一七二
ハヴィナ城で起きた年若き未婚の女官アガーテ・ハルンの不審死に係る調査には小宮殿付のフィオリアが当てられることとなったが、レオポルドもさすがに彼女一人だけに任せるつもりではなかった。いくら辺境伯の義姉といってもハヴィナに殆ど人脈も縁故もなく、自由に使える部下にも事欠く彼女だけでは役目に支障を来すことは予想に難くない。
そこで彼女と共に調査に当たる任を与えられたのは侍従のヴェステル・エーヴァルト・アイルツ卿であった。彼は宮内長官を務めるエルトムート・グロステン・アイルツ卿の子息であり、宮内長官の奥方はレッケンバルム卿の妹なので、枢密院議長の甥でもあった。
アイルツ家はハヴィナ八家門に連なり、当主は宮廷を取り仕切る宮内長官を務めている。その嫡子が協力すれば仕事は大いに捗るだろう。
また、ヴェステル・アイルツ卿は小宮殿にも頻繁に出仕していたから、フィオリアと仕事を共にすることも多く、協力して調査に当たるには適任であろうと考えられた。
「まったく、レオったら厄介な仕事を押し付けてくれたものね」
何故、自分が調査せねばならないのか未だ納得しかねるフィオリアはぶつぶつと不満を漏らしたものの、元より勤勉で真面目な彼女はヴェステルを従えて早速仕事に取り掛かることにした。
まずは状況整理である。
第一発見者であるアガーテ付の侍女や同僚の女官テレジアから遺体発見の状況及び前日の様子、最近の様子を聞き取り、昨夜からの状況を整理する必要がある。
遺体発見時の状況については、お付の侍女がいつものように起こしに行ったところ、アガーテが物言わぬ体になっていたという以上のことは何も分からなかった。
昨夜の様子についても特に変わった様子に気付いた者はなかった。ただ、彼女の最近の様子に幾人かの女官や女中からいくらか注目すべき点を聞き出すことができた。
一通りの聞き取りを終えたフィオリアはヴェステルと共に灰古城の一室、侍従の控室に入った。
灰古城に居住する女官や侍女たちから聞き取りをする為、資料を置いたり整理したりするだけにしても人目に付かない部屋が必要があったが、フィオリアは灰古城に部屋を持っていなかった。その為、ヴェステルの仕事部屋である侍従控室を調査の拠点にしていた。
「アガーテ嬢はとても大人しい女性だったみたい」
十人近い女官や女中から一日がかりで話を聞き終え、さすがに疲れた様子のフィオリアは気だるげに言った。
「同僚や侍女にほとんど自分のことを話さなかったらしいわ。愛想が悪いわけじゃないけど、自分の殻に閉じこもっているような女性だったみたいね」
「良き淑女は大人しいものです」
フィオリアが淹れたお茶の入ったティーカップを傾けながらヴェステルが静かに言うと、彼女はピクリと眉を動かして皮肉げに応える。
「あら、じゃあ、あたしは良き淑女にはなれないわね」
「しかし、多くの女性はお喋りが好きなものです」
「じゃあ、良き淑女というのは何処にいるのかしら」
「こういう作品の中に」
そう言ってヴェステルは机の上に置かれた演劇の本を指す。
「成る程ね。じゃあ、何故、アガーテ嬢はお伽噺の御姫様みたいに大人しくなっていたのかしら。家柄が低いから遠慮していたとか」
「アガーテ嬢の叔母はルーデンブルク卿の御母堂です。レッケンバルム家とも縁戚ですから、遠慮する必要はあまりないと思いますが」
レッケンバルム家はアイルツ家とも縁戚である。ということは、ヴェステルもアガーテとは遠縁ということになる。古くからの家格が低かろうとも、八家門のうち最も有力なレッケンバルム家を含む三家と繋がりがあって気後れする必要があるだろうか。
「じゃあ、性格かしらね」
生まれつき家柄が高い者であっても、謙虚で控え目な者もいれば、卑屈で臆病な者もいないわけではない。無論、圧倒的に少ないのだけれども。貴族と言う人種は基本的に傲慢で我儘で自己中心的で身勝手なものである。それが庶民ではあるが貴族の家に育ち、貴族社会を間近に見てきたフィオリアの認識だった。
「そうかもしれません」
ヴェステルは顎に指を当てて考え込みながら答えた。彼自身もアガーテとは遠縁であるはずだが、その人柄は殆ど知らないらしい。
とはいえ、彼はあまり貴族的な人格ではなく、晩餐会や舞踏会に出たり、歌劇や演劇を観覧したり、狩猟に出かけたりするよりも、誰にも会わず一日中書斎に籠って本を読んでいたいような人間なのである。
「ともかく、そんな普段から大人しいアガーテ嬢はこのところは更に元気がなかったそうよ。特に先週くらいからは口数も少なく、陰鬱とした雰囲気だったみたい」
「先週といえば、閣下から戦勝の報が寄せられた頃ですね」
「そう。戦勝を祝う宴が催されている中だったから特に目立ったようね。食事も控え目だったし、夜も早くに部屋に戻ってしまっていたみたい。まるで戦勝が嬉しくないみたいな……」
そこまで言ってフィオリアは口を閉じて気難しげに黙り込む。
ヴェステルは胡乱な表情で向かいに座った彼女を見つめた。
「まさか、アガーテ嬢が敵に内通していたとでもお考えではありませんか」
「へっ。いや、まさかっ」
図星を突かれたフィオリアは慌てて両手を振る。女官が敵に内通していたとなれば只事ではない。一女官の不審死で留まる問題ではなく、関係者の捜査が必要なのは言うまでもなく、宮廷内の管理責任が問われる事態である。
「アガーテ嬢がアーウェン人に味方して何の得があるというのですか。前のルーデンブルク卿との繋がりという線が無いではないでしょうが、物的な証拠もなく、状況証拠としても不十分です。些か妄想が過ぎるというものです」
妄想と言われて、フィオリアはムッとした表情で唇を尖らす。
「しかし、先週に彼女を落ち込ませる何かがあったと考えるのは妥当でしょう。問題はそれが何かです。それが彼女を死へと追いやったのかもしれません」
「じゃあ、ヴェステルはアガーテ嬢は自死したと考えているの。他殺という可能性は」
「自死と断定しているわけではありません。他殺の可能性も無くはないですが、低いでしょう」
そう言ってヴェステルはこれまで把握している状況を整理するように話し始める。
「とはいえ、死因が毒ですから何かしらの方法で口にしなければなりません。昨日、アガーテ嬢は外出しておらず、三食全て宮廷で他の方々と共に食事をしています。宮廷での食事は厨房で作られ、毒見され、食卓に運ばれるまで複数の臣下が監視下に置いており、毒が混入させられる機会は限りなく少ない」
辺境伯夫妻も口にする宮廷の食事は最高度の注意が払われており、食糧庫の鍵は女官長が厳重に管理しており、厨房には監視役が立って、料理に怪しげな物質が混入することがないか目を光らせている。給仕たちが料理を持って食堂へ運ぶ際にも侍従が付き添っている。悪意ある料理人や給仕が毒を混入しようとしても、必ず誰かの目に付く状況なのだ。厨房で働く数十人もの料理人や給仕、監視役、侍従の全てがグルならば可能かもしれないが、それこそ妄想の産物というものだろう。
「となれば、毒を口にする機会はアガーテ嬢の部屋くらいしかありません」
女官は灰古城の中にそれぞれの個室を持っており、侍女を外に出してしまえば、その中で何をしているか他人には窺い知れない。
遺体が発見された現場であるアガーテ嬢の部屋で毒を飲んだと考えるのが妥当だとヴェステルは考えているらしい。
「しかしながら、アガーテ嬢の部屋がある女官の塔は誰もが出入りできるわけではありません」
女官の塔へと通じる通路には交代制で警護の兵が立っており、不審者が見咎められずにアガーテ嬢の部屋にまで辿り着ける可能性は低い。
既に聞き取りを行った警護の兵によれば、ここ数日、塔に出入りしたのは女官や女中たちの他は、今回の事件を受けて駆け付けた侍従長と医師だけだという。
部屋の中で口にする菓子や果実、お茶に毒を混入させることも考えられるが、それらは基本的に自ら持ち込む物である。それらに他人が毒を紛れ込ませることが可能だろうか。
「つまり、全くの他人が毒を飲ませる機会は限りなく少ないってわけね」
フィオリアの言葉にヴェステルは頷く。
「自分で飲んだか或いはかなり近しい人物の犯行と見るべきでしょう。いずれにしても、アガーテ嬢の身辺をより詳しく調べる必要があるでしょう」
「自分で飲んだとすれば、砒素の入手経路も調べる必要があるわね」
二人は頷き合い、明日の調査の予定を立て始めた。
翌朝から働き者である二人は現場であるアガーテ嬢の部屋へと赴いた。
「何かで読んだわ。事件を調べる為には現場に百回行くべきだとね」
フィオリアはそう言いながらアガーテ嬢の部屋を漁り回す。机の引き出しを引っ掻き回し、衣装箱を引っ繰り返し、寝台の下まで覗き込む。
ヴェステルは淑女の部屋に入るだけでも気が引けている様子で、遠慮なしに部屋中を荒らすフィオリアを呆れ顔で眺めていた。
「他人の部屋をよくそこかで遠慮なく調べられますね」
「あら、私だって礼儀くらい知ってるけど。でも、お亡くなりになった人に気を使っても仕方がないじゃない。それに、これはアガーテ嬢の為にやってることよ」
そう言いながらフィオリアは引き出しから引っ張り出した手紙に目を通し始める。
「殆どがご家族からのものね」
「さすがに私的な手紙を見るのは失礼では」
「はいはい。礼儀正しい紳士様は黙ってそこで待ってなさい」
手紙の束に粗方目を通したフィオリアは納得できないような顔で唸る。
「おかしい」
「何がですか」
「ないわ」
「手紙ですか。今しがた、遠慮なく何枚も見たじゃないですか」
「違う。恋人からの手紙よ」
フィオリアの言葉にヴェステルは怪訝な表情を浮かべた。
「アガーテ嬢には恋人がいたのですか。しかし、そのような話は聞いたことがありません。女官や女中の証言にも無かった。色恋というものは最も噂話になり易いものです。恋人がいれば何かしらの噂が立つはず」
「そうなんだけれども、私は彼女に恋人がいる或いはいたと思ったの。だから、恋人からの手紙がわんさか出てくると思ったんだけど」
「何故、そう思ったのですか」
「いいかしら。年若い乙女が自死する原因の殆どは色恋絡みなのよ」
フィオリアがはっきりと言い切るとヴェステルは呆れ顔で溜息を吐く。
「演劇の観すぎではありませんか」
近年の帝国の演劇では恋人と結ばれずヒロインが自ら死を選ぶという悲恋が大変流行していた。
ヴェステルの指摘にムッとした表情で黙り込んだフィオリアは腰に手を当て、まるで泥棒に家探しされた後のような惨状の部屋を見回す。
「そういえば、遺書が無いわね」
「そうですね。自死であれば多くの場合、遺書があるのですが」
「遺書が無いということは他殺なのかしら」
「或いは自死の理由を知られたくないかでしょう」
その言葉にフィオリアは鼻息荒く胸を張った。
「知られたくない理由ってことは、やっぱり、色恋関係ね。誰かに知られてはならない禁断の恋だったに違いないわ」
女子というのは何故にこう色恋沙汰が好きなのだろうか。とヴェステルは呆れ顔で思った。
昼から二人はアガーテ嬢の実家であるハルン家に向かった。
ご両親にお悔やみの言葉を述べた後、アガーテ嬢の最近の様子を聞き出す。
彼らによれば、アガーテ嬢は宮廷に出仕するようになってからも週に一度程度は実家に顔を出していたという。
アガーテ嬢の未婚の女官としての仕事はそれほど重いものではなかったから、週に一度くらい実家に行くくらいの余暇は取得可能だったのだ。これが女官長やフィオリアのような重い責任と多くの仕事を担っていると一日休めるような日は月に一度あるかないかくらいであった。
実家に顔を出したアガーテ嬢は多くの場合、家族と食事やお茶をしたり話をしたりして過ごしていたが、最近は供も付けずに一人で外出することもあったという。母親が外出の理由を聞くと宮廷の用事だと言われたらしく、行き先は不明であった。
「ところで、アガーテ嬢に恋人はいらっしゃいましたか」
フィオリアの直接的過ぎる質問にヴェステルはぎょっとした顔を見せる。しかし、彼女は回りくどいことは嫌いなのだ。というよりは、迂遠な言い方ができないのだ。
「おりません」
アガーテの父であるハルン卿はムッとした表情で不機嫌そうに言ったが、その隣に座る泣き腫らして目元を赤くした母親の方は何かしら言いたげな表情をしていた。
「何か御存知で」
フィオリアが促すように問いかけると、母親は慌てた様子で首を横に振った。
「いえ、そんな、存じません」
「名前や素性は知らずとも、想い人がいそうな気配は」
「わ、分かりません……」
母親は気まずそうに顔を伏せる。
「貴女は、うちの娘が親にも内緒の誰とも知れぬ男との色恋絡で自死したとでも言いたいのかっ」
ハルン卿は苛立たしげに怒鳴り、拳をテーブルに打ち付ける。
「無礼にも程があるっ。うちの娘を馬鹿にしているのかっ」
「そのようなつもりは毛頭ございません。ただ、どれだけ少ない可能性であっても調べねばなりませんから」
怒り心頭のハルン卿を宥めるようにヴェステルが言い、どうにかその場は収まったものの、二人は半ば追い出されるようにハルン家を後にした。
「相当怒ってたわね」
「そりゃそうでしょう」
フィオリアが言うとヴェステルが溜息と共に疲れたように呟く。
基本的に貴族の子女は親が決めた相手と結婚するものであり、勝手にどこの誰とも知れない相手と恋愛などをしていたとなれば大変なことである。親は失望し、激怒するのが通常であり、世間的には醜聞として見られた。既に故人であってもそれは同じであり、自死の原因が痴情の縺れともなれば好奇と軽蔑の的となろう。
二人は待たせていた馬車に乗り込み、御者に灰古城へ戻るように指示する。
御者が馬に鞭をやるのを見ながらヴェステルが呟く。
「やはり、アガーテ嬢に恋人はいなかったようですね」
「あなたは何を見てたの」
今度はフィオリアは呆れ顔を見せる。
「しかし、ご両親はいないと仰っていました」
「お母様の様子を見て何も思わなかったの」
「……泣き疲れた様子でしたね」
「そりゃあ、子供が亡くなれば親は泣くでしょう。そうじゃなくて、私が聞いた時の反応よ」
その指摘にヴェステルは顎に指を当てて考え込む。
フィオリアは呆れ顔のまま溜息を吐く。
「あの反応は心当たりがあるって感じだったでしょう」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「しかし、ハルン卿はいないと断言していました」
ヴェステルの反論にフィオリアは苦笑いを浮かべる。
「父親なんてのは娘の恋人の有無になんか殆ど気付かないものよ。男は鈍いから」
一方的な断言に彼は眉根を寄せたが、彼女の自信満々な様子に言い返すこともできずむっつりと黙り込む。
「逆に母親っていうのは子供の些細な違和感にもよく気付くことが多いわ。恋人の有無なんていう事柄には特に敏感ね。たぶん、お母様には心当たりがあるはずよ。たぶん、夫の前では口にできなかったのよ。或いは具体的に誰かまでは分からないのかも。いずれにしても、お母様にはもう少し話を聞きたいところね」
「しかし、難しいのでは」
「そうねぇ。ハルン卿のあの剣幕だと、また行っても玄関前で追い返されそう」
「あんな風な聞き方するからですよ」
「でも、質問したからお母様の反応が見ることができたんじゃない」
二人は狭い馬車の中で彼是と言い合いをしながらハヴィナ城へと戻り、リーゼロッテや女官長、同僚の女官たちにアガーテに何か市街での用事を言いつけたかお願いしたかを聞いて回った。
結果、彼女に市街での用事を頼んだ者は誰一人としていなかった。
つまり、アガーテが実家に顔を出した時に一人で外出していたのは、宮廷の用事などではなかったのだ。
ヴェステルは部下に町で聞き込みを行い、アガーテの市街での足取りを追うよう指示した。
彼女の「用事」先が分かれば、何かしらの手がかりになろうと考えられたのである。
しかし、数日に及ぶ聞き込みを実施してもアガーテの足取りを掴むことはできず調査は暗礁に乗り上げた。
「アガーテ嬢の用事の先は絶対に男の所に違いないわっ。若い男女が逢引する場所を重点的に聞き込みすれば目撃情報が得られるはずよっ。ハヴィナの恋人たちは何処へ行くのかしら。中央広場や市場が定番のような気はするけど、周囲に隠している内緒の関係なら人目のない場所を選ぶわね」
「いや、やはり、色恋関係というのは早合点だったのではありませんか。金銭的な問題という可能性も考えられます。貴族の付き合いというのは金がかかるもの。下級貴族出身のアガーテ嬢には負担が大きかったのかもしれません。質屋や高利貸しを重点的に回りましょう」
人口五万を超え、人の出入りも多いハヴィナでは闇雲に聞き込みをして、淑女一人の目撃情報を得るのは至難で、結局殆ど大した成果を得ることができなかった。
そこで、フィオリアとヴェステルはハヴィナ市街でのアガーテの足取りを掴む為、聞き込み場所を絞ろうと考え、調査の拠点としている灰古城の侍従控室に籠ってこれからの聞き込み場所を巡って彼是と言い合っていた。
フィオリアはアガーテの死の原因が色恋関係にあると信じて疑わず。ヴェステルはその見方にやや懐疑的である。
半刻にも及ぼうという二人の激しい口論はドアをノックする音によって止んだ。
ヴェステルが返事をしてドアを開けると、そこに立っていたのは予想外の人物で、二人は目を丸くする。