一八七
レオポルドの顔を見るなり二人のアーウェン士族が唖然とした表情を浮かべた。
「あ、あんたっ、あの時のっ」
そのうちの一人、やたらと長い口髭を生やした士族は思わずレオポルドを指してそう口走った。
「ベギンスキ卿っ。控えられよっ」
クレーヴィチ家の侍従が慌てて口髭の士族を制す。
「やっ、これは失礼っ。いや、しかし……」
ベギンスキ卿と呼ばれた口髭の士族は謝罪を口にするが、視線はレオポルドに向けられたまま。その隣の顎鬚の士族も同じような顔でレオポルドを凝視している。
さもありなん。二人はレオポルドとは初対面のはずであったが、その顔には見覚えがあったのだ。
二年近く前、アーウェン軍がマルセラというサーザンエンド中部の町に布陣していたサーザンエンド軍を散々に破った時、二人はレオポルドの本陣を襲撃した後、マルセラから逃げ延びる残党を掃討していた。その際、町から足早に去ろうとする修道女と顔を隠した若い女を見咎めた。
修道女曰くには夫と子を殺された挙句、異教徒の兵に乱暴された女ということであったが、その言葉を疑ったベギンスキ卿は女が被っていたフードを捲らせ、その横顔を目にした。白い肌に濃い灰色の髪、すっきりした鼻筋に薄い唇と物憂げに潤んだ赤い瞳。その繊細な顔立ちは災厄に見舞われた不運な未亡人に見えた。
その時に見た顔が今目の前にある。
これが驚かずにいられようか。
レオポルドの方も二人の顔を記憶していた。何せマルセラの敗北からの逃避行ほど彼に死を覚悟させた出来事は後にも先にもないのだ。
アーウェン槍騎兵から逃れた後、僅かな食料と水だけで何日も歩き続け、終いに彼は熱病に倒れて死を覚悟し、唯一の同行者であったソフィーネに告解までする始末だった。それでもどうにか生き延びることができたのは不屈の精神と並外れた体力を持った修道女が絶望に囚われた彼を叱咤し、自分よりも大きく重い男を担いで何マイルも歩いてくれたからである。
その時の苦々しい経験は今も彼の脳裏に鮮明に刻み付けられている。
とはいえ、今はアーウェンからの客人を引見する場であり、当時を懐かしんでいる場合ではない。
「遠路ご苦労」
灰古城大広間の床よりも数段高い位置にリーゼロッテと並んで座ったレオポルドはアーウェン人の一行を見下ろし、尊大に声をかける。
サーザンエンド辺境伯の前に居並んだ百人以上のアーウェン士族たちは絨毯の敷かれた床に片膝を突き、深々と頭を垂れた。
彼女はそれらの士族を従え、レオポルドと向き合っていた。
堂々とした体躯に煌びやかな彩の派手な衣装を纏う士族たちに囲まれて、その小柄でか細い体躯は一層小さく見える。
控え目に伏せられた顔立ちは未だ幼さを残した少女のもので、円らな黒い瞳の目、小ぶりな鼻とふっくらとした桃色の唇。
明るい茶色の長い髪を編んで後ろに垂らし、白糸刺繍を施した小さな帽子を被っている。白いシャツに緑の縁取りの赤いぴったりとした上着、色鮮やかな緑や紫、水色、黄色などの縞模様のスカートを纏っている。
「遠路遥々よく参られました。この城を我が家のように思い、寛いで過ごして下さい」
リーゼロッテがシルヴィカに形式通りの歓迎の言葉を口にしたが、その声に感情は薄く表情も硬い。彼女は堅苦しい儀礼や式典の場が好きではないのだ。
声をかけられたシルヴィカは視線を上げてリーゼロッテを見つめ、それから、レオポルドに視線を移した後、小さな愛らしい唇を開いた。
「温かいお言葉ありがとうございます」
辺境伯夫妻の他、宮廷の貴族たち、アーウェン士族たちといった大人たちに取り囲まれて注目されている場面でも、彼女はほとんど緊張することもなく、完璧としか言いようのない帝国語で礼を述べて見せた。鈴が鳴るような可愛らしい声音だ。
「何か希望などがあれば遠慮なく言うように。可能な限り叶えられるよう努めよう」
レオポルドの言葉に彼女は少し考えた後、遠慮がちに口を開く。
「恐れながらお願いいたしたいことがございます」
「何かな」
「本を自由に読ませて頂ければ望外の幸せです」
シルヴィカは本の虫らしい。
謁見の儀式の後、早速レオポルドが灰古城にある図書室へ案内すると彼女は瞳を黒曜のように輝かせて図書室の書棚に並べられた数百冊もの本を見つめた。
「あぁ、アルレオニスの『一〇〇〇年史』が一〇巻全て揃っています。『大陸辺境の諸文化について』もどうにかして読みたいと思っていたのです。これは『ミカネス全集』ではありませんか。あぁ、夢にまで見た『東方大陸旅行記』がここに。クレオの『北の人への手紙』と『急進主義者を弾劾する書』もあります。感無量です」
謁見の場ではほとんど感情を表に出さなかった彼女が早口で言い連ねたのはいずれも古代帝国時代の賢人たちが書き記した読書家ならば一度は読んでおくべき名著として名の知れた作品である。
これらの本は大陸のみならぞ他の大陸でも多くの人々に知られ、後世の書でも盛んに引用される有名な書籍ではあるが、数百頁にも及ぶ大書である為に大変貴重で高額でもあり、おいそれと手に出来る本ではない。南部の辺境ともなればなおのこと。
その帝国南部において灰古城の図書室は最も書籍が充実した施設で、歴代の辺境伯が収集したり、貴族や聖職者、学者から献上された蔵書は一〇〇〇冊近くに及ぶ。
また、この図書室には辺境伯宮廷における公文書や諸々の通信、記録なども保管されている。
慢性的な財政赤字に悩まされてきた辺境伯の宮廷において極めて高価な品である本が売却されることなく、一〇〇〇冊近くも残されているのは売却案が出る度にサーザンエンド貴族が強硬に反対してきたからだという。これらの図書はサーザンエンド辺境伯の歴史と伝統を物語るものであり、後世に残し、子々孫々に引き継ぐことは辺境伯と貴族の責務であると彼らは主張したのだ。
もっとも、サーザンエンド貴族はこれらの図書を自由に閲覧することができる為、自分たちの権利を守っただけとも言えるだろう。
「彼女には好きな時に好きなだけ好きな本を読ませてやってくれ。持ち出しも許可する」
レオポルドが図書室を管理する司書に指示するとシルヴィカは素早く彼の元に駆け寄ってその手をぎゅっと握った。
「閣下。格別のご配慮を賜りありがとうございます」
謁見の場で口にした時より幾倍も熱の籠った感謝の言葉であった。
「これだけの数の本を見るのは初めてです。いつか帝都の大図書館に行ってみたいと夢見ていましたが、夢が半分くらい叶った気分です」
「この図書室と帝都の大図書館を比べるのは些か無理があるな」
「大図書館に行ったことがあるのですか」
シルヴィカは瞳を輝かせてレオポルドを見つめる。
帝都にある大図書館は帝国建国から間もなく皇帝の命令によって建造された宮殿のように巨大な図書館で、古今東西から集められた何万冊もの蔵書を誇る。本ならば教会が禁書と定めたもの以外何でも揃っていると云われ、読書家の楽園と言っても過言ではない。
「そりゃあ、俺は帝都で生まれ育ったからな。一頃は毎週のように通っていた」
帝国騎士の子であった彼は大図書館に自由に出入りし、大半の書籍を自由に閲覧することができた。彼もまた読書を好む人間であり、今でも暇があれば本を読んで過ごすことも多い。
「大図書館はこの城が丸ごと入るくらいの大きさで、そこに何万という本が並んでいてな。有名な古典から見たこともないような本もあり、何処の何の言葉か分からない文字で書かれた本まである。全ての本を読み尽くすには一生かけても終わらないと云われる程だ」
レオポルドが語った大図書館の様子にシルヴィカはぽかんと口を開けて空想に耽る。
「いつか帝都に赴くこともあるから、その時には君も連れて行こう。そうしたら大図書館にも入ることができるだろう」
「本当ですか」
魅力的な提案を聞いたシルヴィカは瞬時に覚醒し、握ったままだった彼の手を更に強くぎゅっと握りしめた。
「本当だとも」
「約束ですよ。絶対ですよ」
「勿論。約束だ」
「……感激です」
感極まった彼女はレオポルドに抱き着いてきた。
自分よりも頭一つ二つくらい小さな少女に抱き着かれてレオポルドは苦笑いを浮かべつつも満更ではない様子で頬を掻く。
ふと視線を感じてレオポルドが目をやると開け放された扉の向こうにリーゼロッテとキスカ、フィオリアの三人が突っ立って無表情でこちらを見つめていた。
途端にレオポルドは胃の中に氷を突っ込まれたような心地になり、背中を冷や汗が流れていくのを感じ、喉の渇きを覚える。
「……何か」
「別に」
レオポルドが尋ねるとリーゼロッテは恐ろしく素っ気ない様子で言い放つ。
「会って間もないのに随分と仲良くなったものね」
極めて刺々しい台詞を言い捨てると彼女は回れ右して去っていき、フィオリアは彼に軽蔑するような視線を向けた後、何も言わずリーゼロッテの後に付いて行った。
一方、キスカは無表情で図書室に入ると司書やレオポルドに付き従っている侍従や護衛の兵たちを睨んで言った。
「席を外しなさい」
指示を受けた者たちは慌てて図書室の外に出ていく。
「では、ごゆっくり」
レオポルドが唖然としている間に彼女は無表情でそう言って扉を閉めた。
図書室にはレオポルドと彼に抱き着いたままのシルヴィカだけが残される。
「何が、ごゆっくりだ……」
「ゆっくり本を読んで良いということではないのですか」
レオポルドが苦々しげに漏らした言葉にシルヴィカは小首を傾げて尋ねた。