一九三
多くのアーウェン人やムールド人、サーザンエンドの住人たちと同じようにシルヴィカはこれまで海を見たことがなかったが、海という存在自体は知っていたらしい。
「本に書いてありました。グリフィニア海軍のハーバード提督の『海と気象、船と航海』に詳しく述べれていました。内海は風や潮が穏やかで海難の危険性は低いけれど、帆船での航海は難しいそうですね。その為、この地域ではガレーが用いられることが多いそうですが、ガレーは漕ぎ手の人件費が嵩む上、積載できる荷が少ないのが大きな欠点だとか」
船縁に立って海を眺めながら話し続けるシルヴィカの薀蓄を聞くレオポルドはといえば、彼もまた内陸の帝都に生まれ育ったので、海にはあまり馴染みがなく、航海や操船についての知識は彼女と大して変わらないだろう。
その為、カルガーノからアルヴィナまでの海路については乗船しているフリゲートの艦長に任せていた。
もっとも、先にシルヴィカが述べた通り、南に開いた三日月のような形状の西方大陸が抱え込み、陸地に三方を囲まれた内海は風も潮も穏やかで嵐に見舞われることも稀である。海岸線にも難所は少なく、寄港できる港も多いので、他の海に比べれば航海の難度はかなり低い海だと言える。中には「操舵士が昼寝していても平気な海」と評した艦長もいると言う。とはいえ、その艦長は後に内海で僚船と衝突事故を起こして自船を喪失した為、軍法会議にかけられ、軍を追われている。
そういうわけで、船に乗っている間、レオポルドにはすることがなかった。居室としているのは船尾にある艦長室であったが、艦の中では最も広く立派な部屋ではあるが、やはり、窮屈で息苦しいので、風通しの良い上甲板に出てきて海や沿岸の港町やすれ違う船を眺めたり、シルヴィカとソフィーネと共に本を読んだり、過去の偉人や聖人の格言や演説について考え、論じたりして過ごしていた。
海に出て三日目、午前は「法に触れない不正義を罰すことは正義か」という命題を設けて彼是話し合い、昼食の後は「最も貴き職業は何か」を考えたりしていた。
シルヴィカは世の理を明らかにせんと学び究める学者ではないかと言い、ソフィーネは神に仕え、人々を正しき道へと教え導く聖職者であると主張し、レオポルドは他人の命を救う医者こそが貴き職業であると述べた。
操船作業を行う水夫たちは延々と小難しいことを話し合う三人を奇異な目で見つめていたが、帆柱の途中に設けられた見張り台である檣楼に立った見張員が声を張り上げると慌ただしく動き始めた。
「何事か」
その動きに気付いたレオポルドが声をかけるとフリゲートの艦長が歩み寄ってきた。
艦長は元はグリフィニア海軍で一水兵から航海士まで出世した叩き上げで、その後、海軍工廠に勤め、フューラー地方の大きな商会の商船船長に転職した後、レイクフューラー辺境伯の紹介でサーザンエンド海軍のフリゲート艦長に収まったという人物である。
「北の方角に二隻の船が見えます」
「船ならそこら中にいくらでもいるだろう」
カルガーノからアルヴィナまでの航路は帝国南部西岸と帝国西部南岸を結ぶ重要な航路であり、海岸沿いに多く住む漁師たちの漁場でもある。当然、船の行き来は極めて多く、カルガーノを出てから数日の間、他船を見かけない時はなく、常に幾隻かの船が周囲にいるという状況であった。
「その通りですが、何やら様子がおかしく見えます。見た目は小型の商船に見えますが、洋上で二隻が接舷してほぼ停泊しております」
普通、商船が日中に洋上で停泊させるようなことはない。積荷を一時でも早く運ぶのが仕事なのだから、当然であろう。停泊させる理由としては悪天候や事故、船舶の損傷などが考えられる。
言うまでもなく停泊を余儀なくされるような悪天候ではないし、遠目では船に大きな損傷は見られないという。
しかも、二隻が接舷しているというのも気になる。
「洋上で二隻の船が接舷しているとなると、積荷を移し替えたりしているのか」
「その可能性もあります」
レオポルドの推測に艦長は頷く。
「なんだって、わざわざ洋上で積荷を移し替える必要があるんですか」
傍で話を聞いていたソフィーネが素朴な疑問を口にする。
積荷を洋上で別の船へと移し替える作業は困難かつ危険であり、多大な労力と時間を要するだろう。わざわざ、そうしなければならない場面は極めて稀であろう。
「可能性としてはいくつかあります。例えば、船が損傷して運べなくなった荷を避難させているとか。或いはその船に積んでいては宜しくない荷を別の船に移すということもあり得ます」
「密輸か」
艦長の言葉にレオポルドが苦々しげに呟く。
輸入が制限されていたり関税がかけられる荷を洋上で小型の船などに移し、正規の貿易港ではない場所に荷を下ろして官憲の目を逃れるという手法は珍しいものではなく、多々行われている。当然、税関当局は様々な手を尽くしてこれを摘発しているのだが、この手の密輸は古来より延々と繰り返され続けている。
「どうやら違うように見えます」
「では、何か。海賊が商船を停めているとでも」
「その通りです」
レオポルドは艦長の返答に憮然とした表情を浮かべた。
「そういえば、以前も海賊に遭遇したな。まったく、帝国海軍は何をやっているのだ」
多くの船が行き交う重要な航路において白昼堂々海賊が商船を襲うような行為が横行しているというのは尋常なこととは言えまい。
海賊などというならず者連中は一日二日で何処からともなくぽっと現れるものではなく、ある程度海賊稼業が成り立つ海でなければ存在できないものである。船を襲ってもすぐに捕まってしまうのでは誰も海賊行為を続けられないのだから当然であろう。捕らえられた海賊はまず間違いなく縛り首となり、その後に続こうなどという愚者は滅多にいない。
しかしながら、取り締まりが不十分で船を襲っても無事に逃げ去ることができ、次の仕事にもとりかかることができる海では海賊どもの跋扈を許すこととなろう。
内海の東半分は帝国領に囲まれた海域で、帝国海軍の内海艦隊が治安維持を担うべき立場となっており、海賊が日中から行動しているということは内海艦隊の仕事が不十分である証左と言わざるを得まい。
「目立つ武装は見受けられませんが、一般の商船よりも帆が大きく、速く走れるようにしているようですな。船尾楼も商船にしては高く、甲板上で動く人数も多い。数十人はいるように見えます」
望遠鏡を覗きこんだ艦長が冷静に説明してみせる。
一般的に商船は経費節減の為、帆走に必要最低限の乗員しかいないものである。内海沿岸を行く小型の商船であれば一〇人いるかいないかという人数も珍しくない。
「連中もこちらに気付いておるようで、大人しく行き過ぎるのを待っておるようです」
いくら無法な海賊とはいえ、フリゲート相手に戦いを挑む無謀を侵す者はいない。一目散に逃げるか民間船を装ってやり過ごすかのどちらかというものである。海賊船の船長は後者を選び、こちらの動きを見守っているのだろう。
「閣下。如何いたしましょうか」
艦長に尋ねられレオポルドは憮然とした顔のまま顎を摩る。
サーザンエンド辺境伯領が内海と接している地域は南岸地方の一部分のみで、内海に面した港は有していない。故に辺境伯は内海の治安維持に責任を有しておらず、その海軍にとって内海は管轄外と言って良く、治安維持活動に従事しなければならない義務もない。
海賊船を追跡し、拿捕し、海賊どもを捕らえるとなれば、一時二時航路から外れるというわけにはいかず、かなりの時間を要するだろう。下手をすれば一日がかり、或いは数日かかるということもあり得る。義務ではない海賊摘発にそれだけの時間と労力を費やすことは合理的と言えるだろうか。
とはいえ、内海航路はサーザンエンドからカルガーノを経由してアルヴィナ、帝国本土へと繋がる重要な交易路の一部であるからして、内海の安全には無関心でいるわけにはいくまい。
何より目の前で民間船が海賊に襲撃されているのを見過ごすとことなどできようか。
そして、艦長をはじめとする水夫たちは同じ船乗りが海賊どもに襲われている様を見過ごせないだろう。彼らは黙ってレオポルドを見つめている。
レオポルドは溜息を漏らした後、艦長に向かって頷く。
「私は海のことはよく分からんのだ。全て貴君に任せよう」
「承知いたしました」
艦長は直ちに艦尾に戻り、操舵手に取り舵を指示し、掌帆長に展帆を指示した。
掌帆手が笛を吹き、指示を飛ばすと水夫たちは甲板を駆け、するすると帆柱を登って行き、帆を広げたり、向きを変えたり、一部の大砲を艦首へ移動させたり、火薬庫から砲弾や火薬を取り出して大砲に装填したり、武器を手に取ったりと慌ただしく働き始めた。
先程まで上甲板の真ん中を陣取って読書や議論をして暇をつぶしていたレオポルドとシルヴィカ、ソフィーネは艦尾甲板の片隅に追いやられ、水夫たちの邪魔にならないように小さくなっていた。
レオポルドたちを乗せたフリゲートは艦首を右へ向け、速度を増しながら洋上で接舷して停泊している二隻の船へと進んでいく。
すると、この動きを見た海賊船は接舷していた商船から離れて展帆し、海岸に向かって逃走を始めた。民間船を装ってやり過ごそうという目論見が外れ、慌てて逃げようというのだろう。
小型船は大型の船と比べて喫水が浅い為、より水深の浅い海域でも航行が可能である。この特徴を生かして大型船に追われた小型船はしばしば海岸近くの浅い海へ逃げることがあった。座礁を恐れる大型船はこれを追うことができないというわけである。
とはいえ、海岸まではまだ距離があり、艦長はフリゲートをぴったり海賊船の船尾に付けさせた。
暫くしてそのまま停泊していた商船の横を通り過ぎると乗組員が声を張り上げて呼びかけてきた。曰く商船の船長は海賊たちに捕らえられ、海賊船に乗せられているという。海賊の稼ぎ方は船を奪い、物を奪うだけではない。人を捕らえて身代金を要求するようなこともするのである。
フリゲートはそのまま一時程、海賊船を追走し、じわじわとその距離を詰めつつあった。
小型の商船か少し大きな漁船を改造したような海賊船と快速性を重視して建造された軍艦であるフリゲートでは元より性能には歴然の差があるのだ。
「艦首砲を放て」
艦長の指示により艦首砲門が開かれ、砲身が突き出される。砲口から轟音と白煙と共に放たれた砲弾は海賊船よりもだいぶ離れた海に飛び込んで水柱を立てたが、水柱の位置を観測していた砲手長の指示によって照準が直される。
次弾はより近い位置に着弾し、立ち昇った海水が海賊船の上甲板を水浸しにしているのが見えた。
暫くして放たれた三発目は海賊船の船尾を掠め、続く四発目は何枚かの帆に穴を空ける。
浅瀬に入るよりも先にフリゲートは海賊船に追いつき、その距離は間もなくマスケット銃の射程に入る頃合であった。船上で動く男たちの強張った顔の表情まで見えそうな距離である。
フリゲートの艦首にはマスケット銃を手にした兵たちが集まり、海賊たちを狙撃しようと待ち構えていた。
「艦長。このまま船をぶつける気か」
「いいえ、閣下。横に並べます」
いよいよ衝突しそうな程、接近したので不安を覚えたレオポルドの問いに艦長は首を横に振って否定した後、新たな指示を飛ばす。
舵が切られてフリゲートはぐぐっと左に傾き、シルヴィカは慌てて近くにいたレオポルドの腕にしがみ付いた。
そうして、次の瞬間にはフリゲートは海賊船にぴたりと併走していた。砲列甲板から突き出された一〇数門もの砲口が海賊船を見据え、舷側には今にも乗り込もうという百数十人もの兵たちが犇めいている。
事ここに至ってようやく海賊船は降伏を示した。
軍艦に追いつかれた海賊が取る術は観念して降伏するか玉砕覚悟で徹底抗戦するかしかない。軍艦と対等に戦い打ち破った海賊もいないではないが、それは小型の軍艦相手の戦闘であった場合がほとんどであり、そうではない例は極めて稀なことである。内海で小型の海賊船を駆る程度の海賊はそのような蛮勇を持ち合わせていない。
「やれやれ、無闇な抵抗をしない輩で良かった」
「彼らは十分に罪を犯していますからね。更に罪を重ねなかったのは殊勝なことです」
レオポルドが溜息交じりに呟くとソフィーネが修道女らしいことを言った。
もっとも、これで終わりというものではない。海賊たちを武装解除し、人質の無事を確認した上で、海賊船を回航し、被害に遭った商船と共に最寄りの港へ寄って地元の治安当局に海賊の身柄を引き渡し、事情や状況を説明しなければならない。それには短く見積もっても一日か二日はかかるだろう。
帝国議会の参集日時までに帝都へ到着しなければならないレオポルドにとって好ましい時間の使い方ではないことは言うまでもない。
「それにしても、内海というのは海賊が多い海なのですね。不届きな不信心者が多く、残念なことです」
ソフィーネの呟きにレオポルドは渋い顔で頷く。
「帝国本土にも程近い海で、しかも、海岸からも見えるような場所で白昼堂々と海賊が仕事をしているのは尋常なことではないな。内海艦隊は余程怠惰なのか或いは弱体化しているのか。いずれにせよ好ましい状況とは言えんな」
海賊が横行すれば商船は航海に出ることを恐れてしまう。それは海上交通・流通の停滞を意味する。流通の停滞による損害は海賊に襲われて奪われた船や積み荷の何倍何十倍にも上るだろう。
そのような重大事をいつまでも放置し、海賊どもの好き放題にしておくことは帝国海軍の怠慢との謗りを免れることはできまい。
また、前述の如くこれは帝国政府のみならず、レオポルド、サーザンエンドにも関わり合いのあることなのだ。ムールドで産する羊毛や絨毯、鉱物や翡翠、南洋貿易会社が輸入した南洋の物産などは帝国本土へ運ばれて売り払われているのだから。
レオポルドは波も風も穏やかな見た目だけならば平和にしか見えない海原を眺めながら溜息を漏らした。