二二四
後に第二次フューラー戦争と呼称される先の戦争は、レオポルドにとって当初は不本意かつ厄介な出来事であったものの、その戦後処理であるラミタでの和平会議は彼にとって得るものの大きい有意義なものとなった。
しかしながら、昨年夏前の帝国議会への召喚、今年の年明け早々からのフューラー国境への従軍、和平交渉の仲介等の為、レオポルドは本国であるサーザンエンドを長らく離れざるを得ず、その期間は一年半以上に及んでいた。
その間、サーザンエンドの統治はレッケンバルム枢密院議長、ヘーゲル統治総監、アイルツ宮内長官、ライテンベルガー侍従長といったハヴィナ貴族を中心とする重臣たちに委ねられ、現地の情勢、都市や道路建設の進捗状況、宮廷の財務状況、サーザンエンド銀行と南洋貿易会社の経営状況などを知らせる報告書が半月に一度は必ず送付されていた。言うまでもなく定例報告以外にも臨時的な出来事を知らせる手紙もある。その他、リーゼロッテ、キスカ、アイラ、フィオリアといった女性陣やレンターケット官房長、ムールド地方総監エティー卿、ハルガニ地方総監バレッドール将軍、ムールド諸部族の有力者といった面々からも度々手紙が届き、この一年間にレオポルドが本国から受け取った手紙は二〇〇通にも及んでいた。
前述の如く彼に届く手紙は本国以外にも帝都やフューラー、カロンといった地域からも届いている為、その総数は三〇〇通を超えており、平均すればほぼ毎日一通の手紙が届いていることになる。
それら膨大な数の手紙をレオポルドは受理した当日か翌日には必ず目を通し、気になる点などを別の紙にメモしたりして、几帳面に整理し、一週間以内には必ず自らペンを取って返事を書いていた。
報告書を読めば、満足や不満の意を示した上で、彼是と指示したり、問い合わせたりした上で、戦争の推移や帝都及び独立した三国の情勢などを知らせ、情報提供には謝意を述べ、引き続き協力願いたいと要請し、女性陣からの手紙にはレウォントで見た景色や食べた物、話した人々、当地の特色や最近の流行などを細々と書き連ね、相手や子供たちの状況などを彼是と尋ね、一日も早く帰り、顔が見たいと綴った。
こういった仕事を秘書や書記に委ねてもいいはずなのだが、レオポルドは自分宛ての手紙を他人に処理させることを好まず、手間と時間をかけても自ら手紙を読み、整理整頓し、返事を書いていた。手紙を読んだり書いたりすることは彼にとっては入浴に次ぐ習性というか趣味というか病癖というか、そのようなものなのかもしれない。
さて、そのようにしてレオポルドに知らされたサーザンエンドにおける出来事には喜ばしくない事柄も多く、彼を度々陰鬱な気分にさせた。
まず、最南端の港町ラジアを含むハルガニ地方の統治を任されてているハルガニ地方総監のバレッドール将軍が市内巡察中に狙撃されるという事件がこの一年近くの間に三度も発生していた。幸いにも弾丸は一発たりとも将軍にかすりもせず、犯人やその関係者は直ちに捕らえられたのだが、ハルガニ地方において未だ帝国やレオポルドに対する反感が根強いことを感じさせる事件と言えよう。
レオポルドが推進する南方貿易の最重要拠点であるラジア及びその周辺地域の安定化が急務であることは言うまでもなく、早期に何らかの手を打つ必要があるだろう。
ウォーゼンフィールド男爵もレオポルドを悩ませる要因の一つであった。前男爵の一人娘であるエリーザベトと結婚することによってウォーゼンフィールド男爵家を相続したフェルゲンハイム家の庶子アルトゥールはレオポルドがサーザンエンドを離れて間もなく、男爵家の重臣六名を謀反の疑いで逮捕し、更に十数名の家臣を職務怠慢や横領の罪で追放したり、不届きや不心得があったとのことで蟄居を命じたのである。彼らはいずれも先のサーザンエンド辺境伯継承戦争ではレオポルドを擁したハヴィナ貴族寄りの姿勢を示していた保守派の家臣であった。
その後釜にはウォーゼンフィールド男爵を辺境伯の勢力圏から独立させようと画策して保守派と対立し、継承戦争後は失脚していた独立派と呼ばれる立場の家臣たちが復権を果たしたのである。
また、アルトゥールはエリーザベトとの新婚間もないにも関わらず、宮廷に仕える様々な女性に手を出し、その中にはエリーザベト付やその母親である前男爵夫人付の女官や侍女も含まれ、挙句の果てには女中や下女、洗濯女にまでちょっかいを出しているらしい。
一回り以上年上の旦那の悪行に手を焼いたエリーザベトは同年代で高貴な家柄の出身であるリーゼロッテに度々それらの行いについて長々と綴った手紙を寄越し、人間関係の彼是といった面倒を嫌うリーゼロッテは女官長のランゼンボルン男爵夫人に返事を代筆させ、レオポルドにもその概要を知らせてきたのだった。
エリーザベトは、アルトゥールとエリーザベトの婚儀に出席した男爵夫人が何者かに夜這いされかけた事件も、犯人はアルトゥールその人だったのではないかとの予想も付け加えていた。
そういえば、これまでもレッケンバルム卿やライテンベルガー卿といったハヴィナ貴族もアルトゥールにはあまり好印象を抱いていなかった様子をレオポルドは思い出す。彼の素行の悪さは結婚後に始まったものではないのかもしれない。
これ以上にレオポルドを暗い気分にさせたのは、秋頃からハヴィナとその近郊で蔓延し始めた流行り病であった。
夏の終わり頃から高熱を発症し、激しい咳や頭痛を訴える者が増え始め、罹患した者はこれまでのところ、五〇〇人を超えるという。
健康な成人であれば薬を飲んで一週間も安静にすれば回復するものの、健康状態の悪い者や老人、子供では重症化し、意識の混濁や呼吸困難に陥ることもあり、この二月の間に五〇名もの死者を出しているという。
しかも、この流行り病は城下のみならず、ハヴィナ城内においても罹患者や死者が出ているのだ。犠牲者にはハヴィナ貴族の長老格で、レオポルドにも当初より協力的であり、彼がムールド伯に叙任され、統治機構を組織した際に総監に就任し、現在は家督を子息に譲って引退していたヨハン・シュレーダー卿も含まれていた。
レオポルドは子息のゲハルト・シュレーダー卿の弔意を示す手紙を送ると共に、ライテンベルガー侍従長を弔問に向かわせた。
同時にこれ以上の流行を抑えるべく患者を隔離して、適切な処置を行い、特に老人や子供の体調に気を配るよう指示した。
そのような事情もあり、レオポルドはラミタの和約が皇帝の承認を得たという知らせを受けた翌日にはフューラー国境に布陣していたサーザンエンド軍及びアーウェン軍に陣を引き払うよう命じた。自身も直ちにラミタを出る支度にとりかかり、同じくラミタを去る外交使節団やレウォント方伯の重臣らに別れを告げ、彼方此方に手紙を出す。
一二月に入るとレオポルドはラミタを後にして軍勢と合流し、春頃に歩いた道を今度は逆向きに歩いて、まずはアーウェンへと向かった。
「結局、俺たちは一体何しにこんな遠くまで歩いてきたんだろうな」
あるムールド人軽騎兵が口にした疑問は当然と言えよう。
戦争の情勢や和平交渉の状況などは士官以上にしか知らされるものではない為、多くの兵は何月もかけて敵と向かい合う前線まで歩いてきたと思ったら、敵兵の姿を見ることもなく陣地に半年近くも引きこもり、結局一発の銃弾も撃つことなく元来た道を戻るという状況なのである。一体何の為に来たんだという疑問を抱くは無理からぬことであろう。
「辺境伯様やらが何かしら交渉して戦争は止めになったんだろう」
「じゃあ、ここまで来たのは徒労じゃあないか。一年も家を空ける羽目になって堪ったもんじゃねぇ」
「戦場で殺されたりケガをしたり、敵を殺したりしないで済んだんだから、いいことじゃあねえか」
「まぁ、そりゃあそうだな。大した額じゃねえが給金も貰ってることだしな」
同僚の言葉に男は納得したようであった。
結局、一般の兵にとっては戦争を始めたり止めたりする理由など知ったところでどうすることもできず、上官の命令のままに動くより他ないのだ。何かしらの理由によって戦場に立つ前に戦争が終わるとなれば、彼らにとってこれほど良いこともなかろう。
サーザンエンドへの年内到着は不可能であった為、レオポルドとその軍勢はアーウェンはヴィエルスカ侯領の都市ポズスクで年越しを行うこととなった。
アーウェンでも最も富裕な大貴族であるヴィエルスカ侯はレオポルドやサーザンエンド軍の上級士官たちを自らの居館であるジェンベルフ宮殿に招いて歓待した他、七〇〇〇人以上の将兵にも宿舎を用意し、更に糧食として羊三〇〇頭、豚三〇〇頭、鹿二〇〇頭、牛一〇〇頭、鶏五〇〇羽、一人五パイント飲めるだけの量の葡萄酒、大量のチーズなどを提供した。
ヴィエルスカ侯はジェンベルフ宮殿大広間での盛大な饗宴の後、レオポルドを個室に招き、特別上等な葡萄酒を振る舞った。
「此度は大変な厚遇を賜り感謝申し上げます」
「この度の戦争では色々とご苦労されたでしょうからな。戦場から帰ってきた戦士を労うのは当然のことです」
レオポルドが礼を述べると侯はにこやかな笑みを浮かべながら彼の杯に葡萄酒を注ぎ入れた。
「特に和平交渉では大変ご尽力されたとか。此度の和平は最大の功労者は閣下であるという話はアーウェンにまで聞こえておりますぞ」
「いやいや、私は和平交渉の仲介をしただけですから」
レオポルドは苦笑いを浮かべて謙遜してから杯に口を付けながら、個室に呼ばれた意味を考えていた。表向きの理由としては特別上等な葡萄酒を飲まないかと誘われて来たのだが、それだけのことで個室に二人だけになる必要などあるまい。
暫しラミタの和約の内容やその交渉過程について話しながら、それぞれ葡萄酒を三杯ほど飲み干した後、ヴィエルスカ侯が髭を撫でつけながら訪ねた。
「ところで、シルヴィカはどうしておりますかな。ご迷惑をおかけしておらんでしょうな」
侯の末娘であるシルヴィカは留学という名目で昨年春頃からレオポルドの許に滞在しており、レオポルドの帝都行きにも同道した後、現在もハヴィナ城で生活している。
表向きの理由は留学であるが、実態としてはレオポルドとヴィエルスカ侯の協調体制を保証する人質のような立場であった。
もっとも大変な本の虫であるシルヴィカは自身の立場をあまり気にしている様子はなく、ハヴィナ城の蔵書や帝都図書館の本などを読むことができる環境に大きな喜びを感じているようらしい。レオポルドの許にも本の感想を綴った長文の手紙が月に数通ほど届き、彼はそれに自分の感想や次に読んだ方が良い本などを書いた返事を送っていた。
「シルヴィカ嬢は大変勉強熱心な方で、この一年で読んだ本はおそらく一〇〇冊以上になるでしょう。教師も大変聡明で記憶力に優れていると評価しておりました」
「わしの許に届くシルヴィカの手紙にも毎日多くの本を自由に読むことが許され、とても満足していると書かれておりました。とても良くして頂いておるようで父親としてありがたく思っておりますぞ」
ヴィエルスカ侯の表情は娘を想う年老いた父親のようであったが、レオポルドは目の前に座る老獪な大貴族が厄介なことを言い出すのではないかと密かに警戒感を抱いていた。
風聞によれば、侯はレオポルドとの結びつきを強める為、娘を好色と噂されているらしい彼の愛人にしようと目論んでいるらしいのだ。
帝国の法における正妻であるリーゼロッテの他、キスカとアイラというムールド人の妻を二人抱えているレオポルドとしては好色との声に強く反論することもできないし、自分が清廉潔白で禁欲的であるとも思ってはいないが、見境なく魅力的な女性に手出ししているように思われるのは些か心外であった。
彼が迎えた三人の妻との結婚はいずれも極めて政治的な理由を伴うものである。
ムールドの有力者の娘であるキスカやアイラを妻に迎えることによって彼はムールド諸部族と強い結びつきを得て、彼らの支持によってサーザンエンド辺境伯の地位を得ることができたのだ。
また、レウォント方伯家の姫であるリーゼロッテとの結婚は一介の帝国騎士という貴族としては下級の出自である彼の家格を上昇させ、他の帝国諸侯やサーザンエンド貴族に対して有利な地位を固めることができた。
もっとも、三人の妻はいずれも美女であったから、政治的理由を別としても男として結婚は歓迎すべきことであったことは否定し難い。
「ところで、ムールドでは四人まで妻を迎えることが許されているらしいですな」
ヴィエルスカ侯の言葉にレオポルドは渋い表情を浮かべる。
やはり、この話らしい。
「シルヴィカを四人目に迎えるというのは如何ですかな」