一七六
アウグスト・ウォーゼンフィールド男爵が死んだ。
元より心身が頑強というわけではなく、病弱で胃腸が弱く、事あるごとに寝込みがちだったとはいえ、壮年と言うにも早い年齢での呆気ない死に人々は驚きを隠さなかった。
葬儀はウォーゼンフィールド男爵家の居城クライセンバート城で営まれ、サーザンエンド辺境伯レオポルド・フェルゲンハイム・クロス夫妻、シュテファン二世・ブレド男爵、マティアス・シャンブレンドルベルン男爵夫妻、フェルゲンハイム一族のアルトゥール・フェルゲンハイム少将、レッケンバルム卿を筆頭とするハヴィナ八家門の当主たち、その他多くのハヴィナ貴族、ウォーゼンフィールド男爵家の家臣たちが参列した。
彼らは悲しげな表情を浮かべ、口々に哀悼の言葉を述べ、遺族を労っていたが、目下の関心は別のところにあった。
ウォーゼンフィールド男爵はサーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の縁戚として、臣下筆頭の地位にあったものの、優柔不断で日和見的な人柄な為、サーザンエンド継承戦争においても主導的な立場を取るどころか家臣団の分裂と内紛に見舞われるという有様であった。
とはいえ、それでもウォーゼンフィールド家の地位と影響力は過小評価できないものがある。その地位が空白となったのだ。
後継者は誰か。という一点が衆目の一致する関心事であった。
アウグスト・ウォーゼンフィールド男爵には幾人か子がいたが、数人は早世し、成長した娘の一人は先代のサーザンエンド辺境伯に嫁いだが子なくして没している。唯一存命なのはエリーザベトという名の娘だけであった。
当然、男爵家の地位と財産と権限の継承者はエリーザベトとなる。
つまり、エリーザベトの配偶者は漏れなく前述した通りの地位と財産と権限を手にすることができるのだ。
「エリーザベト嬢はアルトゥール様とご婚約されたのではなかったか」
「いや、辺境伯閣下に断りなく進められた話であったから中止となっていたはずだ」
「レッケンバルム卿が計画されたのではなかったか。よく大人しく引き下がったものだ」
「閣下に表立って楯突くわけにもいきますまい。ご婚約は白紙になったと考えるべきかと」
「しかし、当時とは状況が変わっている。閣下は辺境伯の地位を獲得し、リーゼロッテ様とご結婚され、ご懐妊もなされている。その地位は盤石というもの」
「さよう。それにムールド諸部族は閣下だからこそ大人しく服従しているようなもの。別の者に従うだろうか。ましてやアルトゥール様はムールドの部族との間に遺恨がある」
貴族たちは暇あれば顔つき合わせて彼是と言い合い、自身の憶測を披露し、嘘とも真とも知れぬ噂話に花を咲かせ、レオポルドやアルトゥール、レッケンバルム卿の魂胆を読み取ろうと想像を働かせていた。
サーザンエンド貴族の中にはレオポルドに対抗する軸を作ろうという意図からアルトゥールとエリーザベト嬢の結婚を推進する者も少なくはなかった。
帝都に生まれ育った余所者であり、早くから付き従った中下級貴族や帝国本土出身の学者、ムールド人を重用するレオポルドを快く思わない者は多い。
また、先の南洋貿易会社商船団遭難の急報によって慌てて株を手放した結果、利益に与れず損失を被った貴族は少なくなく、巷ではレオポルドが商船団の無事を知っていて意図的に遭難の噂を流して巨利を得たのだという陰謀論が囁かれていた。
様々な理由からレオポルドに反感を抱く者たちはレオポルドに対抗できる軸を求めていた。その最適な形として見出されたのがアルトゥールとエリーザベト嬢の結婚によってフェルゲンハイム家縁戚としての立場を強化されるウォーゼンフィールド男爵家である。
この動きはアルトゥールとエリーザベトの両名が相思相愛であること。地位が釣り合っていることを表向きの理由として少なくない支持を集めていた。
当然ながら血統の上でフェルゲンハイム・クロス家に匹敵するフェルゲンハイム・ウォーゼンフィールド家の誕生を歓迎できるわけもなく、レオポルドは消極的な姿勢を崩していなかった。
とはいえ、ウォーゼンフィールド家の後継問題を長期化させることは得策ではない。レオポルドの意図によって臣下筆頭であるウォーゼンフィールド男爵の後継問題が解決しないとなれば、サーザンエンド貴族の動揺と反感は避けられないだろう。
解決の手段は限られている。エリーザベト嬢とアルトゥールの結婚を認めるか或いは他の誰かと結婚させるかしかない。アルトゥール以外で適任となるのは誰か。釣り合いが取れるのはサーザンエンド領内では他の男爵家かハヴィナ八家門くらいか。
故人を送るミサの間中、濃い灰色の喪服に身を包んだレオポルドは彼是と考え込み、葬列が出発する前の休憩中、控室に入って椅子に深く座り込むと同時に苦々しげな呟きが口を突いた。
「頭の痛い問題だ」
「まったくその通りですな」
レオポルドの言葉にライテンベルガー侍従長が険しい顔で同意した。
「しかし、いつまでも先延べにはできますまい」
「さよう。このままウォーゼンフィールド男爵の空位が続けば、臣下の間には動揺と混乱が広がることであろう。あらぬ疑いや企てを邪推する者が出てこないとも言えまい」
侍従長に同調するようにレッケンバルム卿が言い放つ。
「あらぬ疑いや邪推とは如何に」
前伯領総監でありハヴィナ貴族の長老格である老シュレーダー卿が怪訝そうに尋ねる。
「例えば、このままエリーザベト嬢を結婚させず、ウォーゼンフィールド男爵家を取り潰してしまうのではないかという疑いを持つ者が現れるやもしれぬ」
「馬鹿な」
レッケンバルム卿の言葉に内務長官兼ハヴィナ長官を務めるシュレーダー卿の子息が吐き捨てるように言い放つ。
「いつの世も何処にでも愚か者はいるからな。想像力を逞しく働かせて、閣下や我々が思いもしないようなことをそうと思い込んで暴走する輩が出てこないとも言えまい」
実際、南洋貿易会社商船団遭難の報をレオポルドの陰謀と陰口する者がいるのだ。レッケンバルム卿の指摘は的外れとは言い難い。
もっとも、卿の発言はレオポルドをけん制する為のようにも聞こえる。
控室に顔を揃えた宮廷の高官たちは顔を見合わせ、一様に渋い表情を浮かべて黙り込む。
場が気まずい沈黙に包まれた時、ちょうどドアがノックされた。誰かが応えると男爵家の従者が入ってきて慇懃に頭を下げて言った。
「お休みのところ失礼いたします。そろそろ、お時間です」
レオポルドたちは部屋を出てクライセンバート城の前庭に集合した。
男爵夫人とエリーザベト嬢が最期の別れを済ませ、故人が納められた棺に蓋が打ち付けられ、金十字が刺繍された白布に包まれた。その棺を高官たちとウォーゼンフィールド家の主だった家臣たちが馬車に載せる。
司祭と霊柩車を先頭に夫人とエリーザベト嬢、レオポルドと夫人、高官たち、男爵家の家臣たちという順の葬列はクライセンバート城の正門を潜り、しずしずと城下を歩いていく。
郊外の墓地に到着すると司祭が今一度聖典を読み上げた後、参列者の手によって棺が埋葬される頃には夕暮れに迫りつつあり、レオポルドたちはぞろぞろと城に戻り始める。
ふと今しがたウォーゼンフィールド男爵を埋めた場所へふと視線を向けると父の墓前に佇むエリーザベト嬢の傍らにはアルトゥールの姿があり、二人は寄り添っているようにも見えた。
「行きましょう。日が暮れると肌寒いわ。もう秋ね」
レオポルドの腕に手をかけてリーゼロッテが言い、彼は渋い顔で頷く。
二人は黙って迎えの馬車に乗り込み、狭苦しい馬車の座席に並んで座る。そこでリーゼロッテが口を開いた。
「あの二人が結婚したいと言ってきたらどうするの」
彼女の問いにレオポルドは惚けるように呟く。
「さて、どうするかな」
「認めてあげればいいじゃない」
思わずレオポルドは隣に座る妻の顔を見つめる。
「恋仲を引き裂くと犬に噛まれるのよ。あら、馬に蹴られるのだったかしら」
そう言ってリーゼロッテは小首を傾げる。
「いや、そうは言ってもだな。ウォーゼンフィールド家が俺に反発する連中の旗頭になりかねん」
「目印があった方が誰が不忠義な輩か分かり易くなっていいじゃない」
彼女の指摘にレオポルドは呆気にとられる。確かにその通りかもしれない。
「それに不満や反感を持つ貴族たちはその結婚が認められなかったからといって、忠義者に宗旨替えするかしら」
これも尤もな指摘と言えよう。アルトゥールとエリーザベトの結婚が認められないとなれば、これを推進する貴族たちはレオポルドへの反感をより強くするかもしれない。
「アルトゥールとエリーザベトの結婚によってフェルゲンハイム家の血統に近くなったら、将来我々に取って代わるかもしれないぞ」
「それは貴方や子孫に何かがあった場合でしょう」
レオポルドが口にした懸念に彼女はツンと顎を上げて言い放つ。
「それにこの子が男なら次の辺境伯は決定じゃない。ウォーゼンフィールド家の出る幕はないわ」
彼女のお腹はもうだいぶ膨れていて出産は冬を予定していた。
「まだ男かどうか分からんだろう」
帝国貴族には女子相続を認め、女公や女伯も珍しくなかったが、フェルゲンハイム家の継承法は女子によるサーザンエンド辺境伯位の継承を認めていなかった。ただし、フェルゲンハイム家の血統を持つ男子であれば継承権は認められる為、フェルゲンハイムの娘の子は辺境伯となる資格を有す。
実際、レオポルドもフェルゲンハイム家の娘であった祖母の血統によってサーザンエンド辺境伯の地位を継承している。
つまり、彼女のお腹にいる子が次の辺境伯になるかどうかは性別によって決まるのだ。
「あら、男が産まれるまで諦めないものだと思っていたけれど」
リーゼロッテはレオポルドを一睨みして言い放ち、その肩に手を置いて耳元に唇を寄せた。
「貴方は私をもう孕ませないつもりなのかしら」
そう囁いて彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「恐縮ですが、お話があります」
ウォーゼンフィールド男爵の葬儀の翌日、朝食の後、ハヴィナへ戻る馬車の準備を待っていたレオポルドの前にアルトゥールが現れて言った。
「閣下はご多忙だ。馬車の支度が済み次第、お帰りになられる。ハヴィナで話せばよかろう」
傍に控えていたライテンベルガー侍従長が険しい表情で咎めるが、レオポルドはそれを制した。
「何か」
レオポルドが促すとアルトゥールはその場で膝を突く。
「エリーザベト嬢に求愛いたしたいと存じます。どうか結婚を認めて頂きたい」
「このような時に、このような場所でする話か。場所と場合を弁えよ」
侍従長が冷然と言い放つ。表情と口調からして相当頭にきているらしい。
ライテンベルガー家はフェルゲンハイム家の古い分家筋に当たり、アルトゥールと立場は似ているが、二人の気質は正反対と言ってもよかった。
卿は極めて貴族的な人物で、誇り高く儀礼を重んじ、無礼や怠慢を軽蔑し、無秩序や混沌を忌み嫌う。
対してアルトゥールはと宮廷の形式的な儀礼や古い秩序を嫌い、自由奔放で身分や立場に囚われず粗野で乱暴とすら言える。
そういったわけで二人は全く反りが合わず、互いに嫌悪しているらしい。
「侍従長殿に言っているのではない。閣下にお願いしているのだ。邪魔しないでくれ」
「何だと、貴様、私を愚弄する気か」
アルトゥールに言い返されたライテンベルガー卿が気色ばんで勢いよく立ち上がる。
「まぁ、落ち着かれよ」
侍従長が腰の物に手をかけようとする前に同席していた若シュレーダー卿が慌てて間に入り、アルトゥールに声をかける。
「これは重大な案件であるから後日適切に返答されるであろう」
「いや、今お答え頂きたい」
彼はそう言ってその場を動かず、レオポルドを見つめる。
侍従長は憎々しげにアルトゥールを睨みつけてから黙って首を横に振る。否と答えるべきだと言いたげだ。
とはいえ、ここまで真正面から結婚を認めるよう迫られてしまっては拒むことは容易ではない。二人の結婚を認めないとする理由に乏しいのだ。ウォーゼンフィールド家の強化は将来の脅威になりかねないからと公言することは器量の小ささを誇示するようなものだろう。
思ったよりもかなり早く選択に迫られたレオポルドは昨夕のリーゼロッテの話を思い返しながら答えた。
「好きにしたまえ」
この言葉にアルトゥールは喜色を浮かべて頭を下げ、侍従長はこの世の終わりだとでも言いたげに頭を抱えていた。