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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第一三章 内憂の年
210/249

二〇四

 帝国南部西岸イスカンリア地方の港町カルガーノに着いたレオポルドを待っていたのは嬉しい知らせだった。

 それはキスカが無事に二人目の男子を産んだという知らせで、彼にとっては四人目の子となる。

 その吉報を齎したのはカルガーノに留め置かれていたハヴィナからの手紙だった。

 カルガーノには彼の配下の連絡要員が常駐し、サーザンエンドと帝都をはじめとする帝国本土の間の連絡の中継を行っている。レオポルドがアルヴィナを発したことを知った彼らは行き違いを避ける為、ハヴィナからの手紙や報告書を発送することなく、カルガーノに留め置いていた。

 この知らせを聞きつけたライテンベルガー侍従長やハルトマイヤー外務長官といった重臣たちは相次いでレオポルドに祝辞を述べに来た。

 正夫人ではないキスカの子の生誕であっても彼らが祝辞を述べるのは、王侯が愛人を抱えることは珍しいことでもなく、特に憚るようなことでもない為であり、彼女のレオポルドへの影響力を理解している為でもある。

 レオポルドの書斎に入る書類の大半は彼女を経由していたし、特にムールド関係の情報はほぼ全て彼女の差配によって収集・整理されてからレオポルドの書机に置かれているくらいである。それだけ彼は彼女を強く信頼しており、そのことはハヴィナでは周知の事実なのだ。

 となれば、祝辞を述べておいた方が宜しいというものであろう。少なくともわざわざお祝いの言葉を飲み込んで主君の耳に入れないようにする必要もない。

 もっとも、レオポルドは祝辞を言われても言われなくても大して気にしない性質であった。

 それでも、さすがにファディに赴任する新任のムールド司教バルタ・シュヴァルツェルト博士が祝辞を言いに来た時は思わず面食らってしまった。

 帝国中央学院で神学の教鞭を執っていたシュヴァルツェルトは聖典回帰主義を唱え、現状の教会のあり方や多くの聖職者の堕落を批判していた為、南部辺境ムールドの司教に任じるという形で帝都から遠ざけられ、レオポルドの帰国に便乗していたのである。

 博士は何処から耳に入ったのかレオポルドの愛人が子を産んだということを聞きつけて、お祝いを言いに来たのだ。

 愛人を抱えたり、非嫡出子を儲けたりということは諸侯や貴族、大商人や上級聖職者では珍しいことでもないので、時と場合を弁えれば口に出してもさしたる問題とはならないが、相手は教会の堕落を強く批判する潔癖な聖典回帰主義者なのである。

 教会の主流派とは縁遠い司教に彼是と批判されたところで、レオポルドの権威や名誉に傷が付くということもないが、夫婦の正しき姿やら清貧な生活についてくどくど説教を聞かされるのは楽しいことではない。

 とはいえ、聖職者を邪険に扱うのは憚られる。あまり信心深くはないが、レオポルドも主の教えと救いを信じる正教徒なのだ。

「思いがけずお祝いのお言葉を頂き、恐縮の限りです」

「いやいや、新たな命の芽吹きを祝わない者などいましょうか。お祝い申し上げるのは当然のことです」

 枯草のような細い髭を生やし、だいぶ髪が後退して禿が目立つ痩せて小柄な貧相で弱々しい老人といった風貌のシュヴァルツェルトは意外にも非難する様子ではない。

「お生まれになったのはご子息ですかな。ご息女ですかな」

「男子です」

「ムールド人の男児は馬の鞍が揺り籠代わりだと聞いたことがありますが、真ですかな」

「いや、それは些か誇張されているかと。しかし、確かにムールド人は早くから馬に乗ります。それこそ立って歩けるくらいになるとすぐ乗馬を教わるようです。一〇歳くらいの少年ならば大抵の帝国人の騎兵よりも上手く馬を乗りこなします」

「なるほど。ムールドで主の教えを広めるという使命を果たすには、彼の地に住む人々についてよりよく知らねばなりませぬが、私の知識はまだまだ未熟なようです。彼らの言葉についても学びたいのですが、何か資料などありましたら、お貸し頂けないでしょうか。生憎と急な出発だったので、恥ずかしながら資料を集めることができず、私はムールドは勿論のこと、帝国南部について全く無知なのです」

 どうやらシュヴァルツェルトは前任者とは違ってムールド司教の職責を真剣に熱心に果たそうと意気込んでいるらしい。

「後ほど、いくつか見繕って適当な書物をお送りいたします」

「それはありがたい。痛み入ります」

 司教は丁寧に礼を述べてから、瞼を閉じ手を組んで静かに言った。

「主よ。新たな命に祝福を与え給え」 

 聖職者が異教徒の子に祝福を願ったと知れれば、帝都であれば大変な問題だろう。異端審問にかけられてもおかしくない。

 レオポルドが面食らっていると司教はにこりと微笑む。

「新たな命に信仰の差異などありましょうか。主は全ての子を祝福し、教え導き、救うのですよ」

 そう言って退室しようとした司教の小さな背にレオポルドは思わず声をかけていた。

「願わくば、我が子に名を与えて頂けませんか」

「お名前はご両親がその子を思って考えられた方が宜しいと思いますが」

「では、参考にしたいので、司教のご意見を賜りたい」

「そういうことでしたら、そうですなぁ。今日は聖ニコラウスの日ですから、その名にあやかっては如何ですかな」

 聖ニコラウスは、まだ西方教会が世俗権力に認められていなかった時代の優れた医師で、迫害されていた正教徒にも分け隔てなく診療した為、異教の権力者に睨まれて殺されたという。その後、列聖され、医師の聖人として称えられている。

 もっとも、聖ニコラウスは正教徒ではなく、異教の徒だったと聖典には書かれている。

 後に教会は聖人が異教徒では差し障りがあるということで、聖典には異教徒と書かれているが、諸々の事情があって改宗することができなかったものの内心においては正教徒であったという解釈を発表していた。

「感謝いたします。司教の神聖なる職務が滞りなく、良い成果を得られるよう願います」

「主の御心に叶うよう誠心誠意努力を尽くしますよ」

 レオポルドの言葉に司教はそう言って笑った。

 どうやら聖典回帰主義は言われているほど原理主義とか急進主義というわけでもなさそうだとレオポルドは考えを改めることにした。


 司教が退室した後、レオポルドは書類仕事に取り掛かることにした。

 レオポルドは帝都滞在中も頻繁にハヴィナから様々な報告を受けると同時に指示を出しており、その返答や新たな報告がカルガーノに留め置かれて書類の山を形成していた。

 まず、目下において最も重要な課題はレイクフューラー辺境伯討伐への従軍である。

 戦争を行うには言うまでもなく様々な準備を要す。将兵の休暇を取り消して連隊と中隊に編入し、いつでも動員できるよう待機させ、糧秣や水、武器、弾薬、衣服などを調達して輸送できるよう手筈を整え、それでも足りない物品を遠征先で現地調達する為の現金の用意と、その一つ一つが大変な労力と時間を要する作業である。

 レオポルドはこれらの作業を万端滞りなく速やかに行うよう帝都を出る前に指示を飛ばしていたのだが、返事を見るに準備は順調であるらしい。

 しかし、レオポルドが皇帝に大見得切って約束したアーウェンの従軍の方は順調とはとても言い難い状況のようだ。

 報告によれば、帝国からのレイクフューラー辺境伯討伐の命を受けて招集されたアーウェン国会はほぼ従軍反対という意見で占められたという。

 独立志向が強いどころか、未だにアーウェン王国は帝国とは別の国であると考えているアーウェン士族にとって皇帝とレイクフューラー辺境伯の争いは自分たちとは全く関係のない他人事であり、命と労力と金と時間を費やす義務も意味も義理もないことなのだろう。

 もっとも、これはほぼ予想通りの展開であり、皇帝も帝国政府もアーウェン人たちが素直に言う通りに動くとは露ほども考えていない。

 レオポルドは自分ならこの自分勝手で頑迷なアーウェン士族たちを動かせると豪語したのである。

 万が一、アーウェンが出兵を拒否などしようものならば、レオポルドの面目は丸つぶれとなるだけでなく、皇帝からの信頼は失墜しよう。

 また、南部からフューラー地方に攻め込む軍勢はサーザンエンド辺境伯軍とレウォント方伯軍のみで構成せざるを得ず、戦力の大幅な低下は免れまい。

 とはいえ、それよりもレオポルドがアーウェンにほとんど影響力が及ばないということが、皇帝や帝国政府、帝国諸侯、レイクフューラー辺境伯やその君主となっているカロン及びフューラー王キスレーヌなどに周知されるということがより重要な問題である。

 アーウェン王国はその気になれば大陸最強と名高い精強なるアーウェン槍騎兵を一万騎以上動員できるほどの戦力を誇る。これを動かすことができる存在が如何に重要であるかは言うまでもない。

 レオポルドが皇帝にも従おうとしないアーウェン士族をいくらなりとも動かすことができるということが知れれば、彼の影響力は単なる辺境の諸侯という枠を超えることができよう。

 そういうわけで、レオポルドとしては自身の影響力を誇示する為にもあらゆる手を講じてアーウェン軍を動員させたいのである。

 早速、レオポルドは知己のある有力なアーウェン諸侯ヴィエルスカ侯に手紙を送ることにした。アーウェンでも有数の勢力を誇り、親帝国の立場を取る侯はレオポルドに好意的で比較的親しく連絡を取ることができる相手だ。

 レオポルドは手紙で、アーウェンの立場に理解を示しつつも、皇帝の命令に背くことは帝国からの干渉を招くことに繋がりかねず得策ではないこと。命令に応じて従軍すれば皇帝の信頼を得ることができ、ひいてはアーウェンの独立を守ることに寄与すること。従軍に際してはレオポルドが可能な限り支援する用意があることなどを綴った。

 アーウェン軍の主力は士族たちによって構成される槍騎兵の軍団であるが、言うまでもなく彼らだけで軍事行動は不可能である。槍騎兵を援護する歩兵や砲兵、偵察や伝令を担う軽騎兵、糧秣や武器の補給を行う輜重部隊などが不可欠である。

 アーウェン王国ではこれらの兵科は農民から徴募するか傭兵を雇い入れるのだが、その費用は国庫によって賄われることになる。

 とはいえ、独立心旺盛なアーウェン士族の緩やかな連合といった体である王国に財政的な余裕などあるはずもなく、不足分は諸侯や士族が協力して資金を供出することになるのだが、大半を占める零細士族にとってはかなり重い負担となろう。

 その財政的負担こそがアーウェン士族が従軍を拒む最大の理由なのだ。

 勇猛果敢な彼らは戦場に赴き命を捨てることは厭わないが、義務も必要もない物事への出費にはかなりの拒絶反応を示すのである。

 これを十分に理解しているレオポルドはその負担を軽減することを提案することにしたのだ。

 具体的にはレオポルド率いるサーザンエンド軍がアーウェン軍と軍事行動を共にすることによって、糧秣や武器などを供給し、槍騎兵への支援を担うというものだ。

 当然、レオポルドの負担は重くなるが、それくらいの出費でアーウェン軍を動かすことができる利益は計り知れない。

 帝国に反抗することの不利を理解しているヴィエルスカ侯は出兵には否定的ではないはずであり、財政的負担を軽減するというレオポルドの提案は同輩を説得する一助になるだろう。

 侯への手紙を書き終えた後、レオポルドは次の書類を手にして不機嫌そうに顔を顰める。

 それは罪人の死刑執行命令書であり、レオポルドの署名を求める文書が添えられていた。

 サーザンエンド辺境伯領における司法制度は第一審である地方裁判所または領主裁判、その上級審である高等法院から成る。法的には自由民は更に帝国高等法院への上告が可能ではあったが、それが可能な労力や費用、法知識を有する者は多くはないので、実質的には第一審またはサーザンエンド高等法院の判決が確定することがほとんどであった。

 裁判所はしばしば死刑判決を下したが、これを執行するには辺境伯の署名が必要となる。

 死刑執行命令書は何枚かあり、それぞれに罪人の名前と年齢、性別、住所、職業、それに罪状が書かれ、裁判所の判決文が添えられている。

 一枚目の命令書を保留した後、殺人や強盗、強姦といった罪状の死刑執行命令書にさらさらと署名し、決裁済みの書類を入れる箱に置き、再び一枚目の命令書を手に取った。そこに書かれた罪人の名前には見覚えがあった。

 ニク・マザル・ナヴィン。

 南岸ハルガニ地方の港町ラジアの主であったアスファル族の族長の末娘で、一族を滅ぼした憎き仇であるレオポルドに復讐すべく暗殺を試みた少女である。彼女の刃は彼に届いたものの、致命傷を与えるには至らなかった。

 未遂とはいえ君主を狙った暗殺犯には極刑以外の選択肢はあり得まい。サーザンエンドでなくとも、帝国のみならず大陸の何処でも、或いは全く文化の異なる違う大陸でもおそらくは同様の判決が下されよう。

 しかし、彼はあまり気が進まない様子で、彼是で思い悩んだ後、命令書を保留の箱に放り込んで、別の書類に取り掛かった。

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