二三一
内務長官というレオポルドの内示に対するドルベルン男爵の返答は謹んで辞退いたしたいとのことであった。
理由としては自分は高齢であるし、宮廷への出仕にも不慣れである為、職責を果たせないというもので、聞くところによると男爵は既に齢六〇を超えているらしい。尤もな理由ではあるが、それで引き下がってしまっては、男爵を今以上に臣下に組み込むという目的を果たせなくなってしまう。
そこで代わりに子息を宮廷に出仕させるよう要望したところ、男爵は願ってもない名誉なことであるとして、これを受け入れた。
レオポルドは男爵の子息を内務顧問官に任じることとした。自らの領地を長年統治してきた男爵ならば内務長官の職務を果たすに十分であると考えられるが、その子息では能力や経験が全く不明であり、長官職に就けるには不安が大きい為である。
その結果、当初の人事案には若干の変更が加えられ、新しい内務長官には法務長官のレオン・ジル・ブラウンフェルス卿、法務長官にはサーザンエンド高等法院評定官のジークベルト・ビッカード卿を起用することとした。
ブラウンフェルス卿は継承戦争中にレオポルドと行動を共にし、早くから彼に接近したハヴィナ貴族の一人で、温厚かつ穏やかで無害そうな人物である。
ビッカード卿は顔と名前が辛うじて一致する程度の面識しかないレオポルドにとっては数多くいるハヴィナ貴族の一人に過ぎない人物であるが、ハヴィナ貴族の中では序列が高いようで、レッケンバルム卿から推挙があり、それに応えることとした。
ドルベルン男爵からは子息を出仕させることに同意する返事とともに、ハヴィナでの伝染病の被害に対する見舞金として五〇〇〇セリンの献納の申し出があった。
見舞金の献納はアルトゥール・ウォーゼンフィールド男爵、多くのハヴィナ貴族やサーザンエンド貴族、北部の都市コレスレルケ、各地の教会から申し出があった他、ムールド・ハルガニ諸部族からは毛布や羊毛、毛皮といった現物での寄付が為された。
大きな災害や疫病の被害が生じた際に、貴族や聖職者、商人から少なからず寄付が行われることは珍しいことではない。
貧しき者や弱き者、苦しみを受けている者に施しをすることは善行として賞賛される行為であり、主はその行為を必ず見て覚えており、裁きの際に称揚されると信じられ、逆に吝嗇に励み、財産を私蔵させる行為は、裁きの時に必ず報いを受けるとされている。
また、寄付を行った者の名は公に高らかに知らされ、人々から大きな賞賛を受ける名誉ある行いでもあった。
その上、今回の伝染病では君主であるレオポルドの娘も犠牲となっていることから、伝染病の被害に対して哀悼の意を示し、見舞金を寄せることはレオポルドに対する忠誠を示す絶好の機会とも捉えられたのである。レオポルド本人に献金するのは些か浅ましくあからさますぎるが、被害にあったハヴィナ市民の為にという名目で金を差し出すならば外聞を気にする必要はない。
レオポルドが今までの辺境伯にない大きな権威を手にした今、自らの高い忠誠心を示そうとサーザンエンド貴族らが思うのは当然と言えよう。
これらに加え、レオポルドとリーゼロッテも手許金から、キスカ、アイラ、フィオリアも自らの慎ましい私財のほとんどを見舞金として供出した。
総額二〇万セリンに及んだ見舞金は死者や重症者が出た庶民に配分される。金額は被害に遭った人数や年齢、性別などによって変わるものの、概ね一家庭あたり一五〇セリンほどとなった。これは一般的な庶民の家庭であれば辛うじて二月程度生きながらえられるくらいの金額でしかない。
この程度の見舞金では、子供や母親を亡くした家庭はまだしも、稼ぎ頭である父親を亡くした家庭は二月程度で飢えてしまうことになる。母親や子供が働きに出るとしても上手く働き口が見つからない場合もあるし、女子供の稼ぎでだけで家族の食い扶持を稼ぐのは極めて難しいだろう。
そこでレオポルドは伝染病で父親を亡くした家庭の就労支援や家賃を払えない貧民の収容施設や貧民を診察、治療する公営病院の建設、給付金の支給などを目的とする救貧法を制定するよう指示した。同様の救貧法は既に北方の島国グリフィニア王国において一〇〇年以上前に制定されており、レオポルドはこれに倣うこととしたのだ。
もっとも、グリフィニアにおいて救貧法が制定された背景には、貧富の差の拡大によって貧民が増加したことにより特に都市において治安の悪化や不衛生といった問題が生じ、これに対応する必要があった為であった。
また、西方教会での宗教改革により、勤労は美徳である。貧困は怠惰の結果である。働かざる者は食うべからず。といった思想が発展し、特にグリフィニアにおいて広く受容され、従来は善行とされていた無原則な施しが批判された結果でもある。
こうして制定、施行された救貧法によって、都市から浮浪者や物乞いが一掃され、強制的に救貧施設に収容され、労働が可能と見做された者には強制的な労働が課されることとなった。
しかしながら、予算不足などから多くの救貧施設の環境は劣悪であり、課される労働は極めて過酷なもので、ほとんど刑務所と遜色のない有様であった。当然、施設から脱走を図る貧民が続出する状況であった。
しかも、労働が可能であるかについて明確な基準はなく、判断は現場に一任され、施設の運営や労働の監督についてもほとんど放任されている状況にあり、収容者に対する過酷な扱いや恣意的な取り扱いが横行していた。
レオポルドはグリフィニアの救貧法が様々な問題を抱えていることを認識した上で、それでもサーザンエンドにおいても救貧政策を実施する必要性を感じていた。
貧困は犯罪や不衛生など様々な問題の温床となるものであり、根絶は不可能としても極力最小化させることは統治者の責務であるというのがレオポルドの考えであった。
救貧政策の財源としては、都市の富裕な貴族や市民から救貧税が想定され、これを基にした救貧基金が設立される予定であった。救貧基金は住居のない収容施設や救貧病院の運営も担うこととなるだろう。
また、レオポルドは被害者及びその家族の救済策を講じるとともに、新たにハヴィナ長官となったキルヴィー卿に対し、伝染病の被害状況をより詳細に調査することを命じた。具体的には被害者(死者のみならず、快復した者も含む)の年齢、性別、住所、職業、家族構成、症状を発症した場所と時期、罹患する前の健康状態と生活環境などを調査、記録し、報告書として整理することである。
伝染病というものは古来より様々な形で何度も人類に襲い掛かってきた猛威であり、その脅威は今後も続くことが予想された。となれば、また次に襲い掛かってくるかもしれない脅威に備えねばなるまい。その為には、まず、伝染病がどのように発生し、どのように伝播し、どのような被害を齎したのかを詳細かつ具体的に調査、記録、分析する必要がある。全てはまず事実を知ることから始めなければならない。
調査の結果をまとめた報告書は写しを作成し、帝国本土の大学医学部や大病院に送付し、見解や意見を求めることとした。サーザンエンドには伝染病を学問的に研究している学者や医師は極めて少ない為、せっかく作成した報告書を十分に活用できないと思われた為である。
もっとも、レオポルドは流行病の原因が直ちに解明されたり、発生や流行、重症化を防止できるような方策が見つかる或いは示されると期待しているわけではなかった。
ただ、大きな被害を生じた出来事について詳細に記録し、その記録を後世に残すことも、これまた統治者の責務であるとレオポルドは考えているのだった。
これは統治者どころか全ての人間の、義務であり使命であろう。
記録の積み重なりは歴史であり、歴史とは人類の最大の武器と言っても過言ではない。
人類が有する様々な知識や道具、発明などは誰かの天才的な閃きによって唐突に無から生じたわけではなく、過去の人々の様々な発見や研究の記録から生み出されたものに他ならず、そういった歴史がなければ或いは記録が後世に残されなければ、生み出されなかったり、より後の時代に発見や発明されることとなるだろう。
事実を正確に記録しなかったり、抹消したり、改竄することは道理に悖る不道徳であるのみならず人類に対する罪悪と言っても過言ではない。
読書家であり、歴史の勉強を好むレオポルドは歴史の学ぶことや記録を残すことの重要性を十分に理解していた。
今回の伝染病について調査、記録した報告書も後世に残され、医学や公衆衛生の発展に必ずや大なり小なり寄与すると彼は期待し、半ば確信しているのだ。
レオポルド肝いりの救貧法であったが、制定は難航した。理由は単純明快である。救貧税を納税する立場となる市民が反対を表明したのだ。
サーザンエンド辺境伯領において法律を制定、施行するには。原則としてサーザンエンド議会の同意が必要であり、特に新税を伴う法律については議会の同意が必要不可欠であった。
仮に君主たる辺境伯が強引に法律を布告、試行し、税を徴収しようと試みれば、貴族や市民の強い反発を示すだろう。
言うまでもなく、領内の統治は辺境伯ただ一人の力で為すことなど不可能である。住民から税を徴収し、治安を維持し、様々な公共事業を計画、実行し、道路や水道を維持管理し、ゴミの収集し、市街を清掃し、火事を消化、防止し、その他大小諸々様々な行政機能を果たす為には、実務を担う役人の力のみならず市民の協力が欠かせないのだ。
しかも、辺境伯政府の長官や宮廷の廷臣、上級役人、辺境伯軍の指揮官や士官らの多くは貴族や富裕な市民の出身であり、辺境伯と市民が対立した時、彼らがいつ何時でも辺境伯の味方であり続けると盲信することはできまい。
そういうわけで、レオポルドは救貧法に反対を表明したハヴィナの都市参事会を説得することにした。
レオポルドの書斎に呼び出されたのは都市参事会の会長を務める富裕な酒問屋のウルリヒ・ヴィッテルという老人である。この場にはハヴィナ長官のキルヴィー卿、内務長官のブラウンフェルス卿、内務顧問官でドルベルン男爵の子息であるミハイル・ベルモント・ドルベルン卿も同席していた。
「貧民を救済することは都市の治安維持や公衆衛生に寄与し、結果的には諸君の利益となることは理解しておろうな」
「勿論でございます。此度の法が貧しき民を救うとともに都市住民の安寧を守ろうという辺境伯閣下の崇高なる御配慮の賜物であることは十分に理解しております」
キルヴィー卿に質されたヴィッテルは異論なく同意した。どうやら救貧政策の意義が理解できないほど愚かというわけではないらしい。
「では、何故、此度の救貧法に反対しておるのか」
「救貧法自体に反対なのではございません。ただ、私どもは既に様々な税を納めております」
確かに都市住民は様々な税を負担している。市場税や営業免許税、関税、印紙税、酒や砂糖、塩、煙草などの販売にも税が課され、土地家屋にも課税された。この他にも様々な諸税や手数料が徴収されている。これに新しい税が増えるというのだ。その目的が妥当であり、公共の福祉に適うからといって諸手を挙げて賛成とはならないのは当然であろう。
「いや、参事会会長の申すことも分かるが、政府も色々と入用なのだ。皇帝陛下のご命令による長期の出征でも多額の出費を要したことは承知しているであろう」
ブラウンフェルス卿が言う通り辺境伯政府の財政は相変わらず火の車であった。債務整理や南洋貿易の推進、鉱山開発などを実施しているところであるが、未だに収入は乏しく、軍事遠征などで莫大な支出を強いられていた。無論、政府予算の公示などはされていないが、都市参事会の幹部ともなれば、辺境伯政府の懐事情くらい十分に理解しているだろう。
「法の趣旨と目的を鑑みれば、私どもも一切負担しないというわけではございません。救貧税にも協力いたしたいと存じます」
救貧法の必要性を理解し、救貧税の負担も受け入れるとなれば、一体何に反対なのか。
「では、諸君の要求は何か」
キルヴィー卿の問いにヴィッテルは咳ばらいをした後、つらつらと述べた。
「制定される救貧法の審議に加えて頂き、私どもの意見も取り入れて頂きたく存じます。法の趣旨や目的は存じておりますが、その具体的な中身について全く知らされないまま税だけを負担させられるのは道理とは言えますまい。また、法案によりますと救貧税を財源とした救貧基金が設立され、施設や病院の建設や運営、就労支援や給付金の支給などを担うとのこと。この運営に私どもも関与させて頂きたく存じます」
つまり、法の制定と法に基づく機関の運営に自分たちも関与したいというわけだ。
都市参事会は市民の代表機関であり、商人組合や職人組合など様々な都市団体の意見調整や政府当局への陳情を担っているものの、法律の制定や施行に関与する権限は有していない。
サーザンエンドにおける立法機関はサーザンエンド議会のみであり、この議員は貴族と聖職者、レオポルドの辺境伯即位後はムールド諸部族の代表がこれに加わったが、市民の代表者は議席を有していないのだ。
負担だけを強いられ、意見すら聴取されないとなれば不満が生じるのは当然であろう。
彼らは今回の救貧法の制定を、市民の議会参入の契機と捉えたのである。
「市民の分際で、貴族と肩を並べ、政治に関与し、統治に参画せんというのか。分を弁えよ」
「如何いたしましょうか」
キルヴィー卿が不機嫌に言い放ち、ブラウンフェルス卿はレオポルドの顔色を窺うような調子で言った。
市民の議会出席を認めるとなれば、今後も様々な場面で市民の意見を聴取し、場合によってはそれを反映しなければなるまい。
とはいえ、それは議席を過半数を占め、議会を実質的に支配しているサーザンエンド貴族の特権を弱めることにもなる。言うまでもなく、それはこれまで貴族が有してきた特権を侵し、弱めることでもある為、彼らの強い反発は免れないだろう。
「聞き届けて頂けるならば、辺境伯閣下が計画されております病院の建設については私どもに担わせて頂きたく存じます。また、救貧基金が安定的に運営できるまで資金的な援助をいたします」
ヴィッテルの提案は魅力的なものであった。
救貧法を制定し、救貧税を徴収し、救貧基金が活動を始めるには、ある程度の時間を要する。それまでの間、伝染病の被害に遭い、貧困に喘ぐ家庭に対する法的な支援は何も為されないのだ。彼らは明日のパンも口にできるかできないかといった状況に追い込まれているのである。救済の遅れは死活問題であろう。
しかし、病院建設の費用が別に負担され、救貧税の徴収されるまで資金的な援助がされるならば、基金の活動はより早く行えるに違いなく、明日飢えるかもしれない貧民を一人でも多く救済することができるかもしれない。
「宜しい」
レオポルドの一言に四人の視線が集まる。
「諸君の出席と発言を認めるよう議会に要望しよう。ゆくゆくは諸君の代表者が議席を有せるよう尽力する。また、救貧基金の運営について責任を有し、これを監督する理事に諸君の代表者を加えよう」
レオポルドの言葉にキルヴィー卿は渋い表情を浮かべ、ブラウンフェルス卿とドルベルン卿は唖然とした様子で顔を見合わせ、ヴィッテルは満足そうに頷いた。
「では、そのお約束を書面に認めて頂きたく存じます」
やはり、商人だな。と思いながら、レオポルドはペンを手に取った。