二〇七
二日の休養を取った後、南部軍二万はブラストラバを発ち、東へと進軍した。先の軍議で話し合われた通り、レウォント方伯軍が先行し、その後をアーウェン槍騎兵、サーザンエンド軍と続く。
ブレストラバから東へ三日も歩くと海が見えてくる。そこからは海を右手に見ながら北へと進む。
海のない地であるアーウェン国外に出たことがない多くのアーウェン士族たちは初めて見る海に興味津々といった様子であった。
彼らはその日の行軍が終わり、海辺の近くに野営地を構えるとすぐに海辺まで歩いて行って、見渡す限り水ばかりが広がる光景を眺め、絵心のある者は海の見える眺めを描いたり、海辺の貝殻やら魚の骨やら海藻やらを拾ってきたり、近隣の漁民から海産物やらを買い求めたりしていた。中には履物を脱いで海へと足を踏み入れたり、衣を脱いで海水浴を試みようとする者もいたが、さすがに温暖な南部とはいえ、冬の海水は冷たく、早々に退散していた。
同じ海を持たない民であるムールド人が水気や湿気を嫌って海を不気味がって遠巻きに眺めるばかりだったのとは全く対照的ともいえる行動で、レオポルドにはとても興味深く感じられた。
髭面の男たちが思い思いに海を楽しんでいる様はなんだか微笑ましくも思える。
翌朝、先陣のレウォント方伯軍が陣地を引き払って行軍を再開してもアーウェン人たちは海との触れ合いを続け、彼らが海辺を離れたのは昼も近くになってからであった。
その間、最後尾のサーザンエンド軍は文句も言わずに待ち続け、大人しくアーウェン軍の後ろに続いて北上を再開する。
出発が遅れたにも関わらず、サーザンエンド・アーウェン軍は特段急ぐでもなく、ゆっくりとした速度で行軍した為、日も暮れようという頃には両軍と先頭のレウォント方伯軍との間には相当な空隙が生じていた。
野営地を構築し、夕食を取っていると方伯軍の若い士官が走って来て、翌日には遅れを回復するよう求めるプルクレスト将軍の伝言を持ってきた。
「そのように努めよう」
レオポルドは海鮮をたっぷり使ったスープを味わいながら答えた。彼にとっては久々の海の味なのだ。
翌日もサーザンエンド・アーウェン軍は前日同様の速度で行軍を続け、両軍の間の空隙は解消されなかったので再び方伯軍の士官が飛んできた。
「いいかね。我が軍はもう二月近くも歩き続けているのだぞ。将兵の疲労は相当に溜まっている。まだ一週間も歩いていない貴軍と同様に考えられては困る」
レオポルドに冷たく言い放たれ、若輩の士官は追い返されるように帰っていった。
翌日は当初の行軍計画ではレウォント・フューラーの国境線まで進出できる予定であったが、サーザンエンド・アーウェン軍のこれまでの行軍速度では到着が夕暮れ過ぎになりそうな気配であった。
前線に到着する前には各軍が合流しておくべきであることは言うまでもないが、それよりも到着があまり遅い時刻になると陣地を構築する時間が少なくなってしまうことの方が問題である。
軍勢が陣地を構築できる適切な広さを確保し、二万人の男たちが休息できる数百の天幕を張り、敵襲に備える為の木柵や塹壕を構築し、運んできた物資を整理して集積し、馬や牛や羊を集めて逃げ出さないように措置するとともに、将兵の点呼を行い、夕食の支度と寝床の準備をさせて、漏れなく見張りの指示を与えるといった諸々の仕事を、日の沈んだ暗闇の中、月と星と篝火や松明の明かりだけを頼りに行うというのは極めて困難であろう。
大変な苦労と混乱が予想できるだけでなく、敵の夜襲などがあった場合に十分な対応ができず不測の事態にもなりかねない。
そういった懸念を抱いたレウォント方伯軍の指揮官たちは、レオポルドの回答も踏まえて、翌日の出発を遅らせ、サーザンエンド・アーウェン軍を待つことにした。
その日の未明。レウォント方伯軍の野営地は朝靄に包まれ、朝を迎えようとしていた。
風の吹く音と鳥の鳴き声、暇そうな馬の嘶きばかりが聞こえる静寂は唐突に破られ、夜通し見張りに就いていた者以外のレウォント方伯軍の将兵たちは遠くから徐々に近づいてくる地響きのような音に叩き起こされた。
やがて、それが無数の馬蹄が地を蹴る音だと気付いた彼らは大慌てで迎撃の準備にとりかかった。
狂ったように喇叭が吹き鳴らされ、太鼓が乱打され、寝間着のままの士官は従卒に着替えを持ってくるよう怒鳴りながら自分の部隊へと駆け、下士官たちは未だに夢の世界にいる間抜けを蹴飛ばし、鈍間で愚図な部下たちを叱咤しながら着替えさせ、武器を持たせて持ち場へと走らせる。
彼方此方で誰かが怒鳴ったり叫んだりしながら駆けずり回り、大砲が右往左往し、馬が戸惑ったように嘶き、帽子や上着のない不揃いな軍服を着た兵士たちが何とか小銃と弾薬だけを持って隊列を組む。
そうこうしている間にも馬蹄の音は確実に近づきつつあり、その方角もはっきりしてきた。
「馬鹿なっ。南からだとっ。サーザンエンド軍とアーウェン軍は何をしているんだっ」
プルクレスト将軍が思わず叫んだのも無理はない。
だいぶ近づいたとはいえ、まだ軍隊の足では一日かかるほど北にいるはずの敵が夜間とはいえ、警戒を潜り抜けて自軍の背後に回り込み、更に後方のサーザンエンド・アーウェン軍にまで察知されずに奇襲を仕掛けてくるなどということがあろうか。
レウォント方伯軍陣地の混乱を他所に音の主は南方向から着実に近付き、やがて、一帯を包み込む朝靄を突き抜けてその姿を現した。
思い思いの装束に身を包み、サーベルを腰に提げ、長大な槍を片手に持ち、ありとあらゆる様々な色の旗を翻す彼らは馬を巧みに操ってレウォント方伯軍の陣地を遠巻きに避けて、そのまま脇をすり抜けて北へと進んでいく。
「待てっ。撃つなっ。こいつらはアーウェン人たちではないかっ」
士官たちは慌てて小銃を構えていた兵たちに射撃中止の命令を下し、筒先を上げさせた。
三〇〇〇騎ものアーウェン人たちはまるで狩りにでも行くような軽装で、レウォント方伯軍の陣地には目もくれずさっさと北へと向かっていく。
「これはどういうことだっ。辺境伯に確認しろっ」
プルクレスト将軍に命じられたレウォント方伯軍のメルン大佐はすぐさま南へと馬を駆けさせ、サーザンエンド軍の陣中に飛び込んだが。レオポルドへの面会はサライ中佐に阻まれてしまった。
「閣下はお休み中です」
「至急の用なのだっ」
仏頂面のサライ中佐に言われ、メルン大佐は思わず声を荒げる。
「閣下に代わって伺いたい」
「ムールド人に話して済むような用ではないっ」
帝国人の中には異民族や異教徒を蔑視したり、見下したりする者も多く、対等に同じ人間として相手をしようとする者は少数と言ってもよい。貴族や高位高官ともなれば尚更というもので、蛮族の兵相手に重要な用事を話そうという気にならない士官は彼に限らないであろう。
とはいえ、元はムールド人を主体とした軍隊から発展した今のサーザンエンド軍において、それは通用しない価値観と言えよう。
メルン大佐がいくら喚き騒ごうが、彼をレオポルドに会わせるかどうかはサライ中佐の一存によって決まるのである。
「では、ここでお待ち下さい」
サライ中佐は冷然と言い放って天幕へと引っ込み、メルン大佐はサーザンエンド軍の指揮所が置かれている天幕の前に立ったままたっぷり一時間程待たされることとなった。
「閣下がお会いされるとのことです」
ようやく呼び出され、天幕に入るとレオポルドは床屋に髭を剃らせていた。
「閣下っ。先のアーウェン軍の動きは如何なるおつもりですかっ」
「アーウェン軍の動きとは何かね」
「知らぬわけがございますまいっ」
髭を剃られながらレオポルドが興味なさそうに尋ねるとメルン大佐は怒声を発し、詰め寄ろうと足を踏み出した。すかさず脇に控えていたムールド兵が大佐を制止する。
「くそっ。触るなっ。蛮族めっ」
「君はわざわざ私の部下を愚弄しに来たのか。そのような用ならばさっさと帰れ」
レオポルドは不快そうに大佐を睨むと手で追い出すよう指示する。
数人のムールド兵に手足を掴まれた大佐は彼是喚き散らしながら天幕の外に連れ出されていった。
「しかし、閣下も人が悪い」
外に連れ出されても大声で何事か叫んでいる大佐の声を聞きながらサライ中佐が呟く。
「あの大佐も焦り慌てている最中に悠長な対応をされ、更に長々と待たされれば、気も立って思わず良からぬことも口走ってしまうでしょう」
「まぁ、そうかもしれないな」
髭剃りを終え、床屋の差し出した鏡を見つめながらレオポルドが答える。
「とはいえ、重要な使者にあのような短気を遣わすのは問題だな。いや、我々にとっては結構なことなのだが」
レウォント方伯軍の使者の相手をせず待たせて怒らせ、追い返したのはレオポルドの思惑通りであった。面会を許さず長時間待たせたのは、そういった意図によるものである。
「あの大佐が気の毒に思えます」
サライ中佐はメルン大佐に同情しているらしい。
「もっと利口なやり方はあったと思うが」
「そうかもしれませんが。なかなか、できないものです」
誰もが常に最も的確な行動を選ぶことができるものではない。自らのその時の感情や価値観や状態、その場の環境や状況によって、誤った選択をしてしまうこともあれば、何も選択できないこともある。
言われてみれば、レオポルド自身もいつも的確に最善の選択をしてきたわけではなく、思い返せばもっと良い選択もあったように思えるし、間違った選択もしてきたような気がする。今回のように誰かの誤った選択を利用してきたこともある。
レオポルドが感慨深く考えていると、ラ・コーヌ准将やルゲイラ兵站総監、ネルゼリンク卿らがやって来て、朝の挨拶もそこそこに一同で朝食を取った。
朝食を終えた頃、士官がプルクレスト将軍の来訪を告げてきたので、さすがに今度は待たせることもなく、レオポルドは面会に応じた。
「閣下っ。アーウェン軍のあの行動は何事ですかっ」
天幕に入るなり将軍はほとんど怒鳴るような調子で叫んだ。
「おはよう。プルクレスト将軍。アーウェン軍の行動とは何のことかね」
「未明にアーウェン軍が何の予告もなく、我が軍の脇を通って北へ向かったのですっ」
「そうか」
将軍の言葉にレオポルドは頷く。それっきり何の反応も示さなかった。
「これは重大な問題ですぞっ」
苛立ち焦れた様子の将軍が声を荒げるが、レオポルドは表情も変えずに答える。
「まぁ、褒められたことではないな」
「直ちに行軍を止めるべきですっ」
「それはアーウェン軍に言ってはどうかね。私は彼らに命令する権限を有していない」
レオポルドは平然と言ってのけた。
立場的には南部軍全体の総司令官のような立場にあるものの、それは皇帝に任命されたわけでもなく、全軍に対する最高指揮権が確認されているわけでもない。
サーザンエンド、アーウェン、レウォントの三軍は各々独立した別個の勢力の軍であり、たまたま皇帝の命令によって統一的な行動を取っているに過ぎない。その中で帝国諸侯たるレオポルドの地位の高さに他の指揮官が敬意を払って遠慮しているだけで、他の軍に命令する権限など有していないのである。
ということになってはいるが、実際にはアーウェン軍の指揮権を委任されており、アーウェン士族たちはレオポルドの命令に従うだろう。
しかし、それは公にされているものではなく、レウォント方伯軍にそれを知らせているわけでもない。
プルクレスト将軍はレオポルドとアーウェン軍の関係性を理解してはいるだろうが、それを証明する術などなく、レオポルドがアーウェン軍に素知らぬ顔ではぐらかされてしまえば、それまでなのである。
「閣下のご命令ならばアーウェン人も従うはずですっ」
それでも、プルクレスト将軍は食い下がった。そこで黙って引き下がるような人間ならば将軍を務める資格はあるまい。
レオポルドは暫く黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「私に我が軍のみならず三軍の総指揮権があるというなれば、貴軍も私の命令に全て忠実に従うのかね」
「それは……」
将軍は答えることができず言葉を失う。
レオポルドにアーウェン軍への統制を要求しながら、レウォント方伯軍だけはその統制から逃れ独立した行動を確保したいなどというのは都合の良い話と言えよう。
「そろそろ、我が軍も出立する時刻だ。貴軍も早々に行軍された方が宜しかろう」
レオポルドはそう言うと話は終わったとばかりに席を立ち、プルクレスト将軍が止める間もなく、高官たちを引き連れて天幕を出て行った。
プルクレスト将軍は止む無く自軍を追い抜いていったアーウェン軍に向けて早馬を飛ばし、当初の計画と異なる勝手な行動を咎め、停止を求めたものの、アーウェン人たちは帝国語は分からぬと嘯き、使者がアーウェン語で改めて述べると、アーウェン語が下手糞すぎて何を言っているかわからんと言って聞く耳を持たなかった。
結局、三〇〇〇騎のアーウェン槍騎兵は昼過ぎ頃には国境線に至り、フューラー地方に向かう街道の途上で、レイクフューラー辺境伯軍が籠もるオスピナー要塞の大砲の射程ぎりぎりの位置に布陣した。そこは後方の軍を足止めするには絶好の位置である。
一方、後方のサーザンエンド軍は昨日までの鈍重さが嘘のような速い行軍を開始し、昼過ぎには先行していたレウォント方伯軍に追いつき、夕刻前には国境線に到達し、方伯軍の背後に陣地を構えた。
また、サーザンエンド軍の工兵は何食わぬ顔でレウォント方伯軍の陣中を通ってアーウェン軍の陣地を構築しに行き、輜重兵は武器弾薬や糧秣を運んでいった。
アーウェン軍は可能な限り速く行軍する為に、ほとんどの荷をサーザンエンド軍に預けていたのだ。彼らは手にした槍と腰に提げたサーベル、短銃の他は昼飯くらいしか持たないほどの身軽になって馬を駆けさせたのだ。
言うまでもなく、この一連の動きはレオポルドの企みによるものである。
わざと行軍を遅滞させて、レウォント方伯軍の動きを鈍らせた上で、公にはアーウェン軍に指揮する権限を有していないことを隠れ蓑として、密かにアーウェン軍に独断で先行するよう指示し、レウォント方伯軍を追い抜かせ、最前線に位置する場所に布陣させたのである。
レウォント方伯軍は前方をアーウェン軍に抑えられ、背後からサーザンエンド軍に睨まれ、進退共に自由に動けない場所に追い詰められる形となった。
こうしてレオポルドはフューラー・レウォント国境における主導権をほぼ完全に手中に収めたのだった。