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二二七

 朝食の後、キスカは書斎に戻って書類仕事に取り組む。大量の報告書を読み、それに意見や指示を書いたメモを付けて返す。

 昼食を自室でパンとチーズ、お茶だけで済ませた後、彼女は青い小宮殿を出て、灰古城へと向かった。

 灰古城はサーザンエンド辺境伯の居城であるハヴィナ城の中でも最も大きな建物で、様々な公式行事や式典が催される場であり、辺境伯の正式な住居でもある。

 常ならば多くの廷臣や役人、軍人、使用人が忙しそうに行き来し、挨拶や陳情、請願に訪れた貴族や聖職者、大商人、商人・職人組合や地方の有力者が出入りし、いくつもの広間や会議室、長い廊下の何処にも人気ひとけがあるものだが、主人であるレオポルドが大軍を率いて出陣している上、伝染病が蔓延しているという状況により閑散とした状況が暫く続いている。

 警備の兵の敬礼を受けながらキスカは真っ直ぐ辺境伯夫人リーゼロッテの私室へと向かう。

 辺境伯夫人の私室に入るには、その手前にある控えの間を通らねばならず、控えの間の前には数人の警備兵、控えの間には女官一人と侍女数名が常時待機しており、彼らを通してリーゼロッテの許諾を得なければ中に入ることはできない。

 ただ、レオポルドとキスカ、アイラ、フィオリア、女官長のランゼンボルン男爵夫人だけは控えの間を素通りし、私室の扉の前から直接声掛けすることが許されおり、基本的に入室が拒まれることはないが、レオポルドだけはリーゼロッテの機嫌次第では帰されることがある。

「今朝、レオポルドから手紙が届いたのだけれども」

「私の許にも届いております。未だジェンベルフ宮殿に滞在しているようですね」

「もう年が明けてから一週間も経つけれど、いつまでヴィエルスカ侯の厄介になっている気なのかしら」

 リーゼロッテは窓の外に視線を向けながら素っ気ない顔で言った。

「ヴィエルスカ侯から何やら重要な提案をされたそうですから、その関係で出立が遅れているのかもしれません」

「そう。それよ。重要な提案というのは一体何なの。思わせぶりなことを書いて具体的な本題を書かないなんて姑息な真似をして」

「私だけでなく、リーゼロッテ様の手紙にも同様のことを書かれたということは、純粋に政治的軍事的な性質のものではないかもしれません」

 そう言いながらキスカは目を細め、声を落とす。

「レオポルド様の性格を考えるに、言わなければならないが、言い難いことではないかと思われます」

「そうでしょうね」

「そして、ヴィエルスカ侯の関係といえば」

 キスカの言葉にリーゼロッテは思い当たる節があったようで、途端に唇をへの字に曲げ、不機嫌そうに鼻を鳴らす。不機嫌を通り越して怒りを覚えているようにも見えるが、目立って感情を露わにする様子はない。

「なるほどね。うん、まぁ、何かしらの事情があってのことなのでしょうけれども」

 いくらか深い呼吸を繰り返した後、彼女はいつものような素っ気ない顔でぶつぶつ言った。

「時間稼ぎのつもりなのか根回しなのか知らないけれど思わぜぶりなことを書いておいて、本題を書いてこないのは、小癪というか小賢しいというか。とにかく気に入らないわ」

 不満げなリーゼロッテの言葉にキスカは否定も肯定もしなかったが、特にレオポルドを庇うような発言もしなかった。

「それで、肝心の本人はその話を聞いているのかしら」

「さて」

 キスカは首を傾げながら、ハヴィナに留学という名目で長らく滞在しているヴィエルスカ侯の末娘を思い浮かべる。大変な読者家である彼女は寝ても覚めてもハヴィナ城の図書室に籠って片っ端から本を読み耽る日々を過ごしていた。このままだとあと一年か二年もすれば全ての本を読み尽くしてしまいそうな勢いであるらしい。

 そのような生活を送っているから基本的には青い小宮殿で暮らしているキスカとの関わり合いは少なく、お互いのことをそれほどよく知らないという間柄であった。

 ただ、キスカは余所者である彼女の動向に関心がないわけではなく、適度に監視を続けていた。もっとも、それはアーウェンの少女に限った話ではない。

「彼女宛ての手紙を見ているわけではありませんが、おそらくはまだ何も知らされていないのではないかと思われます」

 その答えにリーゼロッテはより一層不愉快そうに顔を顰めた。

「まったく、貴族だの何だのといった家に生まれた女が生き方も暮らす場所も伴侶も自ら選ぶことができないというのは、貧しい暮らしをせずに済む代償というものなのかしら」

 言ってから彼女はふと気付いて口端を上げた。

「そういえば、貴女はその宿命を自分で変えたんだっけ」

「まぁ、そうですね」

 ムールドの一部族であるネルサイ族の族長の娘であったキスカにはもともと婚約者がいた。

 しかしながら、彼女と婚約者及びその一族との価値観や意見には大きな断絶があり、最終的に彼女は自らの手で、極めて血生臭く暴力的な手段によって自らの運命を強引かつ力づくで変えてしまったのである。

 このような真似ができる女性は極稀な存在であることは言うまでもない。


 リーゼロッテの部屋を後にしたキスカは辺境伯官房長のレンターケットと合流し、統治総監のギュンター・オイゲン・ヘーゲル卿の執務室に入った。

 ヘーゲル卿は古くからサーザンエンド辺境伯の宮廷を牛耳るハヴィナ八家門の一員であり、先に亡くなった老シュレーダー卿の娘を妻としている。かつてはハヴィナ長官を務めた経歴の持ち主で、当初はレオポルドに対して好意的でも敵対的でもない中立派であったが、サーザンエンド継承戦争後、宮廷の重職を自身に当初から忠実であった者ばかりで固めて、それ以外の貴族から反発が出ることを危惧したレオポルドによって辺境伯領統治の最高責任者に起用された人物である。

 そのような経緯の能力よりもサーザンエンド貴族たちの人間関係に優先した人事ではあったものの、もう三年近くの間、ヘーゲル卿は特に問題なく辺境伯領の統治を担っていることから、レオポルドも卿を信頼しており、特にサーザンエンドを留守にしていたこの一年近くは内政全般を委ねていた。

「郊外に伝染病の患者を収容する施設を建設したことはご存知かと思う」

 白髪白髭のヘーゲル卿が長い口髭を撫でつけながら言った言葉に二人は頷く。

 伝染病の流行により市内にある教会や修道院付属の病院は数日もしないうちに過密状態となり、今では教会や修道院のありとあらゆる施設や部屋に患者を収容する状況に陥っていた。

 しかも、城壁の中にある市内の教会や修道院は家屋や商店と隣接し、面している道路は市民の往来も多い。当然ながら近隣の住民などが入院患者から感染するという事態が頻発していた。

 こういった問題を解消する為、辺境伯領政府はハヴィナの郊外、つまり、城壁の外に日干し煉瓦造りの収容施設を建設し、動かすことができる患者を移送させようと計画したのだ。

 新築された収容施設は簡素ながらも広々とした空間に数百ものベッドが並び、医者が常駐する医務室や大量の食事を作ることができる大きな厨房、清潔な便所などが設けられている。

「しかしながら、患者やその家族は新設された収容施設への移送を拒んでおり、ほとんど移送が進んでいない状況にある」

 ヘーゲル卿の言葉にキスカとレンターケットは無言で顔を見合わす。

 卿が現在の状況を遺憾に思っていることは理解できるが、何故それをキスカとレンターケットに言うのか。

 二人はサーザンエンド辺境伯レオポルド個人に仕える立場であり、辺境伯政府の行政機構における指揮命令系統に組み込まれているわけではないので、行政施策について、統治総監から指示や命令を受けることはない。

 ただ、これらの施策のうち重要な案件はレオポルドの裁可を得て実施されるのだが、主に内政案件はレンターケット、軍事案件はキスカを経由して裁可を求めることとなっていた。

 しかしながら、収容施設の建設は既にレオポルドの裁可を得ており、今更何かしらの指示を求めることなどあるだろうか。

「患者やその家族が移送を拒むのは城壁の外では自由に往来ができず、孤立してしまうことを危惧しているらしい」

 ハヴィナは西方大陸本土の多くの都市に見られるような高い城壁を備えた都市である。城壁の内外を行き来する為には大小八つの城門のいずれかを通らねばならないが、これらの城門は夜明けと共に開門し、日暮れと共に閉門される規則であった。

 つまり、夜の間、城壁の外にある収容施設は市内との行き来が全くできない孤立した状況となってしまうのだ。収容施設に移送される患者は比較的病状の悪くない者とはいえ、容体が悪化した場合に家族が会いに行くこともできないし、市内にいる医者が応援に行くこともできないということであった。

 市民は収容施設は病人を城壁の外に放逐する目的をもった施設と見做し、自分や家族が追い出されることを断固として拒否したのである。

「このような誤解を解消し、収容施設を適切に運営せねば市内にある各病院の環境はより悪化し、改善されることなどあるまい」

「仰る通りです。それで、我々にお手伝いできることはあるでしょうか」

 レンターケットが本題を促すように言い、ヘーゲル卿は再び白髭を撫でながら言った。

「つまりだ。夜の間、城門が閉まっているのがいかんのだ。城門を開き、いつでも誰でも自由に往来できれば、市民の誤解も解けよう」

「それはハヴィナの防衛に懸念が生じます。良からぬ企みを抱く不審者の進入を招く危惧があります」

 キスカが異議を唱えると、ヘーゲル卿は不機嫌そうに顔を顰めた。

「同じようなことをケッセンシュタイン将軍も申していたよ」

 ケッセンシュタイン将軍は軍事評議会議長を務める老将軍である。

「しかし、城門には常に警備の兵がおり、往来を監視しているではないか。不審者の進入を阻むことは可能であり、閉門に固執する必要などあるまい」

「まぁ、仰ることはご尤もかと思われますな」

 レンターケットが同意するような意見を述べるとキスカは無表情のまま隣に立つ同僚を睨む。

「夜間、城門を閉門するというのは軍事上の規則だ。ケッセンシュタイン将軍に開門するつもりがなければ、私に城門を開ける術はない。そういうわけで、諸君らの出番なのだよ」

 つまり、レオポルドに城門の開閉について判断願いたいということなのだ。城門の開閉について定めた規則は極めて重要な決まり事であり、これに反して例外的な措置を実施するとなれば当然の如く君主たるレオポルドの判断が必要であろう。キスカとレンターケットの両名を呼んだのはこれが内政と軍事と両方に関係する案件である為だ。

「概ね理解いたしました。レオポルド様には私から報告し、ご指示を求めたいと思います」

「宜しくお願いする」

 ヘーゲル卿はそう言ってから深く息を吐く。

「事態は急を要している。可能な限り早く対策すべきだ。これ以上の病の蔓延を阻み、一日も早く鎮静化できなければ、市民の政府と閣下に対する信頼と支持も失われかねぬ。言うまでもないが、これは重大なことだ。市民の支持なくば統治はままならぬからな」


 灰古城を後にしたキスカは青い小宮殿の書斎に戻ると、直ちにレオポルド宛ての至急重要の手紙を書き、北へと駆ける使者に託した。

 晩餐は朝と同じ面々、同じ場所で済ませる。献立はパン、チーズの他、羊肉と根菜、ミルクのシチュー、干し果実といった平素に比べれば極めて質素なものであったが、不平不満を口にする者はいない。

 キスカは食事を素早く済ませると会食者に断って早めに退出し、再び書斎に戻った。

 ムールドの協力者から寄せられた秘密の報告書に目を通していると、扉が激しく叩かれ、返事もしないうちにフィオリアが駆け込んできた。顔面は蒼白で、目には涙が浮かんでいる。

 ただならぬ様子にキスカが何と声をかけるべきか躊躇している間に、フィオリアは息も絶え絶えに叫ぶように言った。

「大変っ。ソフィアが、食事を吐いて、高熱をっ」

 ソフィアはレオポルドとアイラの間のまだ二歳半でしかない娘である。

 キスカは手にしていたペンを取り落とす。


 二日後の深夜、幼き子は主の御許に召された。

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[一言] 婚約なんぞ直ぐにバレる事柄をどう報告するかでだらだらと悩んでゐるのか。 リーゼロッテの時にもあった話なのに何一つ反省がなく留まってゐたんだからそら手遅れの事態にもなる。
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