二〇九
フューラー地方中西部の都市エレスエーは軍事都市の様相を呈していた。
街を歩けばそこら中に将兵の姿が目に付く。
灰色の軍服を着たフューラー兵ばかりでなく、大陸では不吉とされる黒色の軍服を着込んだカロン兵、羽根飾りの付いたつばのない帽子を被ったカロン高地兵、背の高いテリーデン傭兵、小柄なフェリス人、ずんぐりむっくりとして豊かな髭を生やしたラクリア兵、クライス人、リトラント人、その他多種多様な外国人の傭兵も多い。
というのも、フューラー軍は領内各地から徴募、動員された兵によって編成された連隊の他、大陸中からかき集められた傭兵によって編成された外人傭兵連隊が七個組織されているのだ。
兵の多くは町の郊外に設けられた野営地に居住しているが、任務や買い物、飲食などの用事で城壁の中に入ることも多く、市内の何処を歩いても市民よりも兵の方が多く見られるような状況となっている。
五〇〇〇人にも満たないエレスエー市民に対して、駐屯するカロン・フューラー軍は合わせて三万五〇〇〇人以上もいるのだから当然というものである。
本来の町の主である市民は兵隊たちが一日でも早く出て行くことを願いながら家の中に引きこもって大人しくしているのだろう。
レオポルドの部下でフューラー領に送り込まれているハイドリヒ・ハルトマン少佐もその歓迎されない客人の一人となっていた。
サーザンエンドに生まれ育った生粋のサーザンエンド人であるところの彼は辺境伯軍士官の子に生まれ、一〇歳で父の中隊の士官候補生となり、中隊旗手補佐、中隊長副官を経た後、サーザンエンド継承戦争ではレオポルドに従って戦い、サーザンエンド・フュージリア連隊中隊長、近衛大隊副長、近衛歩兵連隊少佐と順調に出世したものの、レオポルドの護衛中に発生した暗殺未遂事件を防げなかった責により遥々フューラーの地に送られることとなった。
ほとんどサーザンエンドから出たことのない少佐にとってフューラーは右も左も分からない全く未知の地であったが、レイクフューラー辺境伯は彼を客人として待遇し、様々な便宜を図ってくれたので、情報収集やレオポルドとの連絡業務は比較的滞りなく進められたのだが、なにやら不穏な情勢となってゆき、いつの間にやらフューラー独立戦争の渦中に立たされていた。
それでもどうにかレオポルドとは連絡を取り合い、指示通りカロン・フューラー軍に帯同してエレスエーに移り、市内中心部の古着屋二階の空き部屋を間借りして、引き続き情報収集に努めていた。
エレスエーに移って三日目の夕暮れ近く、空腹を覚えたハルトマン少佐は外へ食事に出かけた。
間借りしている古着屋の奥さんに頼めば食事くらいは作ってくれるのだが、敬虔な正教徒である古着屋の一家の食事は清貧に尽きる代物で、酒は勿論のこと、肉すらない献立であったので、些か物足りず、彼はたまに外へ出て食事をしていた。
街中をいくらか歩いていると、何度か寄ったことのある酒場の入口辺りで何やら騒ぎが起きていることに気が付いた。
どうやら何人かの外国人傭兵が酒場の主人に詰め寄っているようである。
「おい、何事だ」
「おお、これはどうも、いやはや、困っておるのです」
少佐が声をかけると顔を覚えていたらしい主人が助けを求めるように言い、傭兵たちは不審そうな目を向ける。身なりから士官らしいと思ったようだが、その素性までは分からないのだろう。
「こちらの方々が麦酒をお求めなのですが、生憎ともう品切れなのです」
この店は酒を飲ませるだけでなく、小売りもしているらしい。それが品切れということで、傭兵たちは腹を立てているようだ。
兵たちは部隊から食事や酒の配給を受けているが、その質と量は十分満足できるものとは言い難い。そこで彼らはしばしば自腹で食事や酒を買い求めるのだ。
「品切れでは致し方あるまい」
少佐がそう言うと傭兵たちはむっとした顔で言い返す。
「こいつは最初っから俺たちに売る気なんてないんでさあ。酒場で酒が品切れなんて聞いたことがねえ」
「この店だけじゃねえ。もう三軒の店に断られてるんだ。どこの店も品切れなんておかしな話があるもんかっ」
「俺たちが外国人だから売りたくねえんだろうよ」
「それにだ。さっき、近衛高地連隊の奴には売ってやがったんだっ。確かにこの目で見たぞっ」
彼らは帝国での働きが長いのか帝国語は不自由なく話せるようだ。かなり荒っぽい話し方ではあるが。
傭兵たちの言い分に主人は慌てた様子で声を上げる。
「先程、近衛高地連隊の方々に売った分で最後だったのですっ。神に誓って真実ですよっ。ここ数日、毎日兵隊さん方が買っていかれるものですから、いくら仕入れても追いつきません。終いにゃ問屋からはもう卸せないと言われる始末で、うちとしても困っているんですよ」
主人は泣きそうな顔で嘆く。酒が売れるのはいいが、連日、品切れになってしまっては商売にならない。酒場としても困っているのだろう。
「人口五〇〇〇の町に三万五〇〇〇人が押し寄せ、少なくない数の兵が酒を買い求めておるのだ。市内の酒が枯渇してしまうのも無理のない話であろう」
ハルトマン少佐は宥めるように言い聞かせるが、傭兵たちはそれでも引き下がる様子はない。
「俺たちは中隊長にこの金で酒でも買えって言われて来たんでさあ。遥々大陸の東の果てまでご苦労だろうって頂いた金なんだ。それなのに、酒の一パイントも買えねえなんて、そんな話はねえでしょう。手ぶらで帰って中隊の仲間たちに何て言えばいいんですかい」
傭兵たちに言い募られ、少佐は困惑する。
「おい、貴様ら。何を騒いでやがる」
ハスキーな女の声に一同は振り返る。
声の主は燃えるような赤髪に猛禽のような三白眼、細い顎に酷薄そうな薄い唇の若い女で、無地の紫のマントを纏い、長いサーベルと短銃を提げている。
女の姿を見ただけで傭兵たちは恐れ戦いた表情を浮かべる。
「軍令を知らねえとは言わせねえぞ。市民に迷惑をかけるんじゃねえ」
「し、しかし……」
不機嫌そうに言った女に傭兵たちはハルトマン少佐に言ったのと同じように抗う。
「知るか。さっさと失せろ。八つ裂きにされて皇帝の餌にされたいか」
吐き捨てるように言い放たれ、傭兵たちは渋々といった様子でその場を離れていく。
「糞っ。雌狼めっ」
傭兵の一人が小声で罵ったのが聞こえたが、少佐は気付かなかったことにして女に声をかけた。
「助かりました。ピガート大尉」
マシュリー・ピガート大尉はカロンの女王キスレーヌの副官で、最も信頼されている側近の一人とされている。ハルトマン少佐が情報を仕入れる相手でもあった。
「厄介なことに首を突っ込まんで頂きたいですな。少佐」
そう言いながら彼女は今しがた傭兵たちを追い払った酒場に入っていく。
「あのっ、うちにはもうお出しできる酒も何もありませんが」
「どうせいくらかは隠し持っているんだろう。出しな」
困惑した様子の主人にマシュリーが言い返し、カウンターの椅子に腰を下ろして鋭い視線を向ける。
「兵隊ってのは、さっきみたいな聞き分けの良い連中ばかりじゃあないからな。次は店に押し入ってそこら中を打ち壊すような乱暴者が来るかもしれねえな」
観念した様子で奥に引っ込んでいった。
マシュリーは満足そうに口端を歪めると、唖然としているハルトマン少佐を手招きして隣に座らせた。
「飯はまだ食ってないだろう」
「まぁ、そうですが」
「ここなら塩辛い干し肉か干し魚か。あと、萎びた根菜くらいなら食えると思いますよ。燻製肉の炙ったのがあれば文句はないが」
「しかし……」
渋る様子の少佐をマシュリーは刃のような視線だけで黙らせる。
暫くして奥から出てきた主人は黙って麦酒の注がれた陶製の杯を二つ、干し肉、茹でた根菜、干からびたチーズなどが盛り合された皿を置いて再び奥に引っ込む。
マシュリーは何も言わずに杯を掴んで麦酒を呷り、仕方なくハルトマン少佐も杯に口を付けた。麦酒は温く、味は薄く、混ぜ物に何やらよく分からない香草が入っているようだった。
「うん。馬の小便みたいな麦酒だな」
その喩えに少佐は閉口する。
「ところで、そっちの辺境伯は上手いことやっているんですかね」
レオポルドが主力同士の勝敗が着くまでフューラーへの侵攻を控えていることは、キスレーヌやレイクフューラー辺境伯に伝えていることではないが、カロン・フューラー側ではその意図をほぼ理解しているようであった。
「南部の戦線は閣下が主導権を握っておられる。勝敗がはっきりするまで南部軍が国境を越える可能性は少ないでしょう」
ハルトマン少佐はこれを否定せず曖昧ながらも肯定する。決して公にはできないが、両者が互いへの敵意と戦意がないことを示すのは有益なことだと判断した為である。
「賢明だな。いや、狡猾だと言うべきか。いずれにせよ悪い判断じゃない」
そう言ってマシュリーは鼻を鳴らす。
「しかし、帝国軍の兵力は一〇万だとか。どうやってその大軍を打ち破る気ですか」
ハルトマン少佐が最も知りたいのはそこであった。
これまでの幾多の戦歴でキスレーヌは極めて優れた指揮官と証明されている。狡猾にして希代の謀略家とも云われるレイクフューラー辺境伯は負け戦を仕掛けるほど愚かではないはずだ。
しかし、カロン・フューラー軍は北と西と南の三方から攻められ、兵力的には圧倒的に劣勢である。一体如何なる方策で勝とうというのか。決戦に持ち込んだとして一〇万の大軍を打ち破る策などあるのか。
「戦は時の運だからね。いつだって何が起きるか分からんさ」
「そうは言っても極めて分の悪い博打はしないでしょう」
「まぁね」
マシュリーは干し肉を齧りながら答える。
「まず、皇帝軍のアーヌプリン公、ネイガーエンド公とか、その辺の諸侯はあんまりやる気がないだろうね。たぶん、後ろに控えて前にはあまり出ないだろうよ」
「そうとは限らないのでは」
「やる気があるなら、いつまでもレイクフューラー辺境伯と手紙を送り合ったりしないだろうさ」
ハルトマン少佐は唖然とする。皇帝軍の主力の一部であるアーヌプリン公やネイガーエンド公が皇帝に黙って敵であるレイクフューラー辺境伯と通信しているというのだ。
マシュリーが嘘を言っている可能性も否定できないが、レイクフューラー辺境伯ならばそれくらいはやりかねない気がしなくもない。
「要塞の抑えだの後方の予備だの言って諸侯のうち何万かは後ろに引っ込んで前に出ない。前線に出てくるのは六万か七万か。まぁ、それくらい」
それでもカロン・フューラー軍の倍近い軍勢である。野戦では絶望的と言っても過言ではない兵力差である。
「で、総司令官はルシタニア公だが、あの爺さんは馬車に揺られて東部の辺境に来るだけで死んじまいそうな御老体だから、実際の指揮はクロジア辺境伯スタックホルン大将が執ると言われているけど、こいつもいい歳の爺だ。総司令部を取り仕切る元気なんて残ってねえ」
「じゃあ、誰が実際に総司令部を取り仕切っているのですか」
「第一軍団長のノイエンベルン将軍」
ハルトマン少佐の問いにマシュリーが即答する。
「しかし、諸侯軍の中でも年長のシュヴェット伯や第五軍団長のキュスケル伯、騎兵を率いるブレーリンゲン伯なんかの名のある貴族方はそれが面白くない。第三軍団長のボスコ将軍や第六軍団長のオンシュタット将軍も年下で後輩のノイエンベルンに指図されるのが気に食わない」
マシュリーはまるで帝国軍総司令部の中を見てきたかのように語ってみせる。
「ノイエンベルンは皇帝のお気に入りで出世したから他の将軍方から嫉まれてるのさ。皇帝の目が届かない東部辺境まで来れば、誰も言うことなんか聞きやしねえ。仕方ないからノイエンベルンはルシタニア公やクロジア辺境伯を彼是説得して命令を出させて、統制を維持しているらしいが、そのやり方も将軍たちには気に食わねえだろう」
「どうしてそんなことまで分かるんだ……」
ハルトマン少佐が唖然とした面持ちで言うとマシュリーはつまらなさそうに答える。
「レイクフューラー辺境伯は、ついこの間まで皇帝の宮廷の警備責任者だったんだから、宮廷の人間関係をよく知ってるのは当然だし、辺境伯の文通の相手は諸侯だけじゃあないしね」
つまり、皇帝軍の総司令部の内実を知るくらいの立場にある人間の中にもレイクフューラー辺境伯と密かに通じている者がいるということだろう。
勿論、証拠など何もなく、マシュリーも証明する気は欠片もないだろう。
それでも、それが真だとしたらどうか。一〇万の大軍であっても、かなりの割合の諸侯に戦意がなく、なおかつ総司令部の統率が極めて弱く、将軍たちが互いに協力しようとせず、各軍、各部隊の連携が保てないような状況で決戦に挑むとしたら。
対するカロン・フューラー軍は君主である女王キスレーヌを頂点とした指揮系統があり、カロン軍もフューラー軍も等しくキスレーヌの指揮下に置かれている。カロン兵や傭兵の練度は高く、装備も最新のものが与えられており、戦意も高いように感じられる。
それでも兵力差は大きく、容易にどちらが勝つとは言い難い。
やはり、戦う前から勝敗を予測することなど不可能なのである。
ハルトマン少佐はいつ行われるとも知れぬ決戦にこれ以上思いを馳せるのは止めにした。
その代わり以前から疑問に思っていたことを聞いてみようと思い立つ。
「ところで、以前から疑問だったのですが、何故、レイクフューラー辺境伯はこれほど早くフューラー全域を掌握できたのでしょうか」
レイクフューラー辺境伯領は面積で言えばフューラー地方の二割少しでしかなく、全域を支配していたわけではなかった。その他の地域は四つの伯領、二つの司教領、一つの修道院領、五つの帝国自由都市、十数もの子爵、男爵領、数十もの帝国騎士領に細分化されていた。
それらの諸領土はそれぞれ独立した存在であったが、辺境伯が帝国からの独立を宣言すると瞬く間にそのほとんどが彼女に加勢した。与する動きを見せなかったのは一つの司教領と修道院領、幾人かの小領主のみで、孤立した彼らは数日もしないうちに降伏するかフューラー地方の外に逃げ出すしかなく、フューラー地方全域は半月もしないうちにレイクフューラー辺境伯の支配下に収まってしまった。
当時、その動きを間近に見ていたハルトマン少佐は情勢の変化の早さに驚いたものであった。
辺境伯の策略がかなり早い段階から進められ、フューラー地方の諸侯の多くが調略済だったということに他ならないが、神聖帝国から離反するという大事に加担するとなれば容易に賛同する者ばかりとは思い難い。数十もの諸侯、領主とその一族郎党合わせれば数百にもなろうという人々が誰も帝国に通報せず挙って辺境伯の味方になったのは何故か。
「少佐。あんたはグレーズバッハ家についてどの程度知ってますかね」
グレーズバッハはレイクフューラー辺境伯の家名であるが、それは皇帝一族の家名ではない。
ハルトマン少佐が以前調べたところによれば、グレーズバッハ家は帝国建国前からこの地を治めてきた名族であり、皇帝に従った際にフューラー公に封ぜられた。
百数十年経って、グレーズバッハの嫡系が絶えると、その血筋の子女を娶ったキレニアの祖父ルプレヒト一世がフューラー公の地位を継承する。
その後、当時の皇帝カール三世が弟の子を謀反の疑いありとして討伐し、フューラー公一族は尽く虐殺され、末子のキレニアだけがただ一人残された。
彼女は一〇年程幽閉されていたが、カール三世の孫にして当代の女帝ウルスラの兄であるゲオルグ五世によって赦され、レイクフューラー辺境伯の地位を与えられたのだが、その際にグレーズバッハの家名を名乗ることにしたらしい。
「要するにグレーズバッハ家はフューラーに根付いた名家だから諸侯や領主は挙って味方するということか。あとは彼女に同情するところが大きいとか」
マシュリーは少佐の説明を黙ってつまらなさそうに聞いていたが、温い麦酒を呷った後、口を開いた。
「まぁ、それもあるけど。そもそも、フューラーに所領を持っている連中の多くは元々フューラー公の配下だったけど、戦争の前に降伏したり寝返ったりした連中なのさ」
フューラー戦争の後、彼らは別の地域に移封されたが、キレニアが赦され、レイクフューラー辺境伯に復帰する前後に領地をフューラーに戻されたらしい。
とはいえ、一度離反したにも関わらず再びグレーズバッハ家に仕えるというのは解せないことである。
少佐がそう言うとマシュリーは何でもないように言った。
「そりゃ簡単さ。最初っからそのつもりだったからよ」
つまり、敗北を悟ったフューラー公は信頼できる配下の一部を意図的に離反させ、いつの日か来るであろう復讐の時に備えさせたのである。
偽りの裏切りを選ぶこととなった彼らは世間からの不忠の者、卑怯者という冷たい視線と誹謗中傷を耐え忍び、いつか再びグレーズバッハ家が復活する時を待っていたというのである。
しかし、疑問はそれだけではない。
「何故、先代の皇帝陛下はそのようなことをなさったのか」
普通ならば敵対した者を赦すにしても元の領地に戻すようなことはしないだろう。それどころか、元は配下だった者までその近くに移すというのは理解し難い。
少佐の呟きにマシュリーは愉快そうに鼻を鳴らし、口端を吊り上げる。
「無力な女が男にお願いを聞いてもらう手なんざ決まってるだろうが」
「まさか……」
「キレニアは自分の処女と引き換えに領地を取り戻し、体を抱かせる度に生き残った配下の連中の領地をフューラーに移させたのさ」
ハルトマン少佐は言葉を失う。
「皇帝にとっては仇敵の娘の純潔を奪うのは刺激的なお遊びだったのかもしれないが、うっかりその女にハマった挙句、薬漬けにされて死ぬまで良いように使われて、自分の国を滅ぼそうとする反乱の下準備を手伝う羽目になるとは、全く男ってやつは愚かとしか言いようがないね」
マシュリーは冷たい笑みを浮かべて言った。