一七四
ハヴィナにその知らせが舞い込んだのはサーザンエンドの長く厳しい暑さが頂点を過ぎ、夏の終わりが見え始めた頃合であった。
南洋貿易会社はサーザンエンド辺境伯レオポルドの主導により南洋諸島との貿易を目的として設立された。
香辛料や砂糖、茶、珈琲といった帝国のみならず西方大陸全土で高い需要がある品々を産する南洋諸島との貿易は莫大な利益が見込まれる。
もっとも、南洋諸島は全く未開の地というわけではなく、既に南洋貿易は西方諸国との間で頻繁に行われている。
南洋諸島の存在は古来から知られていたが、長く東方大陸の帝国の影響下にあり、西方諸国は宝の島を前にして指を咥えるしかない時期が長く続いた。
東方大陸の大国が衰え、軍事力が強化された西方諸国が大手を振るって南洋貿易に乗り出すようになったのは一〇〇年程前からで、中には南洋諸島に植民地を有する西方の大国もあった。既に多くの海図や地図が作成されて世に出回っており、年に数十隻の船舶が往来する交易路も確立されている。
レオポルドはそこに新規参入しようと画策したのだ。
彼の支配するところとなったラジアは大陸南端の地であり、南洋諸島と最も近い港町である。この地の利を活かさない手はなく、南洋諸島とは最短距離の航路で結ばれ、航海の時間は大幅に短縮される。他の地域に拠点を置く交易商に比べて、格段に有利であると言えよう。
とはいえ、貿易には金がかかる。大量の商品を積み込める船舶を用意し、荒れ狂う嵐も行き交う南洋の海を越えられる熟練の水夫を雇い入れて商船団を組織し、商品を買い付ける多額の銀貨も用意しなければならない。
この資金をかき集める為にレオポルドはサーザンエンド銀行と共に多額の出資を行い、多くのサーザンエンド貴族、サーザンエンド各地の商人、ムールド諸部族、帝国南部に影響力を及ぼそうと企むレイクフューラー辺境伯らが投資に参加していた。
こうして集まった資金を元手に組織された四隻の商船から成る記念すべき第一次南洋貿易船団がラジアを発したのは夏前のことであった。ラジアから南洋諸島まではそれほど遠い距離ではなく、二月もあれば往復が可能であろうと予想されていた。
ところが、予定を過ぎても商船団がラジアに戻ることはなく、何の便りも齎されず、レオポルドはじめ南洋貿易会社に投資した多くの人々の気持ちを不安にさせた。
以前より南洋貿易は行われていると言っても不安材料は数多ある。一度荒れれば大船をも木の葉の如く弄ぶ南の嵐、無防備で無警戒な商船を襲って荷物を奪い去ろうと企み飢狼の如き海賊、南洋貿易航路に参入せんとする南洋貿易会社を快く思わない他の地域の商人からの妨害、西方文明に反感を抱く原住民の襲撃などなど。
その中の一つが的中したという知らせを聞いたレオポルドは卒倒しかけた。
「それは真か。一体如何なことか詳しく説明せよ」
同席していた侍従長のライテンベルガー卿は使者を睨みつけると叱りつけるような調子で言い放つ。
ラジアから駆けてきて疲労困憊の使者が息も絶え絶えに恐縮した様子で説明したところによると、一週間前、昨年暮れに発した商船団のうちの一隻がラジアに入港したというのだ。
その船の乗員が語ったところによると、行きの航路は問題なく、取引自体も多少の混乱はありつつも無事に終わり、商品を満載した船団はラジアに向けて帆を上げ、後はラジアに帰るだけであった。
ところが、南洋の島を発って数日後。雲行きは怪しく、風は強く、波は高くなり始めた。不穏な天候を見た船団の幹部たちは話し合って、船団を安全な場所に避難させようと舳先を変えたものの、時既に遅く、あっという間に船団は嵐の真っただ中に放り込まれてしまったというのだ。
僚船の姿も見えない嵐の最中、いつの間にか船団と逸れてしまった一隻は止む無く荷物を捨て、どうにかこうにか嵐をやり過ごした後、どうにかこうにかラジアへと帰着したという。
「おやおや、それは困ったことになりましたねぇ」
「困ったことどころの話ではあるまい」
レオポルドの側近である辺境伯官房長レンターケットが肩を竦めると侍従長は苦々しげな顔で言い放ち、使者に下がるように手を振る。
使者が退室した後、卿はこれ以上ないくらいの顰め面で口を開く。
「辺境伯閣下とサーザンエンド銀行、それに加えサーザンエンドの多くの貴族、商人が南洋貿易会社の商船団に如何程の投資をしたか知らぬわけではあるまい。それが全て水泡に帰したとなれば、サーザンエンドは上下を問わず揃って破産したも同義であろう。商船団の命運はサーザンエンドの命運も同然である」
侍従長の言葉を聞きながらレオポルドは頭を抱える。何一つ否定できないくらいに全くその通りなのだ。
「レイクフューラー辺境伯に支援願うしかないか……」
「まさか、レイクフューラー辺境伯でも援助できる限度というものがあります」
レオポルドが呟くとレイクフューラー辺境伯と通じているレンターケットが即座に否定した。
「しかし、このままでは商船団の命運を知った者たちが南洋貿易会社から資金を引き揚げるぞ。そうなれば、会社は破産してしまう」
「まぁ、そうなるでしょうなぁ。人の口には戸は立てられぬと申しますから、商船団の受難を人々が知ることは間違いないでしょうからねぇ」
妙に冷静なレンターケットがのんびりと頷くのを見ながらレオポルドは財務長官カール・ウルリヒ・マウリッツ卿とサーザンエンド銀行総裁代理兼本店支配人のテオドール・ゲオルグ・ヴァンリッヒ男爵、宮廷財務顧問官にして南洋貿易会社理事兼会計主任ゲルフェン・スターバロー博士、南洋貿易会社総裁代理も務めるハヴィナ商人ハルハット氏といった経済関係の重臣たちを呼び寄せ、宮廷財務会議を招集するよう指示した。
宮廷財務会議は様々な会議を催すことを好んだレオポルドが設けた会議体の一つであり、サーザンエンドの経済財政問題について討議する事実上の最高機関であった。
この会議を実質的に主導するのは宮廷財務顧問官を務めるスターバロー博士である。元ミハ大学の教授である博士は数学や会計の専門家であり、南洋貿易会社とサーザンエンド銀行を用いたサーザンエンド辺境伯債務の圧縮策を企画した張本人である。
「商船団受難の報を知った投資家の一部はすぐにでも南洋貿易会社株を手放そうとするでしょうから、株価は暴落することはまず間違いありませんな。今の半値。いや、三分の一以下に暴落するかもしれません」
「そんなことは言われんでもわかっとる」
神経質そうに細長い山羊髭を摘まみながら説明するスターバロー博士の言葉を聞きながら、レオポルドは口の中で誰に言うでもなく呟く。
「これをそのまま放置すると更なる株の売却を招き、遠からず南洋貿易会社は破産いたします。南洋貿易会社が破産すれば、大株主であるサーザンエンド銀行も破産いたします。サーザンエンド銀行の破産は辺境伯政府の破産も同然と言うものです」
「その通りだ。しかし、その通りに事が進むことは断じて避けねばなるまい。如何すべきか」
ヴェンリッヒ男爵がこれ以上ないくらいの顰め面で言い、マウリッツ卿が頷く。
「市場が気付く前に南洋貿易会社を解散させるべきではないか」
「まさか、南洋貿易は我々の経済政策には欠かせない命綱だぞ。これを一度の失敗くらいで諦めるのか」
「とはいえ、船団を失った以上、南洋貿易会社の資産は僅か。再度の出資を募ったところで、これに応じる者がいくらいるだろうか。船団を再組織することは不可能に近い」
「しかしですな。南洋貿易会社を解散させるにしても損失が大きすぎます。大株主であるサーザンエンド銀行も無傷では済みますまい」
「そもそも、商船団が全滅したと断定するのは早計ではないか。残りの三隻が無事に帰港する可能性もあろう」
「いや、それでも最悪の事態を想定し、対策を講じる必要はありましょうぞ」
昼から始まった宮廷財務会議は喧々諤々の論争が夕暮れ間近まで延々と続いたものの、南洋貿易会社の危機を救う手立てについて結論は出そうにもなかった。
ただ、南洋貿易会社が破産するような事態だけは何としても避けねばならないという点で会議の参加者は一致を見た。
となれば、その為の方策は限られてくる。
商船団の遭難が知れれば南洋貿易会社の株式を手放そうとする者が続出し、株価が暴落することは明白である。これを放置すれば更なる暴落を招き、南洋貿易会社は破産。会社の出資者たちは財産を失うことになり、サーザンエンド経済は収拾がつかない混乱に陥るだろう。
これを防ぐ為には売りに出された南洋貿易会社株を誰かが引き受けなければならない。
当初、辺境伯政府の財政担当者たちはこの役目をサーザンエンド銀行に担わせるつもりであった。サーザンエンド銀行が南洋貿易会社株を引き受け、代金を銀行券で支払おうというのだ。
しかし、これにサーザンエンド銀行総裁代理のヴァンリッヒ男爵が強硬に反対した。
「サーザンエンド銀行が南洋貿易会社株を大量に保有するとなれば、銀行の経営に不安が生じる恐れがあります。となれば、銀行の信用は低下し、銀行券を持つ者がセロン銀貨との兌換を求めて殺到する事態となりましょう」
南洋貿易会社株が不良債権と見做される状況に陥った場合、これを大量に保有する銀行の財務に疑惑が生じるのは当然というものであり、破産しかねない銀行が発行した銀行券を信用する者などいようか。銀行券を持つ者たちが大挙してセロン銀貨との兌換を求めてきたとしても、サーザンエンド銀行が保有する銀貨では到底応じられないだろう。
「サーザンエンド銀行の破産はサーザンエンド経済の崩壊も同義であり、これだけは断じて避けねばなりますまい。故に南洋貿易会社に銀行の資金を投入することには強く反対いたします」
「では、どうするのだ。サーザンエンドん銀行が支援せねば南洋貿易会社は破産するのだぞ。こういう時のための銀行なのではないのか。貴公は南洋貿易会社を見殺しにする気か」
ライテンベルガー卿が苛立たしげに言い放つ。
「諸君はこのまま南洋貿易会社を倒産させる気かね」
侍従長に睨みつけられた宮廷財務会議の経済財政担当の高官たちは顔を見合わせ、悩ましげに頭を傾げ、苦しげに唸る。
「一つ手がありますな」
そう言ったのはスターバロー博士だった。
「確かにサーザンエンド銀行が南洋貿易会社株を直接引き受けては、銀行の経営に不安が生じます。となれば、不良債権を抱えても短期間であれば問題が生じない第三者が南洋貿易会社株を引き受けるより他ありません」
「その第三者とは誰か」
ライテンベルガー卿の問いに博士は黙って視線を向ける。その方へと皆の視線が集中する。
「……それで、私は今度はいくら金を借りればいいんだ……」
レオポルドはゲンナリとした様子で呻くように言った。
南洋貿易会社の商船団が遭難したという知らせは数日のうちにサーザンエンド全土に広まり、南洋貿易会社に出資した貴族や商人たちの肝を冷やし、激しく動揺させ、中には損失を最小限に抑えようと株を手放そうと奔走する者も少なくなかった。
その結果、設立以来、急上昇を続けていた南洋貿易会社の株価は瞬く間に暴落を始めたものの、サーザンエンド辺境伯レオポルドが南洋貿易会社株を引き受けることを布告し、実際に多くの株を買い入れたことによって、人々の動揺はある程度抑えられ、株価の下落は最低限に止められた。
というのも、出資者の中には商船団が壊滅したというのは早合点ではないかという慎重な意見もあり、第一回の商船団が失敗しても再度の商船団を組織すれば損失を回復できるのではないかという見方をする者もいて、全ての出資者が雪崩を打って株を投げ売るという展開ではなかった為である。
レオポルドの南洋貿易会社株を買い入れるという行動がそういった見方を後押しし、売りを抑制することとなったのだ。
とはいえ、レオポルドは悲観的な見方をした出資者が手放した株を買い入れる為に大金を費やし、その支払いをサーザンエンド銀行からの借り入れによって済ませた。
つまり、彼の山の如き借金の頂きの高さは更に増したのである。