二〇三
秋も暮れた頃になってようやく帰国が許されると、レオポルドはそそくさと帝都を後にした。
帰国が許されたのはレオポルドが積極的にフューラー討伐の作戦を提案し、更にレイクフューラー辺境伯の有する戦力などの情報などを提供したこともさることながら、帝国によるフューラー討伐の時期が来春早々と決められた為でもあった。
来春というのはフューラー独立から半年以上も経った時期で、かなり遅い感があるが、一〇万以上もの帝国軍の編成や遠征の準備には数月の時間を要す他、冬季となると帝国本土の内陸部や北部では積雪があり、軍事行動が困難となるので、雪解けを待たなければならないのだ。
来春を予定している帝国軍本隊によるフューラー侵攻に合わせて南部から攻撃を行うとなれば、サーザンエンドの首都ハヴィナからフューラー地方まで軍隊の行軍では一月以上の時間を要すので、サーザンエンド軍は年明け早くに進発しなければ間に合わない。となれば、レオポルドは遅くとも年内にはサーザンエンドに戻り、アーウェン諸侯やレウォント方伯と協議して軍勢を組織し、遠征の準備に取り掛からなければならないだろう。
そう考えると帰国はかなり遅く、レオポルドが帰路を急ぐのも当然というものである。
というのは建前で、一刻も早く皇帝のお膝元から離れて、自身の心身及び政治的な自由を取り戻したいというのがレオポルドの本心であった。
相変わらず陰鬱に立ち込めた雲から止めどなく雨が降り注ぐ中、サーザンエンド軍の将兵は合羽を着込んで隊伍を組み、荷を積み込んだ十数台の荷馬車には防水対策の覆いが付けられた。糧秣や水袋を背中に積んだ駱駝たちは寒さに慣れない様子で落ち着きなく足踏みを繰り返している。
隊列がすっかり整うとレオポルドと随行の重臣たちがウェンシュタイン邸に残る帝都駐在の家臣たちに見送られて屋敷を出た。
「それでは、後は宜しく頼む」
帝都駐在のディーテル卿とジルドレッド大尉にそう言い残すとレオポルドは馬車に乗り込む。帝都滞在中に発注していた四頭立ての大型馬車で、ばねを装備しているので乗り心地が良く、貴族や富裕な商人ならば必ず保有している代物である。
彼の後には侍従長ライテンベルガー卿、外務長官ハルトマイヤー卿、それに官房長のレンターケットが続く。普段であれば別々の馬車に分乗するのだが、この日は大の男ばかりで膝を詰め合わせ、肩を寄せ合って狭い客室に収まっていた。大型馬車といえど、男四人も乗れば窮屈なのだ。
「まったく、忌々しい雨ですな。サーザンエンドのからっとした風が懐かしい」
雨に濡れた外套の雨粒を払いながらハルトマイヤー卿がぶつくさと言った。
「冬が来る前に帰国できただけ僥倖と思うべきであろう。雪道を行くのは骨が折れると聞くからな。それに今以上の寒さには耐えられる気がせん」
ライテンベルガー卿の言葉にハルトマイヤー卿も頷く。南部で生まれ育った二人にとって帝都の秋は湿っぽいばかりでなく、気温さえも経験したことがない寒さであった。サーザンエンドでは冬でも帝都の秋ほど寒くはならないのである。
彼らは馬車の客室に座って毛布を被っていればいいが、問題はサーザンエンドから連れてきた将兵や人夫である。慣れない寒さと雪道を半月以上も歩かされるとなれば、容易ならざる行軍となることは予想に難くない。
「何はともあれ、これで一安心ですな」
呑気な様子のレンターケットをライテンベルガー卿とハルトマイヤー卿は「一体誰のせいでこんなことになっているのか」と言いたげに睨んだ。
気持ちとしてはレオポルドも同じではあるが、彼にはまだまだ役に立ってもらわなければならない。
「帝国の置かれた状況はあまり良くない。レイクフューラー辺境伯に不意を突かれた上、討伐軍を発するのに半年もかかるという有様だ。その間に辺境伯は軍勢を万端に整え、領国の防御を固め、近隣の諸侯や豪族に調略の手を伸ばすだろう。主導権は完全に辺境伯が握っている。とはいえ、帝国も態勢を整えれば圧倒的な軍事力と国力に物を言わせることが可能であろう。しかしながら、それでもレイクフューラー辺境伯は勝てると確信している」
レオポルドがこれまでの情勢を改めて整理する。
「帝国軍は本隊だけでもフューラー・カロン軍に倍する勢いですが、果たしてレイクフューラー辺境伯に勝算はあるのでしょうか。北部と南部から別動隊がフューラーの後背を脅かすとなれば、更に情勢は帝国有利となるのは明らか」
ライテンベルガー卿の疑問にレンターケットが答える。
「フューラー軍は西の国境に三つの要塞とそれを支える数多くの支城と砦から成る防衛線を築いております。如何に帝国軍が大軍といえど突破には多大な犠牲と労力を強いられるでしょう」
三つの要塞は街道や川の渡河地点などを阻むように築かれており、いずれかの要塞を攻め落とさなければフューラー地方への進軍は難しく、補給路を維持することもできないという。
帝国軍はどの要塞を落とすか選ぶことはできるが、攻城にはかなりの時間を要することになろう。そうして要塞に張り付けられた帝国軍にカロン・フューラー軍が迫るという軍略だろうか。
「カロン・フューラー連合軍の総指揮はキスレーヌ陛下が執られます。おそらくは本隊の指揮も自ら執ることでしょう」
「黒髪姫か。名を聞いたことはあるが、所詮は小娘であろう」
ハルトマイヤー卿が不愉快そうに鼻を鳴らす。
「小娘に戦を任せるとは。カロン軍に将軍はおらんのか」
「キスレーヌ陛下は並の器の御方ではないとのこと。戦場では奮迅の働きを見せ、勝機を決して見逃さず、天才的な直感と果断によって継承戦争でも幾多の戦いを勝ち抜いてきたとのこと。女王を支える将軍や騎士も歴戦の強者ばかりと聞きます」
レンターケットの説明を両卿は胡散臭そうに顔を顰めて聞いていた。
「カロン・フューラー連合軍が如何に強力であろうとも、我々はフューラー討伐に従軍せねばなるまい。兵を出さないとなれば、陛下への忠誠を疑われかねぬ。辺境伯の屍の上に躯を重ねるようなことは避けたいからな」
フューラー討伐への従軍は皇帝からの勅令であり、これに背けば不忠と非難されるどころか、レイクフューラー辺境伯退治が一段落した後、サーザンエンドに討伐軍が送り込まれるということもあり得るのだ。レイクフューラー辺境伯が勝つという確証がない限り、出兵しないという選択はできない。
「レイクフューラー辺境伯の目論見通りに帝国軍が敗北を喫するとなると我々の立場は不味いことになる。カロン・フューラー連合軍と単独で戦わねばならんし、必要以上に我が軍の将兵の血が流れることは望ましくない」
要するにレオポルドは勝ち馬には乗りたいが、犠牲や損失は被りたくないのである。
もっとも、これは彼に限ったことではなく、多くの諸侯や貴族に共通する感覚だろう。そこを踏まえると帝国軍に従軍する諸侯たちの戦意や士気にも疑問符が付く。彼らは果たして本気で戦いをするつもりなのか。
「万が一、帝国軍が敗れたとしても、我が軍が無事に撤退できる状況を整えておく必要がある」
「それは問題ございません」
レンターケットは自信ありげに胸を張った。
「閣下が兵を率いてフューラー国境まで出張ったとしても、一線を越えない限りレイクフューラー辺境伯は閣下を敵とは見做されないでしょう。撤退をなされても追撃するようなことは万に一つもありません」
「その一線とは何か」
ライテンベルガー卿が険しい顔で指摘する。
「兵を率いて国境まで出張って何もせず時間を空費していては皇帝陛下から忠誠を疑われかねぬ。何らかの働きを見せねばなるまい」
サーザンエンド軍が担当するフューラー地方の南の国境と帝国軍本隊が担当する西の国境の間はかなりの距離があり、早馬を飛ばしても連絡に数日を要する為、両軍が互いにどのような動きをしているか直ちに把握することはできない。とはいえ、何もせず誤魔化しておくにも限度というものがある。
「南の国境にはオスビナー要塞があります。これを攻めるには中々に骨が折れるかと」
本格的な要塞を攻略するとなるとある程度の時間を要するのは当然であり、下手をすれば数月に渡ることもあり得る。
要塞攻略に時間がかかっていると言えば、進軍が停滞している言い訳としては十分だろう。
その間に戦況が決し、帝国軍が勝てばそのままフューラー地方に進み、カロン・フューラー連合軍が勝てば安全に兵を退くことができる。レオポルドにとっては確実に勝ち馬に乗ることができる大変都合の良い話と言えよう。
「しかし、そう慎重にならずとも、そのまま兵をフューラーへと進めてしまえば宜しいのではありませんか。我が軍がカロン・フューラー連合軍本隊の後背を脅かすように進撃すれば帝国軍の勝利は確実なのでは」
ハルトマイヤー卿の指摘にレオポルドは隣に座るレンターケットを見やりながら答える。
「あの女狐が調略の手を伸ばしているのが私だけとは言えまい」
レイクフューラー辺境伯の人脈は大変広く、親しく付き合っていた諸侯や貴族、聖職者、役人、学者は数知れない。レオポルドと同じように両者を天秤にかけている者は少なくないだろう。既に内通を決め、時機を図っている者もいるかもしれない。
いざ、戦場に着いた時、命令を拒否して、戦いを放棄する部隊が出るかもしれないとレオポルドは考えていた。決定的な場面で矛先を変える部隊が現れる可能性すら否定できない。
「ならば、どちらが勝っても生き残れるような道を選ぶべきであろう」
「仰る通りかと」
ライテンベルガー卿が同意するように言うと、ハルトマイヤー卿は恐縮したように頭を下げた。
「しかし、陰気な雨だ。道が悪くなっていなければいいが」
窓の向こうを見やりながらレオポルドは呟く。
口には出さなかったがレイクフューラー辺境伯が勝った方が面白いと彼は考えていた。
帝国がレイクフューラー辺境伯を潰したとしても、レオポルドにとって得になることはあまり多くない。いくらか債務が軽くなるくらいだが、これまで頼りにしてきた支援者が失われることは損の方が大きいとすら言える。急な大金を欲する時にぽんと貸してくれる人間など滅多にいるものではない。
逆に帝国が敗れ、その勢力が大きく衰えれば、サーザンエンド辺境伯領として皇帝から認められた領土から飛び出し、その勢力を大きく伸ばす好機かもしれない。
「中々に面白いことになってきたじゃないか」
そう口の中で呟くと彼は口端を釣り上げた。
レオポルドたちの一行は降り続く雨の中でも無事に港湾都市アルヴィナに辿り着き、停泊していた艦艇に乗り込んだ。
先に海軍主計長官に話を付けて払い下げられた内海艦隊の老朽艦を加えたサーザンエンド海軍はフリゲート四隻、ブリッグ・スループ五隻という陣容になっていた。
この艦艇にはレオポルド一行とその荷物以外にもレイクフューラー辺境伯の依頼によって買い込まれた大量の小麦が積み込まれていた。
レイクフューラー辺境伯の金で買った小麦ではあるが、今更、東部へ送ることもできないので、自軍の糧秣として使うしかないだろう。
サーザンエンド海軍の艦艇は慌ただしく出港し、南部東岸のカルガーノへと向かった。
このままいけば予定通り年内にはサーザンエンドに到着できるだろう。