二三〇
翌日になってもレオポルドは机の上に堆く積まれた報告書の山に手を伸ばし、片っ端から読み漁っていった。一晩中読み耽ったにも関わらず未だ報告書の山は全く減じていないのである。
報告書の内容は多岐に渡る。辺境伯政府及び宮廷における財務状況の報告書、現有資産の目録、先の伝染病の被害状況や当時の対応に関する報告書、領内での道路、井戸、水路、港湾の建設整備状況に係る報告書、ハヴィナやファディなどの都市再開発の進捗状況に係る報告書、北部や西部など農耕が可能な地域における農業振興の状況に係る報告書、ムールド及びハルガニ地方の地下資源の調査に係る報告書、和平条約締結に尽力した功績として新たに港湾管理権を獲得した西岸イスカンリア地方のベルセロ港に派遣した調査官によるベルセロの町勢、住民、港湾に係る報告書、南洋貿易会社やサーザンエンド銀行の経営状況に係る報告書、サーザンエンド貴族や聖職者たち、ムールド、ハルガニ諸部族、アーウェン士族、東岸エサシア地方の領主たちの動向に係る報告書などなど。
これらの報告書は読んでおくべきものではあるが、今すべきことであるかは疑問であろう。彼はとにかく一心不乱にひたすら報告書を読むことによって、去来する様々な感情を押さえつけようと試みたのである。
中には郵便で受け取って既に目を通していた書類もあるものの、それを省いても膨大な量であることに変わりなく、夕刻になっても全て読み終えることはできなかった。
目を酷使してすっかり疲労したレオポルドがぐったりしていると、フィオリアがやって来て、今日中に辺境伯夫人たるリーゼロッテと顔を合わせるべきだと意見された。
そこでレオポルドは夕食をリーゼロッテと取りたいという旨を灰古城に伝達させた。辺境伯夫人ともなると夫婦であっても面会したり食事を供にしたりする場合、相手に通知し、その意向を尊重する必要がある。
無事承諾の返事を受けたレオポルドは入浴と着替えを済ませてから灰古城へ赴き、リーゼロッテと二人で広い食卓を囲んだ。彼女と顔を合わせたのはこの時が帰国してから初めてである。本来であれば帰国して真っ先に顔を合わせるべき相手であることは言うまでもない。
「昨日と今日は色々と多忙で、会いに来ることができず申し訳なかった」
レオポルドが詫びるとリーゼロッテは素っ気なく答えた。
「別に」
怒っているのか大して気にしていないのかよく分からなかったものの、心身ともに疲弊しきっているレオポルドは思考を放棄し、黙々と食事を口に運んだ。
「それで、貴方はどうするつもりなの」
不意に話しかけられ、レオポルドが顔を上げると、彼女は相変わらず澄ました顔で上品に鶏肉の骨を取り除いていた。
「どうとは……」
レオポルドが口籠もっていると彼女は顔を上げて強い瞳で彼を見つめた。
「あの伝染病では大きな犠牲があったわ。その犠牲を前にして、貴方は何をするつもりなの。災いは主によって定められた宿命として甘受し、痛ましい運命に心を痛め、死者を悼むだけで貴方は満足なの」
リーゼロッテの口調は淡々として責めるような口調ではなかったものの、その瞳からは強い意志が感じられた。
「いつまでも陰気な調子で落ち込んでいる場合ではないはずよ。貴方にはやるべきことが、貴方にしかできない使命があるのではないかしら」
彼女の言葉をレオポルドは呆然とした様子で受け止めた。
灰古城から戻ったレオポルドはすぐさま寝室に入り、布団に埋もれて泥のように眠った。
翌朝、目が覚めると入浴と着替えを済ませ、統治総監ヘーゲル卿を呼び出した。
「先日、申し出のあった件についてだが、貴卿には今しばらくサーザンエンドと私の為に働いて頂きたい」
「しかし、此度の伝染病の発生と蔓延を防止できず、早期の鎮静化に失敗した責任は私にあります。このまま職に留まることなどできましょうか」
ヘーゲル卿が昨日と同様の趣旨を述べると、レオポルドは深々と溜息を吐いた。
「先の伝染病の蔓延について、貴卿に重大な職務怠慢や過失があったとは言い難い。貴卿でなくとも、私であっても、誰が対応したとしても被害を更に軽減できたとは思えぬ。あれは主が我らに課した試練なのであろう。主はあらゆるものを我らに与え。また、あらゆるものを我らから奪うものだ。不遇も苦痛も悲しみも主から与えられたものは受け入れねばなるまい」
渋い表情を浮かべたまま黙り込むヘーゲル卿を見つめながらレオポルドは強い口調で言葉を続ける。
「ただ、それは我々が残酷な運命を甘受し、その災厄に耐えるしかないというわけではない。我々はその経験を糧にし、何か為すことができるはずだ。いや、為さねばなるまい。貴卿にはその手伝いをして頂きたい。被害の状況を実際に目にして、対応していた貴卿の力を借りたいのだ」
何かを決意したかのような表情のレオポルドを前にしてヘーゲル卿は呆気に取られたような様子で沈黙していた。
「それにだな。貴卿の辞任を認めたとして、誰を後任に据えればよいというのか。今でさえ私は多くの仕事を抱えて疲労困憊しているのに、貴卿はその上にまた一つ悩み事を増やそうというのかね」
レオポルドは政府及び宮廷の人事に関しては極めて慎重な配慮を行っており、自分への忠誠心や能力よりもサーザンエンドでの政治的バランスを最も重視していた。
故に最高諮問機関の長である枢密院議長、行政責任者の統治総監、宮廷の最高職である宮内長官、辺境伯側近の筆頭である侍従長といった要職には全てハヴィナ八家門の当主たちを据えるとともに、サーザンエンド貴族の中でも自身に近い者ばかりを重用することなく、自分と距離のある人物も起用することによって、これまでサーザンエンドを実質的に支配してきたサーザンエンド貴族に大きな不満が生じないよう心掛けているのだ。ヘーゲル卿はその代表格とも言える存在であった。
卿は早くから味方していたわけではなく、レオポルドがハヴィナを追われ、ムールドに逃れた時にも同行せずハヴィナに残留した多くのハヴィナ貴族の一人であった。かといって、積極的に敵対的な行動を取ったわけでもなく、サーザンエンド継承戦争中は概ね中立的な立場にあった。故にレオポルドに対して友好的ではない人物や勢力からもあまり敵視されていない。
その上、ハヴィナ長官を長く務めた確かな行政経験を持っており、サーザンエンド貴族の間に広い人脈を有し、冷静かつ温厚な人柄で、人々から頼りにされることも多い。
しかも、恭順した後は、レオポルドの施策や改革に対して抵抗することなく、命令には忠実に従い、堅実かつ無難にサーザンエンド行政を取り仕切ってきたのである。
卿を更迭したとして、誰を後任にすれば良いというのか。
ハヴィナ貴族でも筆頭格の実力者であり、誇り高く頑迷で我の強いレッケンバルム卿では、これまで通りレオポルドの命令が忠実に実施されるか甚だ疑わしい。
侍従長のライテンベルガー卿はハヴィナ八家門でも筆頭とされる高い家格の出自であるが、これまでの経歴は宮廷官職が多く、行政経験に乏しい。
宮内長官のアイルツ卿はハヴィナ八家門の一員にして、冷静沈着にして教養高く、レオポルドとの距離感もヘーゲル卿と概ね同じなので適任ではあるが、伝染病に罹患して病床に伏していたとはいえ、宮廷内への伝染病の侵入を許し、レオポルドの娘であるソフィアを犠牲にした経緯からして、今回起用するのはどう考えても不適当であろう。
前内務長官兼ハヴィナ長官のシュレーダー卿やムールド地方総監のエティー卿、法務長官のブラウンフェルス卿は親レオポルド色の濃い面々であるから、レオポルドと距離を置く貴族から反感を買うに違いない。
内務長官のキルヴィー卿や財務長官のマウリッツ卿はレオポルドが継承した帝都貴族ウェンシュタイン男爵家の陪臣であったから、彼らを起用すればハヴィナ貴族から強い反発があることは明白である。
軍事評議会議長のケッセンシュタイン将軍や辺境伯軍司令官のジルドレッド卿は辺境伯軍の要職に就いている上、行政経験に乏しく、ハルガニ地方総監のバレッドール将軍もいきなり行政職トップへの起用は適任とは言い難いだろう。
外務長官のハルトマイヤー卿や式部官のルーデンブルク卿は能力よりも家格の高さだけで起用されたような面々であるから論外である。
無論、ムールド人の有力有能な者を起用するなどということは時期尚早が過ぎる。
まさに余人を以って代え難いと言えよう。
その点はヘーゲル卿も理解しているようで、渋々といった様子で同意した。
「しかし、アイルツ卿とモールテンブルク卿には職を退いてもらわねばなるまい」
前述した通り宮廷管理を司る宮内長官と市政責任者であるハヴィナ長官の責はより重いと言えるし、誰も責任を取っていないというのでは、ハヴィナ貴族と市民に示しがつかない。
特にモールテンブルク卿は伝染病で多くの人命が失われたことにより心身不安定になっており、これまで通りの執務を続けることは難しい状況であった。
「後任人事は宮内長官にハルトマイヤー卿、ハヴィナ長官にキルヴィー卿、内務長官にドルベルン男爵、外務長官にエティー卿、ムールド地方総監にシュレーダー卿をそれぞれ充てることといたしたい」
レオポルドの言葉にヘーゲル卿は耳を疑った。
宮内長官、ハヴィナ長官、外務長官、ムールド地方総監の人事はそれほど驚くべきことではない。
ハルトマイヤー卿はレッケンバルム卿の腰巾着のような人物で、能力には些か疑問符が付くところだが、宮中には侍従長ライテンベルガー卿と女官長ランゼンボルン男爵夫人がいる為、あまり問題は生じないだろう。
キルヴィー卿はウェンシュタイン男爵家の陪臣で、ハヴィナ市民が帝都出身の長官にどのような反応を示すか懸念されるが、それほど大きな問題になるとも思い難い。
エティー卿は親レオポルド色の強い人物であるが、娘がレッケンバルム卿の子息と縁組しているので、レッケンバルム卿も賛意を示すだろう。
シュレーダー卿はレオポルド暗殺未遂事件を防止できなかった責により辞任していたが、もう二年が経つので、復権するには良い頃合いと言えるし、ムールド地方総監はハヴィナ貴族から人気のない地方職でもあるので、反対されることはあるまい。
しかし、ドルベルン男爵を起用するという人事は全く異例と言えるものである。
そもそも、宮廷というものは辺境伯の家政機関であり、これが時代を経て、発展し、辺境伯領の統治を担うようになったものである。
つまり、辺境伯フェルゲンハイム家の執事や従者、財産や領地の管理人といった役職が宮廷官職に発展し、辺境伯領全体の統治に職務を拡大させていったのである。これらの役職は創始以来ハヴィナに居住する中下級貴族、所謂ハヴィナ貴族によって占められ、ウォーゼンフィールド、ドルベルン、ガナトス、ブレドの四男爵の当主が何らかの宮廷官職に就いたことはこれまでに一度としてなかった。
それは四男爵が基本的にはハヴィナに居住していない為、宮廷官職を務めるのに不都合であったからでもあるが、それよりもフェルゲンハイム家の家政を司るような立場ではないと見做されていた為である。
四男爵の起源はそれぞれ異なるが、フェルゲンハイム家の有力分家や辺境伯と同盟した有力豪族、創成期に大きな功績を残した功臣といった家柄で、サーザンエンド辺境伯に臣従しているものの、半ば独立した勢力と言える。
彼らは辺境伯領の創成期においては、統治力が脆弱な辺境伯の領内支配を助ける役割を果たしていたものの、機能的な統治機構と強力な辺境伯軍を整備し、領内全域を実効統治しようと目論む今のレオポルドにとっては厄介な存在でしかない。
サーザンエンド領内に割拠していた四男爵のうちガナトス男爵、ブレド男爵はいずれもレオポルドと敵対して倒され、その後継者は勢力を大きく失い、男爵の地位も失ったものの、残る二男爵は未だその勢力を維持している。
特にサーザンエンド北部に勢力を持つ帝国人系領主のドルベルン男爵はレオポルドと敵対したことはないものの、最終盤になってようやく臣従しており、その忠誠が如何程のものかは疑わしいところである。しかも、サーザンエンド継承戦争においてほとんど中立を維持していた為、無傷の独立した軍事力を有し、サーザンエンド北部の小領主たちにも隠然たる影響力を保っている。
この状況を漫然と放置する気のないレオポルドは、どうにかしてその勢力を弱体化させ、自らの臣下にしっかりと組み込みたいと目論んでおり、今回の人事はその好機であった。
「ドルベルン男爵を内務長官に任ずるなどということは前例のないことでありますから難しいやもしれません」
ヘーゲル卿は前例がないなどというつまらない理由を述べたが、そのようなことよりもドルベルン男爵の反応について懸念している様子であった。男爵がこの人事を従前の慣例を盾に拒絶する可能性は十分にあり得る。
「辺境伯の為に働くことを拒むとなれば、それは極めて遺憾と言わざるを得まい」
レオポルドの言葉に卿は渋い顔で頷く。
男爵が大人しく宮廷に出仕するならば、ハヴィナに居住せざるを得ず、目の届く位置にその身柄を置くことができる上、その間にサーザンエンド北部の小領主たちへの影響力を減衰させ易くなるだろう。
逆に宮廷への出仕を拒むとなれば、それを不忠として叱責し、別の形で忠誠を示すよう促すことができるかもしれない。例えば、男爵領に対する辺境伯政府の介入を認めさせたり、男爵に代わって子息を宮廷に出仕させたり、多額の資金を献納させることなどが考えられよう。
相対的に権威に乏しく、脆弱な軍事力しか有していなかった従来の辺境伯ならば、到底実現不可能と言える目論見だが、ムールド諸部族を味方に付けて強力な軍事力を有し、実力によって辺境伯位を獲得し、先の第二次フューラー戦争においても和平条約の締結に大きく貢献したことによって皇帝の宮廷にも一定の影響力を有するほどの権威を手にした今のレオポルドならば十分に実現可能と言えよう。
「男爵が思い誤って暴発することはあろうか」
レオポルドの問いかけにヘーゲル卿は顎髭を摘まみながら考え込む。
ドルベルン男爵の勢力は削ぎたいところではあるものの、反乱を起こされて軍事衝突に発展することは避けたいというのが本音であった。万が一にも敗北するようなことはないと思われるが、戦争となれば少なからぬ軍費を要し、周辺地域の住民や経済に大きな打撃となり、税収にも大きな悪影響を及ぼすだろう。未だに赤字財政に悩まされている現状では全く歓迎しかねる事態であることは言うまでもない。
「然程強く反発はいたしますまい。このようなことで暴発するほど愚かではございませんので、大人しく閣下に服従するかと思われます」
卿の返答にレオポルドは満足げに頷いた。