二二三
帝歴一四四年一一月も終わる頃、ラミタの和約或いはラミタ講和条約と呼ばれ、正式には「神の恩寵による諸国民の神聖なる皇帝とカロン、フューラー及びアクセンブリナ国王及びそれぞれの同盟者の間の平和条約」という仰々しく長い名前に相応しく羊皮紙数十枚数万文字にも及ぶ条約は無事調印の運びとなった。
突如としてフューラーが独立を宣言するという思いもよらぬ開戦によって、レオポルドは度々危険な状況に立たされ、レイクフューラー辺境伯に裏切られた気持ちもあったが、その後の展開は彼にとって大変都合よく進んだ。
フューラー国境までの従軍はアーウェンへの影響力を誇示する絶好の機会となり、和平交渉では仲介役として実質的に和平の調停を担い、見事にそれを成し遂げ、自らの存在感を示すとともに帝国とカロン・フューラーに発言力を確保し、両国に新たな人脈を構築することもできた。教会にもフューラー領内の教会領の保持に力を貸すという恩を売り、イスカンリアにベルセロという拠点まで得たのである。
この戦争の勝者は独立を勝ち得たカロン・フューラー・アクセンブリナの三王国なのは疑いないが、レオポルドはその次に得をしたと言っても過言ではなかろう。
しかも、この戦争で失ったものはフューラー国境までの軍費くらいであるから、彼だけが大した損をすることなく、利益だけを手にしているのである。
陰謀論にかぶれた後世の歴史家気取りの輩ならば、レオポルドが戦争の黒幕などと言い出すかもしれない。
無論、彼が戦争を裏で操ったということはないし、先行きを完全に予想できていたわけでもない。
ただ、彼は比較的安全かつ自由に動ける立場にあって、帝国とフューラーの双方に十分な人脈があり、その時その場で自分にとって最も安全で利益のある最適と思しき手段を選択することが許され、その上で彼是と奔走し、尽力した結果なのである。
和平の成立にしても、独立という目的を実質的に達したカロン・フューラー・アクセンブリナ三王国、現状の帝国には長期継戦能力が不足していると考える和平派の帝国貴族、この戦争に何らの利害も意義も感じておらず従軍を渋る面従腹背甚だしい帝国諸侯、フューラー領内の教会領を可能な限り保持したい教会など関係する多くの人々が和平を望んでおり、和平の機運は十分に醸成されていたのである。国力の限りを尽くすまで戦い続けるような戦争はこの時代ではあまり例がなく、また、誰も望んでいなかったのである。
レオポルドは彼方此方から寄せられる情報から、利害関係者たちの意思を上手く汲み取ることが可能で、上手く利害を調整してやっただけとも言えるだろう。
とにかく、レオポルドがその働きの割には大いに得をしていることは間違いない。
その上、和平の樹立に大きく貢献したとして、彼には皇帝からレミュー金貨一〇〇枚が下賜され、同様の理由で総大司教からも金貨五〇枚、和平を望んでいたマドラス公、ネイガーエンド公、アーヌプリン公といった諸侯からも合わせて金貨五〇枚が礼金として寄せられた。
レイクフューラー辺境伯からはレオポルドが彼女に負っている債務のうち五〇万セリンを謝礼代わりに放棄するとの連絡があった。レミュー金貨にすれば一万枚に相当する金額であるから、彼女の方が皇帝よりも大分太っ腹と言えるだろう。
もっとも、レオポルドが彼女に負っている借金の総額は未だ四〇〇〇万セリンにもおよぶ為、五〇万セリンの債権放棄は年間の利子分にもならぬ微々たる金額である。
ところで、両者間の金銭貸借契約は戦争があったにも関わらず、その有効性は些かも損なわれていない。
そもそも、契約というものは原則として契約中に取り決められた無効や解除の条件を満たすか両者の合意がなければ無効とはならないものである。契約の拘束力というものは極めて重く、この頃は著しく社会的妥当性・合理性を逸する契約であったとしても、両者が合意したものであればそれは有効と見做される。故に借金の担保として、妻女を娼館に売り飛ばすとか、債務者を強制的に牢獄や鉱山、ガレー船などで過酷な労働に従事させるなどといった残酷極まることが度々発生していたのである。
この契約を両者間の合意なく無効化するとなれば、何らかの公権力を頼る他ない。
君主や領主、様々な議会、裁判所などといった権力機構は様々な理由で契約の無効を宣言することがあり、全ての債権を破棄するとか、何年以内の土地の売買は全て無効とし、元の所有者に返還せよとか、担保として質流れした土地を元の所有者に返還しろといった命令や法令を出すことがあったのである。
この場合、権力者に一定額(例えば、債務の一割等)を納めれば、債務を帳消しにするということが多く、或いは一定額を納めれば、債務帳消しの対象にしないなどといったことも少なくなかった。
言うまでもなく、そのような措置は社会に大きな混乱を齎し、経済活動を停滞させ、却って君臣の生活を圧迫することが多く、濫用は強く戒められ、まともな施政者ならば断じて行わないと言えるだろう。
そういったわけで、レオポルドのレイクフューラー辺境伯に対する債務は、契約における無効や解除の条件を満たしていないし、両者間で契約を無効とする合意もなかったので、未だ有効性を失っていなかった。
また、彼は皇帝や帝国議会、高等法院に契約の無効を宣言してもらうつもりもなかった。
というのも、そのような要請には面倒な根回しや手続きが必要となるし、便宜を図ってもらう為には少なからぬ費用も必要となるだろう。
その結果、債務の帳消しが認められたとして、それをレイクフューラー辺境伯が甘んじて受け入れるとは思えず、彼女が戦争によって滅ぼされなければ、両者間の関係は極めて悪化し、今回のように和平交渉の仲介役をレオポルドが担うことは不可能となっていただろう。
或いはレイクフューラー辺境伯が戦争に敗北し、滅ぼされたすれば、彼女との間の金銭賃貸契約は正当な相続者がいなければ、自ずと消滅したであろう。
しかも、この契約はレオポルドに対する援助という意味合いの強いものであったから、返済期日に定めはなく、利子は極めて低く抑えられていた為、レオポルドとしては無理に契約の無効化を申し立てる必要に乏しかったのである。
結果として多額の債務は残され、引き続き返済に努めなければならないが、レイクフューラー辺境伯との関係が続くことは決して悪いことではなかろう。
お互いの主君、属する国が異なることとなったとはいえ、そんなことは大して重要ではない。この時代は未だ国家という概念は未発達であり、特に帝国の諸侯や領主は独立性が高く、神聖帝国への帰属意識は希薄である。帝国本土から離れた辺境の諸侯や領主ともなれば皇帝による庇護や援助も希薄である為、尚更というものであろう。
故に自己の利益になるならば主君を裏切ることも、二君に仕えることも、外国と結ぶことすら珍しいことではなく、レオポルドが外国勢力となったレイクフューラー辺境伯との繋がりを保とうという意識もそれほど不自然なものではないのである。
とにもかくにも、レオポルドは和平交渉が想定以上に時間がかかったこと以外は概ね満足していた。
とはいえ、ここで気を抜くわけにはいかない。講和条約には両全権が調印したものの、これで全ての仕事が終わったわけではないのである。後始末を疎かにしてせっかく得た成果を台無しにしてしまっては元も子もない。
レオポルドは講和条約が皇帝及び帝国議会、カロン・フューラー・アクセンブリナ三国国王とその議会における承認や合意を得て、無事に批准されるよう両国政府の関係者各位に手紙を送って、それらの手続きが滞りなく行われるよう協力を求めた。
言うまでもなく、両全権は外交交渉における全権を委任されており、尚且つ本国と密接に連絡を取り合いながら交渉を行い、条文を作成したわけであるから、その成果物である条約に本国が不合意を示すなどということは、基本的にはあり得ないことである。
しかしながら、予期せぬ事態の急変や権力者や有力者の心変わりなどで政治的決断が撤回されたり変更されたりすることは全くないとは言い切ることなどできず、正式に批准が成るまでは油断ならないのだ。
万が一にも、そのような事態が起これば、レオポルドのこれまでの努力と成果は台無しになってしまう。そうならないよう根回しをしておくのは当然というものであろう。
また、そのような根回しと合わせて、両国の首席全権や随員たちを招いた和平樹立を記念した祝宴を催した。帝国やカロン・フューラーでは物珍しい南部風の料理や酒でもてなし、和平樹立に対する協力と働きに感謝を述べて回り、ムールド特有の文様を刺繍した毛織物や絨毯、毛皮、鷹、翡翠細工、南洋諸島から取り寄せた香辛料、アーウェンのヴィエルスカ侯から貰った葡萄酒や蜂蜜酒などの贈答品を用意した。
両国の有力者でもある全権使節らとの良好な関係を維持し、今後に活かそうという思惑があることは言うまでもない。決して安くない出費だが、今後の付き合いを考えれば疎かにできるものではなかろう。
「此度の和平は辺境伯の尽力あってのもの。改めて感謝申し上げる」
葡萄酒で顔を赤くした帝国側首席全権使節にして枢密院副議長であるオットベルク伯がレオポルドの肩を叩きながら陽気に言い、隣に立つアルス枢機卿も深く頷く。
「辺境伯には色々とご面倒をおかけしたが、最善を尽くして頂き、大変助かりました。何よりもこれ以上の流血が避けられたことは大変幸いであります。主もお喜びでございましょう」
「主と皇帝陛下の御心に叶いましたならば、私としても身に余る光栄であります」
レオポルドは謙遜して頭を垂れる。和平の為に人一倍努力した自負はあるが、そのことをわざわざひけらかすほど厚顔無恥ではないのだ。
「しかし、陛下の宮廷は和平を快く歓迎する者ばかりではない。無論、今の帝国にとってこれ以上の戦争を継続することは有益ではなく、故に陛下も和平を選択なされたのだが、現状を理解せず、帝国の東部辺境領土の大部分を喪失したことを受け入れられぬ者も少なくないのだ」
オットベルク伯の言葉にレオポルドは渋い顔で頷く。
「講和条約の批准は、まず、疑いないところではあるが、果たして数年後或いは十数年後にどのような状況になっておるか。なかなか見通せぬな」
伯は将来的に帝国と三国連合が再び戦争に及ぶことを危惧しているらしい。その時に帝国の国力や体制が向上し、戦勝を得ることができるか不安なのだろう。それ程までに帝国における皇帝の威信の低下、統治体制の脆弱化は著しいのである。
「此度の和平により独立した三国、つまり、これまでの帝国東部辺境地域は帝国がこれまで重視せず、放任してきた地域です。故にこの地域の独立は帝国にとってそれほど大きな打撃にはなりますまい。無論、陛下の威信が大いに傷付けられ、帝国軍に大きな損害があったことは否定できませんが、いずれ回復できる得るかと思われます。その為には皇帝陛下の権力基盤の強化と帝国の統治機構の改革は不可避でありましょう」
レオポルドはその後に続けようとした言葉を飲み込む。それ以上言葉を続けると厄介なことになると考えた為である。
帝国が抱える問題は先の述べた皇帝の権力基盤と統治機構だけではないと彼は考えていた。
神聖帝国は西方教会の信仰を守り、異教徒を改宗或いは討伐することを国制として掲げ、建国以来長年に渡ってほぼ継続的に異教の地であった東部や南部に侵攻、征服し、異教徒を弾圧してきた。
これは有力な教会騎士団を母体とし、正教と教会の守護者を自負する神聖帝国の存在意義であり、領土を拡大してきた原動力でもあったが、それによって帝国は極めて広大な国土と様々な民族を抱えることとなった。それにも関わらず皇帝の権力基盤と統治機構は脆弱であったから、征服した辺境の地の統治や異民族の統制は甚だ不十分であった。それが今日の東部及び南部における帝国権力の不在とも言える状況を招き、面従腹背を余儀なくされた異教徒や異民族は帝国への反感と憎悪を募らせ、帝国をより一層不安定化させる大きな要因となっていた。
また、征服戦争に従軍した帝国諸侯には恩賞として様々な特権が授与された為、彼らの領邦は半ば独立国家と化し、更に幼帝が数代続いたことも重なって、皇帝の権力基盤も著しく弱体化させることとなったのである。
今の皇帝ウルスラの祖父は、甥であるフューラー公を含む有力諸侯を討伐するなどして、皇帝権力の強化を試みたものの、それは十分ではなく、その死後は再び帝国諸侯や貴族が権力を取り戻し、皇帝権力は著しく弱体化していた。
つまり、帝国の宗教的な征服事業が皇帝の権力基盤や統治機構の弱体化を招き、深刻化させた大きな原因であり、今後も正教と教会の呪縛に囚われた国制を維持し、政治を行うことは全く有益ではないというのがレオポルドの考えであった。
しかし、これは教会の影響力が強い帝国宮廷では受け入れ難い意見であることも自覚していた。
「ともあれ、主の加護と祝福が陛下を守り給うことと存じます」
レオポルドの言葉にオットベルク伯とアルス枢機卿はそれが真実となることを疑っていないかのような顔で頷く。内心はどうであろうか。
権力基盤や統治機構の改革が為されず、古い教義に囚われたままの保守的な政治や慣習が続けられるならば、神聖帝国の未来はあまり明るいものとは思えまい。その凋落の道連れには誰もなりたくないだろう。
日付も変わる頃に祝宴は終わり、客人たちはそれぞれの宿所に帰るべく玄関へと向かい始めた頃、レオポルドはレウォント方伯の宮内長官ヴェルマー男爵に声をかけた。
「此度の和平会議において、方伯と男爵には失礼を承知で色々と無理を申し上げ、真に恐縮であった。また、様々なご配慮と援助を賜り、改めて感謝申し上げる」
「いやはや、全ては和平の為であったことは存じております。此度の崇高な平和の一助となれたことは甚だ名誉であると方伯も思っております」
男爵は恐縮した様子で落ち着かなさげに額の汗を拭った。
レオポルドは暫く和平会議における方伯と男爵の努力を称賛したり、風光明媚なラミタの地や海産物について褒め上げた後、客人の多くが退出した頃を見計らって声を落とした。
「ところで、話は変わるのだが、男爵はレウォント商人との付き合いが深いそうだな」
レウォントに数月も滞在していれば、レウォントの有力者の人柄や関係性について彼是と耳に入るのだが、中でもレオポルドの関心を惹いたのはヴェルマー男爵の庶弟がレウォントの有力な商人の婿となっており、その経営に携わっているということであった。
「まぁ、確かに付き合いのある商人は少なくありませんが」
男爵は話の筋が見えないようで困惑した様子を見せる。
「我が領土には南洋貿易を担う会社があり、交易は軌道に乗りつつある。それに伴い、商船隊の強化や販路の拡大を行いたいと考えているのだが、相応しい出資者や取引相手があれば是非とも紹介頂きたいのだが如何かな」
レオポルドが南洋貿易を行わせる為に立ち上げた南洋貿易会社は、既に幾度か南洋諸島へと商船隊を送り込み、南洋の物産を買い付けているのだが、その販路は帝都に限られていた。
販路や取引相手が限られることが営業上宜しくないことは言うまでもない。相手側の都合で商品の値段や量が大きく左右されてしまう。販路や取引相手を増やせば、商品の値付けなどに係る交渉力を強めることができるし、万が一、何らかの要因により帝都へ輸出することができなくなっても、損害を抑制することができるだろう。
そのようなわけで、レオポルドが新たな販路として目を付けたのが東であった。独立したカロンやフューラーが今後発展すれば南洋の物産、主に砂糖や香辛料、珈琲などの需要は増すであろう。或いは更に東方の大陸へと輸出することもできるかもしれない。
レイクフューラー辺境伯の影響下にあるフューラー商人を取引相手としても良いのだが、南洋貿易会社の拠点であるラジアからは遠すぎて些か不便であり、その間を輸送するのは骨が折れる。南洋貿易会社の商船隊はラジアと南洋諸島の間の交易を担うだけで精いっぱいである為、ラジアから消費地までの輸送は他の商人が担うこととなるのだ。フューラー商船が外国である南部沿岸を行き来すれば、帝国や東岸地方諸領主の妨害に遭う可能性が高い。
それを踏まえると、レウォントはカロン・フューラーや東方大陸に輸出するには極めて都合の良い地に位置しており、ラジアとの間の輸送も難なく担えるだろう。
レウォント商人にとっても需要の大きい南洋の物産を大量かつ安定的に買い付けることができれば、大きな利益となるだろう。無論、付き合いのある男爵にも役得はあろう。
「なるほど。お話はよく理解いたしました。後日、付き合いのある商人より連絡させましょう」
「宜しく頼む」
レオポルドと男爵は満足げに握手を交わす。
これもまた今回の和平で得た大きな利益となるだろう。