一七一
「はてさて、面倒なことになった」
女官の塔にある女官長の仕事部屋に入ると侍従長ハルトムート・ヨハン・ライテンベルガー卿は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
侍従長の言葉に女官長カレニア・ザビーナ・ランゼンボルン男爵夫人は不愉快そうに顔を顰めた。部下の年若き未婚の女官の死を面倒と表現されたことに苛立ちを覚えたのだ。
とはいえ、宮廷の中で女官が不審死を遂げるなどという事態は宮廷の管理者の一人である侍従長にとっては厄介事以外の何ものでもない。
「今の時点で事情を知っているのは誰か」
「私と未婚の女官テレジア・イェーネ・クラインフェルト、アデーレ嬢とテレジア嬢、それぞれの侍女だけです」
「その二人の侍女には箝口を命ぜよ。アガーテの部屋には何人たりとも立ち入りを許すな」
「既にそのように指示しております」
女官長は侍従長の指揮下にあるわけではなく、命令を受けて唯々諾々と従わねばならない立場ではない。
それを承知の上で、ライテンベルガー卿は一方的に指示を下し、男爵夫人はそれに大人しく応じた。
ライテンベルガー家はサーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の庶子を祖とするハヴィナ八家門にも名を連ねる名門貴族である。
始祖を主君と同じくするという自負からか卿は大変気位の高い人物であり、宮廷内で新参者が大きな顔をすることに良い顔をしなかった。
これをよく承知している男爵夫人は無理に我を張ることなく、ライテンベルガー卿を尊重するように努めていた。
「宜しい。では、私は宮内長官に事の次第を報告致そう。夫人はリーゼロッテ様にご報告頂きたい。ご懐妊されているリーゼロッテ様のご心労となることは望ましくないことであるが、女官のことなればご報告申し上げないわけにもいくまい」
「承知致しました」
ライテンベルガー卿は無表情に頷き、咳払いをした後、声を潜める。
「ところで、宮廷医師に詳しく話を聞いたのだが、世に毒は数あれど吐血する毒というものはそれほど多くないらしい」
毒を含むと悶絶し、血を吐いて倒れ伏すというのは演劇でもよく見られる毒死の様であるが、これは毒を飲んで死んだことを印象付ける為の演出というもので、実際には吐血するような毒は多くない。
「その数少ない吐血の症状を示す毒というのは砒素だそうだ」
「つまり、アガーテ嬢は砒素によって亡くなったと」
「その可能性が高いと申していた。無論まだ断定はできんが、砒素は体内に残留するとのこと。よくよく調べれば分かることであろう」
そう言ってからライテンベルガー卿は扉の向こうで誰かが耳をそばだてていることを疑っているかの如き小声で囁くように続けた。
「砒素などというものを偶然にも口にしてしまうなんてことは考えられまい。事故という可能性は極めて低いと見做すべきであろう。考えたくもないことだが自ら口に含んだが、誰かに飲まされたと考えるより他あるまい。リーゼロッテ様にご報告申し上げるときは、その点についても十分に承知されよ」
「アガーテが死んだですってっ」
「リーゼロッテ様。お声をお抑え下さい」
口から思わず飛び出してしまった叫び声をランゼンボルン男爵夫人は窘めるように言った。人払いをしているとはいえ、扉のすぐ外の控えの間には辺境伯夫人付の侍女が控えている。辺境伯夫人付侍女のテレザは余計なお喋りをしない性質で、機密が漏れるようなことはないが、控えの間の更に外の廊下では使用人たちが往来している。そこまで声が届くことはあまりないが、用心するに越したことはない。
注意を受けたリーゼロッテは決まり悪そうに口を閉じる。
とはいえ、寝起きに近侍する女官の一人が死んだと知らされれば驚きのあまり大きな声が出てしまうのもやむを得ないというものだろう。
「どうしてそんな、昨夜までは普通に過ごしていたのに……」
リーゼロッテは信じられないと言った様子で呟き、女官長を見やる。
「何かの病気だったのかしら」
「医師の診立てによれば、断定はできませんが、何かしらの毒によって亡くなった可能性が高いとのことです」
「毒ですってっ」
リーゼロッテは目を剥いて叫び、慌てて口を手で押える。
「料理に毒でも入っていたというの」
「昨夜の食事に毒が入っていた可能性はあまり考えられません。食事は全て毒見されていますし、同じ食事を口にした者はアガーテ嬢以外皆無事です。体調を崩している者もおりません」
「じゃあ、アガーテだけが食べたものに毒が……」
「何故、どのように彼女が毒によって亡くなったか詳細に調査いたします」
「そうね。今は彼是と考えても仕方のないことね」
そう言ってからリーゼロッテは暫く黙って考えた後、女官長を見つめた。
「アガーテのご家族には」
「まだ連絡しておりません。事態を知っているのは私とテレジア嬢、宮内長官、侍従長、診察した医師に二人の侍女のみです」
「宮内長官、侍従長ともよく話し合うべきだけれども、ご家族には速やかに連絡すべきよ。いつまでも隠し立てできることではないのだから、死因はともかくとして亡くなったことは隠匿しても無意味でしょう」
「承知致しました」
「ハルン家へ弔問に窺うべきね。葬儀はどうしたらよいかしら。早い方が良いけれど、医師の検視を待たないといけないでしょうし」
「弔問や葬儀、その他、必要な諸事については私が宮内長官、侍従長と相談、調整いたします」
「分かった。お願い」
「承知致しました」
恭しく頭を垂れた後、女官長は尋ねた。
「辺境伯閣下へは如何致しましょう」
ハヴィナ城の主人であるサーザンエンド辺境伯レオポルドはサーザンエンド北部ガナトス男爵領を巡るアーウェン諸侯との戦争に出陣している最中であった。
アーウェンとの間に和議が結ばれ、戦が終わったとの知らせが来たのは先週のことである。レオポルドからは早急に帰参するとの知らせがあり、到着は明日の予定であった。
「レオ…閣下に急使を立てる必要はないでしょう」
リーゼロッテは少し考えてから答えた。
レオポルドは明日には帰参する予定だったし、女官一人が亡くなったことを辺境伯に知らせたところでどうということは無いと思われた。レオポルドは灰古城の女官たちとはあまり親しくなく、顔を覚えているかすら怪しい。急使を立ててもレオポルドは驚きこそすれ、何事か特別な行動を起こすことはないように思われた。
「そうね。小宮殿に知らせておきなさい。明日にでもフィオから閣下に知らせてもらえばいいでしょう」
「承知致しました」
指示を受けて退室しようとした女官長をリーゼロッテは引き留めた。
「待って」
「何か」
「……そうね。……そうした方が良さそう」
何事か考え込んだ様子のリーゼロッテはぶつぶつと呟いた後、思い付きながらも妙案と思われる言葉に口にした。
サーザンエンド辺境伯の宮廷の全ての女官や女中が灰古城で勤めているというわけではない。そのうちの一部は青い小宮殿で仕事をしていた。
青い小宮殿には辺境伯レオポルドの非公式な妻であるキスカとアイラの部屋があり、レオポルド自身も小宮殿を生活の場にしていた。最近になって灰古城にも寝泊りするようになったが、相変わらず小宮殿の方が居心地良いらしい。
そうしたわけで、灰古城の女官とは別に小宮殿付女官という役職が設けられていて、アイラも公式には小宮殿付女官ということになっている。
また、レオポルドの義理の姉であるフィオリアも小宮殿付女官の地位にあった。小宮殿内の家政は殆ど彼女が取り仕切っていて、実質的には小宮殿担当の女官長と言っても過言ではなかった。
灰古城から齎されたアガーテ嬢毒死の報は当然ながらフィオリアを大変驚かせたが、アガーテとは顔見知りではあったものの職場が違うこともあって親しいということはなく、動揺はそれほど大きなものではなかった。
しかし、その知らせと共に伝えられたリーゼロッテの意向はフィオリアを大いに困惑させた。
翌日、ハヴィナ城へと帰参したレオポルドの元へフィオリアは足を運び、彼の入浴の後、アガーテ嬢の急死を知らせた。
「あぁ、それは確かに厄介なことになったな」
風呂上りのレオポルドはそう言って困ったように顎を擦った。
ハヴィナ入城以来、青い小宮殿を主な生活の場としているレオポルドにとって灰古城の女官はやや遠い存在であり、アガーテ・ハルンというその亡くなった女官の名を聞いても顔を思い出せなかった。
とはいえ、自身の城で貴族の子女が毒を飲んで死んだとなれば無関係ではいられないというものである。
「ハルン家に弔問すべきだな。葬儀についても考えんと」
「弔問や葬儀については侍従長と女官長が万端支度するそうよ」
「ならば、結構」
ハヴィナ八家門の名門出身であるライテンベルガー卿と帝都やレウォントの宮廷に慣れたランゼンボルン男爵夫人に任せておけば問題ないに違いない。
「しかし、どういうわけでアガーテ嬢は死に至ったのか。誰ぞに調べさせねばならんな」
そう言ってレオポルドは腕を組んで唸る。
自らの城で死人が出たとなれば、死因を調べるのは当然である。死んだのが下級の使用人ならばまだしも貴族の子女である女官ともなれば小役人に調査を命じれば良いというものでもない。
不審死の調査となればアガーテ嬢の部屋を徹底的に調べ上げ、侍女や女中たちだけでなく、同僚の女官、実家のハルン家にも事情を聞かねばならないだろう。
宮廷の淑女の私室に身分の低い下吏が出入りすることに紳士淑女は良い顔をしないだろうし、聴取に対しても犯人扱いされるようだと抵抗感を示す者も出かねない。
調査はある程度の権威と立場を持つ者でなくてはならない。
「そのことなのだけれど……」
レオポルドが調査に当たる者の人選に頭を悩ませていると、フィオリアが言い難そうに呟いた。
「リーゼロッテはその調査に当たる役目を私にやらせるのが良いと思っているみたい……」
「フィオが……」
思いがけない言葉にレオポルドは暫く思案した後、再び口を開く。
「ふむ。いいかもしれないな」
「えぇっ」
義弟から発せられた予想外の言葉にフィオリアは驚きの声を漏らす。
彼女にとってはリーゼロッテからの提案自体が理解不能だった。何故、自分が女官の死の原因を調べる役目に向いていると思われたのか全く分からない。それに加え、レオポルドまで同意するようなことを言い出す。
前々から密かに思っていたことだが、この義弟夫婦は意外と思考や言動が似通っているのだ。形骸化した儀式や形式を嫌悪し、素っ気ないくらいに合理主義的な皮肉屋で、自分の意見や考えを表現することに躊躇い、避けようとする気質などは呆れるくらいによく似ている。初めに夫婦仲が上手くいかずギクシャクしたのは気質が似過ぎていた同族嫌悪のようなものだったのではないかとフィオリアは考えていた。
故に二人が同じような考えに至ったことに彼女は何となく納得する。
しかし、理解できないのは二人が自分にアガーテ嬢死去の調査を任せようと考えたことだ。
「何であたしなのさ」
「権威のある余所者だからだ」
フィオリアの問いにレオポルドは素っ気なく答える。
彼女は君主の身内という扱いであるからその権威は極めて高い。彼女がその立場を利用することは多くないが、レオポルドにいつでも自由に会って話すことができるというだけで並の貴族は一目置かざるを得ないだろう。
彼女から聴取を受け、発言した内容は直接レオポルドの耳に入りかねないのである。聴取を拒否するとか相手をしないとか嘘偽りを述べるといったことができようか。
女官だから宮廷に出入りし、淑女の部屋を引っ掻き回しても咎められる恐れもない。
余所者であることの利点は客観的な立場から調査に当たることができる為である。
ハヴィナ貴族では何かしらの縁故が邪魔をして調査に支障を来しかねない。万一貴族の誰かが毒を盛ったと疑われた時、これを隠匿せずレオポルドに報告することができようか。犯人と直接的な縁故関係が無かったとしても犯人が有力な家門を頼った場合、それでも任務を忠実に遂行することができようか。できたとしてもその後の立場が苦しいことになってしまうかもしれない。身内を売ったと後ろ指差されながらハヴィナで生きていくことができようか。
一方、ハヴィナ貴族と縁故関係が皆無で、何の利害も有していないフィオリアの行動に影響を及ぼすことができるのは唯一人レオポルドのみである。
レオポルドとリーゼロッテの夫婦は持ち前の合理主義的思考からフィオリアに調査させるのが最も効率的だという結論に達したらしい。
説明を受けたフィオリアは困惑しながらも渋々とその役目を請け負うことにした。