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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第一二章 宮廷
188/249

一八二

 レオポルドとキスカは連れだって城下へ散歩に出かけることにした。

 彼はフィオリアやアイラにも声をかけたが、フィオリアには胡乱な顔で「忙しい」と一蹴され、アイラは思わせぶりに微笑えんだ後、丁重に辞退した。

 そういうわけで二人に同行するのは侍従のヴェステル・エーヴァルト・アイルツ卿と侍従武官のフェルディナント・ネルゼリンク卿。護衛に近衛歩兵連隊の中尉、伍長、兵四名という極めて少数の供だけであった。

 通常、君主が城下を視察するとなれば騎馬か馬車に乗り、数十人の警護を伴うもので、辺境伯が一〇名にも満たない伴を連れて歩いていくなど異例中の異例と言えよう。

 権威や格式を重んじる宮廷の高官たちならば断じて許さないだろうが、年末であるこの日、高官たちも実家に戻っていて、レオポルドの行動を抑止できる者は誰もいなかったのである。

 レオポルドがキスカと随行の者数人を連れて城門を出ると、門衛の兵たちは唖然とした顔をして一行を見送った。

 ハヴィナ城は市街の北の小高い丘の上にあり、その周囲は堀で囲まれている。架けられている四つの橋はいずれも橋桁を跳ね上げることができるものだが、平常は跳ね上げることはないようで、レオポルドは橋桁が動いている様子を見たことすらなかった。

 跳ね橋を渡って緩い坂道をいくらか下っていくとコンラート一世広場に至る。

 この広場は神聖帝国の南部征討に活躍し、サーザンエンド辺境伯の地位を与えられたコンラート一世を記念して建設され、ハヴィナのほぼ中央に位置している。

 コンラート一世広場はハヴィナ城との間を結ぶ道だけでなく、市内を走る主要な道路は全て広場に接続しており、ハヴィナを縦断或いは横断しようとする者は必然的に広場に足を踏み入れることになる。

 また、周辺には聖マルコ教会、市参事会堂、高等法院といった主要な建物が集まり、サーザンエンド貴族の邸宅や商会や組合の建物も多い。

 当然、広場周辺の人通りは多く、朝早くから夕暮れ過ぎまでハヴィナ城や官庁へ出入りする貴族の紳士淑女、官吏や将兵、商会や組合に顔を出す商人や職人、教会に向かう聖職者や信心深い正教徒、帝国南部を縦断する旅人、港町との間を往復する隊商、老若男女、身分の上下を問わず多くの人々で賑わう。

 今年も最後となるこの日、官庁や商会は休みではあったものの、今年一年の締めくくりとして教会に足を運ぶ人は多く、組合には年末の挨拶に訪れる人も少なくない。

 レオポルドはそこへ歩いて行ったのだ。道行く人々に素性が知られるのは当然というもので、一行を取り囲むように人垣ができるまでさほどの時間を要しなかった。

「レオポルド様。やはり、これだけの供では不安です」

 険しい顔で周囲の人垣を睨みながらキスカはレオポルドの耳元へ囁く。

「人混みの中に暗殺者が紛れ込んでいるとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい」

 しかし、肝心の本人はほとんど身の危険というものを感じていないらしい。

「暗殺者が俺を狙っているとしても白昼堂々衆人環視の中で実行するほど愚かではないだろう。そんなに行き当たりばったりで無計画な輩であるならば恐れるに足らん」

 レオポルドの外出は計画されたものではなく、今さっき彼が思いついて実行されたものなのだ。彼に危害を及ぼそうと企む者がいたとしても偶然城外に出てきた標的を目にして襲撃を決行する程に無謀で愚かではあるまい。仮に突発的に襲撃しようと思い立ったとしても、白昼堂々と衆人環視の中では成功は見込めないだろう。

「それとも俺の統治は市民に襲撃されかねないような悪政だというのか」

 悪政に怒った民衆が叛乱を起こしたり、統治者を襲撃したりすることは古今東西の歴史を見れば決して珍しいことではない。

 レオポルドの統治が悪く、民衆の間に怒りや憎悪が蔓延しているのならば、少数の警護で城下を歩くのは当然に危険を伴うものであろう。

「いえ、決してそのようなことはありません」

 キスカは即座に否定する。

 実際、レオポルドはハヴィナ市民から憎まれる辺境伯というわけではなかった。

 帝都から来た余所者の若い成り上がり者と蔑む者もいないではなかったが、多くの市民はレオポルドを継承戦争を終わらせ、長年脅威となっていたムールド人を服従させ、アーウェン人と戦って和平を結んで、サーザンエンドに安定と平和を齎した君主と見做していた。

 また、彼が組織したサーザンエンド竜騎兵隊はサーザンエンド全土に展開して治安維持や密輸の摘発などに活躍し、相次いだ戦乱によって生じた混乱を収拾し、法秩序の維持に努めていた。

 それと共にレオポルドは街道の整備や都市の再開発、工場の建設などの公共事業を多く実施すると共に、技術者や労働者を帝国本土をはじめとする他の地域から呼び寄せて、移民を奨励する政策を推進していた為、あらゆる産品の需要や新しい仕事が増え、経済は活性化しつつあった。

 その一方、税制が改正されると共に徴収の正確化と厳格化が推進されたことによって、レオポルド以前と比べ庶民の税負担は軽減するどころか増加していた。

 増えたのは税だけではない。軍事行動に多くの物資を消費した上、移住者を歓迎した結果、サーザンエンド全域の人口は増加傾向にあり、それと共に食料や生活必需品などの物価は年々上昇の一途を辿っている。

 レオポルドの施策は庶民にとっては喜ぶべきものもあったが、そうではないものも少なくなく、ハヴィナ市民のレオポルドへの評価は手放しに歓迎して称賛する気にはなれないが、罵声を浴びせて石を投げる程というわけでもないという程度であった。

 レオポルドもそのことは十分に自覚しており、物珍しそうに自身を見つめるハヴィナ市民に遠巻きに囲まれても平然としていた。

「少なくとも石を投げられたりはしないだろうな」

 そう言いながら彼はキスカと数人の供を引き連れて広場の西側の一画へと足を向ける。

 そこは昨年まで辺境伯の別邸とハヴィナ八家門の一つであるルーデンブルク家の屋敷が隣り合って建っていた場所であったが、今は工事現場に姿を変えている。

 ルーデンブルク家は先の継承戦争でレオポルドと敵対したサーザンエンド貴族であるが、当時の当主ら主要な面々を追放した上で縁戚のレッケンバルム卿を通じて赦免を請い、許された過去を持つ。

 この屋敷は赦免される以前に没収されたものだが、赦免後もルーデンブルク卿は返還を求めず、レオポルドに献上する意思を示し、市内の別の邸宅に移っていた。

 とはいえ、レオポルドには市内に隣り合う二つの邸宅を持つ意味が感じられず、誰かに下賜しようと考えてから、ふと妙案を思い付いた。

「うむ。完成も間近いな。来年の初めには完成するのではないか」

 レオポルドは大きな玄関を通り、広間を通り過ぎてから内装工事が進められている広い空間を見回して楽しげに言った。

「ここは大理石の大きな浴槽だ。百人は一緒に入ることができるだろう。こっちには蒸し風呂ができる予定だ。中庭には休憩できる東屋を設ける。さっき入ってきた広間の隣には食堂も設けようと考えているんだが」

 工事途中の浴場を嬉々として見て回りながらキスカに話しかける。

 彼は二つの大きな邸宅を一つの大きな浴場に作り替えることを思い付き、浴場の設計やデザインを考えて、設計士や建設業者に細々と指示を与え、自ら視察に赴くことも数度に及んでいた。

 屋敷の壁や塀、床、中庭などをそのまま残して浴場の一部とすることによって、工事の費用と期間を大幅に短縮すると共に高貴で上品な外観、機能的でありながら贅沢な内装となっている。

 大浴場建設は自らの理想の浴場を建設するというレオポルドの趣味という意味合いも多分に含まれていたが、その目的は市民に開放して平和的な娯楽を提供すると共に公衆衛生を増進することにある。

 ハヴィナを含む帝国の諸都市には必ず風呂屋は数多くあるものだが、百人以上が一度に入ることができる程に巨大な浴場となるとそれ程多くはない。

 その数少ない例は古に大陸全土を制覇したというミロデニア帝国時代の名残で、建設から数百年を経ているものばかりだった。

「古代の帝国は都市には必ず大浴場を設けて市民に開放していたという。古代帝国が数百年に渡って繁栄を続けたのは心身の健康を保つ入浴を欠かさなかったからに他なるまい。私はこの古の慣習を復活させたいのだ」

 レオポルドは入浴を自身の趣味に留めておくだけでなく、広く市民にも啓蒙せんと企んでいるらしい。大浴場建設はその為の重要な一歩なのである。

 しかしながら、あまり入浴に重大な意義を感じていないキスカにはイマイチ理解し難い情熱で、彼女は浴場の真ん中に立つ女神の像なんかを見つめながらレオポルドの高説を聞き流した。


 大浴場の建設現場の視察を終えた後、レオポルドは街道を南へと進んでいった。

 ハヴィナの南の地域は小規模な市場や商店、宿、飲食店が点在し、あまり裕福ではない商人や労働者の住宅が多い。人種的には主にテイバリ人が多く住む地域である。

 テイバリ人は古くから南部に住む民族の一つであり、サーザンエンドや東岸地域においては多数派を形成する民族である。

「閣下。南の地域へ向かうのは控えた方が宜しいかと思います」

 南へと歩いて向かうレオポルドに侍従武官のネルゼリンク卿が険しい顔で告げる。

 テイバリ人はサーザンエンドでは最も人口が多いにも関わらず長年に渡って被支配階級に甘んじている。

 サーザンエンドを支配しているのは神聖帝国によってサーザンエンド辺境伯が設けられて以降の支配階級である帝国人であったが、そこへ新たに先の継承戦争でレオポルドに加担した功績によってムールド人が加わえられている。

 一方、テイバリ人の首魁であったブレド男爵はレオポルドと対立して敗れ去り、彼らの政治力は大幅に減退している。テイバリ人としては面白くないだろう。

 ネルゼリンク卿はその点を懸念しているらしい。

「もう少し行った先にソフィーネがいるはずなんだが」

 しかし、レオポルドは気にした風もなく、どんどん南へと街道を進んでいく。

「キスカ様。この辺りは治安も宜しくございません。大通りをいくらかでも外れれば破落戸やならず者が屯しております。閣下に万が一のことがあれば大事でございます」

 ネルゼリンク卿はキスカにも忠告した。

「わかっています。しかし、レオポルド様はお聞き入れする気分ではないようです。不届き者が現れれば私が斬ります」

 彼女は腰の半月刀に視線を向けてからレオポルドに寄り添うくらい近くに侍った。

 ソフィーネが勉強や剣術を教える学校を開いている空き教会はハヴィナをぐるりと取り囲む城壁の南の内側に張り付くように建っている。日当たりが極めて悪く、辺りに住むのは貧しいテイバリ人労働者ばかりという地域だった。

 いつでも巨大な十字剣を携え白い修道服を着込んだソフィーネは教会の屋根に上って板を打ち付けていたが、レオポルドたちを見つけると、するすると屋根から下りてきた。

「仕事中だったんだろう。良いのか」

「ええ、大体済みましたからね。休憩にお茶を入れますが如何ですか」

 誘われてレオポルドたちは教会の中に入り、ソフィーネの淹れたお茶を飲んだ。渋いくせに味は薄く、お世辞にも美味しいとは言えない代物であったが、淹れた本人が平然と飲んでいるので、レオポルドたちも文句を言わず黙って飲んでいた。

「うーん。不味いですね。昨日はもう少しマシだったんですがね。出涸らしを使いまわすも今日くらいが限界ですか」

 その言葉に一同は唖然とするが、ソフィーネは気にした様子もなく、レオポルドに視線を向ける。

「しかし、辺境伯様が少ない伴でこんな地域に来るのは如何なものかと思いますね。この辺りには神を屁とも思わない不逞の輩も少なくありませんからね。神を屁とも思わない連中が辺境伯には丁重に応対してくれるとは思えませんね」

「それはこっちの台詞だ。君はこんな地域に一人で通っているのか」

「このような地域にこそ主の救いを必要とする者がいるのです」

「テイバリ人が大人しく説教を聞いてくれるもんかね」

 この辺りの地域に住むテイバリ人の中には西方教会の信徒もいたが、東方から伝播した異教を信仰する者も多い。中には帝国の国教たる西方教会に嫌悪感を示したり、敵対的な態度を取る者も少なくなかった。

 神聖帝国本土であればこのような異教徒や不信心者は弾圧の対象となるところであるが、帝国南部は異教徒や異端、不信心に極めて寛容な風土なのである。

 というのも、帝国南部においては異教徒や異端を信仰する住民が多数派であり、正教徒の方が少数なのである。全ての住民を正しい教えの下に導くためには大変な犠牲を労力を要することは言うまでもなく、西方教会の宣教や住民の改宗は遅々として進んでいないのであった。

「大人しく耳を傾ける人々よりも主の教えを知らぬ人々にこそ主の救いは必要とされているのです」

 ソフィーネは殊勝なことを言っているが、実際には彼女はそれほど異教徒の住民を正しい教えの下に教化しようという気はなく、貧しい子供たちに文字の読み書きや簡単な計算、剣術や体術を教えているのであった。

「それにしたって、こんな街外れでは危険ではないか」

「まぁ、破落戸やならず者に絡まれることもないではないですが、丁寧に説得すれば大人しく引き下がってくれますよ」

 ソフィーネは並みの大剣よりも遥かに重い十字剣を常に帯び、自在に振り回すことができる腕を持つ。剣一本での勝負ならばレオポルドは足元にも及ばず、キスカにも勝り、恐らくは辺境伯軍の中でも相手になる者は幾人もいないに違いない。

 そんな彼女の説得を受けて大人しく引き下がらない者がいるだろうか。レオポルドの心配は杞憂というものであろう。

「そうか。なら、良いのだが」

 そう言ってレオポルドは出涸らしの不味い茶を口に含んだ。

「それにしても、思った以上に古い教会だな」

「ええ、どこもかしこもガタガタですね。隙間風は吹くし、砂や誇りは入り放題ですし、雨漏りもしますよ。雨が少ない地だからまだ良いものの、雨が降ると床が水浸しになるくらいですから」

 そういうわけで、彼女は自ら屋根に上って屋根の穴を塞ぐために板を打ち付けたりしていたのだ。

「修繕費くらい」

 レオポルドが言いかけるとソフィーネは手で制止した。

「結構です」


「彼女をここに連れてきたのは俺だからな」

 ソフィーネが地域の学校にしている教会を後にしながらレオポルドが呟く。

 剣の修道院で修道女として慎ましく生活していた彼女がサーザンエンドまで来ることになったのは、修道院で厄介な貴族に絡まれた際、現場に居合わせたレオポルドがその身を預かった為である。

「主に仕え、信仰と勤労の生活を送っていた彼女がその手を血に染めることになったのも俺に責任があると言えるだろう」

「ソフィーネはレオポルド様に従ってここまで来たことを後悔していないと思います」

「そうかな」

 キスカが生真面目な顔で答えるとレオポルドは苦笑を浮かべて呟いた。

 それっきり彼は黙って狭い小道を歩いていく。すれ違う住民は見慣れない高貴な身なりの帝国人に奇異の視線を向けたが、付き従うキスカに睨まれると、すぐに顔を伏せて離れていった。

「こうやって君と歩いていると初めてこの街に来た頃を思い出すな」

 レオポルドが懐かしむように言った。

 彼が初めてハヴィナに足を踏み入れたのは三年以上前、まだ破産した一介の帝国騎士に過ぎない頃であった。

 その時は彼のハヴィナ入りに刺激されたブレド男爵に追い出されてしまい、市街を十分に散策できたとは言い難かったが、キスカと二人で迷路のように入り組んだ市内をほとんど迷子のようになりながら歩き回ったことがある。

 それから二年以上の年月を経て、レオポルドは統治者としてこの町に戻ってきたのだが、累積する課題や山のような仕事など様々な事情によりゆっくりと市内を見て回るような暇はなかった。

「正直、初めてこの街に来たときは辺境伯になれるなんて思ってもいなかった。ただ、帝都には居場所がなかったからな。失うものも何もないし、一つ博打をしても良いかという気分だったんだ」

 レオポルドが帝都から南部へと旅して来て辺境伯位を巡る争いに乗り込んだのは、全て三年半以上前のあの日、キスカが破産した彼の屋敷に現れて、彼をサーザンエンドへと誘ったことから始まったのである。

 サーザンエンドにやって来た彼はほとんど何も持っておらず、何度も戦争に敗れ、敵に追い回されたり、裏切られたりしたものである。無事にサーザンエンド辺境伯の座を手に入れられたのは奇跡と言っても良いだろう。

 レオポルドの言葉にキスカは薄い唇を微かに開き、声を発する前に俯いて口を閉じた。

「私はここまで君と共に旅ができて良かったと心から思っているよ」

 そう言われて彼女は顔を上げる。

「……私はこれからも貴方にお仕えいたします」

 それが彼をここへと連れてきた彼女のけじめなのだ。

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