一八六
御年六五になるヴィエルスカ侯ユゼル・スタニスワフ・クレーヴィチは三度結婚し、六人の妾を抱え、その間には合わせて一八人の子を儲けていた。もっとも、それは成長した子の数であり、乳幼児の頃に亡くなった子を含めればその数は倍程にもなる。
この世に生を受けても成人するまでに成長できる子は決して多くない。半分とまでは言わないが、かなりの割合が産まれてから数日或いは数月若しくは数年のうちに命を落とす。
栄養状態や医療体制の整っている王侯貴族の子であってもそうなのだから庶民は言うまでもない。二桁に至る子を儲けても成長したのは一人二人というようなことも珍しくないのである。
シルヴィカは成長した侯の子の中では末の娘であった。その母親はしがない小作農の娘で、狩りに出かけた侯の目に留まり、手が付けられたという。
妾腹から生まれた子であってもアーウェンで最も富裕なクレーヴィチ家との繋がりを求めて侯の子女との婚姻を望むアーウェン士族は少なくなく、シルヴィカの姉たちは十代半ばまでには他家に嫁入りしていき、未だクレーヴィチ家に残る娘はただ一人となっていた。
彼女の身の振りようはアーウェン中から注目されるのは当然と言えよう。
そのシルヴィカがサーザンエンド辺境伯の宮廷に留学するという知らせは瞬く間にアーウェン中を駆け巡り、士族たちは顔を合わせては噂し合った。
王侯貴族の間で子弟や子女を大きな宮廷へ留学に出すことは珍しいことではない。その主たる目的は学業だけでなく礼儀作法をはじめとする上流社会での立ち居振る舞いや付き合い方を学ぶ為である。大きな宮廷には貴族の紳士淑女だけでなく、宮廷に仕える官吏や軍人、王侯の後援を受ける学者や芸術家、同じように留学している他家の子弟や子女が出入りしており、上流社会の仕組みやしきたりなどを学ぶには絶好の場と言えるだろう。
また、子弟子女を留学させることは送り出す側と受け入れる側を結び付けるという意味合いを持つ。彼らは両家の信頼関係を維持するための担保でもあった。
つまり、ヴィエルスカ侯が末娘をハヴィナへ留学させるということは、そういうことなのだ。
この意味に気付かぬ程、アーウェン士族たちは政治に無関心ではない。それどころか、彼らは政治について議論することが狩猟や酒、闘鶏と同じくらいに好きなのである。
彼らは侯の思惑がサーザンエンドとアーウェンの恒久的な和平を構築することにあることを理解していた。
神聖帝国との関係が良好ではないアーウェン王国にとってサーザンエンド辺境伯の勢力が強くなることは望ましいことではなく、ガナトス男爵への支援はこの意図に基づいて実施されてきた。
しかしながら、ガナトス男爵の敗北によってアーウェン王国はこれまで方針の見直す必要に迫られた。
なおもガナトス男爵への支援を続けて、サーザンエンド辺境伯の強大化を阻むとなれば、これまで以上の流血と戦費は避けられない。
それよりも和平を結んで信頼関係を築き、良好な関係を結んだ方が割安で効率的であるとヴィエルスカ侯は考えたのである。
また、ヴィエルスカ侯領から湯水の如くに産する銅は彼の莫大な富の源となっていたが、その主な販路は帝国本土とサーザンエンドであった。サーザンエンドからは更に南洋諸島や東方大陸にまで渡っている。戦争はこの銅の流通を妨げ、侯の財政に致命的な打撃を与えかねない。
このような事情からヴィエルスカ侯はアーウェン諸侯の中では親帝国派の重鎮と見做されており、侯が和平を志向するのは当然の成り行きとも言え、驚くには値しないと言う士族も少なくなかった。
中には同胞を見捨て帝国貴族にすり寄るような所業は卑劣なる裏切りに他ならないと非難する士族もいたが、では、戦を続けるのかと反論されれば沈黙せざるを得なかった。
アーウェン王国軍では動員される農民兵には王国政府から武器弾薬や糧食が支給されるが、士族は馬や武器弾薬、糧秣、食費、旅費、従卒の給与まで全て自弁となっており、その負担は極めて重いものであった。ここ数年の遠征によって既に多くの士族が相当な出費を強いられており、士族の半分はヴィエルスカ侯から金を借りていると言われるような有様となっていた。
ここまで自分たちが金も血も出して支援したにも関わらず何の成果も挙げられないどころか敗北を繰り返し、幾度も支援を乞い続けるガナトス家への非難や軽蔑といった風潮もあり、ガナトス家に積極的に味方しようという士族はほとんどいないのである。
ヴィエルスカ侯の末娘のハヴィナへの留学は実質的な和平に近いが、あからさまな同盟とまでは言えず、クレーヴィチ家とフェルゲンハイム家の家同士のやりとりであるから他人が口出しすることではないとして、士族の大半を占める反帝国派にとっても受け入れずとも黙認し易い。
アーウェン国内ではほとんど抵抗もなく認められたシルヴィカの留学であったが、ガナトス男爵にとっては致命的とも言える極めて重大な事態であった。
今日のガナトス男爵は軍事的・経済的にアーウェン諸侯の支援に依存しており、この支援が失われれば男爵はレオポルドに対抗することすらできず、一戦交えたとしても勝機は万に一つもない。それどころか現状の兵力を保持することすら侭ならないだろう。
レオポルドやアーウェン士族は度重なる戦によって財政が圧迫されているが、ガナトス家の財政はより深刻な状況に陥っていた。
サーザンエンド辺境伯の地位を得る為に莫大な資金を投じて身の丈以上の軍勢を何度も組織した挙句、領土を半分に削減され、収入が激減しているのだ。
敗北を重ねる男爵に金を貸してくれる者などいるはずもなく、ほとんどヴィエルスカ侯をはじめとするアーウェン諸侯からの支援や借入に依存しているのだ。
クレーヴィチ家の末娘がハヴィナに留学し、アーウェンとサーザンエンドの関係が改善されれば、アーウェンにとってガナトス男爵は不要の存在となり、支援が打ち切られることは明らかであろう。
それどころか、両者の関係を不安定化させる第一の要因として排除すべき存在とすらなりかねない。
ガナトス男爵は同胞であるアーウェン諸侯の支援だけに頼り切った無謀な賭けを繰り返した結果、見放されてしまったのだ。
レオポルドは絶体絶命の窮地に陥ったガナトス男爵に止めを刺すような真似はせず、ジルドレッド将軍が率いる軍勢をサーザンエンド北東部へと進めて男爵への圧力を強めるだけに止めた。
実質的な和平が成ったとはいえ、アーウェン国内にはレオポルドへと反感を抱く士族も少なくないことをレオポルドはネルゼリンク卿を通じて理解しており、アーウェンを刺激するような行為を極力避けようとしたのだ。
また、戦費も支援もないガナトス男爵軍が瓦解するのは時間の問題であり、わざわざ、戦争を仕掛けて血を流す必要もないだろう。
その思惑通り、半月もしないうちにガナトス男爵軍の半分近くを占めていた傭兵は約束された金が支払われないことを不服として男爵の下を離れて行き、残った軍勢からも脱走兵が続出した挙句、名のある騎士や譜代の家士を含め多数の家臣がレオポルドに内通して離反していった。
マレック・ガナトス男爵はサーザンエンドを追放された父と同じようにアーウェンへと逃げ延びるより他なかった。
それより間もなく、アーウェンにとっても目障りな存在と堕していたガナトス父子はアーウェンからも追い出されたという。
ガナトス男爵が去った後、ジルドレッド軍は一滴の血を流すこともなくガナトス領に進駐し、それに対してアーウェンは特に何の反応も見せなかった。
さて、ガナトス男爵がサーザンエンドを去る少し前、ヴィエルスカ侯の末娘シルヴィカ・クレーヴィチはサーザンエンド辺境伯領の首都ハヴィナへと入った。
シルヴィカには三〇〇騎ものアーウェン槍騎兵が護衛に付き、数人の家臣と十数人もの侍女と女中を伴った一団であった。
ハヴィナの北の城門を抜けた行列は市街の中心部やや北に位置するハヴィナ城へと向かって進む。
サーザンエンドとは文化を異にするアーウェン人の一行の姿にハヴィナ市民は興味津々で、多くの老若男女がアーウェン人の一行を見物していた。特に屈強な大きな馬に跨り、金銀や赤青緑黄など派手な装束に身を包み、特徴的な長い槍を携え、各々の家紋を染め抜いた旗を掲げたアーウェン士族たちは注目の的となっていた。
彼らは槍騎兵として戦場に赴く時は長大な槍を抱え、巨大な羽飾りを背負い、金色の甲冑という揃いの軍装に身を包むが、普段は各々の趣味に合った衣服を身に纏うのが常で、ほとんどの場合、それは大変煌びやかで明るく派手であった。わざわざ東方や南洋から珍獣の毛皮や上等な絹衣を取り寄せて身に纏う者も少なくない。
「サーザンエンドとは如何程の田舎かと思っていたが、中々に大きな街じゃのう」
そう言ったのは真っ白な鳥の羽を無数に飾り付けた上着を纏った中年の士族で、その口髭は顔の幅の倍もあろうかと言う程の長さであった。
「今の辺境伯になってからムールド人の将兵やら帝国本土から呼び寄せた学者やら技術者やらが大勢やって来て人口が倍近くまで増えているそうだ」
答えたのは赤い顎鬚を蓄えた年嵩の士族で、黄色と黒の縞模様の毛皮をマントにしている。東方大陸の彼方に住む猛獣の毛皮だという。
「まるで人種の坩堝だな」
「おそらくは意図的にそうしているのだろうよ。辺境伯は生まれも育ちも帝都だからの」
「周りがサーザンエンド人ばかりでは居心地悪かろうな。ムールド人だの帝国人だのレウォント人だのが混ざり込んでしまえば辺境伯だけが浮くことはあるまいということか」
二人の士族は馬を並べて話し合いながらチラリと後ろに続く馬車を見やる。
「であるならば、我らが姫も少しは過ごし易いやもしれぬな」
「サーザンエンド人ばかりの中に放り込まれるよりは幾分か心安かろうよ」
口髭の言葉に顎鬚が頷く。
同僚の同意を得た口髭は先よりも声を落として囁く。
「ところで、クレーヴィチ大兄の真の思惑は如何と思う」
「真のとは如何な」
「言わずとも分かろうに」
呆れる程に長い口髭の先を摘まみながら続けた。
「末姫とはいえ、留学するような歳かね」
「留学とは名目に過ぎず、実際にはアーウェンとサーザンエンドの結びつきを強める為の人質であると言いたいのか」
そう言って顎鬚は渋い表情を浮かべる。
そのようなことは言葉にせずともアーウェン士族ならば誰もが周知の事であった。
「無論、それも目的であろう。だが、大兄にはさらに深い意図があろうかと思う」
「ほう」
「聞くところによると辺境伯は大変な好色だと言う。レウォントの太陽と言われる程の美貌の夫人がいながら他にも愛人を何人も抱えているとか」
「羨ましい限りだの」
「まったくだ。一人くらいうちの家内と取り換えてくれまいか」
そう言って口髭は大笑いした後、更に声を落として顎鬚に顔を寄せる。
「大兄は辺境伯の好色をご存じのはず」
「つまり、辺境伯が末姫に手を付けると思われておるのか。いや、手を付けさせたいのか」
「さよう。辺境伯には夫人がおるし、一族がおらぬ故、婚姻を結ぶのは難しい。とはいえ、どうにかして結びつきを強めたい。正式な形でなくとも男女の仲となり、子でも儲ければクレーヴィチとフェルゲンハイムの関係は強いものとなろうよ」
口髭の解説を聞いた顎鬚は「うぅむ」と唸りながら鬱蒼と茂った髭を撫でつける。
「いくら大兄とはいえ、中々酷なことをなさるものだ。実の娘を強欲な帝国人の妾にしようとは」
「諸侯ともなると娘だろうか何だろうが政治の道具にせねばならんのだろう。我らのような金も地位もない平士族には想像もできぬことだがの」
「金も地位もない故、大兄の娘の留学の護衛などをせねばならぬがな」
アーウェン士族は名目上立場は同等であり、ヴィエルスカ侯の地位は帝国から与えられたもので、アーウェンの国法では侯も一士族に過ぎない。
しかしながら、実際には領地の大小や財力には歴然とした格差が存在し、アーウェン諸侯と呼ばれる一握りの富裕な士族たちがアーウェン王国を支配しているのが実情であった。
その他の大半の士族は村を一つか二つ程度治める小領主か或いはそれ以下の立場であった。領地を持たず諸侯に抱えられて家士同然となっている士族も少なくなく、領地を有する小領主であっても諸侯の保護下に置かれ、従属している者も多い。
口髭と顎鬚の二人もそういったヴィエルスカ侯に従属する平士族で、大兄の指示によりシルヴィカの護衛を務めていた。
「まぁ、旅費は大兄持ちだ。こういうことでもないとハヴィナまで旅する機会などないからな。気楽にいこうや」
そう言って口髭は快活に笑った。