表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
236/249

二二九

 襟元から湧き上がる汗と土が混じり合った悪臭にレオポルドは顔を顰めた。

 些か潔癖の気がある彼にとっては全く耐え難い臭いで、平素ならば即座に汚れた衣服を脱ぎ捨て、温かい湯に全身を浸からせて汚れを隈なく落とすところだが、今はそのような気分にはなれなかった。

 ここ数日食事も睡眠もろくに取らず一日に何十マイルもひたすら馬を駆けさせていたのだ。疲労と空腹、寝不足、喉の渇き、苛立ちが心身を苛んでいる。入浴や着替えどころか、椅子から腰を上げてベッドに歩いていくことすら億劫であった。

 ただ机に肘を付いて落ち着かなさげに貧乏ゆすりをしながら長々と続く報告に耳を傾けている。

 書斎には彼の他には三人の男たちが立っていた。いずれも白い毛織物の上着に身を包んでいる。西方大陸において白は弔意を示す色である。

「以上が先の伝染病の被害の概要です」

 無表情で書類を読み終えた統治総監ヘーゲル卿はそう言って報告書をくるくると巻いて小脇に挟んだ。

 昨年の暮れからハヴィナを襲った伝染病はおおよそ三ヵ月の間に死者二〇〇名余を出し、患者の総数は二五〇〇人以上に上った。ハヴィナの人口は六万人程度であるから大体二五人に一人の割合で罹患し、そのうち約一三人に一人の割合で命を落とした計算となる。死者の多くは乳幼児や老人であった。

 冬も終わりに近づいてきた近頃は新たな患者の発生も少なくなり、概ね鎮静化したと思われている。

 レオポルドは机上に置かれた報告書を一瞥した後、苛立たし気に三人へ視線を向けた。

 ヘーゲル卿の隣に立っているのは陰鬱とした面持ちの宮内長官アイルツ卿と見るからに憔悴しきった様子のハヴィナ長官モールテンブルク卿である。

「この度は我々の管理不行届きにより伝染病の蔓延を防止できず、更には城内にまで病の進入を許し、取り返しのつかない重大な結果を招きましたことは痛恨の極みであります。深くお詫び申し上げるとともに責任を取りまして職を辞させて頂きたく存じます。無論、辞任することにより失政を責めを免れるとは考えてはおりませんが、このような結果を招いたからには現職に留まることは不適かと思う次第でございます」

 そう言ってヘーゲル卿は懺悔するかのように深く頭を下げ、他の二名もそれに続く。

 レオポルドは憂鬱そうに溜息を吐いた後、三人に顔を上げるよう言った。

「伝染病の発生と蔓延を防ぐことは極めて困難であることは理解している。貴卿らに重大な落ち度や過ちがあったとは考えていない」

「し、しかしっ、私のせいで多くの市民が、また、閣下のご令嬢までもが犠牲になりましたことは、何と言ってお詫びすればいいことか……」

 モールテンブルク卿は話の途中で涙を零れさせ、今にも泣き崩れんばかりの様子であった。卿はハヴィナにおける衛生行政の責任者であり、幾度となく患者たちが収容されている病院などを視察して、多くの人々が倒れ、命を落とす様を目の当たりにした為に一際強く責任を痛感しているのだろう。

「ヴォルフ。しくしっかりせよ。閣下の前で情けない姿を晒すでない」

 ヘーゲル卿に叱咤するように声をかけられ、モールテンブルク卿は袖で顔を拭いながらもどうにかその場に立ち続ける。

「我々の処遇につきましては全て閣下にお任せいたします。獄に繋がれようと砂漠の彼方に追放されようと串刺しにされようと一切異論は申し上げませんし、一族や他の貴族にも文句は言わせません」

 アイルツ卿が淡々とした様子で述べ、他の二卿も揃って首肯する。

「貴卿らは私が悪逆非道な暴君とでも思っているのかね」

 苛立たし気に言いながら頭を掻くと指先に脂が纏わりつき、ふけがぱらぱらと落ち、レオポルドは再び不機嫌そうに顔を顰める。

「とにかく、貴卿らに重い責があるとは考えていない。とはいえ、このまま現職に留めては職務の遂行に差し障ることもあり得る故、場合によっては職を辞してもらうかもしれない」

「それは勿論、ご随意のままに。我々は決定に従います」

 三人を代表してヘーゲル卿が言い、三卿は退出した。

 書斎に一人残されたレオポルドは陰鬱そうに溜息を吐き、気だるげに机の上に置かれていた杯を手に取って口をつける。随分前に差し出された葡萄酒はすっかり温くなっていた。

 暫くすると扉がノックされ、キスカが入ってきた。

「入浴の準備ができております」

「あぁ……」

「お休みになるのでしたら寝所へ行かれるべきです。ここで寝ては疲労が取れません」

「わかってる」

 何を言っても疲れと苛立ちが入り混じった声を返すばかりで動く様子の無いレオポルドを見てキスカは険しい表情を浮かべて言った。

「先の伝染病やソフィアのことについて心を痛められていることは承知しておりますが、これらのことはレオポルド様の責任ではありません。また、アイラも今は心身を疲弊させておりますが、いくらか時が経てば、じきに快復するでしょう」

 世の中において、伝染病というものはそれほど珍しいことではなく、どの国でも地域でも数十年若しくは数年の間隔で経験することであり、一生のうちに一度も伝染病の被害に遭わない或いは伝染病の脅威を身近に感じることがない人など一人もいないと言ってしまっても過言ではない。

 乳幼児の死亡はそれ以上に珍しくもないことである。伝染病でなくとも、日常的な病気や怪我、或いは不慮の事故、生まれつきの障害、貧民であれば栄養失調などにより命を落とす子供は極めて多く、成人するまで生存できる者は三分の二程度。極めて貧しい民では半分ということもあり得る。

 栄養状態が良く、高位の医療を受けることができる上流階級においては生存できる子供の割合は多かったが、それでも様々な要因により命を落とすことはそれほど珍しいことでもなく、それ故に王侯貴族の間では多産が推奨されたりもしていた。

 無論、それらはあくまでも統計的な話であり、実際に伝染病に襲われた人々の恐怖や不安、我が子を亡くした親たちの悲痛が軽くなるというものではない。

 頻繁に失われるからといって命は、愛しい我が子はかけがえのない唯一無二のものなのだ。

 とはいえ、いつまでも悲しみと喪失感に囚われ、嘆き悲しんでばかりいるわけにもいかない。平民であれば残された家族の為に働かねば食べてはいけないし、上流階級にある人であっても修道院に引きこもって世俗から離れるとかでなければ、いつかは立ち直り、元の生活に戻らねばなるまい。

 それはアイラとて例外ではない。いつまでも寝所に引きこもって泣いてばかりはいられず、時が心の傷を癒し、いつかは快復するかもしれないし、そうでなくともそのままではいられないのである。

「ですから、レオポルド様は気を確かに持って頂かなければなりません。しっかりなさって下さい」

 キスカの半ば叱責するかのような言葉にもレオポルドは気力のない様子のまま黙り込んでいた。暫くしていくらか逡巡してから口を開く。

「それはわかっている。わかっているんだ……」

 彼は疲れ切った表情で俯き、ぶつぶつと言った。

「しかし、アイラに一体なんて言ってやればいいんだ……。彼女が一番悲しく苦しい時に、彼女を支えてやることも助けてやることも側にいてやることすらできなかったんだぞ。大体、俺はほとんど彼女の為に何かをできたこともない。ソフィアとは、娘なのに顔を合わせて話したことすら数えるくらいしかないんだ。夫としても父親としても失格の最低な人間じゃないか」

 そう言って彼は両手で顔を覆う。

 夫として父親としての役割は様々である。どのような働きを行えば合格であるかは一概に言えないところであるが、この頃の、特に王侯貴族など上流階級においては、夫或いは父親は我が子の世話などほとんど何もしないという男も珍しくはない。我が子が成人するまで何度かしか顔を合せなかった父親など掃いて捨てるほどいるだろう。

 とはいえ、それが正しい夫、父親であるかといえば明確に否定されるところである。中には甲斐甲斐しく我が子の世話を焼き面倒を見る父親もいるし、妻と協力して仲睦まじい家庭を築く夫もいる。

 レオポルドがそのような良き夫、良き父親であったかというと、とても肯定はできまい。

 彼に代わって弁解するなれば、結婚、妻の出産の前後のみならず、現在に至るまで彼は常に多忙であった。サーザンエンド継承戦争を戦い抜き、サーザンエンド辺境伯の地位を獲得し、南岸のハルガニ地方を平定し、その統治基盤を構築して安定化させ、幾度か帝都に赴いて政略に励み、皇帝の為にフューラーとの戦争にも駆り出され、その和平条約の仲介にも奔走した。その間、ハヴィナに滞在していることもあったが、前述の如く様々な政務に取り組んでいて、とても朝から晩まで子供と遊ぶ暇などありはしなかった。せいぜい数日に一度二度顔を見たり一緒に食事をしたりする程度であった。

 だが、果たしてそれは言い訳になるだろうか。家族、我が子を差し置いてそれよりも大事なことなどあるのか。それらを疎かにしてまで働くことに何の意義があるのか。彼は一体何の為に戦い、働き、活動してきたのか。サーザンエンド辺境伯という地位を獲得し、その特権を確固とするのは何の為か。自らの名誉や利権といった浅ましい欲望の為だったのか。

「そもそも、俺にソフィアの死を悲しむ資格などあるのか。これまで俺のやってきた戦争で一体何人の命が失われたというのか。戦場で倒れた兵士や或いは戦いに巻き込まれた犠牲になった民は何千にもなる。俺の指示で命を落とした者もいるし、死刑の命令書に署名したことだってある。彼らにだって親や子や妻や夫や兄弟がいたんだ。何人も何百人も何千もの命を奪っておきながら、娘一人が失われたことに嘆き悲しむ資格などあるのか」

 これは以前から彼の頭の片隅に巣くっていた悩みでもあった。サーザンエンド継承戦争において、彼は軍隊を指揮し、幾度も敵軍と戦い、敵味方に多くの流血を強いてきた。彼の為に幾多の兵士が戦い、命を落とし、或いは彼の命令によって幾多の人々が殺され、傷付けられてきたのだ。家族が失われた者を含めれば戦争の犠牲者は数万にも及ぶだろう。

 戦争の原因が全て彼一人に帰結するとは言えまい。彼以外にも幾多の人々が関与し、様々な要因が絡み合って起きた戦争なのだ。だが、彼の為に誰かが命を失い、彼が誰かの命を奪ったということは揺るぎない事実と言えよう。

 他人の命を数えきれないほどに奪っておきながら、自分の血を分けた娘一人の死を悼むことは果たして道理に適うだろうか。

 レオポルドはソフィア重病の知らせを受けて急遽帰路に就き、その途上で死去の報を受け、馬を走りに走らせて帰り着くまでの間に、そのようなことを考え、悩み、そうして、猛烈な自己嫌悪と痛悔の念と虚無感が胸に去来したのである。

「どうかお休みになってください。心身が疲弊していると宜しくないことばかり考えてしまうものです。レオポルド様はひどくお疲れのようですから」

 キスカが悲し気な表情を浮かべて言うと、レオポルドは顔を上げて首を横に振った。

「いや、寝るのはもう少し後にしよう。ちょっとこれを読んでおきたい」

 そう言って彼は机上に置かれていた伝染病の被害に関する報告書の束を手に取った。ヘーゲル卿は伝染病の被害者数のみならず彼らの年齢、家族構成、住居、入院先、治療方法、その後の経過などを事細かに調査記録させており、それらを記した報告書は相当な枚数に及んでいた。一通り読むだけでも数時間を要するだろう。

「しかし……」

「頼む。今は横にまだ横になりたい気分ではないから」

 そう言ってレオポルドは報告書に目を通し始めた。

「……できるだけお早めにお休みになって下さい。お願いします」

 キスカは心配そうに表情を曇らせて佇んでいたが、悲し気に声をかけてからそっと部屋を出ていった。

 再び一人になったレオポルドは夜が明け、朝日が上るまでずっと一人で何百人もの死者の名前が並んだ報告書を読み耽った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ