二一八
レオポルドがラミタで邸宅の改築に本格的に取り組みはじめた頃、帝都ではマドラス公とベルゲン伯が和平に向けて動き始めていた。
ヴィトワ川の戦いに敗れた皇帝の威信は大きく傷つけられ、少なくない戦力が失われ、多くの将兵が虜囚の身となり、戦費の負担は重く、帝国諸侯の戦意は著しく低く、早くも厭戦的な機運が広がりつつあり、特に義務的な従軍を強いられる帝国諸侯の多くや戦争による物価の上昇、経済の停滞を嫌う商人などは一日も早く和平を望んでいた。
マドラス公やベルゲン伯はそういった帝都の雰囲気を敏感に察知しており、和平交渉を始める余地は十分にあると考えていたのである。
両人は手始めにネイガーエンド公、アーヌプリン公、ロンドバーク侯らに呼び掛けて和平への賛意を取り付ける。少なくない諸侯が和平派に与しているとなれば、皇帝は勿論のこと、その宮廷の重臣や他の諸侯、貴族たちも和平を求める声を無視することはできず、そのような主張や運動をする者を安易に弾劾することもできなくなるだろう。
まず、ベルゲン伯が皇帝側近に和平交渉を検討すべきではないか。和平交渉を実施するならば、適切な場所と仲介役を紹介する用意がある旨を伝える。
同じ頃、マドラス公は総大司教の側近と接触し、このまま戦争が続けば、カロン・フューラー及びフェリス・ラクリア両地方、更に戦場となっているリンデリウム在する西方教会の信徒や教会、修道院に危害が及ぶ可能性があり、早急に主の名の下に平和を取り戻すべきではないか。このまま教会が戦争を座視し、平和に向けた取り組みを何も行わなければ、昨今力を増しつつある教会組織に批判的な異端的な思想が平和を求める人々に受け入れられる素養を作りかねないと指摘した。
皇帝や総大司教の側近はこれらの助言や指摘をそれぞれ持ち帰って、同僚たちと彼是と話し合い、数日もすると皇帝や総大司教の耳にも和平という言葉が入るようになった。
マドラス公とベルゲン伯は更に手を打つ。両人の家来は贔屓としている御用商人を通じて、帝都の都市参事会の有力な会員と接触。参事会員は影響下にある商人・職人組合に指示を与え、組合は零細な商人や職人、徒弟を扇動する。彼らは戦争に伴う食料価格の値上げに抗議して大声を上げながら市街を練り歩き、途中で賛同する市民を合わせるとその人数は一〇〇〇人以上に及んだ。
参事会はこの騒動をすぐに抑えることはせずに傍観し、帝都総督から騒動を止めさせろという指示があって、ようやく市民を解散させた。騒動自体はそれほど長い時間に及んだものではなく、これといった被害もなかったものの、お膝元での騒動ということで、皇帝の耳にも入ることとなった。
その報告を受けた際、マドラス公と親しい侍従はこう言い添えた。
「此度の戦争により麦の価格は昨年の同時期と比べ三倍に跳ね上がっていると聞いております。生活の苦しい市民は陛下のご慈悲により救われることを願って声を上げたのでしょう。これ以上に事態が悪化すれば、更に過激な行動に出る不届き者が出るとも限りませぬ」
実際、戦争の為に帝国軍は全国的に糧秣を半ば強制的に買い上げており、麦の供給は著しく縮小していた。その影響は特に食料を大量に消費する帝都に大きく、市民の間では食料価格の値上げに対する悲鳴と怨嗟の声が満ち満ちていた。
女帝ウルスラは帝都の備蓄食料の一部を放出し、貧民に給付するよう指示し、飢餓寸前まで追い込まれていた貧民たちはどうにか一息吐くことができた。
しかしながら、これは一時的な対処策に過ぎないことは言うまでもない。戦争が続く限り、大量の糧秣が必要となる状況は変わらず、実際、食料価格は高止まりを続け、下落する気配すらなかったのである。
そこで、小麦商やパン屋の組合に対し、価格を下げるよう命令が下されたのだが、彼らとて仕入れ値の上昇に伴って値上げせざるを得ない者が多数であり、仕入れ値やそれに伴う諸々の経費よりも安い価格で麦やパンを売ることなどできようはずもない。
結果として、商品を販売することができない店が続出し、帝都の食料不足に拍車をかけるという本末転倒な事態となり、パンを求める市民がパン屋や小麦商の店を襲撃したり、教会や重臣の屋敷に集団で押しかけて陳情するなどの騒動が度々生じるようになった。
食料価格の高騰と不足は帝国にとって極めて重大な問題となったのである。
その上、この頃、帝国は北海でも敗北を喫していた。
帝国海軍は北部、東部、内海の三艦隊によって構成されていたが、そのうち大陸東岸のフューラー地方を基地としていた東部艦隊はレイクフューラー辺境伯の調略を受けて、ほぼ全艦艇の艦長以下多くの士官がカロン・フューラー軍に参加し、数少ない帝国に忠誠を誓った艦長や士官は捕虜とされていた。つまり、東部艦隊が丸ごとカロン・フューラー軍に寝返ってしまったのである。
東部艦隊は東方大陸の異教諸国の侵攻に備える為、艦艇は最も多く、乗り組む将兵も精強とされており、この艦隊を失ったことは帝国海軍にとって大打撃であったことは言うまでもない。帝国海軍は戦力の半数を失ったと言う者も少なくなかった。
この為、帝国海軍はフューラー地方やカロン島に攻撃を仕掛けるような余裕などなく、戦列艦二四隻、フリゲート八隻から成る北部艦隊がアクセンブリナ沖に展開し、カロン・フューラー艦隊の西進を妨げるのが精いっぱいといった状況であった。
一方、元帝国海軍提督であるロッセルメーデ提督率いるカロン・フューラー艦隊は戦列艦三三隻、フリゲート九隻の陣容で、フューラーを進発して北上し、大陸北東に突き出たアクセンブリナ半島に沿って西進を図った。その目的はアクセンブリナ沖に展開する帝国海軍北部艦隊を撃滅或いは追い払い、北海における制海権を握ることである。
北海の制海権を握ることができれば、カロン・フューラー軍は帝国北岸における帝国軍の軍事行動を監視し、沿岸輸送や漁業を妨害したり、北海沖に浮かぶ島国グリフィニア王国との交易を遮断することも可能となるのだ。
戦力において圧倒的に劣る帝国海軍北部艦隊は接触を避け、西方向に後退を試みたものの、ロッセルメーデ提督の迅速にして緻密な行動によって捕捉され、アクセンブリナ北西にあるロアン岬の沖合で海戦を余儀なくされた。
このロアン岬の海戦で、帝国海軍は撃沈または鹵獲により九隻の戦列艦と二隻のフリゲートを失って敗退し、カロン・フューラー艦隊は二隻の戦列艦が炎上または沈没により失われ、五隻の戦列艦が大破、一隻のフリゲートが大破する損害を受けた。
ただでさえ少ない戦力の半分近くを喪失した帝国海軍北部艦隊は軍港に引きこもるより他なく、以後、北海はカロン・フューラー艦隊の庭と化し、その行動を遮るものはいなくなってしまった。
これによりグリフィニア王国からの輸入品や北海で産する塩漬け魚などの価格が急激に高騰することなった。北海産の塩漬け魚は聖人の祝日及びその前後など、肉食を避けるべき日に食べられる食材であったことから、西方教会信徒である多くの帝国国民の食卓に小麦価格の高騰と重なって更なる打撃となったのであった。
ヴィトワ川の大敗、更にロアン岬の海戦の敗北によって厭戦気分が漂っていた帝国宮廷では食料価格の高騰や品不足、食料を求める市民の騒動の影響もあって、和平を主張する貴族は日増しに多くなり、積極的に戦争の継続を支持する者は少数となりつつあった。
そこまで和平を求める気運が高まったところで、ようやくマドラス公は直接皇帝に対して、カロンの女王やフューラーの反乱諸侯が和平を求めてきたならば条件によっては、これに応じても宜しいのではないかという意見を上奏する。
宮廷の内外に広がる和平を求める声は皇帝の耳にも入っており、諸侯の大半が和平を支持していることは明白であり、皇帝側近の中でも和平交渉を始めるべきであるという意見が強まりつつある。
女帝ウルスラは戦意の低い諸侯の不忠と怠慢に嘆き、苛立ちながら、渋々と和平を検討するよう側近に指示した。
これを知ったベルゲン伯は直ちにレオポルド宛てに手紙を書き、レオポルドはカロン・フューラー軍に帯同させているハルトマン少佐に帝国が和平を検討している旨を伝達するよう指示し、少佐は連絡役となっている女王副官マシュリー・ピガート大尉に和平の件について話し、彼女は女王キスレーヌにそれを伝え、キスレーヌは側近やレイクフューラー辺境伯と相談といった伝言に次ぐ伝言を経た数日後、ピガート大尉はハルトマン少佐の部屋に入って来て、一通の封書を放り投げてから言い放った。
「レイクフューラー辺境伯からそっちの辺境伯閣下へのお手紙だとさ。上手くいけば、今年中に戦争は終わるだろうね」
「上手くいくかね」
ハルトマン少佐の問いに彼女は眉間に皺を寄せて呟く。
「戦争は始めるのは簡単だけど、終わらせるのは難しいからね。まぁ、主の御心のままにってね」
さて、そのレイクフューラー辺境伯からの手紙は速やかに急送され、それを読んだレオポルドは直ちにベルゲン伯へ手紙を書いた。その内容は簡潔に言えば次の通り。
カロン・フューラー側は和平を望んでおり、環境が整えば交渉する用意がある。この和平が成立しなかった場合、カロン・フューラー軍は増援を得て、リンデリウム中部へ更に侵攻する可能性がある。交渉の場所についてはレオポルドとレウォント方伯が共同で用意する準備がある。といったものであった。
レオポルドからの手紙を受け取ったベルゲン伯はマドラス公らと相談の上、皇帝にカロン・フューラー側が和平を望んでおり、交渉を申し入れていると報告した。
相手からの和平の求めに皇帝が応じる形としたのは、帝国が和平交渉に参画しやすいようにする為の配慮であることは言うまでもない。
その後、レオポルドは更に何通かの手紙を帝都やレイクフューラー辺境伯とやりとりして、和平交渉に向けた環境整備が重ねられた。その結果、和平会議の場をレウォント方伯領の港町ラミタとすること。速やかに双方の外交使節が派遣されること。レオポルドとレウォント方伯が和平を仲介し、外交使節の安全を保証することなどが取り決められた。
それらが全て取り決められたところで、ようやくレオポルドはレウォント方伯にラミタで和平会議が行われることを報告し、ラミタ市内及び周辺地域に警備の部隊を展開させるかサーザンエンド軍が展開することを認めること。外交使節の移動を担う馬車、御者、馬丁、会場や使節団の宿舎の掃除人、それに宴席の料理を作る料理人や給仕らの人員を派遣し、宴席で供される上等な食材や酒を手配するよう要望する手紙を送りつけた。
報告や要望を事後に行ったのは言うまでもなく意図してのことである。
帝国とカロン・フューラーの高官が集まる和平会議では前述した如く多くの人員や物資が必要となるが、これを会議の開催までに用意するとなれば、遠方から出陣しているレオポルドでは非常に困難であり、レウォント方伯以外に可能な者はいないのだ。
となれば、本来ならば事前に協力を求めるべきであるが、優柔不断で動きが鈍く、何事にも極めて消極的な性質である方伯の快い賛同が期待できず、それどころか明確な回答すら得られない可能性もあった。
というわけで、レオポルドは極めて乱暴な手段に出たのである。全てが決まってしまった後で、しかも、自領で行われるとなれば方伯に拒否などできまいとの思惑である。
手紙を受け取った方伯は慌てて宮内長官のハンス・アルベール・ヴェルマー男爵を送ってきた。それでも自分は動かず家来に行かせるところが、方伯の性格を物語っていると言えよう。
「辺境伯閣下っ。これは一体如何なることでありますかっ。我が主の同意もなく、かような重大事を勝手に取り決めてしまうとは、極めて遺憾であります」
ヴェルマー男爵はレオポルドよりも一回り程年上に見える小太りの男で、時候の挨拶もそこそこに抗議の声を上げた。
「此度の和平会議は帝国どころかこの大陸全てに平和を齎す極めて重要なものである。その準備は些か危急を要した為、方伯への知らせが遅れたことは誠に残念であった」
レオポルドは平然と答える。方伯側が抗議してくることくらいは予想の範疇であり、少しばかり形ばかりの言い訳を述べれば事は済むと理解しているのだ。
「しかしながら、此度の働きは歴史にも残る名誉なるものであり、いとも寛容なる皇帝陛下も大陸の平和と諸国民の安寧をお望みであろう。無事和平が成れば、それは皇帝陛下の望みに叶うことでもあり、忠義の働きというものである。万事滞りなく宜しく努められよ」
皇帝の望みに叶う名誉ある働きを拒むとなれば、それ相応の理由或いは言い訳とそれ以上に勇気が必要となるだろう。方伯やその家来たちはそのようなものを持ち合わせていないとレオポルドは見ていた。
ヴェルマー男爵は不満げな様子で、何事かもごもごと呟いてはいたものの、レオポルドの耳に入るような言葉を発することはなく、結局、その要望を受け入れ、直ちに準備に取り掛かると答えたのだった。
つまり、それは和平会議に係る諸経費の大半を方伯が負担するという意味でもある。
こうして、レオポルドの暗躍とも言える働きによってラミタで和平会議が開催されることとなったのだった。