦那様」
アイラはレオポルドの手に触れ、静かな声で言った。
「正夫人ではありませんが、私も辺境伯の妻です。病院にあの子の名前を付けることによって、伝染病の被害が記憶され、後の人々の教訓となり、幼いうちに命を失う子や我が子を失う母親がこの地から一人でも少なくなるならば願ってもないことです」
「そうか。ありがとう」
レオポルドは彼女の手を握り締めた。
救貧法によって設立されたハヴィナ初の公営病院はソフィア・カルマン・クロス救貧病院と名付けられ、伝染病によって大きな被害があったことを契機として設立されたことを恒久に記録し、特に伝染病の予防や対策に力を注ぎ、地域医療の拠点病院として多くのハヴィナ市民の公衆衛生と健康に多大なる貢献をしていくだろう。