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サーザンエンド辺境伯戦記  作者: 雑草生産者
第一二章 宮廷
184/249

一七八

「ボールドウィン・モーダン卿」

 式部官ゲオルグ・ハルトマイヤー卿が手にした羊皮紙を読み上げると、傍らに立つ侍従長ハルトムート・ヨハン・ライテンベルガー卿がレオポルドに耳打ちした。

「モーダン卿は一〇年前まで辺境伯軍に所属し、連隊長まで勤めましたが、ムールド族との戦いで捕虜となり、拷問によって片耳と両目を失っております。また、脚も不自由な為、子息が介添えして参上いたします」

 レオポルドは苦々しげに顔を歪める。

 彼がムールド部族を従えるまでサーザンエンド辺境伯とムールド諸部族の大半は対立関係にあり、長く続いた紛争で犠牲となった者は数知れず、互いに好印象を持たない者、遺恨を持つ者、不信感を抱く者も少なくない。

 この相互不信を解消させることにレオポルドは常日頃から苦労していた。

「レイナルの一族の仕業に違いありません」

 同じく傍に控えているキスカが無表情で断言する。

 サーザンエンド貴族とムールド諸部族の間の不信感を解消する為、過去のムールド諸部族の悪行は全てレイナルに擦り付けるというのが定番であった。実際にモーダン卿を拷問したのがレイナルの仕業であろうがなかろうが、そうであった方が都合が良く、真犯人を突き止めて真実を明らかにする必要などないのである。

「子息マルコは辺境伯軍大尉を勤めておりますが、先の戦においてはブレド男爵やガナトス男爵の軍に属しておりました為、現在は軍務から外れております」

 サーザンエンド辺境伯位を巡る先の戦争において、レオポルドに追随してハヴィナを脱出してムールドに下ることを拒絶した貴族は決して少なくはない。中にはハヴィナを占領したブレド男爵やガナトス男爵に協力してその軍に加わった者もいた。

 戦後、レオポルドは彼らの多くを恩赦したものの、さすがに敵軍に参加していた士官たちをそのままの地位に留めておくことはせず、ほとんどの士官は軍務から外されて待機状態に置かれていた。マルコ・モーダン大尉もその一人である。

「反乱軍の士官がよく顔を出せるものね」

 隣の席で侍従長の説明を聞いていたリーゼロッテが囁く。

「おい」

 レオポルドが嗜めると彼女はすまし顔のまま口を閉じた。

 灰古城大広間の上座に設けられた二人の席の周囲には侍従長、キスカの他、侍従武官長レッケンバルム准将、女官長ランゼンボルン男爵夫人や官房長レンターケット、その他侍従や女官たちが控え、両脇には式部官と宮内長官アイルツ卿が立つ。

 式部官に名前を読み上げられた招待客は前に出て辺境伯夫妻の引見を賜り、主君の御壮健を喜び、謁見をお許し頂いた礼を述べ、改めて忠誠を誓う。辺境伯は臣下の奉公を称し、変わらぬ忠誠を期待する。と飾り立てられた形式的な挨拶を交わすのである。

 招待客は宮廷席次の順番に読み上げられる。サーザンエンド辺境伯宮廷の席次第一位はサーザンエンド辺境伯配下の四男爵で、中でも先頭は臣下筆頭のウォーゼンフィールド男爵とされているが、男爵は死去したばかりであり、男爵夫人も喪中の為、欠席している。その次は他の男爵たちであるが、ガナトス男爵は病気を理由に欠席していた。

 席次第二位はハヴィナ八家門とされており、その中ではフェルゲンハイム家の分家筋に当たるライテンベルガー家が筆頭という慣例になっている。

 その次に枢密院議長、統治総監、辺境伯領議会議長と続くが、いずれの官職も八家門の当主がその地位を務めており、このような場合は高い席次が当人の順番となる。

 なお、その官職を務めた者はその席次に留まる権利を得る。例えば、席次第十七位の侍従武官長を務める席次第二〇位の辺境伯軍准将は侍従武官長を退任した後も他の准将と同じ席次に下がることなく、第十七位の席次に留まることができるのだ。

 第六位はサーザンエンド高等法院院長であるが、この地位は現在空席となっている。第七位は軍事評議会議長ケッセンシュタイン将軍。第八位は辺境伯領統治副総監だが、これも空席。第九位はムールド伯領総監レオナルド・エティー卿。第一〇位は枢密院・辺境伯領議会・軍事評議会の副議長たち。

 このように席次は延々と席次三〇位まで定められており、今は第二六位サーザンエンド貴族の称号を持つ者たちを呼び出しているところであった。既に謁見の儀を始めてから数時間が経過しており、その間レオポルドとリーゼロッテはずっと椅子に座って招待客と装飾的な言辞を交わし続けている。

 席次上位の高官たちとは日頃から顔を合わせる機会も多いものの、無役の中下級貴族となると顔と名前が一致しない者も多く、中には顔を合わせたことすら初めてという者も少なくない。

 その為、ライテンベルガー侍従長は常にレオポルドの傍に控えて次の謁見者の名前と人柄や経歴の概要をレオポルドに耳打ちしていた。

 今しがた名前が呼ばれたボールドウィン・モーダン卿もレオポルドとは初対面の貴族で、レッケンバルム卿よりも一回りくらい年上の老人に見えたが、実際にはレッケンバルム卿よりも一回りくらい年下だという。

 顔中をいくつもの古傷が覆い、更に両目を覆うように白布を巻き、本来は右耳がある辺りには醜い傷跡に囲まれた丸い穴が開いているだけだった。

 モーダン卿は右手で杖を突き、左手を中年というには少し若いくらいの大尉に引かれている。子息のマルコ・モーダン大尉だろう。

 モーダン卿の顔を見たリーゼロッテが露骨に顔をしかめたが、同じような顔をした貴族や夫人は決して少なくなかった。

「お初にお目にかかります。ボールドウィン・モーダン大佐であります。この度はご拝謁を賜り光栄の極みに存じ上げます。閣下におかれましては益々ご壮健のこととお喜び申し上げます」

 尊大に胸を張ったレオポルドは鷹揚に頷く。

「モーダン卿。忠節大儀である。今後とも変わらぬ忠義に期待する」

 辺境伯の言葉にモーダン卿父子は慇懃に頭を下げる。

 謁見しなければならない招待客は二〇〇組近くにも上る為、ほとんどは二、三の言葉を交わして終わりとなる。一組当たりの所要時間は一分少しといったところであるが、それでも入れ替えの時間などを加味すれば全て終わるまで半日がかりの大仕事で、その間、ずっと衆人環視の只中で椅子に座っていなければならない辺境伯夫妻とその周囲に立って侍る廷臣たちの疲労は相当なものであった。

「過分なるお言葉を頂き、身に余る光栄に存じます。フェルゲンハイム家の為、蛮族を討滅し、我が両目と片耳を犠牲にしたかいがあったというものです」

 モーダン卿の言葉にキスカの眉がピクリと跳ね上がったが、彼女は賢明にも沈黙を守った。

「卿の献身的な忠節は騎士の鑑というものである。広く模範とされるべきであろう」

「閣下の御言葉、真に恐れ多いことです」

 挨拶が一区切りつき、客に付き添う役の侍従がそれとなく下がるよう合図するが、モーダン卿は言葉を続けた。

「つきましては、閣下にお願いしたき事がございます」

「モーダン卿。今はかようなことを申し上げる場ではあるまい」

 ライテンベルガー侍従長が硬い口調で言い放つ。前述の如く謁見は大変な時間を要し、公平性の観点から人によって謁見時間が大きく変わるのは問題となる。

「まぁまぁ、ライテンベルガー卿」

 冷厳と言い放つ侍従長を宥めるように式部官のハルトマイヤー卿が口を開く。

「卿の多年の忠義に免じて話を聞くくらいは良いのではないか」

 式部官の大変寛容な物言いに侍従長は眉間に眦を吊り上げて言い返す。

「これは感謝祭の祝宴に際して閣下に御挨拶を申し上げる場であり、臣下の者が閣下に嘆願する場ではない。どうしても申し上げたいことがあるということであれば、別の機会に然るべき手順に則って上申すべきであろう」

 秩序と礼節を重んじる侍従長にとって予定と異なる言動を行うことは全く許し難いことであり、断じて許容できないものであった。

 また、ここでモーダン卿の願いを聞き入れれば、前例となり、他の貴族も同様の言動を行いかねず、今後の謁見に要する時間は大幅に超過する恐れがある。侍従長が反対するのは当然というものであった。

 それでもハルトマイヤー卿は引き下がらなかった。

「謁見を取り仕切るのは式部官の職務である。式部官が良いと申しているのだ。それでも異議を申すおつもりか」

 確かに謁見の場を取り仕切る責任者は式部官であり、辺境伯側近の筆頭格である侍従長とはいえ、余計な口出しは職分を侵す行為に他ならない。

 額に青筋を立てた侍従長は露骨に不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、それ以上何も言わず苦々しげな顔で黙り込む。

 隣に立つキスカも似たような顔をしていて、同じようなことを考えているらしい。

「閣下。宜しいでしょうか」

 ハルトマイヤー卿に尋ねられ、レオポルドは一瞬逡巡したものの鷹揚に頷く。ここで彼自身が拒否してしまうと器量が小さい。不寛容と見做されかねない。主君があからさまに拒絶できない為に、本来は傍近くに仕える者が事前に却下するものなのだ。

「寛大にも閣下は特別にお聞き入れ下さる。申し上げよ」

 式部官が促すとモーダン卿は深々と頭を下げた。

「おぉ、慈悲深き閣下の寛大なる御心に感謝申し上げます」

「手短に申し上げよ」

 侍従長が苛立たしげに注意する。

「お願いというのは、ここにおります我が愚息のことでございます」

 レオポルドは自身の予想を確信に変えた。子息に関する事柄となればその中身は容易く察せよう。

「両目が使えず片耳も不自由な為に、我が父子は誤った道を歩んでしまい、許し難い過ちを犯してしまったことは重々承知しております。なれど、どうかフェルゲンハイム家の為に失った我が両目と片耳に免じて、今一度閣下への忠節を果たせるようお取り計らい頂けますようお願い申し上げます」

 つまりは、子息の出仕願いというわけだ。

 軍務から外され待機状態に置かれた士官への給与は半分しか支給されず、当然出世も全く期待できない。何よりも長く半給待機をさせられるということは軍人としての能力が欠けていると見做され、名誉を大いに損なうものである。

 連隊長にまで昇進し、フェルゲンハイム家の為にムールド人の虜となって、両目と片耳を失い、脚も不自由になった誇り高い武人であるモーダン卿にとって自身の子息がそのような立場に置かれることは我慢ならないのだろう。

「モーダン卿。士官の人事については軍事評議会が担っておる。ここで閣下に申し上げるのは如何か」

 氷のように冷たい口調で侍従長が言い放つ。

 前述の如く士官人事は軍事評議会によって決められることになっていた。そのうち、連隊少佐以上の人事は辺境伯の裁可を必要とするが、中隊長以下の人事について辺境伯は関知しない仕組みとなっている。マルコ・モーダン大尉の人事に辺境伯は直接関知していないのであり、彼を任用するか否かは軍事評議会に任されている。出仕願いならば軍事評議会に申し立てるべきだというのが侍従長の考えであった。

 もっとも、レオポルドがその気になれば軍事評議会に影響力を発揮する手段はいくつもあるので、全く口出しできないというわけではなく、人事において辺境伯の意向が無視されるということはあり得ないだろう。軍事評議会の構成員はレオポルドによって任命されているのだから。

 レオポルドは少しの間、悩ましげに視線を泳がせた後、口を開いた。

「卿の多年の忠孝と献身に報いることができるよう善処いたしたい」

 これはある程度前向きな回答をしたと言って良いだろう。

 叛乱に加担した士官を軍務に復帰させることに問題がないわけではないが、サーザンエンド継承戦争及びアーウェン諸侯との戦争によって大きな損失と再編を繰り返したレオポルド軍は慢性的な定員不足に悩まされ、特に士官の不足は問題であった。下士官を昇進させたり、ムールド諸部族の有能な者を抜擢して対応してきたが、それは能力や経験に不安のある急ごしらえの士官を生み出す結果にも繋がっていた。それでも士官不足は今なお深刻な問題で、士官に欠員のある連隊・中隊は少なくなかった。

 となれば、一度は敵対した軍勢に属していた士官を軍務に復帰させ、一定の能力と経験を有する士官を配置することも止むを得ないのではないか。というのがレオポルドの考えであった。

 また、フェルゲンハイム家の為に両目と片耳をも失ったモーダン卿の直訴を冷たく退けるというのも好ましくないという計算も働いた結果の発言であった。

「ははぁっ。ありがたきお言葉を賜り、厚く御礼申し上げます。改めて未来永劫の忠誠を誓いまする」

 モーダン卿父子はレオポルドの足元に這い蹲りかねないような勢いで深々と頭を下げた。

「用向きが済んだのならば、早々に下がられよ。閣下はご多忙であるのだ。ハルトマイヤー卿っ。次の者を召しては如何かっ」

 不機嫌極まるライテンベルガー卿が苛立たしげに吠え、式部官のハルトマイヤー卿はムッとした顔で羊皮紙に綴られた次の貴族の名前を読み上げる。

 モーダン卿父子は何度も頭を下げながら侍従に案内されて退出する。

「ハルトマイヤーはグルね」

 次の貴族が来るまでの間にリーゼロッテがレオポルドの耳元に唇を寄せて囁く。

「そんなことは分かってる」

 明らかに式部官はモーダン卿の肩を持っていた。慈悲芯から卿を助けてあげたとは思い難い。おそらくは事前に口利きしてくれるよう相談されていたのだろう。その際にいくらかの謝礼が渡されたとも考えられる。

 ハルトマイヤー卿は長らく辺境伯宮廷の宮中官を務め、宮廷の慣習や儀礼に通じた人物であるが、その役職を利用して謝礼と引き換えに中下級貴族や市民の上申や要望を辺境伯や高官たちの耳に入れる立場を担っているらしい。

 いわば、あまり宮廷に顔を出せない少ない者と辺境伯政府の中枢を結び付けるパイプ役なのだろう。その存在が良いものか悪いものかは一概に言えるものではない。

 レオポルドは周囲に悟られないようこっそりと溜息を吐く。今の彼は溜息すら自由にはできないのである。

 謁見の儀はまだ数時間は続く。

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