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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第一三章 内憂の年
211/249

二〇五

 レオポルドがサーザンエンド辺境伯領の首都ハヴィナに入ったのは帝歴一四三年も残りあと一月程という頃で、およそ半年ぶりの帰国となる。

 個人的にはまず真っ先に新たな子を産んだキスカに会いたいところだが、まずは灰古城に入り、正夫人であるリーゼロッテに顔を見せねばなるまい。彼女自身は大して気にしないだろうが、彼女の周囲や貴族たちはそれほど寛容ではなく、正夫人が異教徒・異民族の愛人より軽視されていると見做したりしてつまらない厄介事になりかねないのだ。

 リーゼロッテは灰古城の自室にいて、今年の初めに生まれた子ヴィルヘルムをあやしていた。

 半年前に見た我が子はまだとても小さくて頼りなく危うげにすら見えたものだが、今では以前より一回りも二回りも大きくなり、今では言葉めいたものを発したり、掴まり立ちできるほど成長していた。

 おそらくはその上の二人の子ルートヴィヒとソフィアも随分と成長しているのだろう。

 きょとんとした顔で自分を見つめる我が子と対峙して、レオポルドは自分がほとんど子供たちの世話を焼いたり面倒を見たりするどころか、ろくに顔を合わせることすらほとんどできていないことに改めて後悔の念と罪悪感を抱いた。

「ちょっと、陰気臭い顔をしないで頂戴。子供っていうのは周りの人間の気分や雰囲気を感じて、機嫌を損ねたりするのだから。泣いてしまったらどうするの」

 リーゼロッテは不機嫌そうにそう言うとレオポルドから遠ざけるようにヴィルヘルムを抱きかかえ、女神もかくやというという程の穏やかな微笑を浮かべて我が子と見つめあう。

 いつも不機嫌そうに顔を顰めていることが多い彼女がそのような顔をしているのを初めて見たレオポルドは目を丸くする。

「何よ」

「いや、君は良い母親になりそうだな」

「なっ、何を言っているのよ」

 リーゼロッテは不機嫌そうに顔を背ける。

「私がやっていることなんて母親の真似事みたいなものよ。カレニアたちが色々やってくれているから」

 ヴィルヘルムはサーザンエンド辺境伯位の継承者であり、その生育には多くの人々が関わっている。女官長のカレニア・サビーナ・ランゼンボルン男爵夫人や女官のテレジア・イェーネ・クラインフェルトの他、レオポルドの姉的立場であるフィオリアらが子供たちの育児に関する実務に携わり、乳母や何人もの専属の使用人が付き、多くのサーザンエンド貴族やご婦人方が彼是と口出ししているのだった。

 ともすれば、母親であるリーゼロッテの手から離れることも多く、彼女としては自分がきちんと母親をできているのか不安を抱いているらしい。

 もっとも、王侯貴族においては産みの親が我が子の世話をすることが叶わず、側回りの臣下たちが育児や教育を取り仕切ってしまうということは珍しくもないことであり、一般的であるとすら言える。

 勿論、それは実力のある君主の意向を無視できるものではなく、レオポルドには我が子への臣下の干渉を断ち切ることも可能である。

「君が望むならば、ヴィルヘルムと触れ合える機会を増やすよう取り計らおう」

 レオポルドの言葉にリーゼロッテはそっぽを向いたまま微かに首肯した。

「そういえば、帝都にはレウォント方伯も来られていたはずだが、生憎と面会することが叶わなかった」

 なんとなく気恥ずかしさを感じて話題を変えると彼女は少し逡巡した後、躊躇いがちに言った。

「あの人には、あまり期待しない方が良いと思うわ」

 レウォント方伯ハインツ・アルフォンス・フライベルは彼女の兄であり、帝国南部の北東部を領している。レオポルドにとっては義兄になるわけで、味方を頼むことができる諸侯として期待するのは当然と言えよう。

「どういう意味だ」

 レオポルドの問いにリーゼロッテは苦み走った表情を浮かべる。

「妹の私が言うのは憚れるのだけれども……。あの人は頼りにならないと思うわ」

「それは、つまり、レイクフューラー辺境伯の影響下にあるということか」

 レウォント方伯領はフューラー地方の南隣に位置しており、レイクフューラー辺境伯がある程度の影響を及ぼしていることは予想に難くない。

 レオポルドとリーゼロッテの婚約を仲介したのもレイクフューラー辺境伯であり、帝国南部において数少ない帝国人諸侯であるサーザンエンド辺境伯とレウォント方伯が婚約によって結びつくことは両者にとって利点が多く実現し易い条件が揃っていたとはいえ、彼女の強い後押しが一助となったことは間違いない。

 とはいえ、方伯も辺境伯とは同格程度の帝国諸侯であり、勢力としてもそれほど弱体という印象はなく、辺境伯の傀儡になるような状況にはないように思われる。

「あの人が言いなりになるのは別にレイクフューラー辺境伯に限った話ではないわ。誰かが白と言えば白と言い、他の誰かが黒と言えば黒と言うような人だから」

「つまり、方伯は主体性がないということか」

 レオポルドの言葉にリーゼロッテは頷く。

「優柔不断で自分で何かを決めることができない人よ」

 辛辣な口調だがリーゼロッテの表情は暗く、兄を悪し様に言うことに対して迷いと自己嫌悪を覚えているように見えた。それでも方伯の人柄について話したのは、それがレオポルドの戦略に大きな影響を与えることを理解しているからだろう。

 帝国政府の勅令によればレオポルドはアーウェン諸侯及びレウォント方伯と共同で南部からフューラー地方に侵攻することになっている。共同作戦の一翼を担う相手がどのような人柄で、どういう行動を取る人物か知ることは極めて重要であることは言うまでもあるまい。

「しかし、とてもそのような人には思えなかったが」

 レオポルドは幾度か顔を合わせ会話を交わしたこともある方伯の風貌を思い浮かべながら呟く。方伯は背が高く、しっかりとした高い鼻に丈夫そうな顎の男前で、言動も落ち着いており、とても優柔不断で主体性がないようには見えなかった。

「見てくれだけは良いし、言動も頼りがいがありそうに見えるのだけれども、その実、何も考えられないし、何も決められないから性質が悪いのよ。まぁ、そんな人だから、私は色々と勝手にできていたのだけれど」

 リーゼロッテが王侯貴族の結婚適齢期を過ぎても独身を続けていたのは兄である方伯が彼女の我儘を抑えて結婚を命じるといった決断ができなかったかららしい。

「それじゃあ、レウォント方伯領の統治は誰が差配しているんだ」

「大体は臣下の貴族たちが話し合いで決めているのだけれど、重要なことはあの人の傍を固めている連中が彼是好き勝手なことを吹き込んでるわ」

「というと、方伯夫人とかか」

 レオポルドの言葉にリーゼロッテが頷く。

 以前聞いたところによれば、レウォント方伯の夫人はカロン島を支配する銀猫王国の貴族リモレット公の息女だという。

 しかし、カロン貴族が大陸にあるレウォント方伯領の政治に彼是口出しするとは考え難い。

「義姉はレイクフューラー辺境伯に買収されているわ。彼女は贅沢が好きだから」

 その言葉にレオポルドは渋い表情を浮かべる。

 レイクフューラー辺境伯に買収された夫人を通じて方伯が傀儡と化しているとするならば、レウォント軍は当てになるどころか、帝国の命令に反して軍を動員しない可能性や辺境伯側に付くことすらあり得るだろう。

 とはいえ、リーゼロッテがその後に補足したところによると、レウォント方伯の宮廷は決してレイクフューラー派一色というわけではなく、帝国に忠誠を誓う者もいれば、西隣のアーウェンと親しい者も少なくないという。よって、方伯夫人の意向が全て通るとも言い難いらしい。

 おそらく、レイクフューラー辺境伯は方伯夫人を通じてレウォント方伯を味方に付けるか、少なくともフューラー地方に進軍はさせないように圧力をかけるだろう。それとは逆に親帝国派は勅令を奉じてフューラーへの進軍を主張するに違いなく、両者の板挟みとなった方伯は果たしてどう動くだろうか。少なくとも当初思い描いていたような頼もしい味方とはなり得まい。

 リーゼロッテにとっては決して愉快なことではなかっただろうが、最も近しい身内である彼女の話は方伯の行動を予測する際、大いに参考となるだろう。

「リーゼロッテ。話してくれて助かった。感謝する」

「別に」

 レオポルドが礼を述べると彼女はぶっきらぼうに言い放って背を向けた。


 灰古城でリーゼロッテとヴィルヘルムの顔を見て、レッケンバルム卿ら重臣たちの挨拶と不在の間の諸々の報告を受けた頃にはもう日が沈もうとしていた。

 本来ならば正夫人と晩餐を共にすべきところだが、リーゼロッテは気分が優れないのでもう寝室に引きこもり、顔を合わせるのも遠慮すると伝えてきた。

 これが彼女なりの気遣いだとわからないほど間抜けではないレオポルドはありがたく青い小宮殿に向かい、キスカの出迎えを受けた。

「おい、寝ていなくて大丈夫なのか」

「お気遣い痛み入ります。もう平気です」

 レオポルドの言葉に彼女はいつも通りの無表情で答える。

 産後というのは体力が落ちており、母子ともに安静にすべきなのは言うまでもない。実際、もう一人の妻であるアイラも娘を産んだ後、暫くの間、体調を崩して臥せっていた。

 聞いたところによると、彼女が出産したのは一月程前だというから、産後直後というほどではないが、日も沈んだ肌寒い屋外に迎えに出るのは体に宜しいとは言えまい。

「早く中に入ろう」

 レオポルドは顰め面で早く屋内に入ろうと促すが、彼女は頑としてその場で直立不動の姿勢を崩さなかった。

「それよりも、お聞きしたいことがあります」

「一体なんだ」

「何故、死刑執行命令書に署名なさらないのですか」

 彼女の責めるような問いかけにレオポルドは渋い顔をする。

 カルガーノで受け取った書類のうち、辺境伯の署名が必要なものは既に返送してあり、レオポルド自身よりも先にハヴィナに到達していた。無論、その中には罪人の死刑執行命令書も含まれている。ただ一枚を除いて。

 レオポルドの机に上がる書類のほぼ全てに目を通しているキスカがそのことに気付かないはずがない。

「まさか、あの女を許す気ではないでしょうね」

「そんなことは後でいいじゃないか。今話すべきことか」

「あの雌犬はレオポルド様を殺めようとした大罪人ですっ。その罪は八つ裂きにして獣の餌にしても贖えるものではありませんっ」

 平素は彫像の如く冷たい無表情であることが多いキスカが怒りを露わにして声を荒げる。レオポルドの背後に居並ぶ護衛の将兵たちもたじろぐほどの様相であった。

「出来ることならば、一刻一秒でも早くに私がこの手で縊り殺してやりたいっ」

 人をも殺せそうなほどに鋭い目つきでキスカが鼻息荒く言い放つ。

 実際、彼女はレオポルドを裏切り、害そうとした自分の一族を自らの手にかけているので、全く大袈裟に言っているわけではないだろう。彼女ならば本当にやりかねない。

 それでも彼女が手を出していないのは、法による統治を望むレオポルドの意向を尊重しているからに他ならない。

 しかし、既にサーザンエンド高等法院は暗殺犯を有罪とし、極刑に処すとの判決を下している。後は死刑執行命令書の署名だけなのだ。一刻一秒も早く地獄に突き落としてやりたい憎い仇をようやく始末できると思っていたら、よりにもよってレオポルドがその執行を止めているというのだから、キスカの怒りが火を噴くのも無理はない。

 彼女には一体何故レオポルドが、暗殺犯を他の殺人犯や強盗や強姦魔と同じようにさっさと処刑してしまわないのか全く理解できないし、それどころか、そういったいつの世もどこの地にも必ず存在する犯罪者を置いてでも真っ先に処刑すべき大悪人であると確信しているのだ。

「帰ってきて早々にそんな話をしなくても良いではないか」

「誤魔化さないで下さい。これは極めて重要なことです。レオポルド様の御身を傷つけるというサーザンエンドにとって最も重大な犯罪行為に係ることなのです」

 キスカはそう言ったが、正確には「サーザンエンドにとって」ではなく「私にとって」なのだろうとレオポルドは感じていた。

「重要なことは殊更よくよく考えて決断を下さねばならない。故に考える時間を確保する為、保留しているのだ」

「そのような詭弁に引き下がるわけにはいきません」

 頑として引き下がろうとしないキスカにレオポルドは困り果てたが、彼は切り札を持っていた。

「それじゃあ、俺はいつまで経っても息子に会えないじゃないか。もうずっと顔を見るのを楽しみにしていたのに」

 愛しい人の残念そうな声音にキスカの心が揺らいだのは傍目にも明らかだった。

「名前ももう決めているんだ。ニコラウスという名にしようと思うのだがどうかな。迫害を恐れず誰をも等しく診察したという医学の聖人に因んでいるのだが」

「聖ニコラウスですか。確かに良い名です」

「他者の命を救う医者という仕事は最も貴い仕事だと俺は思っていてな。実際、昔は本気で医者になりたかったくらいだ」

 そういえば、レオポルドはよく医学の本を読んでいるとキスカは思い当たる。

「ニコラウスに俺の小さい頃の夢を叶えてもらうのも良いかもしれないな」

「それは、素敵なことかもしれません」

「もっとも、本人の希望次第だ。親が子の道を決めつけるというのは良くない。ろくなことにならんからな。子供には好きなことを何でもやらせてやって色々なことを経験させることが肝要だ」

「私もそう思います」

「というわけで、俺はその子の顔が早く見たいな。たぶん、君に似た可愛らしい顔立ちなのだと思い描いているのだが」

 キスカは未だ釈然としない様子ではあったが、渋々と踵を返す。

「死刑執行命令書の件は後で必ずお話させて頂きます」

「わかっている。でも、今日は息子の顔を見て、君との再会を喜びたいな」

 そう言ってレオポルドは彼女の手を取って青い小宮殿の中に入っていった。

 睦ましく寄り添う二人の背を見送る兵が隣に立つ同僚に呟く。

「キスカ様も案外と単純だな」

「そりゃあ、キスカ様があんなに怒ってたのは辺境伯様が大事だからなんだから、その辺境伯様に腹痛めて産んだ子の顔を見たいって言わりゃ悪い気はせんだろうよ」

「キスカ様も恋する女子おなごだってことだよ」

「静かにっ」

 彼是勝手なことを囁き合う兵たちを士官が睨みつけて黙らせた。

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