一八九
南岸ハルガニ地方の港湾都市ラジアを本拠とするアスファル族にとってサーザンエンド辺境伯レオポルドは残虐な侵略者であり、冷酷な圧制者に他ならない。
ラジアが攻撃を受けるに至った主な要因はレオポルドの敵であるレイナルを匿った為であった。
レイナルはムールド地方を半ば統一し、一時は王を称したもののレオポルドに敗れたクラトゥン族の族長で、アスファル族にとっては縁戚に当たる。敵から逃れ、自らを頼って来た者を匿うのは部族の習わしであり、縁者ともなれば尚更見捨てることなどできようはずもない。
そして、一度自らの庇護下に入った者については何があろうとも誰からもその身の安全を擁護することが何よりも重大な責務というものである。たとえ、どれほど強力な勢力が身柄の引き渡しを要求してこようとも、これに応じることは誇り高く勇気を尊ぶハルガニ人にとっては極めて惰弱な振る舞いに他ならず、大変な不名誉であり、末代までの恥というものであった。
そういったわけで、アスファル族はレオポルドからの要求、つまり、レイナルの引き渡しを断固として拒絶し、その結果、レオポルドから攻撃を受けるに至った。
峻険な海岸線と強力な外塁と高い城壁に囲まれたラジアはレオポルド軍の総攻撃を幾度も跳ね返し、レオポルド軍の五〇門戦列艦を夜襲して炎上させ、艦隊司令であったディーテル卿を捕虜とするなど激しい抵抗を見せたものの、半年近い攻囲戦の末に陥落した。
このラジア攻防戦においてアスファル族はいくつもの失敗を犯し、レオポルドの怒りを買っていた。見せしめを目的とした捕虜の処刑、和平交渉における高圧的な要求、一度合意した和議を一方的に破棄し、更に捕虜を処刑したことなどである。
当然の如く、長期間に渡って厳しい戦いを強いられ、捕虜となった同僚の虐殺を見せつけられたレオポルド軍将兵の怒りの矛先はアスファル族に向けられ、敗残兵の多くが殺され、ムールド兵はラジアで略奪や暴行を欲しいままにした。
激しい戦いと敗残兵の掃討とそれに巻き込まれた多くの市民の犠牲によってラジアの人口は半数近くに減り、中でもアスファル族の成人男性は四分の一以下にまで減少してしまう有様であった。
レオポルドは配下の兵の暴虐を黙認し、戦後のラジア統治も熾烈なものであった。
族長をはじめとする部族の主だった有力者たちは尽く戦死するか処刑され、族長の一族で生き残った男は数少ない和平派であった族長の従兄弟ハルアクの一族のみであった。彼らが残されたのは有力者を全て粛清してしまうとアスファル族をまとめる者がいなくなり、統治が難しくなるという政治的判断によるものである。
もっとも、ハルアクは一族から部族の者たちから尊敬されているとは言い難く、まるで自身が族長になったかのように振る舞っていたが、代官のディーテル卿やラジアに駐屯するサーザンエンド軍の連隊長には媚び諂うような態度を隠さず、同胞からは酷く軽蔑されていた。
その上、激しい攻囲戦とその後の虐殺を生き延びることができたアスファル族のその後の暮らしは決して楽なものではなかった。
働き手である夫や父、兄弟を失った夫人や娘たちは日々の生活の為に労働することを余儀なくされ、多くはラジアに駐屯したサーザンエンド軍の連隊に雇われて飯炊きや洗濯、掃除などの仕事に就き、宿屋や酒屋に囲われて娼婦に身をやつす者も少なくなかった。当然その客の多くはサーザンエンド軍の将兵である場合が多い。
家族の仇かもしれない者たちの下で働き、または体を売らねばならない恥辱に耐えねばラジアで生きることなどできず、子供や弟妹を養うこともできなかった。ラジアを出たとて、周辺地域もラジア攻略の前哨戦によって荒廃しており、同族とはいえ余所者を受け入れてくれるような状況ではない。
それでも働くことができる者はまだ良い。乳飲み子を抱えていたり、歳を取っていたり、身体が悪かったりして満足に働くことのできない者は飢えるより他なく、辛うじて攻囲戦から生き残ることができたが、その後に飢えて死ぬ人々も少なくなかった。
このような苦境に追い込まれたアスファル族であったが、族長を気取るハルアクは無力で、ラジアの民政を担う代官のディーテル卿はほとんど無関心であった。彼の関心事はラジアの防衛と港湾機能の早期の復旧に他ならず、そもそも、戦中に捕虜となって獄死した兄を持つ卿はアスファル族に対して極めて厳しい態度で臨み、彼らの境遇を憐み、暮らしを改善させてやろうなどという殊勝な精神を持ち合わせていなかった。
とはいえ、南岸唯一の港湾都市であり、戦略的・経済的価値が極めて高いラジアをそのままにしておくわけにはいかず、戦災によって崩壊した街を復興させることはレオポルドにとって急務と言えた。
そこで彼は攻囲戦によって著しく減少した人口を補う為に多くの移民をラジアへ移住させることとした。幸いにもラジアには空き家が少なくなく、移住者を住まわせる家の確保には苦労しない。言うまでもなく元の持ち主は戦いの犠牲者である。
ムールド諸部族から移住者を募る他、兵役を満了した兵からも希望者を募集し、帝国本土や他の地域からの移民も積極的に受け入れた。
元は遊牧民であるムールド人は親元から離れる際には親の家畜を一部分け与えてもらって独立することが一般的であるが、貧しい為に子に家畜を分け与えることができずいつまでも親元から独立できない若者は少なくない。彼らは行き場もなく鬱々とした日々を強いられて、レオポルド軍のムールド兵の多くはこういった貧しい家の若者たちであった。
彼らにとってラジア移住は願ってもない好機であり、兵役を終え、新たな仕事を探さねばならない退役兵にとっても魅力的な選択肢であった。
帝国本土にも既存の都市・農村の社会から抜け出して新天地で一旗揚げようという者は少なくなく、移住者を集めるのは難しい仕事ではなかった。
その上、ラジアは南岸の果てとはいえ、レオポルドが設立した南洋貿易会社の本拠でもあり、これに係る貿易関係の仕事の他、戦災からの復興という仕事も多い。
大した時間もかからずラジアへの移住者は一〇〇〇人を超え、翌年にはラジアの人口は攻囲戦前の水準を回復した。
これはアスファル族にとって望ましいことではなかった。
新しい住人が増えるということは、ラジアの主であった彼らにとっては自分たちの街が乗っ取られたようなものである。決して歓迎できることはないが、これを拒むなどできようはずもない。
アスファル族のレオポルドに対する反発と不満は同じように従属下に置かれたムールド人の比ではなく、それは時間と共に沈静化するどころか、ラジアに移住者が増えるにつれて高まる一方であったが、徹底的に弾圧された彼らには抵抗する術もなく屈服を余儀なくされていた。
多くは表立って反抗することを避けたが、レオポルドに対する怨恨消し難く、報復せんと狙う者も少なくなかった。その一人はニク・マザル・ナヴィンという未だ大人にもなりきっていない少女であった。
レオポルドに断固として抵抗したアスファルの族長マザルには一〇人の子があり、その末娘がニクである。
父と九人の兄、三人の伯父、十数人の従兄弟は尽く戦死するか処刑されており、最期の瞬間まで父の傍にあった彼女は家族が撃ち殺され、止めを刺される一部始終を目撃していた。
レオポルドへの怨恨と憎悪は一際深いものがあったが、ディーテル卿は特に彼女を監視していなかった。族長の娘といえど小娘に過ぎず、ハルアクや数少ない大人の男たちを監視していれば事足りると考えたのである。
一方、アスファル族唯一の有力者となったハルアクは彼女を自身の息子と婚約させようと目論んだ。族長の娘を嫁に迎えることができれば、部族の指導者としての自らの立場を正当化することができる。
とはいえ、彼女は特にハルアクを臆病な裏切り者として軽蔑し、忌み嫌う一人であったから、当然の如く婚儀を受け入れるはずもない。
それでもハルアクはどうにか彼女を手懐けようと様々な手を用いて婚姻を迫り、遂に彼女はラジアを逃れることとなった。
そうしてラジアを出た彼女はレオポルドやハルアクに反発するアスファル族の一派やサーザンエンド辺境伯の従属下に置かれた現状に不満を持つ南ムールドの諸部族の助けを得ながら北へと向かい、帝歴一四二年の終わり頃、サーザンエンド辺境伯領の首都ハヴィナに入った。
それから間もない帝歴一四二年最後の日、城下に潜んでいたニクは偶々レオポルドがキスカら僅かな護衛だけを伴って城下を歩いている姿を目にする。
今こそ一族の復讐を果たす時と彼女は父の形見の短刀に手を伸ばすが、傍らにあった同志は彼女を押し止めた。
辺境伯を狙う機会は数少ない。一度でも失敗すれば目標の護衛は強化され、二度目の試みはより困難となり、反対勢力への捜査が強化されることは明白であろう。偶発的な好機を逸さんと拙速に事を為さんとして損じては全てが水泡と帰す。
ニクは同志の助言を受け入れ、憎き仇敵の姿を目に焼き付けて、次の機会を待つことにした。
数月してアーウェン諸侯の娘がハヴィナの宮廷に留学するという知らせが街中で聞かれ始めた。
これこそ好機である。普段は見慣れぬ人々が出入りし、平素と異なる行事が催されれば、付け入る隙が生じる可能性があろう。
実際、その予想は正しかった。
大勢の滞在客を迎えることとなった宮廷は掃除や洗濯、料理手伝いなどを行う下働きを募り、ニクの仲間数人が潜り込むことに成功する。宮廷は出自がアスファル族やクラトゥン族の者でも採用していたのだ。そういった下級使用人は高貴な人々の目に触れない時と場所で働く為、直接レオポルドを狙うということは不可能であったが、情報を集めることはできる。
一月程してハヴィナへやって来たアーウェン人の一行は宮廷で辺境伯夫妻に謁見した後、幾日にも及ぶ歓迎の式典や祝宴に参加する。その間にニクたちは入念に計画を練った。
数日の後、宮廷に潜入していた仲間からレオポルドがアーウェン士族たちにハヴィナの城下を案内するという知らせが齎された。
ニクたちはレオポルドが入浴や浴場に並々ならぬ関心を抱いていることを理解しており、まず間違いなく一行が新設なったばかりの浴場へ向かうと予測し、浴場近くでレオポルドたちを待ち受けた。
果たして予想通りレオポルドは十数人のアーウェン士族を引き連れて浴場へとやって来た。馬車には乗らず騎乗である。護衛は二〇騎程の近衛騎兵と近衛歩兵半個中隊。護衛としては十分な数と言えよう。常にレオポルドの傍に侍っているキスカの姿はない。
「ほう。これが浴場ですか。宮殿と見紛うばかりの大きさですな」
浴場の立派な外観を見上げてアーウェン士族の一人が言った。宮殿という表現も遠からずと言えよう。
「実際、元は貴族の邸宅を改造したものだからな。帝都でも貴族の邸宅や宮殿の工事を手掛けていた者が設計をしている。帝都にもこれ程に華麗な浴場はあるまい」
レオポルドが得意げに説明する。アーウェン士族たちは揃って「ほー」と関心する。
「内装も外観に負けたものではないぞ」
「ほほう。それは見てみたいものですな」
「そうかね。では、共に入ろうか」
そう言ってレオポルドは下馬し、意気揚々と浴場へ向かった。
「あっ、ちょっ、閣下っ。お待ち下さいっ」
護衛を率いる近衛騎兵連隊副長サライ・ナザム・タキム中佐が慌ててレオポルドを呼び止める。
「まさか、入浴される気ですか」
「皆裸なのだから危険はなかろう」
浴場に入る者は貴族であろうが聖職者であろうが誰であろうが武器の持ち込みどころか自らの体以外の持ち込みが不可となっている。浴場内に良からぬ企みを抱く輩が一人二人紛れ込んでいたとしても武器を持ち込むことができないのだから、一人で入浴するようなことをしなければ危険性は低いと言えよう。
そう言われても身辺警護の責任者であるサライ中佐としては承知できるものではない。
しかし、入浴に対するレオポルドの関心は異常なものがあり、これを止めさせることなど不可能というものであった。
結局、レオポルドとアーウェン士族の一行、サライ中佐、十数人の近衛歩兵が一緒に浴場へ入り、残りの護衛は浴場の外で待機していた。
レオポルドたちは広々とした浴場でゆっくりと入浴を楽しんだ後、何事もなく浴場を出た。
その時、予め浴場の近くに潜んでいたニクの仲間の一人がアーウェン人を侮辱する言葉を発した。
「アーウェン槍騎兵もすっかり辺境伯の犬に成り下がったものだなっ。浴場でも辺境伯の垢すりにでも励んだのだろうなっ」
誇り高いアーウェン士族に耐えられる言葉ではない。
「おのれっ。小童っ。我を侮辱するかっ」
激昂した士族は腰の剣に手をかけ、罵声を浴びせてきた相手を睨みつけて怒鳴り返す。
「兄弟よ。落ち着け。愚かな子供の戯言であろう」
「しかし、許し難きことぞっ」
年嵩のアーウェン士族が同僚を宥めるが、ニクの仲間は更に口汚い罵声を浴びせ、更に幾人もの士族が怒り出す。
彼らが街中で剣を抜くような事態は外交問題になりかねない。近衛歩兵連隊の将兵が慌てて士族たちの周りを囲って宥めにかかるが、これも士族には気に入らない。近衛連隊の士官に抗議の声を上げる。
「中佐。あの無礼者を捕らえよ」
浴場を出た所で自身の馬が連れられてくるのを待っていたレオポルドは気分を害した様子で指示した。客人を愚弄した者を放置しては彼の沽券に係わる。
サライ中佐が騎兵を向かわせるとニクの仲間は素早く身を翻して人混みに紛れ込む。
辺りはアーウェン人の怒号、向かってくる騎兵から逃げようという人々の悲鳴、なんだなんだと集まってきた野次馬で騒然とする。
近衛歩兵の多くがアーウェン人を宥めに向かい、半分くらいの騎兵が無礼者を捕らえに行った後、レオポルドの護衛はすっかり薄くなってしまった。
ちょうどレオポルドたちの馬が連れられてきて、彼らの視線は馬へと向かう。サライ中佐とレオポルドの間に馬が入る。
野次馬に紛れて近づいていたニクはその瞬間を逃さなかった。懐から父の形見の短刀を取り出すと音もなく鞘を取り払い、刃を憎き仇へと向かって走り出す。
彼我の距離は五〇ヤードもない。自分の馬に乗ろうとしているレオポルドはこちらに背中を向けている。
人混みを抜け出すと間もなく護衛の兵が走り寄るニクに気付き、制止しようとするが、同時に走り出していた仲間たちが組み付く。その時に上がった声でレオポルドも異変に気付き、こちらを振り向く。
その時にはニクは短刀を突き出していた。刃が一直線に体の中心目がけて伸ばされる。切っ先が衣服を切り裂き、皮膚を破り、肉を貫く。が、刃先は思ったよりもだいぶ右の脇腹に突き刺さっている。位置が悪いし、刺さり方も浅い。
一度引き抜いて再度突く暇はなかった。近くにいた兵が銃床で彼女を強かに殴りつけていた。側頭部を殴打された彼女は卒倒する。
「あぁっ。閣下っ。お怪我はっ」
真っ先にサライ中佐が脇腹を抑えるレオポルドに駆け寄る。
「どうやら刺されたようだ」
レオポルドは脇腹の痛みに顔を顰めながらも冷静に答えた。視線は今しがた自分を刺した少女に向けられている。気を失って倒れ込んだ彼女の上に兵が馬乗りになって組み伏せ、他の兵が彼女の腕や足を抑えにかかっている。
「止めさせろ。大の男が乗っては死んでしまうぞ」
「は、はい。おい、止めろっ。気絶しているぞっ。拘束して連れて行けっ」
指示を飛ばした後、中佐はレオポルドの衣服の脇辺りを捲り上げて布巾を強く当てた。忽ち血に赤く染まり、中佐の顔色は青くなる。
「おいっ。誰ぞ。医者を呼んで来いっ」
「位置が悪いから死ぬことはなさそうだ」
レオポルドは痛みに顔を顰めていたが、落ち着いた様子で呟く。
「あの娘に心当たりはあるか」
「見覚えがございます。確かラジアで族長どもを一掃した際に閣下へ呪詛の言葉を吐いていた者かと」
「あぁ、アスファルの者か。まぁ、こうする理由があるわけだ」
そう呟いたところで、やって来たのは城下で床屋兼外科医をやっている男だった。一応傷を見せてみると、悪い血を抜くために瀉血するなどと言い出したので、レオポルドは彼を追い払わせた。
いつまでも立っているのが辛いので、レオポルドはとりあえず浴場の建物の中に入って横になることにした。
その間に騒動に気付いて大人しくなったアーウェン士族たちは自分たちの騒ぎが暗殺未遂の計画のうちだったと知り、すっかり意気消沈した様子でハヴィナ城へと戻った。
暫くして医者と馬車が到着し、消毒と止血といった応急処置を受けた後、レオポルドは自分の足で歩いて馬車に乗り込み、ハヴィナ城へと戻った。