二一五
朝早くから始まったヴィトワ川東岸における戦いは正午を過ぎても終わる気配はなく、大砲は休みなく砲撃を続け、歩兵は銃撃を繰り返し、人馬が戦場を駆け回り、地に伏せる屍が増えていく。
相変わらず戦場の北側ではカロン・フューラー軍が優勢で帝国軍を西へ追い込み、フェリス人軽騎兵連隊を北西方向へ進出させて、帝国軍の北側面を脅かしていた。
中央では歩兵同士の一斉射撃の応酬が続き、砲兵がそれを支援している。カロンの高地歩兵の背後には胸甲騎兵とフューラー騎兵が待機しており、次の出番を待っていた。
南では北とは逆に帝国軍が倍以上の兵力でフューラー軍とカロン騎兵を追い詰め、フューラー軍は多大な甚大な損害を出していた。
カロン・フューラー軍の総司令官であるキスレーヌは危険を顧みずというよりも危険に対する関心がないと言うべきか鈍感と言うべきか、ともかく流れ弾や砲弾も飛んでくるような場所でも平然とした顔で中央の騎兵部隊の先頭に立って前線を睥睨し、自らの目で戦況を見つめていた。
一方の帝国軍総司令官代理のクロジア辺境伯は前線から三マイルも離れた後方の総司令部に留まっていた。この場所からでは前線の様子は肉眼ではほとんど知ることができず、戦況の把握を偵察に送った兵や前線から走ってくる伝令の報告に頼らざるを得ず、少なくない時間と労力を要していた。
この状況を危惧した近衛騎兵を率いるブレーリンゲン伯は総司令部の前線への移動を主張し、これに同意した辺境伯は自身の司令部及び近衛騎兵を南東方向へ移動させることとした。前方の真東ではなく、斜め右の南東へ移動したのは押されつつある左翼の戦線が破れて、総司令部に危険が及ぶことを恐れたのだが、これが致命的な結果を招くこととなった。
辺境伯は各軍の将軍に総司令部と近衛騎兵を前線に近い位置へ移動させるという伝令を送ってから移動を開始したが、下級士官や一兵卒はその意図をほとんど知ることができなかった。
帝国軍左翼からは総司令部が南方向へ後退しているように見え、そこで戦う将兵は自分たちが戦場に取り残され、孤立するような危機感を抱いたのである。
暫く前から押され続けている上、北側面に展開したフェリス人軽騎兵連隊からの奇襲に怯えていた彼らは指揮官の承諾も得ずにずるずると後退を始めてしまった。
カロン・フューラー軍右翼を指揮するレコンキニス公は帝国軍が後退を始めると見るや今が攻め時と判断し、前衛の第一及び第二フューラー外人傭兵連隊を突撃させ、第二陣のチェスター連隊及びコンコル連隊、フェリス人軽騎兵連隊には前衛を支援するよう命じた。
カロン・フューラー軍右翼の総攻撃を受けた帝国軍左翼は潰走状態に陥り、戦場の西の端へと追いやられていった。
報告を受けたキスレーヌは戦場の北側での勝利を確信し、レコンキニス公に帝国軍左翼を追撃して二度と戦場へ戻ってこないよう措置するとともに予備の兵力を前進させ、帝国軍中央歩兵の北側面に展開させるよう指示する。
レコンキニス公の手許にはレコンキニス連隊及び第三カロン歩兵連隊があり、この二個歩兵連隊は未だ戦闘に参加しておらず温存されていた。この新鮮な兵力が北から攻撃を加えれば戦場中央の戦況は大いに優勢となろう。
更に一時後退し、束の間の休息を得たフューラー騎兵にレコンキニス軍の更に西方向へ移動し、帝国軍歩兵の背後を脅かすよう命じた。
命令を受けたレコンキニス公は新鮮な二個歩兵連隊を率いて半マイルの距離を駆け足で移動し、帝国軍中央の北側面に南向きの戦列を形成した。少し遅れて右翼に配置されていた砲兵部隊もこの攻撃を支援すべく配置に着いた。その背後をフューラー騎兵が西へと移動していく。
この事態に気付いたクロジア辺境伯は慌てて最後の手駒である近衛騎兵を支援に向かわせ、フューラー騎兵が帝国軍歩兵の背後に回り込まないように措置した。これを放置すれば、帝国軍歩兵は三方を包囲され、壊滅は免れないだろう。それを防ぐには近衛騎兵にフューラー騎兵を追い払させるより他に手はない。
辺境伯に対応にも関わらず、帝国軍歩兵は見る間に劣勢に追い込まれていった。兵力では優勢でありながら緒戦の劣勢と精強と名高い教会騎士団の壊滅を目にして士気が落ち込んでいた帝国歩兵は北側面に展開した新手の敵勢に戸惑い狼狽した。直ちに一部の部隊を移動させ、北向きの戦列を形成して迎撃に当たらせたものの動揺と恐怖は風のように早く多くの将兵に伝播していく。
キスレーヌはこの好機を見逃さず高地歩兵に突撃を命じるともにカロン胸甲騎兵連隊を高地歩兵とレコンキニス軍の間に配置し、北東方向からも帝国軍歩兵へ突撃させた。
東側正面から高地歩兵、北東方向からカロン胸甲騎兵の突撃、更に北側からのレコンキニス軍の攻撃を受けた帝国歩兵の戦列は瞬く間に瓦解し、兵たちは各々勝手な方向へ敗走を始めた。
帝国軍の近衛騎兵は帝国歩兵の背後の回り込もうとしていたフューラー騎兵を阻み、北へと追い返すことには成功したものの、彼らだけで中央の戦線を維持することが不可能なのは明らかであった。
まず、第三カロン歩兵連隊が近衛騎兵に攻撃を加え、間もなく東から帝国軍歩兵を追い散らしながら前進してきた高地歩兵連隊も攻撃に加わった。カロン胸甲騎兵も帝国軍近衛騎兵を次の獲物としようと迫りつつある。
ブレーリンゲン伯は自軍の劣勢を悟り、部隊を南方向へ後退させることにした。
最早、帝国軍中央と左翼の戦線は崩壊し、兵たちは武器を捨て、我先にと西や南へと走り去っている。逃走を諦め、降伏する兵も多い。
戦意を失いながらも辛うじて戦場の北西の隅に留まっていた帝国中部諸領主の軍勢は総司令官の許可を得ないどころか報告すらせずに退却を始めている。
帝国軍に残された兵力は優勢であった南側の右翼に中央から南へと敗走したものの、再び戦場に立てる兵を合わせて歩兵二万余と五〇〇〇騎の騎兵だけであった。戦闘を開始する前の半分にも満たぬ兵力で、他方面における自軍の敗退を目にして戦意を士気は最低と言ったもいい程に落ち込んでいる。大砲は大半が失われ、弾薬も残り少なく、糧秣も一食分程度しか携行していない。
その上、カロン・フューラー軍は北側に戦列を形成して圧力を強めつつある他、南西方向にも兵を送り込んで、宿営地や物資の集積所、ルシタニア公軍がいる西側との連絡を絶とうとしている。
つまり、帝国軍本隊は敵地で三方を包囲されつつあるのだ。
ここに至り、クロジア辺境伯は自軍の敗北を認めざるを得なかった。カロン・フューラー軍も少なくない損害を被り、酷く疲労しているとはいえ、敵を打ち破り追い詰める側とそれに抗う側では士気や戦意、勢いに大きな差が生じる。今や勝機は限りなく少ない。
となれば、一刻も早く退却すべきである。実質的な総指揮官である辺境伯が虜囚の身となれば、戦闘に参加しなかった諸侯の軍勢をその場に止め、カロン・フューラー軍の更なる西進を阻むことができなくなる。
また、皇帝に指揮権を授けられた総司令官代理にして近衛長官ともあろう辺境伯が敵軍に捕らわれたとなれば、敗北によって損なわれた帝国と皇帝の威信をより一層傷付けることになろう。
そのような将軍たちの強い勧めにより、クロジア辺境伯はブレーリンゲン伯やノイエンベルク将軍らを伴い、カロン・フューラー軍の包囲を逃れ、近衛騎兵に守られて戦場を離脱した。
残された帝国軍を任されたのは右翼の指揮官であったキュスケル伯とボスコ将軍であった。二人は攻勢に晒される軍勢を南方向へ後退させて態勢を立て直し、なおも抗戦を続けるつもりであったが、その間も戦意を失った兵の逃走と投降は止まず、日が傾き始めた頃には兵力は一万を下回るほどに減じていた。
東北西の三方を包囲され、弾薬も尽き、手持ちの糧秣も水もほとんどなく、援軍もあまり期待できない状況でも戦い続ける程、彼らは愚かではなかった。
降伏の申し出をキスレーヌは快く受け入れ、二人の将軍や士官たちは勿論のこと、全ての将兵の身の安全を保証した。
カロン・フューラー軍が倍以上の兵力を誇る帝国軍を打ち破った要因はいくつかあろう。
まず、第一に帝国軍の半分以上を占める諸侯や諸領主は皇帝に忠誠を示すべく従軍はしていたものの戦意に乏しく、帝国軍全体の敗北よりも自らの手勢の損害を嫌い、消極的な役割しか果たさなかったことである。ルシタニア公、ネイガーエンド公、アーヌプリン公といった諸侯の軍勢およそ四万はフェルケン要塞への攻撃を除けば、結局一兵たりとも戦闘に参加しなかった。
次に、キスレーヌが秘密兵器である気球による観測によって帝国軍の配置や動きを正確に把握していたことである。戦闘の中盤以降は戦場が銃火器の白煙に包まれ、視界が限られて役に立たなくなったしまったものの、序盤においては敵軍の行動をいち早く察知し、それに対する対応を決し、常に先手を打ち、主導権を握ることに成功したのである。
また、意図的にかなり離れた場所に布陣して、敵軍を前衛と本隊に分断させたことも作戦の一つであった。敵地での戦闘であった帝国軍は伏兵や罠を恐れて、まず、前衛を前進させ、かなり間を空けてから増援を送り込んでいた。その為、序盤において帝国軍は数の有利を十分に生かせず、士気や練度の高いカロン・フューラー軍の反撃に多くの損害を被った。
勝敗を決した最大の要因としては帝国軍左翼が極めて脆弱であったことが言えよう。
帝国軍首脳はフェリス人軽騎兵の特性を理解せず、通常の騎兵のような働きを期待した為、半分以下の兵力しかなかったフューラー騎兵と正面からぶつかり合い、容易く打ち破られてしまったのである。
そうして、早々に騎兵を失った左翼前衛はフューラー騎兵に北側面から突き崩され、脆くも敗退してしまった。
その上、帝国軍左翼を構成したフェリス人軽騎兵と中部諸領主の軍勢はいずれも小部隊の寄せ集めで、統一した指揮官が不在であり、効率的な指揮系統が構築されていなかった。劣勢に陥るや否や、これを立て直そうとする者もなく、彼らは瞬く間に崩れて敗走してしまったのだ。
皇帝直属軍で構成された帝国軍中央と右翼は積極的に戦い、特に右翼ではフューラー軍を大いに押し込んだものの、早すぎる左翼の崩壊によって、帝国軍は北から順々に側面を脅かされていき、敗れ去ったのである。
敗軍の将となったクロジア辺境伯やブレーリンゲン伯、ノイエンベルク将軍ら帝国軍首脳は二万程の敗残兵とともにヴィトワ川の東岸に布陣していたルシタニア公軍に合流した。敗残兵の多くは緒戦で敗走したフェリス人軽騎兵や戦場から一足先に退却していた中部諸領主の軍勢である。
ルシタニア公ら帝国軍高官たちはその場に止まって軍勢を立て直して、カロン・フューラー軍を迎撃するつもりはないようであった。一敗地に塗れて戦意を失い、疲れ果て、負傷者も多く含まれる敗残兵はほとんど戦力にはならず、ルシタニア公軍一万のみでは三万以上の兵力のカロン・フューラー軍に対抗できないと考えられたのである。
彼らは一刻も早く敵軍から離れた安全な場所へ逃れるべく既に夜も更けた刻限であるにも関わらずヴィトワ川西岸への渡河を決行した。
明かりもない夜間に三万もの人員が大河を渡るなど危険極まりない行動ではあるが、カロン・フューラー軍の追撃或いは夜襲を恐れたのである。
ヴィトワ川には三つの舟橋が架けられていたものの、速やかに大量の人馬や物資を移動させることは大変困難であった。負傷者や疲労困憊した者など数百名程が不安定かつ幅の狭い舟橋から落水して、川の流れに抗えずに溺死し、これを見て渡河を拒んだ一〇〇〇人以上の兵員が、運びきれなかった数千頭の馬や牛、羊などの家畜、多くの糧秣、弾薬、天幕などとともにその場に残された。
犠牲を払いながらも日付を跨ぐ頃にようやく全軍が渡り終えると、舟橋は敵方に利用されることを防ぐ為に破壊された。
つまり、それは彼らが再びヴィトワ川を越えてフューラーに攻め入るつもりがないと表明したに等しい。
戦場から数マイル離れたフェルケン要塞を包囲していたネイガーエンド公、アーヌプリン公らの軍勢も帝国軍本隊を敗北を知ると兵を退き、翌朝にヴィトワ川を渡河してルシタニア公軍と合流した。
帝国軍は未だ合わせて六万程度の兵力を有していたものの、その大半は戦意の低い諸侯や領主たちの兵であり、彼らには積極的な攻勢に出るつもりなど欠片ほどもなかった。
大敗を喫したクロジア辺境伯や皇帝直属軍の将軍たちに発言力などあるはずもなく、彼らは諸侯や諸領主の低い戦意や不十分な働きを責めることもできず意気消沈し、沈黙するばかりであった。
諸侯はヴィトワ川を防御線としてカロン・フューラー軍の渡河を阻むという消極的な決定を行い、ヴィトワ川西岸に布陣した。
一方、カロン・フューラー軍は倍以上の敵軍を破るという大勝を収めたものの、損害は軽いものではなく、疲労した将兵も多かった為、早々と追撃を打ち切り、負傷者の収容と治療、捕虜の後送などに取り掛かった。
昨日までは自然豊かな青々とした草原だった一帯には夥しい数の人馬の屍と負傷者、手足や臓物など人体の一部だったもの、小銃や刀剣、砲弾、馬具、数多の木片や金属片が散らばり、墓場とゴミ捨て場を掘り返して辺り一面にぶちまけたような惨状であった。
半日以上の激戦による両軍の死傷者は合わせて二万人以上に及んだのである。
カロン・フューラー軍はおよそ五〇〇〇人以上の将兵を失い、そのうち半数以上は長時間に及ぶ攻勢に耐え続けた左翼のフューラー軍であった。
対する帝国軍の死傷者は一万五〇〇〇人。捕虜となった将兵は二万人程。
戦場で倒れ、置き去りにされた負傷兵はどうにかこうにかして安全な後方へと自力で戻るか。その場でいつか誰かが慈悲によって差し伸べてくれる助けを待つか。或いは主の導きによりてその御許へ参る他ない。
手足の一本や二本を永遠に失い、激痛に苦しみながら這い蹲る者、顔の下半分を抉り取られ、悲鳴どころか嗚咽すら漏らすことができない者、飛び出した腸を必死に腹の中に戻そうとする者、あまりの激痛から逃れようと早く楽になりたいと祈る者、痛みに苦しみながらも生きたいと願い意識を必死に保とうとする者、薄れゆく意識の中、家族や恋人など愛する人の名を譫言の様に繰り返す者、彼らの中で生きて故郷に帰られる者は一体何人いるだろうか。この世に生を受けて二十年余或いは十数年の末がこのような最期とは残酷極まりないとしか言う他あるまい。
「まるで地獄のようだな……」
レオポルドの指示によってカロン・フューラー軍に帯同し、ヴィトワ川の戦いではキスレーヌの司令部に間借りして戦況を観察していたフリードリヒ・ハルトマン少佐は茫然とした面持ちで思わず呟く。
いくらかの戦場を経験した彼も、これほどの大軍がぶつかり合い、大量の死傷者が出た戦いを見たのは初めてのことであった。
「主はいつまで斯様に残酷なことをお許しになるのか……」
その声の方へ視線を向けるとキスレーヌの副官マシュリー・ピガートが立っていた。その陰鬱そうな面持ちは歴戦の傭兵というよりも、まるで厳しい修行に耐える修道女のようであった。