二二五
「確かにムールド人の有力者の中には妻を複数人抱えている者もおりますが、それはあくまでも異教徒であるムールド人の習俗です。聖典は重婚を罪としております」
レオポルドは信心深く敬虔とは言い難いが、西方教会の信徒の一員であり、教会の法によれば伴侶は一人でなければならない。重婚は大罪であり、離婚は原則として認められない。
「無論、存じておるとも。わしとしてもシルヴィカを正妻に迎えて欲しいと言っているわけではない。貴殿が抱えておる正妻ではない妻と同じ立場に置いて頂きたいのだ」
つまり、キスカやアイラと同等の立場にシルヴィカを迎えて欲しいというのがヴィエルスカ侯の希望らしい。
キスカとアイラはムールドの慣習ではレオポルドの妻とされているところだが、前述の如く重婚を禁ずる教会法の上では伴侶としては認められていない。その立場は帝国及び教会の法の上では、存在を認知された愛人と言えよう。
教会が謳う倫理観からすれば大罪というものだが、実際にはそのような愛人を抱える王侯貴族は少なくなく、愛人を何人も抱えている上級聖職者すら珍しい存在ではない。
実際、侯自身も複数人の愛人を囲っており、シルヴィカは愛人との間の庶子である。
このような愛人や庶子といった存在は取り立てて隠すようなことはなく、公に認知されていることが一般的である(ただし、認知されない愛人や庶子も存在する)。彼女たちは主人の宮廷において敬意を払われ、上流階級に属する様々な人々と交流し、しばしば家政或いは国政において正妻よりも大きな影響力を有することもある。
通常そのような愛人は主人よりも低い家格の出自であることが多く、中には役者や歌手、娼婦という出身の女性もいれば、中下級貴族や上級市民の娘も少なくない。王侯貴族の愛人の座に収まれば基本的には生涯に渡って上級社会における不自由のない生活が保障され、大きな財産を築くこともできよう。生まれた子供は庶子ではある為、基本的には相続権を有しないものの、ある程度の地位や特権、財産を贈与されることが多い。帝国貴族の中には歴代皇帝や帝国諸侯の庶子を祖とする家も多く存在する。
また、愛人の親兄弟からすれば、娘或いは姉妹が主君の愛人となれば、その伝手により自身の栄達が期待できる。場合によっては家格を向上させ、国政に重きを為すこともできよう。
では、ヴィエルスカ侯が庶子とはいえ、娘をレオポルドの愛人に差し出そうというのはどのような意図からだろうか。
侯はレオポルドよりも家格がそれほど低いとは言えず、ほぼ同格であり、経済力では上回ってすらいる。家格の向上や財産狙いというわけではあるまい。
当初、シルヴィカが留学という名目でハヴィナに赴いたのは、サーザンエンド辺境伯の臣下でありながらアーウェン士族の一員でもあったガナトス男爵の立場を巡って戦争状態となったサーザンエンドとアーウェンの和平の為の人質という意義が大きかった。
しかし、和平を保証する人質はいつまで必要なのだろうか。既に当初の目的はほぼ達せられ、今や両者は共同で軍事行動を実施するほどの関係を構築している。
果たしてシルヴィカをレオポルドの愛人と仕立て上げて、今以上に関係を強化することはヴィエルスカ侯にとって如何程の利益があるのだろうか。
「シルヴィカ嬢にはより相応しい相手がおられるかと思いますが」
「いやいや、辺境伯が良いのだ。シルヴィカも貴公を慕っておるしな」
レオポルドの遠慮気味の言葉にも侯は引き下がる様子はない。どこか嬉しそうな様子で空になりかけた杯に葡萄酒を注ぎながら言った。
「アーウェンの男は粗野な者が多いからな。古の文学を読んで感想を語り合うような趣味を持つ男はほとんどいまい。シルヴィカが古典や詩や歌劇について満足するまで話し合えたのは貴公が初めてであろう。わしに宛てた手紙でも辺境伯は知的で博識で親切な紳士だと称賛しておったよ」
レオポルドは新たに注がれた葡萄酒に口をつけながら目の前の老人を見つめる。侯は趣味が合うというだけの男に娘をやるほど感傷的な性質ではあるまい。
彼の納得していない様子を見た侯は苦笑を浮かべてから口を開く。
「お察しの通りそれだけが理由というわけではない。率直にお話ししよう。辺境伯には孫の後見を頼みたいのだ」
その言葉にレオポルドはあることに思い至る。
ヴィエルスカ侯には正妻や愛人たちとの間に数十人の子を儲けており、その中で十数歳まで成長した子は一八人だという。
しかし、正妻との間に儲けた嫡出の男子は一人しかおらず、その男子は父に先立って既に没しているらしい。長男は亡くなる前に一人の男子を残しており、この嫡孫がヴィエルスカ侯クレーヴィチ家の後継者というわけだ。
「わしももう歳でな。先もそう長くはない。孫はまだ六歳になったばかり。孫が一人前に成長するまで見守ってやれんかもしれぬ」
侯は未だ壮健に見えるが、既に老齢であり、一〇年或いは数年先も元気でいられるかどうか不安を覚えるのは無理からぬことであろう。
「後見ならば信頼できる他のアーウェン士族の方々にお願いなされては如何ですか」
アーウェンでも歴史ある名家であるクレーヴィチ家ならば縁戚は多いだろうし、十数人いる娘たちの婿もいるのだ。わざわざ余所者であるレオポルドに後見を頼む必要などあるまい。
「アーウェン人ではいかんのだよ。連中に任せていてはどうなることか。クレーヴィチ家の領土や財産はバラバラにされてしまうだろうよ」
通常ならば庶子や遠い縁戚には相続権は生じないのが慣例であるが、相続できる者がいない場合などでは財産が庶子や遠縁の者にも分割相続されることも珍しくはない。或いは新しい当主が幼年であることを良いことに後見人が財産を不当に横領してしまうこともあるし、親類たちが好き勝手に財産を取り分けてしまうこともあり得る。その財産の分配を巡って内紛となることも少なくない。
相続は極めて難しい問題であり、古今において隆盛を誇った多くの家門が相続に際して、内紛を起こしたり、領土や財産を幾度も分割した挙句、勢力を失って没落していったものである。
侯としては何としてもそのような事態を避け、後継者である孫にヴィエルスカ侯領をそっくりそのまま欠けることなく譲り渡し、それを子々孫々までそのまま継承させたいのだ。
「私ならば後見として安心であるということですか」
「辺境伯はアーウェン人ではないですからな。貴公がクレーヴィチ家の財産に手を出そうとすれば、他のアーウェン士族たちが黙ってはおるまい」
「なるほど」
アーウェン人の中にはレオポルドに好意的な者も少なくないが、それはあくまでも同盟者としての認識によるものであり、同輩や同胞として見做す者はいない。余所者であり、大きな影響力と軍事力を有する彼がクレーヴィチ家の縁戚に連なり、アーウェンの領土や財産に手を出そうとすれば、他の縁戚や多くのアーウェン人たちから大きな反感を招くだろう。
つまり、ヴィエルスカ侯にとってレオポルドはクレーヴィチ家の財産に手出しする心配がない頼れる後見役となり得る存在なのだ。
「辺境伯には我が孫がヴィエルスカ侯領を大事なく統治できるよう支援願いたいのだ」
レオポルドがシルヴィカを通して目を光らせれば、他の縁戚たちもクレーヴィチ家を好き勝手にはできまい。
かといって、レオポルドがクレーヴィチ家を支配することも難しい。これをしようとすればアーウェン人たちが挙って反対するだろう。
レオポルドとアーウェン人の縁戚たちが互いを牽制し、監視し合いながら、孫を支えるというのがヴィエルスカ侯の希望なのだ。
「応じて頂ければ、今後もクレーヴィチ家は辺境伯の友好的な同盟者であり続けようぞ」
レオポルドとしてもヴィエルスカ侯との関係を強化し、協調関係を継続させることは悪い話ではない。豊富な財政支援は勿論のこと、有事の際には強力なアーウェン槍騎兵の増援が期待できる。
「また、シルヴィカには持参金として五〇〇万セリンを譲ろうと思っておる」
花嫁が輿入れする際、親は財産の一部を持参金として花嫁に持たせるのが慣例である。持参金は花嫁が輿入れ先でも不自由しないようにする為の生活資金でもあり、遺産の一部という性格も有している。基本的に持参金は花嫁の個人財産となるが、彼女が許すならば夫の為に使用することも当然できなくはないだろう。実際、多額の持参金によって富裕になる男も少なくないし、持参金を目的とした結婚も珍しくはない。
五〇〇万セリンという金額はサーザンエンド辺境伯領における年間収入の四分の一程度にも及ぶ。持参金としては破格の金額であり、王侯の間でも滅多に見られないような大金である。
持参金目当てで結婚するなどということは男の名折れというものであるが、実際にはそのような結婚はさほど珍しくもない。
そもそも、レオポルドのこれまでの結婚は全て利益を得る為の政略結婚という性質を伴うものばかりであったことは繰り返し述べてきた通りである。ムールド人からの支持や家格の向上など様々な利益を得てきたのである。それが現金に形を変えただけとも言えよう。
要するに、これは両者にとって大いに利益のある契約なのだ。
問題はないわけではないが、統治者として領主として考えるならば些末な問題である。
レオポルドは渋い顔で葡萄酒を飲み干す。
「何か不満がおありかね。うちのシルヴィカは妻とするに不足であると」
「いえ、そのようなことは……」
「では、我が家の内紛に巻き込まれることを危惧されておるのか」
確かにそれは懸念すべきことであろう。
縁戚となり、関与できる立場となることは、同時にその家の内紛や問題に巻き込まれる可能性を含むことともなる。状況によっては厄介な問題となりかねないが、今の時点では利益の方が大きいと思われる為、その危険性は甘受しても良いだろう。
レオポルドを悩ませているのは既に幾人もいる妻たちやフィオリア、ソフィーネといった親しい女性たちに何と言われるかということであった。
一夫多妻の文化に生まれ育ったムールド女性のキスカとアイラはあまり文句を言わないかもしれないが、正妻たるリーゼロッテはどのような反応を示すだろうか。彼女も貴族の出自であるから、そのような地位の男たちが愛人を幾人も抱えることは理解しているだろう。では、実際に自分の夫が更に愛人をもう一人増やすことを寛容に受け入れてくれるだろうか。どう考えてもあまり宜しい反応が得られるとは思えない。
また、異性関係に厳格なフィオリアは妻たちに変わって怒りを表明するだろうし、修道女であるソフィーネは軽蔑の視線を向けてくるだろう。
考えているだけで胃が痛くなってくる。
とはいえ、レオポルドは情実や感情を度外視するような冷血漢ではないが、大きな利益を前にした場合には多少の犠牲を払ってでも実利を手にすることを厭わぬ利己主義者でもある。
親しい女性たちからの冷たい蔑みの視線やお叱り、或いは何発か叩かれるかもしれないが、それさえ甘受し、耐え忍びさえすれば大きな利益を手にすることができるのだ。これを逃すことなどできようか。
「辺境伯を見込んでの頼みなのだ。どうかわしの息子となって頂きたい」
ヴィエルスカ侯は被っていた頭巾を手に取って頭を下げた。
「どうか顔をお上げ下さい。閣下にそこまで言われて断ることなどできましょうか」
「それでは」
「色々と調整や準備が必要なこともございますので、正式な返答はハヴィナに帰りましてからいたしたいところですが、ご期待に沿えるよう善処いたしたいと存じます」
レオポルドの返答に侯は笑みを浮かべ、彼の手を取って握り締めた。分厚く硬い肌の大きな手だ。
「貴公を息子とできることは真に嬉しい限りだ。これからも、いや、これまで以上にアーウェンとサーザンエンド、クレーヴィチ家とフェルゲンハイム・クロス家の親交を深め、友好と協調を続けて参ろうではないか」
ヴィエルスカ侯の熱っぽい言葉にレオポルドは黙って頷く。
さて、ハヴィナで彼の帰りを待つ女性たちへの言い訳をどうしたものか。