二〇二
秋に入ってから帝都では一月以上も雨が降り続いていた。
もともと、秋は雨が多い季節だが、それにしても今年の雨は長く、雨が止んだと思ってもどんよりとした雲が去ることはなく、数日もすると再び雨が降るという有様で、晴れ間が見える日は一日としてなかった。
長雨によって帝都は至る所、泥塗れになりつつあった。石畳が敷かれた主たる道路以外の道はひどい泥濘と成り果て、人や馬、馬車が行き交う度にかき混ぜられ、跳ね上げられた泥が道に面した家々の戸や壁をも汚していく。側溝からは汚物を含んだ汚水が溢れ返って、耐え難い悪臭を路上にまき散らしていた。
あばら家や粗末な小屋に住む貧民、或いは寝床すらなく路上で生活している浮浪者たちの普段から宜しくない衛生状況は急激に悪化の一途を辿り、路地裏に転がる躯は日ごとに増えていく。医者や衛生に関心のある者の間では疫病の流行を疑う者も少なくない。
長雨は落ち着きを取り戻していた食糧価格を著しく上昇させることとなった。
既に収穫は終えている麦は長雨の影響をほとんど受けなかったものの、秋に収穫を迎える野菜類や果実、特に蕪には甚大な被害が生じた。蕪は庶民が頻繁に口にする機会の多い根菜であり、家畜に食べさせる飼料用野菜でもある。
また、この頃にはフューラー討伐が避け難い状況となったことも食糧価格の上昇の拍車をかけた。
中でも麦価は大きな影響を受け、ここ半年にも満たない間に麦の価格は平時の三倍近くまでに値上がりした後、帝国政府の救貧策の施策によって平時並みに急落したのの、秋に入ってから半月もしないうちに平年の倍以上まで急上昇するという乱高下を見せることとなった。
延々と降り続く長雨によって気分が落ち込む上、戦争避け難いという情勢に加え、貧民街や路地裏では疫病が猛威を振るい、食料の値もいつもの倍以上に高騰するとなれば、市民の間に不穏な感情や空気が蔓延するのは無理からぬことであろう。
帝国は遠く遠く離れた帝国東部で不忠極まる裏切り者のレイクフューラー辺境伯一党を討滅する前に、足元の帝都に広がる社会不安への対応に追われることとなった。
重臣たちは軍議よりも市内環境及び市民生活の回復に向けた対策を話し合い、軍事用に備蓄されていた小麦はその本来の役割を果たす前に、救貧対策として炊き出しに利用されることとなり、兵たちは遠征の準備よりも先に市内の警備と巡回、溝掃除と路地裏に放置された人や獣の死体の処理に駆り出されている。
その一方で、フューラー派と見做された人々への追及は日を追うごとに苛烈さを増し、連日のように多くの貴族や役人、商人、学者が拘束され、白亜城へ連行されていた。
レイクフューラー辺境伯は帝国でも有数の富裕な有力諸侯であり、来る人は誰彼構わず受け入れて歓待し、気前よく援助を与え、様々な便宜を図ってやったので、彼女と親しく付き合おうとする者や取り入ろうと近付く者は少なくなかった(かくいうレオポルドのその一人である)。それどころか、全く付き合いがないという貴族の方が稀であり、親しくしていた貴族の中には皇帝党と呼ばれる皇帝の側近も含まれている。
とはいえ、彼らの多くは今回の不遜な計画の存在など露ほども知らず、ほとんど寝耳に水と言って良い出来事であったから、関り合いのあった人々が片っ端から拘束されているというわけではなく、実際に拘束されたのは特に彼女と親しく計画を知り得る立場にあったか、加担或いは協力していた可能性が疑われる者たちであった。
レイクフューラー辺境伯が長を務めていた保安委員会や公安委員会の幹部たち、フューラー独立の報が知らされる直前に帝都から姿を消した郵政長官ナルニム伯の部下であった帝国郵便の幹部ら、海軍主計長官の首席事務官も拘束され、更には屋敷に出入りしていた商人、彼女の支援を受けていた学者、庇護を受けていた画家まで白亜城に連行されたという。
また、フューラー派とまでは言えないもののレイクフューラー辺境伯と親しい間柄でありながら、今回の計画を察知できなかったことは極めて不届きであるとして更迭されたり、出仕差し控え或いは自宅謹慎を命じられた者も少なくなかった。
その中にはレオポルドの伯父である式部長官ベルゲン伯も含まれていた。伯もまたレイクフューラー辺境伯と親しく、皇帝党や法服派といった派閥にも属していないので後ろ盾もなかった為か、拘束は免れたものの、式部長官の職務を解かれ、出仕差し控えを命じられた。
これはベルゲン伯を通じて宮廷中枢の様子を見聞きしていたレオポルドにとっては大変な痛手であったものの、彼自身も関与を疑われかねない立場である為、伯父の為に抗議することもできず大人しく沈黙を守るより他なかった。
この間、フューラー独立の報から既に一月が経っていたが、レオポルドは未だ帝都から出ることが許されず、クロス邸に引きこもって落ち着かない日々を過ごしていた。
「いやはや、大変なことになってきましたなぁ」
どんよりと陰鬱な灰色の雲から滴り落ちる雨音を背にしてレオポルドがサーザンエンドへ向けた手紙を書いていると、レンターケットが書斎にやってきて開口一番にまるで他人事のように言った。
一体、誰の企みによってこのような事態に陥っているというのか。レオポルドの側近くに仕える官房長でありながらレイクフューラー辺境伯の配下でもある彼は今の帝都では最もよく状況を理解している一人に違いない。
「お陰様で大変厄介なことになっているよ」
白々しい物言いにレオポルドは苛立たしそうに顰め面で言い放つ。
彼がいつからどの程度まで件の計画について知っていたのかはわからないが、レイクフューラー辺境伯の指示や連絡は彼を介して行われていることから、計画をある程度の理解した上でレオポルドを嵌めたと考えるべきだろう。
そもそも、キレニア・グレーズバッハの策略はここ近年の間に思いついたという類のものではなく、彼女の一族郎党が皇帝によって虐殺された時から始まった遠大な復讐劇の長い長い序章の終わりと見るべきであろう。彼女がレオポルドを支援し、その配下にレンターケットを送り込んだことも壮大な計画の一部に違いない。
つまり、レオポルドと初めて出会った時、既に彼はレイクフューラー辺境伯が皇帝に反旗を翻す企みを抱いていることを知っていながらこれまで一言も漏らさず、彼女の意図する通りにレオポルドを動かしてきたのである。
土壇場でその事実を知ることとなったレオポルドが苛立ち、不満に思うところあるのも当然であろう。いくら本当の主はレイクフューラー辺境伯だとは言っても、もう何年自分の身近に仕えているというのか。
それでもレオポルドは彼を傍に置き続けるつもりだった。その重要性は些かも変わらないどころか、以前にも増して貴重な存在と言える。
帝国に背いた裏切り者の配下を手許に置いておくのは一歩間違えればその一味と見做されて粛清されかねない危険な行為ではあるが、レオポルドはレイクフューラー辺境伯と完全に断絶し、一切の関りを絶つというつもりは毛頭なく、少々の危険や損失を払ってでも連絡を取り合える繋がりを確保しておきたかった。
立場的には干戈を交える敵同士となったものの、この先、何らかの交渉を持つ可能性は十分にあり得るだろう。その時、連絡できる繋がりを持っているかいないかでは大きな差が生じる。
例えば、帝国による討伐が上手くいかず停滞するようなことがあれば、和平の機運が高まるかもしれない。そうなった時、和平の仲介を主導することができれば、その立場は極めて有利なものとなろう。
或いは、フューラー派に鞍替えする場合にも当然、レンターケットは上手く働いてくれるに違いない。
つまり、レオポルドは皇帝によるフューラー討伐が上手くいくとは完全には信じていないのである。
かつてと比べ、帝国の弱体化は明らかであり、皇帝による諸侯、貴族の統制も十分とは言い難い。確かに帝国軍は未だ強力ではあるが、これを支援する諸侯は唯々諾々と大人しく従軍するだろうか。
そもそも、あの老獪極まる女狐が何の勝算もなく反乱という負ければ全てを失う賭けをするとは思えない。帝国の討伐があっても、それに打ち勝つ見込みがあるから最後の賽を投げたのだろう。何らかの切り札を持っていると見るべきではないだろうか。
大抵の場合、反乱は勝つ見込みがあって行うか、追い込まれて行うか、余程の阿呆がやるかのいずれかである。レイクフューラー辺境伯は阿呆ではないし、追い込まれてもいないのだ。
そういったわけで、レイクフューラー辺境伯と心中するつもりはないが、皇帝と心中するつもりもないレオポルドはレンターケットを責めるでもなく、従前と変わらず側に置き続けていた。
「ところで、閣下は南部方面よりフューラーに攻め入ると聞きましたが」
「そういう提案をしてはみたが、はてさて、上手くいくかな」
レンターケットの問いにレオポルドは憂鬱そうに答える。
レオポルドの提案を聞いた帝国軍首脳は南部から敵の後背を突くという作戦に魅力を感じているようだったが、それから暫く経っても帰国を許す知らせが届く気配はなかった。
もしかすると、帝国軍高官から聞いた重臣がレオポルドの帰国に異を唱えたのかもしれない。実は裏でレイクフューラー辺境伯と繋がっているのではないかという疑念を持つ者がいてもおかしくはないだろう。
「では、もう一押しが必要ということですな」
「そうなのだが、上手い策が思いつかん」
「例えばレイクフューラー辺境伯の軍事情勢などを知らせれば、閣下がフューラー派だという疑念を払拭することができるかもしれませんな」
レンターケットの言葉にレオポルドは眉根をぴくりと動かす。
「どういうつもりだ」
「どうもこうもありません。一刻も早く閣下がご帰国できるようお助けをいたしたいと思いまして」
ということは、レンターケットの真の主であるレイクフューラー辺境伯はレオポルドが帝都から離れサーザンエンドに帰国することを望んでいるということだろう。
それはレオポルドの帝都での役割は終わったものの、生かして領地に戻すくらいの利用価値はまだあると見做されているらしい。
散々帝都で危ない仕事をさせておいて、まだ利用するつもりかと思わなくもないが、目的は一致する。サーザンエンドに帰国できるならば願ったり叶ったりである。
「さようか。それで、親愛なるレイクフューラー辺境伯のご様子は如何か」
「今のところ、順調のようですな」
レオポルドの問いかけにレンターケットはひょろっと伸びた口髭を摘みながら答える。
「辺境伯は如何程の兵を集めたのだ」
「そうですなぁ。銀猫王国継承戦争に備えるという名目で集めた傭兵を合わせて三万は下らないでしょうな。それにキスレーヌ陛下のカロン軍二万近くが加わるでしょう」
「カロン軍はすぐにフューラーへ派兵できるのか。先の継承戦争の後始末に時間を要することはないのか」
「それは問題ないようです。継承戦争の結果、王国内の有力な貴族や豪族の大半はキスレーヌ陛下に服従し、反対勢力は尽く墓の下か国外に追放されましたから、国内に不安要素はないとのこと。また、継承戦争で動員した軍勢を解散することなく、そのまま活用できるので準備期間も最低限で済みますからな」
つまり、レイクフューラー辺境伯にとって銀猫王国継承戦争は自身の反乱準備を隠す格好の隠れ蓑だったと言えよう。継承戦争の名目で兵を募り、情勢不安を理由に帝都から離れることができたばかりか、援軍の準備まで整っているのだ。
一方、帝国軍は一〇万以上の軍勢を動員する予定だと云われている。これにはレオポルドが提案した南部からの別動隊は含まれていない。
両軍には倍以上の兵力差があることになる。
「それでも勝てるつもりなのか」
「カロン軍は極めて精強であり、傭兵も歴戦の兵揃いだとか」
数年に渡って続いた継承戦争を戦い抜いたカロン兵や傭兵たちの戦闘経験や練度は、長らく反乱鎮圧程度の軍事作戦しか経験せず、本格的な戦役から遠ざかっている帝国軍を遥かに上回るだろう。
とはいえ、戦歴や練度だけで倍以上の兵力差を覆すのは極めて難しい。
軍事は基本的には数こそが力であり、どれだけ多くの兵を動員することができるかで勝敗はほぼ決すると言っても過言ではないのだ。
「また、テリーデン王国から新型の大砲を五〇〇門以上も買い入れているそうです」
大陸北西部に位置するテリーデン王国は古くから良質の鋼を産することで知られ、上質な甲冑や刀剣を各国にも輸出していたが、戦術の変化に伴い、近年はその鋼を使った大砲を多く生産しているという。
「それほど多数の砲を野戦で使う気なのか」
大砲は今や攻城戦では欠かせない兵器ではあるものの、その命中精度の低さから野戦ではそれほど活躍するものではない。動き回る人馬に命中させることは極めて困難であり、多くの砲弾は炸裂しないただの鉄の塊である為、与えられる損害も限られているのだ。
言うまでもなく、レイクフューラー辺境伯は城を攻める方ではなく守る方である。守備側も大砲は使うが、それほど大量に必要とするとは思えない。となれば、野戦で使うつもりなのだろうか。
レイクフューラー辺境伯の思い描く戦術はいまいち判然としないものの、以上の内容だけでも帝国軍高官にとってはかなり貴重な情報であろう。
帝都はこれまで辺境地域である東部情勢にはあまり関心がなかった上、帝国議会やら臨時税やら北伐やらで忙しく、更には帝国郵便などを使った情報封鎖までされていた為、レイクフューラー辺境伯が動員できる兵力やその動きなどについて全く情報を得られていないのだ。
レオポルドはこれまでレイクフューラー辺境伯とは親しく、フューラー地方の近くに領地を有するレウォント方伯の義弟という立場もあって、東部情勢には並の諸侯よりは通じているという建前の下、レンターケットから聞いた情報を齎せば、彼の立場はより有利となろう。サーザンエンド帰国に向けた後押しにもなると思われる。
「しかし、レイクフューラー辺境伯はよく俺を帰国させようと思うな。南部から攻められるという危惧は持たないのか」
「どうやら、そうは思っていないようです」
「一体全体何を考えているのか全く分からん。気味が悪い」
レオポルドが不機嫌そうに呟くとレンターケットは苦笑いを浮かべた。
「よく言われますな」