一七三
「調査の進捗はどうかね」
レッケンバルム卿は灰色の顎鬚の尖った先を摘まみながら尋ねた。
枢密院議長を務める卿はハヴィナ八家門の筆頭格であり、ハヴィナ貴族の中では最も大きな権勢を誇る人物である。レッケンバルム家は多くのハヴィナ貴族と縁戚関係にあることもあって、その影響下にある貴族はハヴィナ貴族の半数近くに及ぶ。
その為、サーザンエンドの主君である辺境伯レオポルドであっても無視できないどころか、大いに気を使う存在であった。実質的にはレオポルドに次ぐ第二の権力者と言っても過言ではない。
「聞くところによると捗々しくないようだが」
鋭い灰色の瞳にじろりと見つめられ、フィオリアは居心地悪そうに俯く。
レッケンバルム卿の異教徒・異民族嫌いは有名で、辺境伯レオポルドの義姉といえど、フィオリアのことも良く思っていないはずだ。
「恥ずかしながら思わしい状況ではございません」
卿の向かいに座ったヴェステルが代わりに答える。彼はレッケンバルム卿とは親戚関係にあるのだ。
「ふむ」
レッケンバルム卿は頷くとフィオリアが出したお茶に手を伸ばし、ティーカップを傾ける。
フィオリアとヴェステルは意外そうに目を丸くして顔を見合わす。お茶は出してみたものの、異民族の娘が出した茶など飲めるかと喚かれるか、手も付けずに放置されるのではないかと思っていたのだ。
「何だその顔は。私が茶を飲んでは悪いか。君たちが出したのではないか」
「いえ、そういうわけでは」
ヴェステルが弁解するように言い、近くに立つフィオリアもぷるぷると首を横に振った。
「ところで、何故、君はそんな所に突っ立っているのだ。座り給え」
「は、あ、はい」
声をかけられたフィオリアはギクシャクとヴェステルの隣に腰掛けた。
卿は並んで座る二人をじっと見つめ、咳払いをしてから薄い唇を開く。
「それで、調査は何処まで進んでいる」
「アガーテ嬢は週に一度の頻度で実家に顔を出していたらしく、その際に一人で外出をしていた模様です。家族には宮廷の用事と言っていましたが、実際にはそのような用事はなく、偽りの理由を述べていたと思われます」
ヴェステルが淀みなく調査結果を報告する。まだレオポルドにも報告していないのに、レッケンバルム卿に漏らして大丈夫だろうかとフィオリアは不安になる。
「その足取りは」
「只今、調査中です」
「ふむ」
卿は少し考えるように口髭を撫でつけながら腕を組み、暫くの沈黙の後、視線をフィオリアに向けた。不意に鋭い視線を向けられた彼女は緊張した様子で身を縮める。
「ハヴィナの街にアルゴットという藪医者がいる」
唐突な言葉に二人はポカンとする。何と反応して良いか分からない。
「そやつに話を聞くと良かろう」
そう言うとレッケンバルム卿はティーカップの中身を飲み干してから立ち上がり、二人のうちどちらかを見るでもなく、窓の外にでも視線を向けながら言った。
「些か酷な真実となるやもしれん。しかし、君には知る権利があろう。何も知らずに、というのはな」
それだけ言い残して卿はさっさと部屋を出ていった。卿はせっかちで歩くときはいつも早歩きなのだ。
「さっきの言葉って、誰に言ってたのかしら」
フィオリアが尋ねるとヴェステルは首を傾げた。
「さぁ」
二人は怪訝そうに顔を見合わす。二人のうちのどちらかに向けて言われたとするならば、全く意味が分からない。アガーテの死の原因が何であれ二人には大して関係のない話のはずだ。二人はただレオポルドに指示されて調査に当たっているだけで、特別親しかったというわけでもなく、アガーテとの繋がりはハヴィナ城に仕える同僚といった程度でしかない。
とはいえ、レッケンバルム卿から与えられた情報は重要なものかもしれない。ハヴィナにおいて大きな影響力を持ち、広い人脈を有す卿ならば誰もが知らぬ秘密の情報源によってアガーテ嬢の足取りを知ることができたのかもしれない。
卿が何故その情報を二人に教示したのは縁戚に連なるヴェステルに功を与えてやろうという思惑によるところだろうか。それとも、単なる気紛れなのか。
ともかく、早速、二人はレッケンバルム卿から示されたアルゴットなる医者を探しに出かけた。
ハヴィナで営業する医師は全て医師薬剤師組合。或いは外科医であれば、床屋外科医組合に加入しなければならない。
よって、両組合に問い合わせればアルゴットの正体や所在が分かるはずであった。未加入の不正規な医師だったとしても組合が放置しているはずはなく、何らかの情報は得られるはずだというのがヴェステルの意見であった。
ところが、問い合わせに対する両組合の返答は「アルゴットなる者については存じ上げない」というものであった。
訝しんだ二人は市参事会へと足を向け、同じ問いを繰り返した。
「アルゴット……。まぁ、存じてはおります。薬種商ですな」
対応した市参事会の年老いた顧問官は二人を交互に見やってから渋い表情で答えた。口調は丁重ではあるが、歓迎している風ではない。
「医師ではないのですか」
「さようです。医師薬剤師組合にも床屋外科医組合にも加入していませんからな。正規の医師ではありません」
そう言ってから顧問官は訝しむような顔で二人を交互に見やり、まるで非難するかのような口調で問う。
「何故、アルゴットについてお尋ねになるのですか」
「お聞きすることに何か不都合でもあるのですか」
ムッとした顔でフィオリアが聞き返すと顧問官は彼女をちらと見てから重たげに口を開いた。
「この街で奴の名を表立って口にすることは憚られることでございます。特に身分ある淑女であれば尚更というもの」
「一体、それはどういう意味ですか」
「奴めの忌むべき所業を知れば当然というものです。あのような輩と同じ街に住んでいることすら悍ましい。おぉ、主よ。我らの罪を赦し給え」
顧問官は嫌悪感を露わにしながら言い捨て、フィオリアとヴェステルは顔を見合わす。
「アルゴットめの生業は薬種の販売ではございますが、それと同時に密かに医師の真似事をしております。診察や施薬だけでなく、手術まで施す始末」
「そのような怪しげな偽医者の店に行く者がいるのですか。貧民相手に安い料金で診察しているのですか」
「違いますな」
ヴェステルの問いを否定してから顧問官は口に出すことすら憚るといった様子で吐き捨てるように言い放つ。
「奴の店に通うのは女性ばかりです。主に娼婦の類。それか世間に公表し難い妊娠を疑う婦人や少女」
「……なるほど」
隣で黙り込んだフィオリアをいくらか気にしながらヴェステルが頷く。
先の答えだけでアルゴットという偽医者の所業が知れようというものであるが、顧問官は言葉を続けた。
「奴は性病の診察と治療。妊娠の有無の診察。場合によっては堕胎にも手を貸すと聞きます。真に悍ましく恐ろしく忌々しい」
言うまでもなく、アルゴットの生業は西方教会の聖典によって規範される世の道徳に反する行いであり、世間から非難され、後ろ指差されるような所業である。故にアルゴットは表向きは薬種商の皮を被っているのだろう。
非難されるのは偽医者であるアルゴットだけではない。西方教会の聖典に基づく道徳規範が至上とされる世において未婚女性の妊娠や堕胎は軽蔑すべき悪しき行いとされている。ハヴィナではアルゴットの店に行くこと自体がそれらの行いによって身を穢していることを意味しているのだ。
当然、顧問官をはじめとするような身分ある人々はアルゴットという名を聞くだけで眉を顰め、淑女がその名を口にすることすら好ましくないものとして見做す。
無論のこと、公の場でそのような名前が口に出されることはないから、娼婦や性病、望まぬ妊娠などという事柄と縁遠い真面目な人々には関わり合いになることもなく、長くハヴィナに住んでいてもアルゴットという性病や堕胎を行う偽医者の存在を知らないまま一生を終える者も少なくないだろう。
そういうわけで、ハヴィナ育ちではないフィオリアは勿論のこと、ハヴィナ貴族のヴェステルもアルゴットの存在を知らなかったのである。ヴェステルは一部の軽薄な若い不良貴族が嗜むような危険な悪い遊びなどとは無縁で、読書や勉学を趣味とするような男なのだ。
「何故、そのような輩が放置されているのですか」
「忌々しきことに顧客の中には身分ある方も含まれておるようで、組合も手を出せないというよりは見て見ぬふりをしておるのでしょう。正規の医師たちはそのような厄介な客を避けますし、堕胎などという神をも恐れぬ不道徳な行いに手を染めませんからな」
要するに正規の医師組合は自分たちがやりたくない汚れ仕事をアルゴットという偽医者に押し付けて知らんぷりをしているらしい。
市参事会としても被害の届出がない限りは一種の必要悪として嫌悪しつつも黙認しているのだろう。
ともかく、アルゴットの素性は知ることができた。
ハヴィナの裏の裏まで知り尽くすレッケンバルム卿がアルゴットの生業を知らないわけがなく、その卿がアガーテの死の原因と関係があることを匂わせてその名を出したということを考えれば、自ずとアガーテの死の原因も察せられるというものであろう。
フィオリアとヴェステルは礼を言って席を立つ。
退出する前に彼は顧問官に言い含めるように釘を刺すことを忘れなかった。
「くれぐれも勘違いして頂きたくはないが、私たちがアルゴットの世話になる必要は微塵もない。辺境伯閣下直々の御命令による職務によりアルゴットなる者について取り調べる必要があった為、話を聞きに来ただけのこと。無礼極まる思い違いをすることなきよう十分に心得よ」
数日後、アイルツ家の家来たちを引き連れたヴェステルはアルゴットの店に押しかけて、娼婦と望まぬ妊婦相手の偽医者を厳しく尋問し、アガーテが来訪したことを自白させた。
アルゴット曰くにはアガーテは何処で聞き付けたのか半月程前にアルゴットの店に来訪し、診察を受けたという。
彼は正式に医術を学んだ経験こそないものの、かつて医者の助手を務めた経験を持ち、幾人もの妊婦を診てきた経験から妊娠の有無を調べることは難しいことではなく、間違えることは滅多にない自負していた。
診察の結果、アガーテは妊娠しており、彼が結果を告げたところ、彼女は大いに動揺した様子を見せたという。
その後も彼女は幾度か診察に訪れ、最後に来た時には堕胎を依頼されたが、彼女が女官だと知っていたアルゴットはさすがに女官を堕胎させたと知れれば大きな問題になると考えて断り、その代わりに堕胎薬を売っているという女占い師を紹介することにした。
次いでヴェステルはその女占い師の店を訪れて尋問し、アガーテらしき淑女に砒素を販売したことを聞き出し、その後、女占い師は違法に毒薬を販売した罪によって市参事会に引き渡された。
しかしながら、女占い師の供述によれば砒素は堕胎薬として売ったわけではなく、毒薬として売り渡したとのことであった。
つまり、アガーテの死は堕胎しようと試みた結果の事故というわけではなく、望まぬ妊娠を思い悩んでの自死であるとフィオリアとヴェステルは結論し、その旨をレオポルドとリーゼロッテに報告した。
レオポルドは調査結果を公表しないことと決め、フィオリアとヴェステルも口外するようなことはなかったが、人の口に戸は立てられないものだ。この事件の調査に従事したアイルツ家の家来は数十人以上に上り、聞き取りを受けた者も少なくないし、アルゴットは今回の件に関して何らかの罪を犯したわけではない為、口止めはしたものの自由の身のままである。
何処かからかアガーテの死に関する噂は広まって、口さがない貴族たちに格好の話題を提供することとなり、ハヴィナ市中でも庶民たちの間で話題となる有様であった。
宮廷に出仕する未婚の女官が妊娠を思い悩んで自死したなどという醜聞は身分の上下に係わらず多くの人々が好みそうな話題であり、宮中においても密やかに語られぬ日はない程に広まった。
娘の不名誉な行いを公に知られてしまった父親であるハルン卿は恥辱のあまり宮廷への出仕を遠慮して自宅に引きこもり、上役であった女官長ランゼンボルン男爵夫人は自らの監督不行届きであったとしてリーゼロッテに辞意を申し出る事態となった。
女官は恋愛や結婚が禁止されているというわけではないが、結婚に際しては主人であるリーゼロッテの許しを得る必要があるし、未婚のまま妊娠など論外である。
女官長自身は生真面目で規律正しい厳格な女性であったが、ハヴィナでは新参である彼女はハヴィナ貴族出身の女官たちに遠慮して、その生活や行動を制限するようなことを躊躇っていた。その結果がこの醜聞となってしまったわけだ。
結局、女官長は慰留され、その地位に留まったものの、女官をより厳格に監督するよう注意され、これまで比較的自由であった女官たちの生活や行動は大きく制限されるようになった。
その上、事態はこれにて一件落着とはならなかった。次なる疑問が生じたのである。果たしてアガーテを孕ませた相手は誰か。
アルゴットも女占い師も相手の男については知らず、宮廷や市街では根拠のない憶測が彼是と噂された。相手として噂された中にはレオポルドまで含まれていた。
「俺なわけがないだろうが。その頃はアーウェンとの戦争に在陣中だ」
ハヴィナ城の庭園でお茶をしている際に、リーゼロッテから宮中で噂されていることを聞かされたレオポルドは不機嫌に漏らす。
アガーテが妊娠した時期を推測に基づいて計算すると、レオポルドはアーウェン戦争に出ていた時期と重なるのだ。
「私もレオだとは思っていないわ。私の夫が三人も美しい妻を持っているのに、更に私の女官にまで手を出すような破廉恥だとは思いたくないもの」
リーゼロッテの皮肉めいた刺々しい物言いにレオポルドは閉口する。とはいえ、彼女は棘のある言葉をよく使うので慣れたものである。
「それじゃあ、一体、誰なのでしょうか」
同席している未婚の女官のテレジアが難しい顔をして呟くと、リーゼロッテも真剣な顔で考え込む。二人してアガーテの過去の言動に男の影がないか思い出しているのかもしれない。
女性というものはこの手の話題が好きなのだろうとレオポルドは考え、半ば呆れた様子でティーカップを傾ける。
「そうだわっ」
突然、そう叫んでリーゼロッテが立ち上がり、レオポルドは危うくお茶を噴き出すところだった。
「そんな大声を出さんでも……」
レオポルドがぶつぶつ言うのを無視してリーゼロッテがテレジアに尋ねる。
「たまにだけれど、アガーテ宛てに若い士官から手紙が来ていたような気がするわ。家族からの手紙かって聞いたら、ジルドレッド大尉からですって答えて」
「何だとっ」
今度はレオポルドが叫ぶ番だった。
「ジルドレッドだとっ」
「確かそう言っていた気がするわ。でも、部屋に手紙が無かったってことは全て処分してしまったのかも。手紙の収受を担当している係に聞けば分かるかしら」
リーゼロッテはそう言って首を傾げる。
万が一にもアガーテの相手がカール・ルドルフ・ジルドレッド大尉だとすれば大きな問題であり、女官一人の不審死で止まるものではない。
ジルドレッド将軍の子息カール・ルドルフ・ジルドレッド大尉はレオポルドの義姉であるフィオリアと婚約しているのだ。レッケンバルム卿の反対によって婚約の話は遅々として進んでいないが、公に知られている事柄である。
辺境伯の義姉の婚約者に別の相手がいて、その女性が望まぬ妊娠を思い悩んだ果てに自死を遂げたとなれば今宮廷で噂されている以上の大変な醜聞となろう。婚約を進めるどころの話ではない。
レオポルドが直ちにカール・ルドルフ・ジルドレッド大尉を呼び出し、事実関係を問い質したところ、大尉は釈明も弁解もせずアガーテと男女の仲にあったことを告白した。ただし、それはフィオリアとの婚約が持ち上がるまでのことで、レオポルドから婚約を仄めかされた後、アガーテとは別れたのだという。
また、ジルドレッド大尉もレオポルドと同じようにアーウェン諸侯との戦争に従軍していたから、アガーテを孕ませた相手というわけではないらしい。
とはいえ、極めて外聞が悪い。見方によってはジルドレッド大尉が主君と縁戚となり、出世する為に恋人を捨てたとも見えるだろうし、そう捉える者も少なくあるまい。恋人に捨てられたアガーテが自棄になって誰かと事に及び妊娠してしまったのだと推測することもできよう。
しかも、大尉は呼び出されるまでレオポルドにアガーテとの過去の関係を報告すらしていなかったのである。かつての恋人が不審死を遂げたにも関わらず黙っていたのは姑息にして卑怯な振る舞いと言っても過言ではあるまい。
少なくともレオポルドはそう考えた。そのような男に義姉を任せることができようか。
カール・ルドルフ・ジルドレッド大尉とフィオリアの婚約は諸般の事情により解消とされ、大尉は帝都勤務を命じられ、サーザンエンドを離れることとなった。
当然、この機会での婚約解消はアガーテの不審死と結び付けられることは必至であり、程無くしてジルドレッド大尉とアガーテの過去の関係が人々の話題に上るようになった。
もっとも、ジルドレッド大尉とアガーテの秘密の恋人関係がこのまま世間に露見せずに済むと考えるのは楽観に過ぎるというもので、いずれにせよ時間の問題だったと言えよう。
ジルドレッド大尉がハヴィナを離れた後、レオポルドはレッケンバルム卿が赤獅子館で今回の顛末について語っていたという噂を聞いた。卿は言ったという。
「だから、私はあの婚約には反対だったのだ」
きっとレッケンバルム卿はジルドレッド大尉とアガーテの秘密の恋愛関係を知っていたに違いない。ハヴィナにおいて卿の知らないことはないという噂をレオポルドは信じる気になっていた。
「なら、反対の理由を言ってくれよ……」
レオポルドはぶつくさと文句を言った。
結局、アガーテを孕ませた相手については分からずじまいで、ハヴィナでは暫くの間、誰も彼もがこの最後の疑問に関する噂話で持ちきりであった。
ところが、暫くしてそのような醜聞を一掃するような一大事がハヴィナに知らされ、人々は宮廷の若い男女の地上の縺れについて話すどころではなくなった。
それはサーザンエンド辺境伯やレイクフューラー辺境伯、サーザンエンド銀行、多くのハヴィナ貴族、サーザンエンドやフューラーの商人たちが出資して設立された南洋貿易会社が組織した貿易船団が南洋の途上で嵐に遭遇し、行方不明となったという知らせであった。