一八三
夕暮れも近くなった頃、ハヴィナ城に戻ると青い小宮殿の門の前にフィオリアが突っ立ってレオポルドを待ち構えていた。
「レオっ。遅いじゃないのっ」
レオポルドを見つけるなりフィオリアは肩を怒らせ、目を吊り上げて悪戯小僧を叱りつける母親のように叱責する。
「今日は昼食後にリーゼロッテ様の所へ行く予定だったでしょうがっ」
「あぁ、そういえば、そうだった」
フィオリアに怒鳴られてから思い出す。そういえば、そんなことを朝食の時に話していた気がする。
レオポルドは大浴場の建設現場を視察し、ソフィーネが拠点としている教会を訪問した後、近くの市場へと足を延ばし、一通り見て回ってから遅めの昼食を取った。
そこでレオポルドを見つけた市場の番人から連絡を受けた地区の区長に見つかり、区長の家に呼ばれて、地区の有力者たちに囲まれてお茶を飲みながら彼らの話を彼是と聞いていると、すっかり日も傾き始め、帰途に就いた頃には夕方近い刻限になっていたのだ。昼食後というには些か遅い時間と言えよう。
レオポルドは大して気にしていない様子であったが、傍らのキスカは顔色を失っていた。
「も、申し訳ありません。私が付いていながら、大変な失礼を……。この責任は……」
彼女は今朝の朝食に同席していたので、レオポルドが昼食後に灰古城へ行くという予定を聞いていたのだ。
キスカはレオポルドの予定のほぼ全てを承知しており、予定を管理するのも彼女の職分と化していた。その予定を忘れるというのは彼女らしからぬ失態である。
「あぁ、気にするな。大した問題じゃない」
「そうよ。それくらいレオが自分で覚えていれば良かっただけよ。とにかく、早く着替えて準備してっ」
「その前に風呂に入りたい」
「風呂はもういいでしょっ」
「いや、風呂に入って体を清めてから会いに行かねば、リーゼロッテにも失礼だろう」
レオポルドはそう言ってフィオリアの反対を押し切って風呂場へ向かった。
「まったく……あいつの風呂好きは常軌を逸してるわ」
いそいそと風呂場へ向かったレオポルドの背中を見送りながらフィオリアは溜息交じりに呟く。
「ところで、キスカたちは何処を見て回ってきたの」
「はい、あの、建設中の大浴場を……」
キスカの答えを聞くとフィオリアは再び深く溜息を吐いた。
レオポルドが入浴を済ませ、髪を乾かし、服を着替え、灰古城に向かう準備が万端整った頃には、太陽はすっかり地平線の向こうに沈んでしまっていた。
「リーゼロッテ様には遅れるって伝えてあるけど、まぁ、ご機嫌麗しいとは思えないでしょうね」
レオポルドを見送る際にフィオリアが言い放つ。自業自得だと言いたげな様子だ。
青い小宮殿から灰古城までは徒歩でも五分程度という近さであるが、公式には辺境伯は近衛兵に護衛されて馬車で移動することとされていた。馬車を用意し、警護の将兵を参集させて、隊列を整えるには少なくとも十数分を要する為、その間に歩いた方が早く着けるという非効率にして不合理極まる慣例であった。先刻まで城下を歩いて回ったレオポルドから見れば馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。
とはいえ、リーゼロッテから招待を受けて訪問するのに慣例に反して徒歩で行くと夫人を軽視しているというような邪推をされかねない。
というのも、ハヴィナ城におけるリーゼロッテの立場は極めて不安定なのである。
レオポルドはリーゼロッテが住む灰古城ではなく、青い小宮殿を生活の場としていることが多い上、キスカとアイラという非公式な妻が二人もいて、既に子を儲けているので、サーザンエンド貴族の中にはレウォント方伯との同盟に係る政略結婚に過ぎない辺境伯夫婦の間に愛情はないのではないかと見る者も少なくないのだ。リーゼロッテの懐妊は既に公に知られているところではあるものの、王侯貴族の世界では愛情のない相手とも義務感から子作りを仕事のようにこなすことも珍しいことではない。
形ばかりの夫人と見做されれば宮廷において軽んぜられることは言うまでもない。
レオポルドとしてはこれを否定する為、リーゼロッテには最大限の配慮を示し、尊重しているという姿勢を見せなければならないのだ。
その為には非効率で不合理であっても慣例通り正式な手法で訪問する必要もある。
もっとも、昼食後の予定から大幅に遅れて訪問することもリーゼロッテを軽視していると見做されかねず、紳士としても決して褒められない行動であることは言うまでもない。
レオポルドは大人しく馬車に収まり、灰古城へ向かった。
灰古城で彼を出迎えたのは女官長のカレニア・ザビーナ・ランゼンボルン男爵夫人と女官のテレジア・イェーネ・クラインフェルト嬢であった。二人はレウォント貴族の出身で、リーゼロッテの傍近くに仕えている。年末であっても出仕しているのは、実家がレウォントなので帰省する時間がない為だろう。ハヴィナからレウォントまでは半月近くの時間を要する。
「些か遅れた」
「奥様がお待ちです」
レオポルドがばつの悪そうな顔で言うとランゼンボルン男爵夫人は氷のように冷たいすまし顔で素っ気なく答えた。
通されたのは灰古城にいくつかある居間のうちの一つで、専らリーゼロッテが日中にお茶や読書をしたりして寛いでいる部屋であった。
辺境伯夫人はソファに座って本を読んでいて、レオポルドを見ると席を立とうとしたが彼はそれを制した。
「立たなくて良い。そのまま」
リーゼロッテのお腹は既に目に見えて大きくなっていて出産は来月というのが医師の見立てであった。医師の助言や医学書によれば妊婦は安静が第一であり、できるだけ体を温め、横になって運動を避けるべきだという。
「遅れて申し訳ない」
「別に気にしてないわ」
レオポルドの謝罪にリーゼロッテが素っ気なく返す。
ご機嫌そうには見えないが、手酷い痛罵を覚悟していたレオポルドにとっては意外な反応であった。
「感情を高ぶらせるのはお腹の子に障るそうだから」
「そういえば、そのようなことを読んだような気がするな」
「だから、あんまり私を怒らせるようなことをしないで頂戴」
そう言ってリーゼロッテは矢のように鋭い金色の視線をレオポルドに突き刺す。
「……はい」
際立って整った美貌の彼女の大きな黄金の瞳には一睨みしただけで、大抵の人をたじろがせ委縮させる程の気迫があるのだ。
「分かれば宜しい。ほら、いつまでも立っていないで座ったらどう」
リーゼロッテに促され、レオポルドは彼女の隣に腰をかける。
「お腹の子の様子はどうだ」
「元気よ。最近はしょっちゅうお腹を蹴っているわ。たぶん、男の子ね」
「そうなのか」
「ただの勘だけど、そんな気がするの」
彼女は愛おしそうにお腹を撫でる。
「あなたも男の子の方が良いでしょう」
その問いにレオポルドは苦笑いを浮かべる。
「個人的には女でも良いが、諸々の事情を鑑みれば男の方が望ましいというのが事実だな」
サーザンエンド辺境伯夫妻である二人は後継者を儲けなければならないという責務を負っている。それは二人に限らず全ての王侯貴族に課された宿命というものであり、この重圧から逃れたければ地位を捨て修道院にでも入るしかない。
帝国では女子が貴族の地位を受け継ぎ当主となることもあり得ないではなかったが、基本的には男子の継承が望ましいとされており、女子が家を相続するのは後継者となり得る男子が存在しない場合に限られている。
当然、ハヴィナにおいてもリーゼロッテが男子を出産することを期待する風潮があることは否定し難い事実であった。
「期待に応えられるよう神様にでも祈っておくわ」
リーゼロッテは皮肉っぽい笑みを浮かべながら言った。
「ところで、もう名前は考えていたりするのかしら」
「男ならヴィルヘルムにしようと思っている。ヴィルヘルムは私の曽祖父で第九代辺境伯であった方の名だ」
第九代辺境伯ヴィルヘルム三世の娘エレオノーレは帝国騎士のクロス家に嫁ぎ、アルベルト・クロスを産んだ。その子がレオポルドである。
ヴィルヘルムという名はレオポルドとフェルゲンハイム家を繋ぐ名であり、重要な意味合いを持つ。リーゼロッテの子にその名を与えることは、その子を後継者にするという意思表示に他ならない。
「そう」
ヴィルヘルムという名を聞いたリーゼロッテは気のない様子で頷いた後、そっと視線を横に向けた。
「それで……良いのかしら……」
「どういう意味だ」
レオポルドが聞き返すと彼女は心に秘めていた言葉が漏れ出てしまったことを恥じるように俯き、気まずそうに唇を噤む。
「言いたいことを口にしないのは君らしくないじゃないか。言いたいことがあれば何でも言ってほしい。勿論、言いたくないなら無理にとは言わないが……」
レオポルドに促され、リーゼロッテは苦虫を噛み潰したような険しい面持ちで投げ捨てるような調子で呟く。
「普通は最も愛する人との間の子に全てを与えたいと思うものでしょう」
その言葉にレオポルドは彼女の言わんとすること、感じていることを察する。
要するに彼女はヴィルヘルムと名乗るであろう我が子が後継者となることは政治的・血統的な理由に因るものであり、レオポルドは本心と反する決断をしていると信じていて、そのことを負い目として感じているらしい。
確かにリーゼロッテがレオポルドにとっては三番目に結婚した妻であるにも関わらず、正式な辺境伯夫人となっているのは神聖帝国及び西方教会の下でサーザンエンドを統治する為にはそれしか方法がない為である。
正教徒である帝国諸侯の夫人が異教徒の異民族などということは全く許容されないことなのだ。同じ正教徒であっても、庶民は勿論のこと、釣り合いの取れない出自の下級貴族であっても非難の対象となり得るのだ。異民族など論外である。もっとも、非公式な妻、愛人としてならば正教徒として相応しからぬ行いではあるが、社会的に許容され得ないという程でなく、珍しいことでもない。中には愛人を数十人も抱え、庶子を百人以上儲けたという好色貴族もいるのだ。
また、前述の如くレオポルドとリーゼロッテの婚姻はレウォント方伯との同盟の証でもある。
最初から彼女は自身の立場と結婚の意味を十分に理解していたし、レオポルドに別の恋人がいることも承知していた。
故に互いに愛し愛される仲睦まじい幸福な結婚というものを夢見ていたわけではなく、結婚当初はぎくしゃくとした関係であったのだが、アイラの気遣いもあって、今ではそのようなことはなく、レオポルドからの愛情も感じていないわけではない。
それでも彼女は自分は一番ではないと感じていた。レオポルドが最も愛する人は別にいて、自分は二番目か三番目であるにも関わらず、サーザンエンド辺境伯の地位とそれに付随する多くの地位と権限と財産は自分の子に継承される。それは彼にとって本心から望んでいることではないだろう。というのが、リーゼロッテが誰にも言わず黙って心の奥底に抱え込んできた思いだった。
「君は思い違いをしている」
「慰めは止して」
レオポルドの言葉に彼女は拒絶するように言い放つ。
「俺は別に君たちに順序を付けているわけじゃない」
「そうは言っても実際には順序が生じるものじゃないかしら。付き合ってきた時間も違うのだし、私は従順な良い妻ではないし」
自分が一般的に良い妻と言われるような従順な女ではなく、それが己の欠点であると彼女は自覚しているらしい。自覚していてもそれを容易には改めることができないのが人間というものである。
「確かに知り合った時期にはいくらか違いがある。とはいえ、人生を共にした時間で愛情に大きな優劣が生じるというわけでもないだろう。性格の違いは個性であり、それぞれの魅力というものだ。君の率直な言動や気高い性質は大変魅力的だと思う」
ぴたりと寄り添うように隣に座るレオポルドに口説かれ、彼女は気難しい顔で黙り込む。
「君にはキスカやアイラにはない魅力があるし、二人にもそれぞれ別の魅力がある。俺はそれを見比べて誰が良い悪いと優劣を付けたことはないし、付けられるとも思えない。三人とも欠かせない宝のようなものだ」
「陳腐な台詞ね。今時、そんな恥ずかしいこと歌劇でも聞かないわ」
「……そう言われるとそうだな」
リーゼロッテに冷たく返され、レオポルドは気恥ずかしそうに頬を掻いてから、言葉を続ける。
「とにかく、そのようなことに思い悩む必要はない。俺の本心は別にあるなどということはないのだから。それに辺境伯の地位を継承することは一概に幸福とも言えないしな」
サーザンエンド辺境伯の地位を継承するということは領邦を統治する責務を継承することに他ならない。その地位と領邦を守る為に正しい政治を行い、場合によっては敵と戦わねばならないだろう。失敗すれば地位どころか命すら失いかねない立場なのだ。
「この子は貧乏籤を引かされるってわけね」
「そうとも言えるな」
「ふん。まぁ、そういうことにしておいてあげる」
リーゼロッテは不機嫌そうな顔で鼻を鳴らす。
それから、レオポルドをじっと見つめ、ゆっくりと唇を開く。
「私、レオと……」
その時、扉がノックされ、咄嗟に彼女は唇を噤む。
「ご夕食の用意が整いました」
「夕食ですって。行きましょう」
「さっき、何て言いかけたんだ」
「大したことじゃないわ。行きましょう」
「聞かせて欲しいのだが」
「いいから。お腹が空いたわ。この子の為にも栄養のあるものを食べなければね。行きましょう」
リーゼロッテはさっさと部屋を出て行ってしまい、レオポルドは渋々と彼女の言葉の続きを聞くことを諦めた。
二人は温かく消化の良い夕食の後、寝室へと移った。
そこで産まれてくる子に何をしてあげたいか。どのように育てたいか。どんな人間に育って欲しいか。彼是と話し合いながら帝歴一四二年を終えたのであった。