一八八
ハヴィナに留学するにあたって父であるヴィエルスカ侯は彼是と言っていたが、シルヴィカはその話をほとんど聞いていなかった。ただ、とにかく留学する先の辺境伯のご機嫌を損ねないようにしろということは理解できた。
それよりも彼女にとっては重要なことがあった。
サーザンエンド辺境伯の都ハヴィナは帝国南部では有数の都市であり、帝国本土との交流や連絡もあって、南部辺境では高い文化レベルを誇る。神聖帝国と対立関係にあり、大小様々な諸侯や士族が入り乱れ、大きな都市も少ないアーウェンとは大きな差があると言って良い。
となれば、アーウェンよりも多くの書物が集まるのは当然である。
そもそも、神聖帝国の支配下にある大陸東半において流通する書籍の多くは帝国語で書かれているのだ。多くの士族は帝国語も解するとはいえ、日常的に使用される言語がアーウェン語であるアーウェン地方に出回る書籍が多くないのは必然というものであろう。
幼い時分より読書に強い関心を示し、手に入る本ならば何でも読んだシルヴィカにとってその環境が如何に苦痛であったかは言うまでもない。
ヴィエルスカ侯の屋敷にも数百という蔵書があったものの、その多くは聖典の類やアーウェンに伝わる古い物語を記したもので、古代帝国の賢人、神聖帝国や西方諸国の学者たちが書き残した書物の数は圧倒的に少なかった。数少ないそれらの書には帝国では有名な書の引用や解説などが書かれているものもあり、シルヴィカは未だ目にしたことのない名著に思いを馳せ、読むことができない境遇に歯痒さを感じずにはいられなかった。
そこへ降って湧いた留学話である。彼女は父親の提案に一も二もなく乗り、侯が彼是と述べた御託を聞き流し、ハヴィナではどのような本が読めるだろうか。あれも読めるかこれも読めるかと期待を膨らませた。
そうして、やって来たハヴィナの灰古城の図書室には古代帝国の賢人たちが記した大書が全巻揃って並び、神聖帝国や西方諸国の学者たちの名著の数々、東方大陸の賢者の書を帝国語に翻訳した本まで備えられ、彼女の膨らんだ期待を裏切らぬばかりかそれ以上のものであった。
その上、予想していたよりも随分若く優しげな辺境伯はいくらでも本を読んで良いと言うばかりか、いつか帝都の大図書館にまで連れて行ってくれると言う。
アーウェンではサーザンエンド辺境伯は大変な強欲な好色家で、何人もの愛人を囲っているばかりか、見目麗しい娘を見れば片っ端から誑かしていると噂されていたけれど、どうやらそれほど悪い人間ではなさそうだとシルヴィカは認識を改める。
ただ、噂通り数人の愛人がいるようなので、全くの出鱈目ではなさそうだ。
その数いる夫人、愛人、更には宮廷に数多くいる淑女たちの中で最も顔を合わせる機会が多いのはキスカだったが、彼女と打ち解けるのは天地が引っくり返っても無理だろうとシルヴィカは思っていた。
というのも、ムールドのネルサイ族の族長の娘だという彼女はいつも帝国風の軍服を纏い半月刀を腰に提げ、堂々と胸を張ってきびきびと動き、怜悧な美貌には無表情を貼り付けて絶えず鋭い視線を周囲に走らせ、淀みない帝国語で丁寧ながら断固とした口調で物を言う堅物な軍人そのものといった女性で、とてもおいそれと話しかけられる雰囲気ではないし、彼女の方から声をかけてくることもない。
それでも彼女はほとんど常にレオポルドの傍近くに控えていたので、シルヴィカがレオポルドと顔を合わせる時には必然的に彼女とも顔を合わせることとなった。
宮廷に招かれた客人であるシルヴィカは辺境伯夫妻と食事を共にする機会も多く、その席にはほとんど必ずキスカも同席しているのだ。
キスカに劣らぬ美貌の持ち主である辺境伯夫人リーゼロッテも毎日のように顔を合わせる相手ではあったが、帝国南部では有力な帝国諸侯の娘という高貴な身分である上、いつ会っても不機嫌そうで素っ気なく、儀礼的な挨拶以外には会話らしい会話は殆ど発生しなかった。
シルヴィカは自分が何か知らぬうちに機嫌を損ねるような不始末をしでかしたのではないかと不安に思いつつも観光気分で同行しているアーウェン士族たちに相談する気にはなれなかった。誇り高くも武骨で粗野な彼らに帝国諸侯の姫であるリーゼロッテの不機嫌の理由を聞いたところでまともな答えなど永劫に出ないだろう。
キスカとリーゼロッテの間でもあまり会話が交わされることはなく、食卓に集う女性陣の間には微妙な緊張状態が生じるのが常となりつつある。
それとは対照的に食卓に集う男たちはいつも楽しげであった。
ここ数日、食事の場には宮廷の高官であるサーザンエンド貴族たちやシルヴィカに同行し、客人として宮廷に滞在しているアーウェン士族たちも同席していることが多い。
「いやはや、まさか、あの時の若い未亡人が閣下だったとは、全く何たる不覚」
顔よりも長く伸ばした口髭が特徴的なアーウェン士族のベギンスキ卿はそう言って額を叩くが、その言葉ほど悔しげには見えない。むしろ、まんまと騙されたことが痛快でならないといった様子であった。
「なぁ、兄弟よ。我らはすっかり騙されておったよな」
ベギンスキ卿の言葉に顎鬚を蓄えた年嵩のアーウェン士族チェルボスク卿が深々と頷いて同意する。
「町を逃れていく後姿を見て疑念を感じ、呼び止めたにも関わらず、迂闊にも見逃してしまい全く面目次第もない限り」
「いや、私も卿らに呼び止められた時はもうお終いだと覚悟した。天下に名高いアーウェン槍騎兵に追われては逃げられる者などいやしないのだからな」
レオポルドの褒め言葉を聞いて食卓に同席したアーウェン士族たちは誇らしげに表情を綻ばせる。アーウェンの名誉と誇りの象徴である槍騎兵の精強さを褒められて喜ばない士族などいない。
ベギンスキ卿とチェルボスク卿は気を良くした様子で言った。
「閣下が我らの手を逃れたのは主の思し召しというものでしょうな」
「いやはや、全くその通り。偉大なる主の加護があるに違いありますまい」
アーウェンは西方教会と対立関係にあるが、異教を信仰しているわけではないし、ましてや無神論、無宗教の徒というわけでもない。ただ、彼らは教会という組織を認めていない宗派であるだけで、帝国人や西方人と同じ聖典を読み、同じ神を信仰しているのだ。それどころか、アーウェン人の多くは信心深い正教徒なのである。信心深いが故に初期の聖人たちが生きた時代には存在せず、聖典にも明確に記されていない教会という組織を認め難いのかもしれない。
あまり主の忠実な僕とは言えないレオポルドは苦笑いを浮かべていたが、主君を称賛されたサーザンエンド貴族たちは満更でもなさそうな顔をしていた。
彼らは幾度か交わされたサーザンエンド軍とアーウェン軍の戦いの思い出話に花を咲かせ、互いの健闘を称え合う。
バレッドール将軍がアーウェン槍騎兵の一糸乱れぬ勇猛果敢な突撃を褒め称えると、ベギンスキ卿はアーウェン槍騎兵を前にしても一歩も退かず立ち向かってきたサーザンエンド歩兵の勇気と見事な統率を称賛し、両軍の指揮官たちが口々に同意の声を上げる。
男たちが和気藹々と互いを褒め合っている中、食事を終えたシルヴィカは控え目に退出する旨を伝え、そっと食堂を後にする。
ハヴィナに来てもう数日経つが、彼女は食事と睡眠以外ほとんどずっと図書室に入り浸る生活を送っていた。
「シルヴィカさん、今日も読書かしら」
いつものように図書室へ向かう途中、フィオリアに声をかけられた。
彼女はアーウェン人以外ではシルヴィカが最もよく会話する相手であった。
青い小宮殿付女官である為、基本的には小宮殿に詰めていて、シルヴィカが部屋を与えられた灰古城に常駐しているわけではないが、ほとんど毎日のように仕事や用事で灰古城にも頻繁に運んでおり、顔を合わせれば彼是と話しかけてきたし、図書室に顔を出すこともしばしばであった。
「ええ、今日は『一〇〇〇年史』の最終巻に取り掛かります」
「『一〇〇〇年史』ってアルレオニスとかいう歴史学者が書いた歴史書だっけ」
「そうです。アルレオニスは自身の誕生日からちょうど一〇〇〇年前が古代ミロデニア帝国建国の日だと知って歴史に興味を持ち、古代ミロデニア帝国建国の時から一〇〇〇年分の歴史を記録しようと書いたのが『一〇〇〇年史』です。主観を極力省き、客観的事実のみを淡々と記録した書で、古代史を知ることができる貴重な資料と言えましょう」
「そのアルレオニスって何年くらい前の人なの」
「今からですと一三〇〇年以上前に生きた人です」
「ていうことは、『一〇〇〇年史』は今から二三〇〇年前の歴史から書いている話なのね。なんだか、気が遠くなりそう」
フィオリアは難しそうな顔をして額を押さえる。読書好きな弟と違って彼女は勉学にはさほど興味がないのだ。読み書きくらいは難なくできるが歴史書や哲学書を読むような趣味は持っておらず、読むとすれば聖典か物語、料理や家事の本くらい。
「そういえば、ミロデニアについて詳しい人がいたわ」
ふと思い出したフィオリアはそう言って図書室に向かい、図書室で難しい顔をして分厚い資料を読み耽っていた貴婦人をシルヴィカに紹介した。
「レッケンバルム夫人よ。侍従武官長のレッケンバルム准将の奥様で、趣味でミロデニア研究をなさってるの」
「フィオリア嬢。いきなり何ですか」
レッケンバルム夫人はフィオリアとシルヴィカを見据えて不機嫌そうに言った。
彼女は結婚前はエリーゼ・エティーという名でサーザンエンド辺境伯軍の士官を務めていた経歴を持つ。今はムールド伯領総監を務めるレオナルド・エティー卿の娘である。
「彼女はシルヴィカ・クレーヴィチ嬢。アーウェンのヴィエルスカ侯の息女で、ハヴィナに留学なさっているの。読書が趣味らしいわ」
「はぁ」
レッケンバルム夫人に険しい視線を向けられてシルヴィカは居心地悪そうに俯く。
「今日で『一〇〇〇年史』を読破してしまうようなのだけれど、他にお勧めの本はあるかしら」
フィオリアの言葉に夫人の眉がぴくりと動く。
「『一〇〇〇年史』を読み終えたならば、『小クラウニスの日記』を読むべきでしょう。有名なクラウニア街道を建設した執政官クラウニスの子息である小クラウニスが残した日記です。一五歳から病で倒れる五五歳までの四〇年間に書いた日記です。残念なことに『小クラウニスの日記』は完全な形で現存せず、途中何年かの欠落がありますが、当時のミロデニア貴族の生活や習俗、社会、文化を知ることができる貴重な資料であり、ミロデニア研究では必読の書と言えましょう」
レッケンバルム夫人の説明をシルヴィカは興味深そうに聞いて何度も頷く。
「クラウニスは『一〇〇〇年史』でも相当な頁を割いて記述されていたので、もっとよく知りたいと思っていたのです。ただ、クレオの『北の人への手紙』と『急進主義者を弾劾する書』も読みたいと思っていたのですが、どちらを先に読むべきでしょうか」
「クレオはミロデニア哲学を代表する賢人です。クレオを知らずしてミロデニア哲学を学ぶことは不可能とも言えましょう。『急進主義者を弾劾する書』は後回しでも良いと思いますが、『北の人への手紙』は名文と名高い手紙ですから、何をさておいても優先して読むべきです。御存知かと思いますが、『北の人への手紙』はクレオの友人であるカエノスへ宛てた手紙で、この見事な文章は」
古代に西方大陸全土を支配し、現在の神聖帝国や西方諸国の社会や文化、習俗にも色濃い影響を残す大ミロデニア帝国について熱く語り合う二人からフィオリアはそっと離れ、無言で図書室を後にする。
あまりハヴィナ城に馴染めず居心地悪そうにしていたシルヴィカも趣味を話し合う仲間ができれば、これで安心だろうとフィオリアは胸を撫で下ろし、自身の仕事に取り掛かる。
本来の用事であった女官長や他の女官、侍従長や侍従と打ち合わせや話し合いを済ませた頃には昼近くになっており、彼女はリーゼロッテに呼ばれて昼食を共にすることになった。
「レオは何処へ行ったのですか」
「アーウェン士族たちを案内して城下へ行かれたわ」
食卓にレオポルドの姿がないことに気付いたフィオリアが尋ねるとリーゼロッテがつまらなさそうに言った。
「何も辺境伯自ら案内しなくても」
「大浴場を見せたいらしいわ」
それを聞いてフィオリアは顔を顰める。嫌な予感しかしない。
「まさか、自分も入る気じゃあ」
「入らないわけがないでしょう」
リーゼロッテの呆れたような言葉にフィオリアは頷くしかなかった。あの病的な風呂好きが自ら設計から建設に携わった大浴場に入りたがらないわけがない。
大浴場は基本的にハヴィナ市民を利用者とした施設であり、ハヴィナ貴族をはじめとする紳士淑女が利用することはほとんどない。彼らは自宅に浴室を備えているし、庶民と共に入浴を楽しむことには抵抗を覚えるだろう。極一部の好奇心旺盛で奇特な貴族だけが稀に利用することがあるという。
レオポルドはその奇特な貴人の部類に入る。ましてや、風呂の為ならば大抵のことならば何でもやりかねない性質だ。彼が大浴場に行くだろうということは建設が決まった頃から宮廷の誰もが薄々感じていたことであった。
「誰か止めなかったんですか」
「侍従長と女官長はあなたと一緒にいたでしょう」
フィオリアの嘆きにリーゼロッテが言い返す。
レオポルドは宮廷の喧しい人々が会議をしている隙を突いて城下へ出かけたのだ。今頃、報告を受けた侍従長は激怒しているだろう。
「まったく、呆れ果てるわ……。まぁ、キスカが付いていれば安心でしょうけど」
「キスカは同行していないわ」
「えっ」
リーゼロッテの言葉にフィオリアは驚きのあまり手にしていたパンを取り落す。
「キスカは今朝から具合が良くなかったから、レオが小宮殿に戻って休むように指示したわ」
「そうなんですか……」
フィオリアはそう呟きながら言いようのない不安に襲われた。レオポルドが大浴場を案内しに城下へ行ったと聞いたときとは比べようのない嫌な予感を覚える。
何となく落ち着かない気分で食事をしていると、ノックもなしに扉が開かれ、リーゼロッテとフィオリアは驚きのあまり飛び上がりそうになった。
「い、一大事ですっ」
食堂に飛び込んできたのは近衛連隊の若い士官だった。顔色は真っ青で帽子を取ることすら忘れている。
「閣下が……、辺境伯閣下が城下で、刺されました……」
その言葉を聞いたリーゼロッテとフィオリアは暫くの間、ただただ茫然とするより他なかった。