一七七
アルトゥールとエリーザベトの結婚は喪中であった為、婚約という形で公にされることもなく、とりあえず、来年まで先延べされることとされた。
ところが、数日もすれば宮廷では周知の事実となっていて、宮廷で人が集まれば話題に上がらない日はなく、婚約が認められた経緯について彼是と噂し合った。
これがライテンベルガー侍従長には気に食わないらしい。噂を広めたのはアルトゥール自身であり、婚約を既成事実化させることが目的に違いないと信じていた。
そもそも、葬儀の場で故人の娘との婚約を求めるという行動自体が非常識極まるというもので、無礼であり、品格を疑うと侍従長は宮廷の彼方此方で事あるごとに苛立たしげに愚痴り、部下の侍従や女官たちを辟易とさせていた。
侍従長の絶え間ない愚痴に晒されながら彼らは感謝祭の準備に追われていた。
秋の中頃に行われる感謝祭は秋の収穫を祝ったことが起源と見られる古くから続く行事で、この時期には仕事も休みとなることが習わしで、徒弟や奉公人も実家に戻り、家族が集まって御馳走を食べたり、農村では収穫作業後の慰労を兼ねて秋の実りを祝う祭りを行われる。
王侯貴族の宮廷でも盛大な祝宴が張られ、君主や当主は一門や臣下、客人を招き、豪勢な飲食を振る舞い、夜が更けるまで歌劇の鑑賞や舞踏会が続けられるのが慣例であった。
無論、サーザンエンド辺境伯の宮廷でも長年に渡って感謝祭の祝宴が催されてきた。膨れ上がった累積債務と慢性的な財政赤字が辺境伯領の深刻な問題となってもそれは変わらなかったものの、さすがに先代の辺境伯が亡くなって以来は開催されなくなっていた。
昨年はレオポルドがハヴィナに入城した頃がちょうど感謝祭の時期で祝宴を催している場合ではなく、そのような余裕もなかったが、今年は債務が大幅に縮減され、新たな収入源も確保されつつあり、財政には若干の余裕が生じている。
サーザンエンド貴族は感謝祭の祝宴はフェルゲンハイム家の伝統ある慣習であり、辺境伯が臣下の働きを労い、臣下が辺境伯に改めて忠誠を誓う社交の場であるという認識しており、開催は当然であるという雰囲気が宮廷に漂い、サーザンエンド辺境伯の復興を知らしめる為に盛大な感謝祭の挙行すべきであると言う者もいた。
豪華絢爛な晩餐会や舞踏会を好むわけではなく、累積債務と財政赤字の解消は未だ途上であって、財政の黒字化すら程遠い現状を認識しているレオポルドとしては宮廷費の浪費は避けたいところではあったものの、貴族たちの期待を無碍にして不満や摩擦を生じさせることは本意ではない為、感謝祭の祝宴を復活させ、葬儀から一月の喪を経た翌月中旬に実施することした。
とはいえ、実施すると決めるのは簡単だが、実際に催すのは大変な仕事である。
全てのサーザンエンド貴族とその家族、有力な貴族の家臣とその家族、領内の教会、修道院の聖職者たち、都市、商会、組合、地主といった有力な市民たちとその家族、ムールド諸部族の部族長はじめとする有力者とその家族といった招待客は数百名にも及び、招待状の送り先を確認し、清書して発送するだけでも大変な労力を要する。
また、彼らの会場での席次、辺境伯レオポルドに挨拶する順番なども整理しなければならない。同じサーザンエンド貴族であっても辺境伯、有力貴族との血縁関係の有無やその近さ、過去の職歴、有している特権や名誉、父祖の功績など様々な要素によって紡ぎあげられた序列というものがあり、これを違えることは名誉や格式を重んじる貴族たちの矜持を傷付ける行為に他ならず、後に禍根を残すような大きな問題となりかねない。
招待客の腹を満足させる量の料理を用意することは並大抵の仕事ではなく、その上、その味は少なくとも帝国南部では最高レベルでなければならず、舌の肥えた上流階級の紳士淑女を退屈させないものでなければならない。
祝宴の為にサーザンエンド中どころか帝国南部各地から大量の食材が掻き集められる。一〇〇〇羽の去勢鶏、その倍以上の小鳥や野鳥、数百頭もの子羊や野兎、数十頭もの子牛、野鹿、西岸部の港町カルガーノから生簀に入れて生きたまま運ばれた一〇〇〇匹以上の魚、数万もの貝、甲殻類の他、キャベツ、ニンジン、タマネギ、カブ、ホウレンソウ、エシャロットなどの野菜、そら豆、ひよこ豆、えんどう豆、レンズ豆などの豆類、その他、数多くの木の実、茸、香草、果実、チーズやバターなどの乳製品などなど。勿論、上質のパンを焼きあげる為の小麦も必要だ。言うまでもなく宴に付き物である葡萄酒、林檎酒、杏酒などの果実酒、麦酒、乳酒、蜂蜜酒などの酒類も大量に用意しなければらない。
会場となる灰古城大広間の改修、飾り付け、数百もの椅子やテーブルの搬入、配置、給仕たちの訓練、警備体制の構築なども重要な仕事である。
遠方からハヴィナへ来る招待客の為に宿泊する部屋も用意しなければならない。灰古城には数十もの部屋があるが、廷臣の寝室や執務室として使われている部屋も多いので、空室を全て合わせても到底足りそうにもない。灰古城付の聖堂や別棟の青い小宮殿や赤獅子館にある空室を使っても足りないので、ハヴィナ貴族たちの屋敷にも客人を泊めてもらわなければならない事態となった。
これまた誰を誰の屋敷に泊めるかが問題で、親戚や付き合いがあって、関係が悪くない者同士を組み合わせ、受け入れる側と厄介になる側に連絡を取って承諾を得ねばならず、他の仕事も山ほどある多忙の最中に数十組成立させるのは簡単なことではない。
レオポルドや副官のキスカは勿論のこと、宮内長官、式部官、侍従長と侍従、侍従武官長と侍従武官、女官長と女官、辺境伯官房長と官房の書記官、料理長と料理人、執事、従者、下僕、給仕、女中頭と女中といった宮廷の上から下までありとあらゆる人々は朝から夜まで右往左往しながら感謝祭の祝宴の準備作業に追われる羽目になった。
「糞っ。また間違えたっ。もうやってられるかっ」
レオポルドは羽ペンを投げつけると書き損じた羊皮紙を破り捨てた。
「レオポルド様。そうやって癇癪を起して破くのは止めて下さい」
傍らの席でレオポルドと同じように書き物をしているキスカが嗜めるように言った。
「羊皮紙は書き損じをナイフで削り取れば再利用できるのです」
キスカに叱られたレオポルドは憮然とした顔で新しい羊皮紙を取り上げる。
「しかし、公文書は羊皮紙でなければならないという規則は早くになんとかしたいものだな。羊皮紙代も馬鹿にならんし、何より書き難い」
東方大陸から植物原料を用いた紙が伝来し、大陸中に広まってからもう数百年もの年月が経っている。にも関わらず神聖帝国及びその支配下にある諸侯の宮廷においては公文書は羊皮紙に記述すべきとの規則が根強く、それはサーザンエンド辺境伯の宮廷においても例外ではなかった。
しかし、キスカが述べた通り羊皮紙は文字を削り取って修正することが可能な為、改竄が容易であり、本来は公文書に用いるのは不適切と言うべきである。それでも公文書を羊皮紙に書く規則が残っているのは、それが慣習であり、伝統であるからに他ならず、それ以外には何ら合理的な理由などないのである。
どちらかと言えば合理主義者であるレオポルドからすると不合理極まる慣習に見え、公文書に用いる為だけに毎年何百枚もの羊皮紙を購入しているのは愚かとしか思えなかった。
「公文書の規則を変更するのは宜しいですが、招待状を書き終えてから仰って下さい」
レオポルドが漏らす不平不満を聴き流したキスカが冷然とした顔で言い放つ。
「まだ半分も終わっていません」
キスカの手厳しい指摘にレオポルドは感謝祭の祝宴に招く来賓宛先の一覧を眺めて溜息を吐く。
彼は昨日からずっと食事と睡眠と入浴の時間以外ずっと書斎の机にしがみついて招待状を書き続けていた。その数は既に百通を軽く超えているが、まだ半分にも達していない。
招待状と言っても庶民が親戚や隣人を夕飯に招くときに出す手紙のように宛先と用向きと差出人の名前を書けば良いというわけではない。
形式通りの大仰な時候の挨拶から始まって、一通り主と聖人と教会と神聖帝国皇帝を褒め称えてから感謝祭の祝宴を開催する運びとなった趣旨と宛先の貴族の忠誠と勤労を賞し、ついてはこれに報いる為、祝宴にご出席されたい。レオポルド自身の有する称号を書き連ねてから署名となる。
文字数にすると数百字。しかも、これを通常書いている文字ではなく、特別な装飾文字でもって書かねばならない。
数枚も書けば肩が凝り、数十枚も書けば羽ペンを握る指は痛み、百枚も書けば自分が今何という文字を書いているのかも分からないくらいに脳が疲弊する。思わず字を書き損じて苛立ち紛れに羊皮紙を破り捨てたくもなるというものだ。
辺境伯主催の祝宴とはいえ、本来は辺境伯手ずから書く必要はなく、書記に任せても良い仕事であるが、レオポルドの宮廷は基本的に人手不足であり、辺境伯官房の書記官たちは別の仕事に取り組んでいて手が離せない状況であった。
仕方がないのでレオポルドは渋々延々と招待状を書き続けていく。同じ部屋にいるキスカはムールド諸部族宛ての招待状を書いていた。
二人で書斎に籠って書き物を続けていると戸が叩かれ、ライテンベルガー侍従長が入ってきた。
「失礼いたします。閣下。今しがた数え直しましたところ、銀食器の数が足りぬことが判明いたしました」
「銀食器の数は足りるんじゃなかったか」
「帳簿上の数は合っております。しかし、実際の物の数とは合っていなかったのです」
「それは、つまり、何者かが盗み取ったということではありませんか」
侍従長の言葉にキスカが眦を吊り上げる。
「辺境伯位を巡る混乱の最中に不届き者が掠め取ったのやもしれませんな。全くけしからんことです」
「とはいえ、犯人捜しをしている暇はないぞ」
レオポルドの指摘に二人は頷く。
「灰古城だけでなく、小宮殿や赤獅子館にある銀食器も掻き集めて、それでも足りない分は教会か誰か貴族から借りるしかあるまい」
「畏まりました。至急手配いたします」
「頼む。あ、そういえば」
畏まって頭を下げた侍従長が退室する直前にレオポルドは声をかけた。
「侍従長への招待状はなくても良いのではないか。宮内長官や侍従武官長にも出さなくても良いだろ」
感謝祭の祝宴の準備に奔走する宮廷に仕える貴族たちにわざわざ招待状を送る必要性がるだろうか。招待されなくても主催側の要員として出席することは決まっているのだから。
侍従長は一瞬眉をぴくりと動かした後、ゆっくりと口を開く。
「私には結構ですが、両親と義妹には招待状を送って頂きたく存じます」
そう言われてレオポルドは思い出す。ライテンベルガー侍従長の弟フリードリヒ・マヌエル・ライテンベルガー卿はサーザンエンド・フュージリア連隊の連隊長だったが、サーザンエンド継承戦争の最中に戦死を遂げている。
戦死した弟には妻子があり、侍従長が生活の面倒を見ているらしい。命を以て示されたライテンベルガー家の忠誠には厚く報いる必要があろう。
「勿論だとも」
レオポルドは深く頷き、早速ライテンベルガー家への招待状を書き始めた。
「宜しくお願いいたします」
侍従長は再び慇懃に頭を下げて退室する。
しかし、閉じられた扉はすぐに開く。
「閣下。料理長から聞いたのですが、この献立では予算を超過してしまいますぞ」
辺境伯官房長のレンターケットは困り果てたとでも言いたげな様子で言った。
「予算に収めるように言ってくれ」
「しかし、献立は侍従長から裁可を頂いていると言われまして」
「じゃあ、侍従長に言ってくれ。さっき、出て行っただろう」
「今さっき、侍従長に聞いたところ、献立については閣下に御裁可を頂いたと」
「……………」
黙り込んでしまったレオポルドに代わってキスカが尋ねる。
「予算からは如何程超過するのですか」
「この献立では五万セリンの予算を五〇〇〇セリンは超過いたしましょう」
予算よりも一割も多くなってしまうのは見積もりが甘かったとの謗りを免れまい。もっとも、計画時点の予算が最終的に数倍にも膨れ上がることは、ままあることであるから、一割程度の超過はまだ良い方と言えなくもあるまい。とはいえ、超過分の五〇〇〇セリンは連隊長の年収よりも多い大金である。
「仕方ない。五〇〇〇セリンの超過は許容しよう。ただし、それ以上の出費は控えさせよ」
「承知いたしました」
レンターケットが退室した後、レオポルドは顰め面で眉間を摘まむ。ずっと字を書いていたから目が痛いのだ。
閉められた扉は再び叩かれた。次の訪問客は小宮殿付女官を務めるフィオリアだった。
「レオ。今いいかしら。リーゼロッテ様の御衣裳なのだけれど」
「それはリーゼロッテとフィオたちで好きに決めてくれ」
レオポルドは疲れ切った様子で投げやりに言い放つとフィオリアはむっとした顔で言いかえす。
「あっそう。じゃあ、リーゼロッテ様にそう言ってくるわ」
「レオポルド様。そのような言い方は如何かと」
慌ててキスカが助け舟を出す。
来賓が集う祝宴の場における衣装が如何に重要であるかは言うまでもあるまい。特に辺境伯夫人ともなれば誰もが最も注目する対象である。その衣装に夫であるレオポルドが無関心となれば、辺境伯夫人のご機嫌麗しゅうはずもない。特にリーゼロッテは短気でへそ曲がりなところがある。自分に関心を向けてくれないと知れば大いに機嫌を損ねるだろう。
「わかった。すまん。えーと、そうだな。ほら、あの白い真珠を散らしたドレスがあっただろう。あれが良いのではないか」
「あれは駄目よ。白じゃあ感謝祭向きじゃないもの」
「じゃあ、金色の肩が出ているやつは」
「悪くないけど、寒いんじゃないかしら。リーゼロッテ様の御身体を考えると温かい格好の方が良いと思うのだけれど」
「緑に白と黄色の縁取りのドレスはどうだ」
「それなら良いかも」
「じゃあ、それに上手く合う装飾品を見繕ってくれ。生憎とゆっくり衣装を一緒に選んでやれる余裕がないんだ。今夜の夕飯はリーゼロッテと一緒に食べるから、その時にもう少し話したいと伝えてくれ」
「わかった。上手く言っておいてあげる」
そう言ってフィオリアは部屋を出ていったが、扉が閉まらないうちに今度は宮廷軍事顧問官のバレッドール将軍が書斎に入ってくるなり呆れたような疲れたような顔で言った。
「閣下。ケッセンシュタイン将軍がお会いしたいと言って聞きません」
「見てわかるだろう。今忙しいんだ」
「勿論、十分に存じ上げております。将軍にもそう申しているのですが、どうにもこうにも……」
レオポルドは疲れたように溜息を吐き、暫く考えてから答える。
「じゃあ、明日の昼食に招こう。その席で話を聞く。バレッドール将軍とレッケンバルム准将も同席するように」
「承知いたしました」
バレッドール将軍が退室するとレオポルドは再び深い溜息を吐く。
「これを書き終えたら風呂に入ろう」
「レオポルド様……」
レオポルドの呟きにキスカが鋭い視線を向ける。
「そんな時間はありません」