二一〇
春も深まり、微かに初夏の気配が感じられるようになってきた頃、カロン・フューラー軍はエレスエーを発った。
その軍勢はカロン軍が一四個歩兵連隊及び五個騎兵連隊、大砲四〇門。フューラー軍が外人傭兵を含めて八個歩兵連隊及び四個騎兵連隊、大砲八〇門。両軍合わせると歩兵二六四〇〇、騎兵七二〇〇、大砲は一二〇門である。言うまでもなく、これに将校や士官候補生、司令部要員、工兵、輜重などが加わっており、総勢は三五〇〇〇を優に超える。
これがカロン女王キスレーヌとレイクフューラー辺境伯キレニアが現時点で動員できる最大の軍勢であった。カロン軍は全兵力の三分の二近くを投入しており、フューラー軍は国境を固める守備兵を除いたほぼ全軍である。
軍勢への糧秣など物資の輸送はレイクフューラー辺境伯が担っており、領内各地から集積した物資を数百台もの馬車に満載して前線に向けて次々と送り込んでいた。
カロン・フューラー軍の野営地には、生きたまま連れてこられた羊や牛、豚が数百頭、夥しい数の鶏、麦袋数千、豆の袋数百、塩漬けにした豚肉や魚を詰め込んだ樽数百、抱えきれない程に大きなチーズ数百個、山ほどの根菜や玉ねぎ、塩の袋数十、麦酒数百樽、馬車に山積みにされた秣といった糧秣が毎日届いていたが、それでも三五〇〇〇以上の胃袋を満足させ続けるのは難しい。
しかも、送られてきた食料は物によっては数日と経たずに傷み、悪臭を発する廃棄物と化してしまう。それに加え、補充用に衣服や武器弾薬、軍旗、天幕その他諸々まで送られてくる。限られた大量の物資を適切に管理し、迅速かつ適切に配分するのは大変な大仕事であった。
マシュリー・ピガート大尉はキスレーヌの副官を務めると共に、後方から輸送されてきた物資を受領し、現有の物資と合わせて管理し、各連隊の要望に応じて配分する仕事を担当しており、いつも書類が山と積まれた机ですこぶる不機嫌そうな顔で書類仕事に励んでいた。
「お忙しそうですね」
「見れば分るでしょうが。糞っ。また計算が合わないっ」
用事があって訪れたハルトマン少佐が声をかけると彼女は口汚く罵りながら紙切れを引き千切って放り投げ、ウンザリした顔で別の書類を睨みつけて舌打ちした。
「第四カロン歩兵連隊め。昨日も牛肉を要求したくせに、また同じことを言ってきやがった。ふざけてんのか」
マシュリーは苛立たし気にブツクサ言いながら書類にペンを走らせる。
「それで。何の用ですかね。少佐」
「あぁ、今後の見通しが知りたくて」
南部戦線を意図的に停滞させているレオポルドが今最も知りたいことはフューラー西部国境のヴィトワ川付近で行われるであろう主力同士の決戦の行方である。その結果によってこの戦争の帰趨は決まるのは明らかであり、それによって彼は自身の立ち位置を変えなければならない。
そこで彼はハルトマン少佐にカロン・フューラー軍に同行して、その動向を逐一報告するよう求めていた。
「つまり、決戦がいつ頃になるか知りたいってことね」
その言葉に少佐が頷くとマシュリーは書類の山から地図を引っ張り出して広げた。
「あたしらの軍はヴィトワ川まであと二日の場所まで進軍してます」
そう言って地図の一点を指さす。数日前に発したエレスエーとヴィトワ川のちょうど真ん中よりも少し西に寄った場所だ。
「帝国軍がいるのはこの辺り。半月くらい前からフェルケン要塞を包囲してる」
フェルケン要塞はフューラーの西部国境を守る重要拠点の一つである。要塞の東にはヴィトワ川が流れ、その水を引いた水堀に囲まれている。水堀の幅は最も狭い場所でも五〇ヤードに及ぶ。東側に一つだけ橋が架けられいるが、橋の東側は五〇〇名程の兵を収容できる巨大な三角形の堡塁によって守られており、攻め手はこの堡塁を落とさない限り橋を渡ることはできないだろう。更に要塞内には川船を停泊させる港があり、城兵は川船に乗ってヴィトワ川や水堀を自由に行き来できるという。
要塞には三個歩兵連隊三六〇〇程の兵が籠城しており、指揮官を務めるフェルケン准将はかつてのフューラー戦争でキレニアの父に殉じて戦死したフェルケン将軍の遺児で、帝国に対する復讐の念はキレニアと同じく、戦意は極めて高いそうだ。言うまでもなく、要塞の名は戦死したフェルケン将軍に因んでいる。
極めて堅固な要塞に士気の高い指揮官と十分な数の守備兵、遠からず本隊が救援に来るということもあって、フェルケン要塞は帝国軍の半月に及ぶ攻撃にも耐え、未だ堡塁すら敵の手に渡していない。帝国軍は既に一〇〇〇近い損害を出し、要塞の水堀とヴィトワ川には帝国兵の屍が数百と浮かび、酷い腐臭を放っているらしい。
「帝国軍はあたしらの動きに気付いて、フェルケン要塞はネイガーエンド公やアーヌプリン公、インカント侯、フローター侯、アーマルク・カーディン辺境伯らの軍勢三万に任せて、主力はヴィトワ川の東側、要塞の南二マイルの辺りに布陣してる。そのうちルシタニア公軍一万は少し離れて川岸に留まっているね」
マシュリーは敵軍の状況を見てきたかのように言って見せた。偵察に送り込んだ兵や内通者からの報告の他、ヴィトワ川の東側はフューラー領なので、近在の住民からの情報も手に入るのだろう。
「となると、明日か遅くとも明後日には会敵するということか」
「まぁ、そうさね。敵さんはさっさと戦を終わらせたいだろうから、あと三日か四日のうちには決着するでしょ」
「帝国は決戦を急いでいるのですか」
「糧秣の欠乏が酷いみたいね。酷い連隊は半月くらい前から配給の食料が規定の半分になっているみたい。ほとんどの兵はもう一〇日くらいはパンか麦粥しか口にしていないはずよ」
自らの勢力圏で迎撃するカロン・フューラー軍に対して、帝国軍の大半は帝都及び帝国本土より遥々遠征に来ているのだ。軍事行動は既に二月を超えている。その上、一〇万という大軍である。携行してきた糧秣は瞬く間に食い尽くし、後方からの補給は少なく遅く、全く追い付いていなかった。
そのような場合、多くの軍隊は現地調達を行うのだが、フューラー地方のヴィトワ川沿いの地域ではこの戦争に備えて、昨年のうちから住民の多くを避難させており、農地の耕作は放棄されていた。周辺の集落へ行っても家にも畑にも食料はほとんど何もない状況となっている。
ヴィトワ川の西側のフェリス地方は元より貧しい地域である上、領主たちは皇帝の命令によって一万騎もの軽騎兵を動員させるなど、戦争に協力していた為、この地方での強制徴発は皇帝の名のよって禁じられていた。
このままでは帝国軍は一月も経たぬうちに全軍が飢餓に見舞われてしまうだろう。それを避ける為には一日も早く糧秣があるフューラー領内深くへ一日も早く侵攻しなければならない。
また、カロン・フューラー軍が有する物資も帝国軍には魅力的に見えるだろう。
カロン・フューラー軍としてもここで帝国軍主力を打ち破れば戦争の行方を一気に方向づけることができる好機である。
決戦に向けた機運は非常に高まっていると言えよう。
「他に何か」
「いや、もう大丈夫だ。ありがとう」
「辺境伯閣下に宜しく言っといて下さいね」
そう言ってマシュリーが書類に向き直った時、扉がノックされた。
マシュリーは再び顔をあげるとハルトマン少佐を見て扉を開けるよう顎で示す。年上にして格上の客人相手にする仕草ではないが、ここ暫くの付き合いで彼女の性質を理解しつつある少佐は文句も言わず大人しく扉を開ける。
「あの、すいません。マシュリーさん、相談したいことがあるんですけど……」
そう言いながら遠慮がちに入ってきたのは黒髪の若い女だった。
切れ長な目をしているが、きつい印象はなく、どちらかと優しく温和そうな顔立ちをしている。あまり白くない焼けた肌に、細身だが程よく筋肉が付いた手足で、健康的と言えば聞こえは良いが、白い肌と華奢な体つきが尊ばれる淑女には見えず、日常的に肉体労働に勤しむ田舎娘といったような風情で、年の頃は十代後半といったように見える。
しかし、最も目を引くのは絹のように細く艶やかな長い髪だろう。月も星もない夜闇の如く、底知れぬ洞穴の底の如き漆黒の髪には、誰もが注目せざるを得まい。
帝国をはじめとする大陸全土で信仰される西方教会において黒は神の敵である悪魔や痛悔もせず神の慈愛を拒み、大罪を犯したまま死した者の行く末である地獄を象徴する色であり、極めて不吉とされ、忌避されている。それのみならず、地域や人によっては黒髪や黒目、黒い肌を持つ者を蔑視し、悪魔の僕や魔女として告発し、迫害、処刑することすらある。
そのような背景もあって教会の影響力が乏しく、正教への信仰が薄い辺境を除く大陸のほとんどの地域においては黒髪を有する者は極めて珍しい。
黒髪の娘はハルトマン少佐に気付き、会釈するように頭を下げ、少佐も会釈を返す。
「それって急ぎの用なんですかね」
マシュリーは手にしたペンで机を突きながら言った。客人が続いたせいで仕事が進まずイライラしている様子だ。
「お忙しいところ、すいません。でも、ちょっと、明日の予定のことで……」
「何。まさか、まだレコンキニス公がうだうだ言ってるとか」
「はぁ、まぁ、えぇ、ちょっと」
黒髪の娘は言い難そうにもごもごと言葉を濁すが、肯定か否定かくらいは分かる。
「軍議では明日も西に進軍するって決めたのに、まーだ彼是ぐちぐちぐちぐち言ってやがるのか。野戦築城して迎撃しようにも敵さんが迂回してきたらどうにもこうにもならんってことになったってのに。話を聞かん糞爺め」
「いやぁ、まぁ」
マシュリーの毒舌に彼女は苦笑いを浮かべる。
「過度に慎重なのか臆病なのか知りませんが、軍議で決まったからには黙って言うこと聞けって言ってやればいいでしょ。クレディアに言ってやりな。あいつならすっ飛んで行って命令が聞けないのかって怒鳴り散らしてくるぞ」
「クレディアさんに言うと、本当にそうなりそうだから……」
「とにかく、明日のことはもう決まったことなんだから無視しな。ロッソ将軍にでも説得してもらえばいいんじゃないですかね」
「そうですよね……。そうします。それじゃあ、失礼します……」
そう言って黒髪の娘はもう一度ハルトマン少佐に頭を下げて部屋を出て行った。
「今のは……」
「あぁ、夕方の軍議でレコンキニス公はこの辺りに野戦築城して帝国軍を迎撃すべきだって主張しましてね。しかし、帝国軍に完全に包囲されて補給線を絶たれたり、あたしらの軍を迂回して後方に進出されたりすると厄介だから、それは危険だから却下って話になったんですけど、あの爺さんは未だに自説に拘っているみたいでしてね」
「いや、それは分かったが、さっきの女性は……」
「ん、あんた、そりゃ、あんな黒髪の女なんざ一人しかいないでしょ」
マシュリーは呆れ顔で言った。
「黒髪姫ことキスレーヌだよ。いや、今は黒髪女王か」
翌朝、カロン・フューラー軍は野営地を出発し、更に西へと進軍を始めた。
黒い王冠を被った銀色の猫を描いた銀猫王国旗と赤地に交差したサーベルを描いたフューラー軍の軍旗、黒地に赤い三日月を描いたカロン軍の軍旗という三つの旗を先頭に、長い長い隊伍を組んで歩を進めていく。
半日程進んだ所で軍勢は停止し、数時間かけて戦闘隊形への移行が行われた。軍勢は西を向いて布陣し、大きく中央と左右翼と予備の四つに大別された。中央及び両翼にはそれぞれ九個歩兵連隊が配置され、中央には二個胸甲騎兵連隊が加わっている。中央の後方に配置された予備は七個騎兵連隊である。大砲は各四〇門が中央と両翼に配置されている。
両翼は外側に向かうにつれ後ろへ下がるように傾斜しており、半円形の陣形となっている。
北側の右翼の指揮官はカロンの有力貴族であるレコンキニス公。南側の左翼の指揮官はフューラー軍の長老ゲーテン元帥。中央は総司令官キスレーヌが直々に指揮を執り、予備はキスレーヌの側近ロッソ将軍が率いる。
カロン・フューラー軍の西三マイルの場所にはおよそ六万の帝国軍が布陣しており、南北に細長い陣形を形成し、無数の軍旗が翻っている。
北側の左翼は帝国中部諸領主の歩兵一万とフェリス地方諸領主の軽騎兵一万という陣容。南側の右翼には皇帝直属軍である第三軍団及び第五軍団の歩兵一万五〇〇〇と皇帝軍の騎兵五〇〇〇騎が配置されている。中央は帝国軍第一軍団及び第六軍団の歩兵一万五〇〇〇と近衛騎兵や騎士団によって構成された五〇〇〇騎の重装騎兵。大砲の数は一〇〇門余。
両軍は互いの姿を認め、いつでも攻撃できる体勢のままその日を終えた。
戦場にある誰もが暗黙の裡に翌日こそが決戦の日であると感じていた。
『ヴィトワ川の戦いにおけるカロン・フューラー軍の配置』
右翼 第一陣 第四フューラー外人傭兵連隊、第五フューラー外人傭兵連隊
第二陣 チェスター連隊、コンコル連隊
本営 レコンキニス連隊、第三カロン歩兵連隊
中央 第一陣 第四カロン歩兵連隊、第五カロン歩兵連隊
第二陣 第一高地兵連隊、第二高地兵連隊
本営 第一近衛歩兵連隊、近衛高地兵連隊
予備 近衛胸甲騎兵連隊、カロン胸甲騎兵連隊
左翼 第一陣 第二フューラー歩兵連隊、第三フューラー歩兵連隊
第二陣 フューラー軽歩兵連隊、フューラー猟兵連隊
本営 フューラー近衛歩兵連隊、第一フューラー歩兵連隊
予備 第一カロン騎兵連隊、第二カロン騎兵連隊、高地騎兵連隊、第一フューラー騎兵連隊
第四フューラー騎兵連隊、フェリス人軽騎兵連隊、フューラー外人傭兵騎兵連隊