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二二八

 地平線の向こうに日が沈もうとしていた。

 サーザンエンドの大半は起伏に乏しい平坦な地勢で、太陽といえば地平線の向こうから上り、地平線の向こうに沈んでいくのが当然なのである。山並みの裏側や海の彼方へ沈んでいく太陽など見たこともないという者も少なくない。

 沈みゆく太陽は燃え盛る炎のように輝き、灌木と乾いた草木ばかりの荒野、ナツメヤシの並木、耕されたばかりでまだ何も植えられていない黒々とした畑、そして、ハヴィナの市街をぐるりと囲む高い土灰色の城壁を赤く照らしている。

 日が半分ほど沈んだ頃、城門脇の塔に立った兵士が鉦を叩き始めた。閉門の合図である。鉦の音は日が完全に落ち切るまで続き、その音が止むと直ちに城門は閉められる規則なのだ。

 ただ、年末からハヴィナを襲う伝染病の患者を収容する施設が城壁の外に建設された為、施設に最も近い西門のみ閉門を行わない例外措置が取られている。それ以外の七つの城門は平時の通り夕暮れと共に閉門する。

 暫くして日はほぼ沈み、地平線を赤く照らすばかりとなった頃、城壁警備の担当士官が閉門を指示しようと傍らに立つ下士官に顔を向けた直後、頭上から兵士の声が聞こえてきた。

「真北に騎兵の姿が見えますっ。こちらに向かっているように見えますっ」

 その声に士官と下士官が望遠鏡を揃って真北に向けると、地平線の彼方から麦粒のように小さな姿だが数騎が走ってくるのが認められた。

「如何しますか」

 下士官の問いにまだ若い士官は逡巡する。

 ハヴィナに向かってきているということは入城を望んでいることは間違いあるまい。荷物もなく馬を疾駆させているとなれば危急の使者であろうと推測される。まさか数騎ばかりでハヴィナに害を為そうなどということはあり得ないだろう。

 入城しようとする急使が目の前にいるというのに閉門してしまうのは明らかに不合理かつ非効率的というものである。

 しかしながら、規則に遵うならば日暮れと共に閉門することが彼の責務である。緊急の使者ということであれば、閉じた城門越しに要件を質し、その内容を上官に知らせて判断を仰ぐというのが正規の手順であった。

 また、巨大な城門は開閉に時間がかかり、一度閉じた門を再度開門させるには些か時間と労力を要する。上官に指示を求めようにも伝令を走らせている間に日は落ち、閉門の時刻を迎えてしまうだろう。

 まだ若い士官は迷った末、規則通りに閉門を命じた。

 軍人に求められる素養は勇気や判断力、体力など様々あるが、最も重要なことは上官の命令や規則を遵守する従順さである。

 砲弾が降り注ぎ、銃弾が飛び交う戦場に赴き、押し寄せる数百騎数千騎もの騎兵の突撃を前にして一歩たりとも退かずその場に立ち続けたり、自分に向けられた数百数千もの銃口に向かって歩き続けたり、顔も初めて見る見ず知らずの他人を殺すなどという、時として理不尽かつ不合理でもある凶行を躊躇いなく正確に実行させる為には、日頃から上官の命令や規則を墨守するという習性を身につけておかねばならない。故に軍隊という組織においては些細な軍規軍令違反であっても懲罰の対象となる。

 よって、将兵の教育訓練においては上官の命令を遵守することが第一に重視され、彼らは基本的に軍規軍令違反に強い抵抗感と恐怖を覚えるよう養成されているのだ。

 そうして閉門された城門の前に数騎のムールド人騎兵が馬を寄せてきたのは門が閉じてから一〇分もしないうちであった。

「私はサライ・ナザム・タキル中佐であるっ。直ちに開門願うっ」

「開門には些か時間を要しますっ。お急ぎならば西門に行かれよっ」

 担当士官の返答にサライ中佐は首を横に振って叫ぶ。

「いや、今暫く後に辺境伯閣下が参られるので北門を開門頂きたいっ。我々はそれを伝える為に先行したのだっ」

 これを聞いた士官は慌てて開門を指示した。彼は近衛連隊副長を務めていたサライ中佐の顔を知っていたので、その言葉に従うべきと判断したのだ。

「閣下は少数の者と共にハヴィナ城まで直行する故、沿道の警備を行う兵を召集せよっ」

 城門から伝令が駆け、それから間もなくハヴィナ城に駐屯していた近衛騎兵連隊及び近衛歩兵連隊の兵が北門からハヴィナ城まで伸びる大通りに展開した。

 仕事を終え、職場から家路を急いだり夕食の支度をしたりしていた市民は困惑し、不安そうな様子で兵隊たちを眺めながら囁き合う。

「一体こりゃあどうしたんだ。こんな日暮れに兵隊が出張るなんて。まさかまた戦争でも始まるんじゃないだろうな」

「そんな馬鹿なことあって堪るかよ。聞いた話じゃあ辺境伯様がお帰りになるらしいぜ。その出迎えじゃあねえか」

「そういえば、昨年末に戦争が終わったんだったな。随分と急いで帰ってきたもんだ」

「ほら、この間、辺境伯様の姫様がお亡くなりになっただろう。それで大慌てで帰ってきなさったんだろう」

「しかし、この二月の間にハヴィナで死んだのは何百人もいるぜ。庶民がバタバタ倒れているのを遠くから眺めていたくせに、娘が死んだらすぐ帰ってくるなんて自分勝手な野郎だぜ」

「おい、そんなこと言うなよ。伝染病は辺境伯様のせいじゃないだろう。それに辺境伯様が帰ってきたからって伝染病が止むわけでもないしよ。自分勝手なのはどっちだ」

「まぁまぁ、こいつは先の伝染病で親を亡くしたんだ。勘弁してやれ」

「それにしても、おいたわしいことですよ。まだ二歳半で主に召されるなんて」

 市民たちが口々に彼是言い合う中、人通りが制限された大通りを数十騎の騎兵がハヴィナ城へと駆けて行く。

 敗戦など不名誉な帰国でもない限り、辺境伯が帰国した際には沿道の市民は「辺境伯万歳」という歓声を上げるのが慣例であったものの、市参事会のお偉方や親方衆からそのような指示はなかったし、ついこの間まで猛威を振るっていた伝染病の影響もあってそのような雰囲気ではなく、囁き合う市民に見守れながらレオポルドはハヴィナへと帰還したのだった。


 馬を疾駆させたレオポルドが一直線に向かったのは青い小宮殿であった。

 小宮殿では夕食の準備が行われているところであったが、主人の急な帰宅に大慌てで出迎えの準備に追われることとなった。

 通常であれば廷臣や侍従、女官、使用人たちは正装に身を包み、玄関前或いは玄関広間に整列して出迎える慣わしであるし、当然寝室はいつでも休めるよう支度しておき、旅装からの着替えや旅の渇きを癒す飲み物、空腹を満たす食事の用意もしなければならない。

 また、レオポルドは帰宅すると何はともあれとにかく入浴したがるのが常であったから、その準備も必要である。これが一苦労で、浴槽に水を運び火を焚いて湯を沸かすのはそうすぐにできるものではなく、準備にはどうしても一時間二時間ほどの時間を要する。

 侍従や女官は正装に着替えようと私室へ駆け戻り、料理人や給仕はほとんど出来上がって後は食卓に出すばかりとなっていた夕食をどうすべきかもう一食を増やすべきか別の食事を用意すべきか頭を悩ませ、布団係や清掃係はレオポルドの私室へ駆け込んで清掃やベッドの整頓に取り掛かり、風呂係は井戸へ行って水を汲む。広間や廊下は右往左往する何十人もの使用人で大騒ぎとなった。

 宮殿中が上へ下への喧騒に包まれる中、フィオリアは苛立たし気に家政婦長を呼び寄せる。

「いつもの出迎えはいいから入浴と寝室、食事の用意だけして頂戴。食事と飲み物はありあわせのもので大丈夫。仕事が終わった者はもう休んでいて構わないわ。とにかくこの大騒ぎを早く鎮めて」

「宜しいのでしょうか」

 不安げな家政婦長にフィオリアは沈鬱そうな表情を浮かべて頷く。

「ええ、レオはそういうことは気にしないし、今日はそれどころじゃないでしょうから」


 小宮殿の玄関前で馬を下りたレオポルドを出迎えた侍従のアイルツ卿他数人の使用人たちは今まで見たこともないレオポルドの姿に言葉を失った。

 帝国騎士という貴族では下級ながらも品格ある家柄の出身であるレオポルドは常に身なりを清潔に保つことに気を使っており、一日に何度も入浴することからも分かる通り大変な綺麗好きなのである。人前に出るときは常に身綺麗であり、それは自宅である小宮殿でも変わりなく、汚れた衣服をそのまま着続けていることなど戦場でもない限りあり得ないことであった。

 そのことをよく知っている彼らにしてみると今のレオポルドの姿は信じられないような状態であった。

 衣服は帽子の上から爪先まで土埃に塗れ、少し動くだけで土や砂が零れ落ちるような有様で、あちらこちらが破れ、膝や肘には穴まで開いている始末。何日も着替えていないことは明白であった。

 顔も汗と土で汚れ、額には汗で前髪が張り付き、口まわりには無精髭が見すぼらしく生えっ放しになっている。

「出迎えご苦労」

 レオポルドが疲れ切った掠れ声で言うと、出迎えの者たちは慌てて頭を下げた。

「アイルツ卿。御父上の具合は如何か」

 被っていた幅広帽と羽織っていたマントを脱いで従者に手渡しながらレオポルドが尋ねるとアイルツ侍従は重苦しい声で答えた。

「……父は三日前より職務に復帰しております」

 侍従の父親であるアイルツ宮内長官は伝染病に罹患して倒れた一人であり、そのことはレオポルドにも手紙で知らされていた。

「それは結構」

「お気遣い頂き恐れ入ります」

 アイルツ侍従は居た堪れない面持ちで頭を下げる。

 レオポルドの言葉に責めるような調子は全くなかったが、自分の父親は助かり、主の娘は助からなかったのである。快く返答できようはずもない。

 侍従の居心地の悪さを気にする様子もなくレオポルドは従者から差し出された濡れ布巾で顔と手を拭いながら小宮殿に入り、玄関広間で出迎えに来たキスカとフィオリアと顔を合わせた。三人は硬い表情のままぎこちなく帰宅の挨拶を交わした後、階段へと足を向ける。

 後に続くのはアイルツ侍従とレオポルドと同じく土埃に塗れたサライ中佐の他は従者一人侍女一人だけで、他の者は用向きあるまで休んでよいとして解散となった。

「アイラは自室にいるのか」

 レオポルドの問いにフィオリアは瞳を潤ませながら頷く。

「アイラはずっと伏せっているわ。レオが帰ってきたことは知らせたけれど……」

 一行はアイラの私室前で立ち止まる。

 レオポルドはすっかり茶色く汚れた布巾を従者に返してから重苦し気に息を吐く。何度か控え目に叩いた後、ゆっくりと戸を開け、一人で部屋の中に入った。

 ベッドで横になったアイラは以前と比べ一回りくらい小さくなったように見えた。魅惑的で女性的だった体つきは丸みを失い、骨ばっていて、肌の血色も明らかに悪い。栗色の長く美しい髪は艶もなく乱れている。

 レオポルドが声もかけられず立ち竦んでいると、彼女はゆっくりと瞼を開けた。赤く充血した目は傍らに佇む彼の姿を認めると瞬く間に涙を溢れさせた。

「あぁ、旦那様……。申し訳ありません……申し訳ありません……」

 か細い手で顔を覆い、嗚咽交じりに何度も何度も掠れ声で謝罪の言葉を繰り返す。

「謝らないでくれ。君が謝る必要など何もないのだから」

 レオポルドはベッドの傍に膝をついて慰めの声をかけた。

 しかし、その言葉が寒々しく空虚に聞こえてならず彼はすぐに口を噤む。

 アイラが止めどなく涙を流し、懺悔するかのように紡ぎ続ける謝罪の言葉をレオポルドは為す術もなく聞いていることしかできなかった。

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