一九四
アルヴィナは帝国本土南岸の重要な港湾都市であり、内海艦隊の根拠地でもある。
多数の商船、無数の漁船が行き交うアルヴィナ港の一画には十数隻の戦列艦、一〇隻近いフリゲート、それより小さなブリッグ・スループやコルベッド、臼砲艦の姿も見られる。
「奴らは何をやっとるんだ。随分と暇そうに見えるな」
アルヴィナへ入港するフリゲートの艦尾甲板から内海艦隊の艦艇群を眺めながらレオポルドは呆れたように呟く。
カルガーノを出港し、アルヴィナに至るまでの間、レオポルドの船団は民間商船を襲撃する海賊船を発見し、これを拿捕していた。以前の航海でも同様に海賊船と遭遇しており、南部航路では珍しいことではないという。
その海賊どもを摘発すべき内海艦隊は何をしているのかと思えば、アルヴィナ港に何十隻と艦艇を並べて暇そうにしているのである。それらの艦艇は見る人が見れば、もう何日どころか何月も海を走らせていないことが分かるだろう。中には補修が必要な程に損傷或いは老朽化した船も多く、航海に足る装備が整っていない船も少なくない。
「聞いたところによりますと、何年か前まで帝国海軍の予算は毎年削減されていたようですからねぇ。出撃しようにも人員も物資も足りず、艦艇の補充どころか修繕の予算にも事欠く有様であるとか」
傍らに立ったレンターケットが解説するように述べた。
元より神聖帝国は大陸国家であり、海洋政策への関心が薄い。
大陸の東三分の一という広大な国土に比して長大な海岸線を有してはいるが、その海岸線の大部分は大陸東部から南に突き出した帝国南部、大陸東岸部、北東部アクセンブリナといった帝国政府の支配が十分に及ばない辺境地域に占められており、大陸本土に面する海岸線は南西部と北西部の部分に過ぎない。
また、帝国政府や帝国諸侯の財政を支えているのは内陸部に広がる穀倉地帯から得られる年貢であり、その帝国税収に占める割合は七割以上に及ぶ。海洋交易から得られる関税は一割にも満たないのである。
しかも、これまでの帝国の戦役の多くは大陸東部に跋扈する異民族・異教徒の討伐戦であった為、海軍の出番はほとんどなかった。その上、帝国は屈強な海軍を擁する大陸西方各国と戦端を開く予定もなく、緊張状態にあるとも言えず、海の向こうに差し迫った危機はないのである。
過去の実績に乏しく、今後使う予定もないとなればそこに費やす予算を無駄であり、削減しようという考えが起こるのも無理からぬことである。帝国は深刻な財政赤字を抱えており、莫大な債務に喘いでいるのだ。
「そういえば、前任の海軍主計長官はレイクフューラー辺境伯ではなかったか。あの御仁が黙って予算削減を受け入れるとは思えないが」
「勿論です。レイクフューラー辺境伯閣下が海軍主計長官に就任した後、海軍予算の縮減幅は大きく減じており、予算としてはここ数年ほぼ変わらない金額を維持しております」
レンターケットが胸を張る。元々彼はレイクフューラー辺境伯から送り込まれた目付役とも言うべき人物なのだ。帝都のみならず帝国各地やレイクフューラー辺境伯の内実にも詳しく、事務処理能力にも長け、もう何年もレオポルドの傍近くに仕えている。今の彼が果たしてどちらの辺境伯に忠誠を尽くしているのかはよくわからない。
「じゃあ、あの惨状は何なのだ」
レオポルドが草臥れた老朽艦の列を顎で示すとレンターケットはしれっとした顔で言い放つ。
「レイクフューラー辺境伯閣下が海軍主計長官に就任した後、東部艦隊は戦列艦を二〇隻から三〇隻に増強し、フリゲートを一〇隻から二〇隻に倍増させております」
東部艦隊は大陸東岸を管轄する帝国艦隊で、異教の東方大陸からの侵攻を阻む第一の防壁としての役割を担う。東岸地域には異教の海賊も多く、北東部の蛮族に備える必要もあるので、最も重要な艦隊であるからして、優先的に増強されるのは必然と言えよう。
もっとも、自己の勢力圏である大陸東岸部を守る為に、レイクフューラー辺境伯が都合よく帝国予算を配分した結果なのではないかとも思える。
内海艦隊はそのツケを払わされた結果、艦艇の修繕も覚束ぬ有様と成り果てたのだろう。
レイクフューラー辺境伯は数年前に帝都と皇帝の居城である白亜城の治安維持を担う保安局長官兼公安局長官に異動しているが、その後任の海軍主計長官であるロッセルメーデ提督も東部艦隊勤務が長く、レイクフューラー辺境伯とも近い東部派で、内海艦隊に予算が回ってくる順番は変わっていないのだろう。
帝国政府が内海に無関心で、海賊対策が放置されている状況は内海航路を利用する商人や船乗りにとっては不運でしかないが、レオポルドにとってはそうではなく、むしろ幸運と言っても良い。
というのも、彼は海軍主計長官ロッセルメーデ提督とレイクフューラー辺境伯との関係を利用して、内海艦隊の老朽艦四隻を格安で譲り受けていた。海軍に関心がない帝国政府において帝国の財産である軍艦を格安で払い下げる取引に異論を唱える者はなく、目を留める者すら稀であった。
ラジア攻略に向けて早々に海軍を編成しなければならなかったレオポルドにとっては、老朽艦とはいえ、新造するよりも遥かに安く早くに軍艦を手に入れられたのだから、これ以上に好都合なことはなかった、
今まさに彼が乗船しているフリゲートはその際に払い下げられたうちの一隻である。
「あれだけ使っていない艦艇が余っているのならば、もう何隻か頂戴できそうだな」
哀れな内海艦隊の艦艇を眺めながら呟いたレオポルドにレンターケットが答える。
「帝都に着いたらロッセルメーデ提督に話してみましょう。おそらく、小型の戦列艦かフリゲートの二隻三隻くらいは都合してもらえるでしょう」
しかし、二人の目論見は外れることとなった。
「いやはや、いつの間にやら海軍主計長官は交代していたようです」
アルヴィナに上陸し、荷卸しが行われている間、都市参事会へ顔を出していたレンターケットは戻ってくるなりレオポルドに言った。
「参事会の顧問官殿から聞いたのですが、ロッセルメーデ提督は今年初めに高齢を理由に辞任されたとのこと。後任はマヌエル・コラーノ男爵だとか」
「聞いたことがある名前だな。確か一〇年くらい前に男爵位を買った男だ」
レオポルドは元々帝都で生まれ育った帝国騎士である為、ある程度の帝都貴族の名前と経歴くらいは記憶していた。とはいえ、帝都に屋敷を持つ貴族は数百家にも上り、その一族も含めると莫大な人数になる為、全てを覚えているわけではない。
にも関わらず新任の海軍主計長官の名前に心当たりがあったのは、コラーノ男爵の叙爵が帝都で物議を醸した為であった。
コラーノ家は由緒正しき貴族の家柄というわけではなく、少し前までリトラント王国で高利貸をしていたと云われ、マヌエルの父の代になって帝国へ移り住み、広大な土地を有する地主となったらしい。
そのマヌエル・コラーノが男爵に叙されたのは皇帝に莫大な献金を行った為で、当時は外国生まれの卑しい高利貸しが帝国貴族に叙されるとは嘆かわしいと保守的な貴族から大変な反発があり、ちょっとした騒ぎとなっていたことをレオポルドは記憶していたのだ。
もっとも、レオポルドはそのコラーノ男爵とは会ったことがなく、何の繋がりも持っていなかった。
「レイクフューラー辺境伯ならばコラーノ男爵に話を付けられるだろうか」
「あの御方は顔が広いですからな。可能かもしれません。しかしながら、紹介や口添えを頼むのは難しいかと思われます」
「何故だ」
レオポルドの問いにレンターケットは手紙を差し出す。
「アルヴィナの参事会に預けられていたレイクフューラー辺境伯からの手紙です」
受け取った手紙を読むと途端にレオポルドの顔色が曇る。
「帝国議会には欠席。帝都には来ないということか」
レイクフューラー辺境伯の不参はある程度予想されていたことではある。
現在、彼女は銀猫王国継承戦争への介入にかかりきりで、帝国の臨時税が議題となる帝国議会に出席などしている場合ではないのだろう。
帝国議会への召喚を命ずる勅令に対し、欠席届を返送することは、皇帝から忠誠を疑われかねず、事と場合によっては懲罰の対象となりかねない危険な行為であるが、それでも彼女は銀猫王国を優先したらしい。
となると困るのはレオポルドである。強力な支援者であったレイクフューラー辺境伯なしで、権謀術数渦巻く帝都に乗り込まねばならないのだ。
「これは困ったな」
レオポルドは渋い顔で溜息を吐く。
「まぁ、今から彼是悩んでもしょうがない。なんとかなるだろう」
まるで自分に言い聞かせるように呟いた後、レンターケットに向き直って言った。
「老朽艦の払い下げを求める件は帝都に着いてから上手い手を考えよう。それと早々に伯父へ手紙を書いて帝都の情勢を教えて頂こう。マドラス公とレウォント方伯にも手紙を出そう」
レオポルドの母の姉の夫であるベルゲン伯クレメンス・レッテルゼーヒ・ロッセンダルクは皇帝の宮廷で式部長官を務めており、帝都の政治や情勢には相当に詳しく、レイクフューラー辺境伯がいない帝都では最も頼みとなる人物だろう。
紋章院総裁マドラス公ヨハン・カール・レオナルド・アロイス・ハルシェットは由緒正しき名門の大諸侯であり、公の庶子フランツはレオポルドの働きによって設けられたムールド司教の座に就いている。もっとも、念願の司教になることができたにも関わらず、当の本人はムールドの酷暑や南の果ての辺境にして周囲は異教徒ばかりという環境に疲弊しきっているという。
レウォント方伯ハインツ・アルフォンス・フライベルはサーザンエンド辺境伯夫人リーゼロッテの兄である。彼もまた帝国議会の召喚に応じ、帝都に参集しているだろう。
レオポルドの帝都における人脈といえば、これくらいである。勿論、その他にも顔見知りやらは何人もいるが、頼りとなり得る諸侯や有力者はこの程度であった。
「サンシュレティア伯やローグヘンリ伯にも手紙を書きたいところだが、こっちの名前と顔を覚えているか疑わしいな」
帝室大臣サンシュレティア伯、高等法院筆頭評定官ローグヘンリ伯はいずれも帝国政府ではかなり有力な貴族で、レオポルドは一度だけ挨拶を交わしたことがある。是非ともお近づきになりたい相手ではあるが、一度顔を合わせただけの相手に手紙を送るのは憚れる。馴れ馴れしい無礼者と見做されるのは何としても避けたい。
レオポルドは暫くの間、険しい顔で彼是と考えていたが、扉が叩かれる音で顔を上げた。
「閣下。御入浴の支度が整いました」
待望の報告にレオポルドは見るからに喜色を浮かべる。
長い航海の間、満足に入浴できるはずもなく、入浴欲求は限界を迎えていた彼はアルヴィナに入港し、上陸するなり、適当な風呂を探し、入浴できるよう指示を出していたのだ。
「とりあえず、風呂に入ってくる。手紙はその後、書くこととしよう」
そう言っていそいそと風呂へ向かう。考え事は風呂でもできるというものだ。