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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第一三章 内憂の年
190/249

一八四

 帝歴一四二年は極めて順調な滑り出しと言えた。

 年始の祝賀は事前の入念な準備のかいもあって滞りなく進んだ。ただ、先年の感謝祭の折にモーダン卿が嘆願を行ったことが悪しき前例となり、謁見の儀で嘆願や陳情を行う者が続出した為、謁見に要する時間が大幅に超過することとなった。リーゼロッテが出産が近い為に欠席していたのが幸いというものであろう。レオポルドに比べると堪忍袋の緒が極めて短い彼女には我慢ならなかったに違いない。

 そのリーゼロッテは新年早々に産気づき、女官や貴族の御婦人たちの衆人環視の中で無事に健康な男子を出産した。レオポルドにとっては第三子となる次男であるが、正妻との間の嫡子といえる子である。

 レオポルドはこの子の名をヴィルヘルムとすることを宣した。ヴィルヘルムは何代か前のサーザンエンド辺境伯にしてレオポルドの曽祖父に当たる人物の名であり、フェルゲンハイム家所縁の名と言える。これは事実上の後継者指名の宣言に等しく、実際に多くのサーザンエンド貴族もそのように受け止めることとなった。

 レオポルドの嫡子誕生を祝し、先の継承戦争でブレド男爵やガナトス男爵に味方した多くの人々が恩赦され、彼らが再び公職に就ける道が開かれた。

 同時にフェルゲンハイム家の庶子アルトゥールとウォーゼンフィールド男爵の遺児エリーザベトの婚約が正式に発表され、サーザンエンドは新年から暫く祝賀ムードが続くこととなった。

 月末には南洋貿易会社の第二回商船団が南洋諸島へ向けて出帆した。商船団は先の航海で破損した一隻を除く三隻から成り、今度も香辛料や砂糖など南洋の物産を買い付けてくる予定である。

 月が改まると待望であった大浴場が遂に完成した。もっとも待ち望んでいたのは殆どレオポルド一人であったと言っても過言ではない。

 貴族や上流階級の富裕層は自宅に風呂を持っていたから公衆が集う大浴場へ行く必要性を感じていなかったし、ハヴィナ市民の多くは入浴という習慣をあまり重要視しておらず、大浴場の完成を諸手を挙げて歓迎するという雰囲気ではなかった。

 とはいえ、全く興味がないというわけでもない。ハヴィナにも小規模な風呂屋は何軒かあったが、公衆が入浴できる大浴場が建設されるのは初めてであり、貴族の邸宅を改造した豪華絢爛な内装との触れ込みもあって、関心を寄せる市民は少なくなかった。

 しかも、入浴料は五ロデルという格安である。

 レオポルドは入浴が公衆衛生の向上に寄与すると信じており、その為には庶民が気軽に入浴できる環境を整備せねばならないと考えていた。言うまでもなく入浴料が高ければ庶民は浴場に足を向けないだろう。

 入浴料の五ロデルはパン一個や居酒屋の安酒一杯と同程度の金額であり、日々の食事にも事欠くような最底辺の貧民ならばいざ知らず、ある程度の稼ぎがあれば出費を躊躇うという程の金額ではない。

 となれば、大浴場を避ける理由などあろうか。

 最初のきっかけは単なる好奇心であっても、一度経験してしまえば、ゆったりと大きな浴槽の湯に浸かったり蒸し風呂に入ったりして体を温め、汗を流し、近所の人々と雑談をしたり、マッサージを受けたり、軽食や菓子を食べ、酒を飲んだりすることが心地よい娯楽だと理解できるだろう。

 レオポルドの思惑通り大浴場は連日大賑わいで、多くの一日の疲れを癒す憩いの場となりつつあった。

 しかしながら、辺境伯政府にはハヴィナ市内の風呂屋組合から客が全て大浴場に行ってしまい仕事にならないとの苦情が舞い込んだ為、開業から一月後には大浴場の入湯料が一〇ロデルに値上げされ、営業日は隔日とされることになった。

 大浴場が大いに繁盛していた頃、サーザンエンド辺境伯軍は大規模な軍事演習を実施した。

 ハヴィナに駐屯する近衛騎兵連隊、近衛歩兵連隊、サーザンエンド・フュージリア連隊、第一サーザンエンド騎兵連隊の他、第一及び第二サーザンエンド歩兵連隊、第一及び第二ムールド人歩兵連隊、第一ムールド人軽騎兵連隊が演習に参加し、動員された将兵は合計一万以上という大規模なものであった。

 なお、この演習に参加していない部隊は国境線や情勢が油断できない地域に残っている部隊である。

 第三サーザンエンド歩兵連隊はレオポルドに背いた過去を持つ都市ナジカに、第三及び第四ムールド人歩兵連隊は南岸地方に駐屯している。第二ムールド人軽騎兵連隊はムールド地方の首都であるファディ守備に残っていた。

 残りの第四、第五及び第六サーザンエンド歩兵連隊は北部の国境線に張り付き、第二サーザンエンド騎兵連隊とサーザンエンド・ドレイク連隊はコレステルケに駐屯して、北部国境線を守る諸部隊の予備とされている。

 演習はハヴィナの南に広がる荒野で実施され、一万にも及ぶ軍勢は速やかに陣形を変えたり、一マイル程度の距離を行進したり、陣地を設営したり、塹壕を掘ったり、一斉射撃をしたりする訓練を行った。軍事評議会が立案した訓練項目が全て実施されるまでには数日を要し、レオポルドや多くの将兵を辟易とさせた。

「さすがはサーザンエンド・フュージリア連隊ですな。精鋭と云われるだけあって行動が素早く鮮やかというもの。しかし、ムールド人軽騎兵の機動も見事と言わざるを得ませんな。さすがは馬の背が揺り籠と言われるだけある」

 演習場を見渡すことができる櫓の上で望遠鏡を覗きながらオットー・ケッセンシュタイン将軍は興奮気味に鼻息荒く話し続けていた。

 軍事評議会議長を務める将軍は自らが待ち望んでいた軍事演習が実施できて嬉しくてしょうがない様子で、まるで玩具を与えられた子供のようだとレオポルドは思った。

 櫓の上にはレオポルドと軍事評議会議長の他、辺境伯の副官であるキスカ、副議長のマルクス・ホイル将軍、近々ウォーゼンフィールド男爵になる予定のアルトゥール・フェルゲンハイム将軍、それに宮廷軍事顧問官のバレッドール将軍、侍従武官長のレッケンバルム准将といった面々が並んでいた。

 七人も上って平気なのだろうかとレオポルドは内心不安に感じていたが、太い丸太でしっかりと組まれた櫓は中々丈夫なようで、設営した工兵隊長は一〇人程度乗ってもびくともしないと豪語していた。

「軍事演習も良いが、大浴場を見に行きたいのだが……」

 興奮気味に部隊の動きを目で追っているケッセンシュタイン将軍の背中を見つめながらレオポルドが呟く。

「まさか、実際に入浴なさるつもりですか」

「風呂なのだから当然だろう」

 ぎょっとした顔で言ったバレッドール将軍にレオポルドが平然と言い返す。

「貸切にするおつもりですか」

「そんな我儘を言うつもりはない。ちゃんと営業日に入湯料を払って入るよ」

 レオポルドの返答にバレッドール将軍とレッケンバルム准将は渋い顔を見合わす。

「辺境伯ともあろう御方が庶民と一緒に風呂で湯に浸かるなどあり得ません。宮廷では絶対に口になさらないで下さい。侍従長が激怒しますよ」

「じゃあ、侍従長には内緒で行こう」

「レオポルド様。無茶を仰らないで下さい」

 そういうことじゃないとバレッドール将軍が呆れているとキスカも険しい顔で諫言する。

「警護の問題もあります。浴場で何者かに襲われてはどうしますか」

「さすがに護衛と一緒に行くよ。それに浴場には着物を脱いで、持ち物を預けて入るものだ。誰がどうやって襲ってくるというのだ。身近には護衛もいるだろうし、周囲には他の入浴客もいるだろう。それほど危険な場所だとは思えないのだがな」

「とにかく、お止めになって下さい」

 キスカに睨みつけられ、レオポルドは不機嫌そうに閉口する。

「閣下。ファディから緊急の連絡です」

 櫓の下からの声を聞いたキスカは身軽に櫓を下り、連絡文を取って戻ってきた。

「エティー卿からのようです」

 キスカから手紙を受け取ったレオポルドは素早く手紙に目を通す。

 レオナルド・エティー卿はサーザンエンド高等法院の筆頭評定官であったが、レオポルドによって内務長官に任じられ、サーザンエンド竜騎兵隊の設立に尽力した後、現在はムールド伯領総監としてムールド地方の統治を担っている。ハヴィナ貴族の中では数少ない忠実なレオポルド派であり、その中でも筆頭格と言える存在である。

 緊急の通報が綴られた手紙を読んだレオポルドの表情は見る間に険しくなっていく。

「ムールド南東部にレイナルと名乗る者が現れ、反乱を扇動しているらしい」

 レオポルドの苦々しげな呟きにキスカたちの表情にも緊張が走った。

 レイナルはムールド南部の有力な部族であるクラトゥン族の長であった男で、ムールド部族の統一を目指して他の部族を攻撃し、一時期はムールドの王を僭称した。これにムールド北部の諸部族は反発し、レオポルドの下で同盟し、両者は幾度か戦火を交え、敗れたレイナルは南岸地方に逃れ、レオポルドが南岸を支配下に組み込んだ後は行方不明となっていた。

 ムールドは大変広大な地域であり、その大半は人家も稀な荒野が広がっている。特に南部内陸部は都市どころか町と呼べるようなものは皆無であり、村と言える程の集落もほとんどない地域である。

 かといって、無人の地というわけでもなく、定住せず羊や駱駝、馬などを飼い、放牧地を探して移動しながら暮らす遊牧民が数多く暮らしている。

 このムールド南部を勢力圏とする諸部族の多くはムールド人の中ではレオポルドに臣従した時期が遅く、レオポルドの統治下において厚遇されている北部の諸部族に比べると冷遇されていると感じており、レオポルドに不満を抱いている傾向が強かった。

 レオポルドはサーザンエンド竜騎兵隊を組織して、領内を巡回させていたものの、広大極まる辺境伯領の隅々を四六時中監視し続けることは不可能というものであろう。

 故に、辺境伯政府がムールド南部の状況を正確に把握し、変事にも迅速に対応することは極めて困難というものであった。

 そのような諸々の事情により、ムールド南東部にレイナルを名乗る男が現れ、不満を抱く諸部族を扇動して数百人規模の徒党を組み始めて、ようやくファディのムールド伯領総監府は叛乱の勃発を察知した。

 エティー卿は直ちにハヴィナへ通報すると共にムールド南東部を所轄するサーザンエンド竜騎兵隊の一個中隊を叛乱鎮圧に差し向けたものの、反乱軍の規模は一個竜騎兵中隊を圧倒するまでに膨れ上がっており、中隊は撤退するより他なかった。

「直ちに兵を差し向け鎮圧すべきだっ」

 エティー卿からの報告を聞いたケッセンシュタイン将軍は顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

 将軍の意見に誰も異論はなく、速やかに軍事演習は中止され、南部へ派遣する部隊の編成が行われることとなった。

「閣下。何卒、此度の作戦は私にお命じ下さい。必ずやレイナルの首を挙げてご覧にいれましょうぞ」

 部隊の編制について話し合う前にアルトゥールが指揮官に名乗りを上げた。

 彼は辺境伯軍の将軍の地位を有しており、過去に幾度も騎兵隊を率いて戦果を挙げている有能な指揮官である。

 しかし、レオポルドはこれまで彼を指揮官にすることを避けていた。

 フェルゲンハイム家の庶子である彼は辺境伯位を巡る潜在的なライバルであった為、兵力を預けることは危険と思われたのだ。

 とはいえ、レオポルドがサーザンエンド辺境伯の地位に就き、宮廷と政府と軍をほぼ掌握し、サーザンエンド貴族と概ね協調的な関係を築き、ムールド諸部族の多くを臣従させている今となっては過度に警戒する必要性も薄れている。

 その上、急速に拡充された辺境伯軍は慢性的な指揮官不足に苛まれており、アルトゥールをいつまでも閑職に置き続ける余裕はあまりないのだ。

 しかも、騎兵を主力とするムールド人の頭目であるレイナルを追うとなれば騎兵戦に優れた指揮官が必要となり、その適性を持つ指揮官は更に限られていた。

 サーザンエンドの名門軍事貴族であるジルドレッド兄弟はアーウェン王国と国境を接するサーザンエンド北部に駐屯しており、ムールド南部に派遣するには時間を要する。レオポルドの側近であるバレッドール将軍とレッケンバルム准将はいずれも慎重派の指揮官で、防衛的、受動的な戦闘指揮を得手としており、レイナルを追い掛け回す作戦には不向きだろう。

 他に適性があるのはムールド北東部にある塩の町を拠点とするサルザン族の族長でもあるラハリ・ブリ・ルスタム准将くらいであるが、彼は南岸地方に駐屯する軍勢を指揮していた。南岸地方の港町ラジアはレイナルを匿った為にレオポルドの侵攻を受け、大きな損害を受けており、不満を抱く者は少なくないだろう。ラハリ准将を動かせば南岸情勢が不安定化する可能性がある。

「……宜しい。第一サーザンエンド騎兵連隊と第一ムールド人軽騎兵連隊を率いて直ちに叛乱を鎮圧せよ」

 レオポルドは逡巡の果てにアルトゥールに指揮を任せることにした。

「承知いたしました」

 アルトゥールは深く頭を下げた後、飛び降りんばかりの勢いで櫓を下りて行った。

「宜しいのですか」

「いつまでも冷遇していては余計に反発を買いかねん。いくらかは仕事を与えてやるべきだろう」

 キスカの問いにレオポルドは渋い顔で答える。

「しかし、叛乱を起こした者は本当にレイナルなのでしょうか」

 バレッドール将軍の疑問に否定や肯定をする者はいなかった。

 幾度も大規模な捜索が実施されていたが、今に至るまでレイナルは捕縛されておらず、レイナルが逃げ込んでいたラジア攻防戦の後もそれらしき遺体は確認できなかった。ムールドの広大な砂漠にその身を隠し、再起を窺っていたとしてもあり得ない話ではない。

「ムールド南部の反抗的な部族が匿っていた可能性も否定できません」

 キスカが冷然とした調子で言い放つ。


 俄かにムールド南部の情勢に乱れが生じ、レオポルドたちが視線を向ける最中、更なる事件はサーザンエンド北部で起きることとなる。

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