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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第一三章 内憂の年
204/249

一九八

 マドラス公が辞退した後、帝国議会議長として白羽の矢が立ったのは帝国中部の名門大貴族ネイガーエンド公であった。公は長年将軍として帝国の軍団を指揮した後、高齢によって帝国軍を退いた老元帥で、これまであまり宮廷政治には関与していない人物である。

 しかし、この人事案は数日後に撤回される。

 ネイガーエンド公の姪ユリー子爵はかつて黒髪姫と戦場を共にしたことがあり、当然、その支援者であるレイクフューラー辺境伯とも関係が深い。となれば、臨時税に反対している辺境伯の意向を受けて伯父であるネイガーエンド公に何らかの働きかけをしかねないという意見が出たのだ。

 レオポルドの仕業であることは言うまでもない。

 彼の伯父ベルゲン伯は式部長官という宮廷の式典を取り仕切る要職にあり、皇帝も臨席する帝国議会の仔細についても知り得る立場にあり、その伯父を通じてレオポルドは逸早く議長人事案を知ることができた。

 そこで、レオポルドは宮廷にレイクフューラー辺境伯とユリー子爵の関係に関する噂を流し、議長人事案を葬り去ったのである。

 その次に議長として名前が挙がったのは皇族の長老ルシタニア公であった。前の帝国議会で議長を務めていた公を再登板させようというのだ。

 しかし、老齢で心身の調子も思わしくない老公に議長という大任を負わせるのはあまりにも酷である。また、以前、議長を務めていた際は紛糾する議論をまとめることができず、混乱を全く収拾できなかった為、この人事には疑問や不安が噴出した。

 この時もレオポルドはベルゲン伯やレイクフューラー辺境伯と親しい貴族などを通じて、各方面に噂話を流して、再登板案への反対や不安を煽り立てる工作に精を出した。

 その結果、ルシタニア公再任は沙汰止みとなり、代わって南西部の有力諸侯ロンドバーク侯、北部のクリストフ侯が議長として推挙されたが、両侯はレオポルドが手を回す前に辞退した。臨時税に関与して諸侯や貴族の反感を買いたくないのだろう。クリストフ侯に至っては北伐の目標であるアクセンブリナと領地を接しているのだ。議長などやっている場合ではないだろう。

 こうして、帝国議会議長の人事は一月に渡って空転を続けた。

 その間、レオポルドは議長候補にケチを付ける嫌がらせのような時間稼ぎ工作にばかり励んでいたわけではない。

 臨時税はアクセンブリナを征服せんとする北伐に向けた軍事費調達の為のものである。

 つまり、北伐が実施できない状況となれば臨時税を徴収する目的が失われるのだから、当然に臨時税は取り止めとなろう。

 そこで、レオポルドは北伐を実施不可能となる工作を企む。

 大規模な軍事遠征を行うには大金が必要であることは言うまでもないが、ただ金貨を山ほど積んでいれば良いというわけではない。当然ながらその金で様々な物を買い集めるのだ。

 武器弾薬、被服、馬や牛。そして、最も必要なものが糧秣である。飯がなければ人も馬も動けず、どんなに精強な兵であっても食糧が数日欠乏するだけで使い物にならなくなるだろう。

 中でも重要な食物が麦である。帝国に限らず西方大陸全土において主食とされる最も重要な穀物が麦であり、それは兵とて変わりない。

 つまり、大量の麦がなければ兵は動けず、軍事遠征は不可能となろう。それも極めて大量に必要となるのだ。数万もの兵が消費する麦の量は一日だけでも積み上げればちょっとした山になるくらいの量であるが、数月にも及ぶ軍事遠征となれば数えるだけで人生が数日を要すほどの麦袋を調達せねばなるまい。

 レオポルドはその麦の大量調達の妨害を試みた。

 未だ麦の収穫には早い時期であり、臨時税法案が議会に提出すらされていない状況においては、帝国軍の兵站担当者も糧秣調達にはまだ手を付けておらず、その隙に麦を買い占めてしまおうというのだ。

 帝都より東に広がる帝国中部内陸部の大平原は帝国の食糧庫と名高き麦の大産地であり、帝国軍の糧秣の大半もここで調達される。他の地域から輸送するとなると非効率で、輸送費も馬鹿にならない。

 レオポルドはこの帝国の食糧庫にレンターケットを送り込み、あらゆる領主、地主、農民、諸侯や貴族の領地を管理する代官たちから市場価格よりも高い値で麦を買い上げさせた。例の如く代金はレイクフューラー辺境伯が支払う。買い付けた小麦は刈り取り次第、東へ送る手筈とした。辺境伯はカロン島での銀猫王国継承戦争の為、大量の糧秣を欲しているのだ。

 今年の麦の出来は平年並みとの予想であったが、収穫前から市場価格は既にかなり高騰の気配を見せていた。大陸東部では既に大量の糧秣が求められ、北伐が実施されるという噂を聞きつけて麦の買い付けに走る商人も少なくない。

 そのような状況でレオポルドが始めた麦の大量買い付けは麦価格の上昇に拍車をかけることとなったのだ。

 帝国政府当局がこの事態に気づいた時、麦価は昨年の倍以上の値を付けていた。

 この為、北伐に要する麦を調達する資金は当初予算よりも大幅に上回る見通しとなり、既に固まりつつあった臨時税の法案も見直しせざるを得ず、議長人事の停滞と相まって帝国議会の開催は更に延期される状況となった。


 レオポルドは議長人事の妨害にせよ、麦の大量買い付けにせよ、自身が表に出るようなことは可能な限り避けようと努めていた。議長人事についてはレイクフューラー辺境伯に近しい貴族たちを介して宮廷に噂をばら撒き、麦の買い手はこれまたレイクフューラー辺境伯に影響下にある商会を通して行い、自分の名前が出ないように気を付けていた。

 言うまでもなくこれは皇帝の意向に背く行為であり、レオポルドが首謀者であることが露見すれば、忠誠を疑われ、心証を大いに害することは間違いないだろう。

 とはいえ、これらの行為にレイクフューラー辺境伯の影がチラつくことは隠しようもなく、となれば、彼女と昵懇の間柄にあるレオポルドにも疑いの目が向くのは避け難いこととも言えよう。

「全く面倒な仕事を押し付けてくれたものだ」

 帝都に着いてから一月。議長人事の妨害や麦の買い占めに明け暮れた日々を過ごし、ようやく少し暇ができたある日の朝食の席で、レオポルドは同席していたソフィーネとシルヴィカにこれまでにやって来た仕事の苦労を彼是と愚痴って聞かせた。

 二人は魔女のような黒髪の修道女と異端の異民族という帝都では異質な存在であり、当然ながら帝都には何の縁もなく、屋敷の外で話すような相手もいない為、表には出せない会話をしたところで、外に漏れ出る心配をしなくて済む。

 レオポルドにとっては愚痴を言える貴重な存在であった。

「忙しそうとは思っていましたが、そのような悪しき所業に手を染めていたのですね」

「まるで罪人のような扱いだな」

 ソフィーネの棘のある言葉にレオポルドはむっとして言い返すと、黒髪の修道女は素っ気ない顔でパンを千切りながら説教のように言い連ねた。

「帝国議会議長の件は人の仕事を妨げたという点で、良からぬ行いではありますが、まだ許しましょう。しかし、麦の値をいたずらに吊り上げるような行いは許し難い罪です。あなたの都合によって吊り上げられた麦の高値によって苦しむのは皇帝や帝国政府よりも、むしろ麦を買う庶民です。去年の倍の値で麦を買わされる民の苦しみを如何様に思われますか。これが罪でなくて何だというのです」

 レオポルドは言い返すこともできず黙って茹で卵の殻を剥く仕事に戻った。

「あの、それで、レオポルド様は今日は暇があるのですか」

 食卓の気まずい空気を払うようにシルヴィカが明るい声で尋ねる。

 レオポルドが頷くと彼女は少しだけ気恥ずかしそうに頬を染めながら言った。

「それでは、帝都の大図書館に連れて行ってはくれませんか。以前、お約束いたしました」

 シルヴィカは大変な読書少女で、彼女にとって帝国で随一の蔵書を誇る帝都の大図書館は夢にまで見るような場所なのである。

「そういえば、そうだったな。それじゃあ、今日は大図書館に行ってみよう。ソフィーネはどうする」

「私も同行します。あなたは恨みを買っていそうですからね」

 ソフィーネは相変わらず素っ気ない調子で言い放つ。

「あなたが死ぬと悲しむ人もいますから」


 朝食の後、レオポルドたちはクロス邸を出て馬車に乗り込み、帝都の中心部にある大図書館に向かった。

「ところで、レオポルド様は帝都で生まれ育ったのですよね。お友達やお知り合いにはお会いに行かれないのですか」

 馬車の中でシルヴィカに問われたレオポルドは気まずそうに苦笑いを浮かべた。

「実家が破産した後、長く離れていたから疎遠になってね」

 それ以外にも破産寸前の時期、当時の友人や知人に片っ端から金を無心した為、顔を合わせ辛いという理由もあるが、わざわざ自分の恥辱的な過去を吹聴する必要はあるまい。

 そういうわけで、レオポルドは帝都育ちではあったが、未だに親しい関係を保っているのは後援者であるレイクフューラー辺境伯と親戚のベルゲン伯くらいなのだ。

 馬車は大図書館の玄関前で止まり、レオポルドとソフィーネ、シルヴィカが降り立った。護衛として付いてきたサライ中佐と二人の騎兵が下馬して従い、残りの兵と馬車、馬は外で待機する。大図書館の近くには同じようにやって来た貴族や上流階級の人々の馬車を停めておく場所が用意されている。

 大図書館は身分を明らかにすれば誰もが無料で利用できる施設であったが、元より文字が読めない下賤の民には縁がなく、ある程度の学がなければ読んでも意味が分からない本が大半であるから、必然的に図書館の利用者は中流以上の知識階級に限られた。

 それでも館内には多くの紳士淑女、学者や学生で賑わっている。

 シルヴィカはちょっとした城の広場くらいの広さの館内に山脈の如く聳え立つ本棚の群れを見て目を輝かせた。

 いくつもの巨大な本棚の山脈の間にはベンチが置かれており、利用者はそこで座って蔵書を読むことができる他、窓際には長机と椅子があり、そこで本を読むこともできる。

 本の貸し出しをするには利用者として氏名や住所、連絡先を登録した上で、手数料を支払う必要があった為、多くの利用者は館内で本を読むことが常で、借りていく者は少ない。

 上階には数十の資料室があり、その部屋から持ち出しが禁止されている本を読むことができる。小会議室などもあって、手数料を支払えば貸切って利用することもできた。

 なお、館内は飲食が厳しく制限されており、飲食物の持ち込みは厳しく禁止され、飲食をする場合は外に出なければならない。

 また、回廊に囲まれた中庭には噴水が設けられ、季節の草花が茂り、読書に疲れた者がベンチに座って休んでいた。

「やはり、まずは古典から見るべきか」

 帝都に住んでいた頃は幾度も足を運んでいたレオポルドは迷うことなく古代帝国の時代の学者や聖人の著書が並ぶ棚の方へ向かう。

「これは、大マコニウスの『植草学』全三巻っ。『聖人一〇〇言』もありますっ。まさか、完璧な状態のものを読めるなんてっ。あぁ、メテルニウスの『花の詩』は序章しか読んだことがないのです」

 シルヴィカは名高き古典の数々を前にして、彼是と手に取って題名を見る度に興奮していた。

 その隣に立ったソフィーネも興味そそられている様子であった。彼女も読書は好きな性質で、レオポルドの書斎から度々本を借りて読んでいた。

「好きなだけ読むといい」

 レオポルドは本に夢中な二人に声をかけてからサライ中佐を伴って、気になる本を手に取ったり、パンフレットを揃えているコーナーを冷やかしたりしながら館内をぶらぶらと歩きまわった後、中庭のベンチに座って一休みすることにした。

 初夏の暖かい日差しに身体を温められてうつらうつらしていると隣に品の良い格好の老人が腰を下ろす。

 傍らに立つサライ中佐は警戒するように老人に目を向けたが、レオポルドは気にする風もなく、老人に会釈した。

「良い天気ですなぁ」

「そうですね」

 老人の言葉にレオポルドは頷く。

「こんな日は図書館で本を読むよりも遠乗りでもした方が気分が良いかもしれませんな」

「仰る通りです。しかし、連れが本の虫なものですから。遠乗りに誘っても渋られるに違いありません」

「さようでしたか」

 暫く世間話を交わした後、老人はレオポルドに顔を向けて言った。

「実は、私はさる御方に仕えておりましてな。今日は閣下にご忠告申し上げたく参ったのです」

 その言葉にサライ中佐は警戒感を露わにしたが、レオポルドはベンチに背中を預けたまま話を促す。

「レイクフューラー辺境伯の真の思惑は臨時税や北伐を中止に追い込むようなことではありますまい」

「では、どのような思惑があるのかお伺いしたい」

「閣下と陛下の関係を悪化させることが目的に相違ございません」

 つまり、レイクフューラー辺境伯はレオポルドが神聖皇帝ウルスラとの関係を悪化させることを狙っているというのだ。

 臨時税や北伐は帝国の国策であり、これをを中止に追い込もうという不敬極まる企てが露見すれば、皇帝の不興を買うことは間違いない。その為にレオポルドはこそこそと隠れて事を進めていたのだが、レイクフューラー辺境伯はその企ての概要をレンターケットを通じて把握している。この頃の様々な不都合を画策した犯人が誰であるか皇帝に知らせることなど造作もない。

「私と陛下の関係を悪化させて辺境伯に何の得があるというのです」

「それはレイクフューラー辺境伯の最終的な目的の為に他なりますまい」

「貴殿はその最終的な目的をご存知か」

「勿論です」

 老人はゆっくりと頷き、白い髭を撫でつけてから囁くように言った。

「神聖帝国と皇帝家を討ち滅ぼしてしまうことこそがキレニア・グレーズバッハの目的です」

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