一七〇
サーザンエンド辺境伯の宮廷が置かれているハヴィナ城では多くの女性が働いている。
洗濯女や掃除婦など台所や寝室、衣裳部屋、宮殿の各所で諸々の家事や雑役を行う女中たち、夫人や女官の身の回りの世話をする侍女、子供の世話をする乳母、女中たちを統括する女中頭。
それに加え、辺境伯夫人に近侍する十数人の女官が宮廷に出仕していた。正確には既婚者或いは未亡人の女官と未婚の女官は区別されている。
多くは辺境伯の宮廷を牛耳るハヴィナ貴族の夫人や子女であったが、別の出自を持つ女官がいないわけではない。
テレジア・イェーネ・クラインフェルトはその数少ないハヴィナ貴族出身ではない未婚の女官で、辺境伯夫人リーゼロッテの実家レウォント方伯フライベル家配下の貴族の出身である。
彼女はレウォント方伯の妹リーゼロッテの輿入れに随行して、サーザンエンド辺境伯の宮廷に移った若く美しい淑女で、リーゼロッテとは歳が近いこともあって友人のように親しく、女官の中では最も信頼されている一人であった。
テレジアは辺境伯の宮殿である灰古城の南東隅に聳える塔の三階に部屋を与えられている。
この塔には他にも多くの女官が部屋を与えられていた為、「乙女の塔」とか「女官の塔」とか「百合の塔」などと呼ばれていた。
乙女の塔の朝は大変早く、多くの女官は早起きを余儀なくされていたのだが、テレジアはそれほど早起きが得意というわけではなかった。いや、不得意だ。この世に生を受けて十数年、起きなければならない時間に自ら目を覚ましたことは一度としてない。
毎朝、お付の侍女マリアに声を掛けられ、布団を引っぺがされ、肩を揺すられ、額を叩かれて、ようやく起きるという有様であった。
マリアは彼女の乳母の娘で、もう十数年の付き合いになる。最早、主従というよりは親友、姉妹と言うくらいに気の知れた仲だ。
マリアはいつでも明るくお喋りな人見知りのしない人柄で、初対面の相手でも誰とでもすぐに親しくなれるような娘だった。ハヴィナに来てまだ一年も経たないが、既に城内にいる女中一〇〇人以上と顔見知りだという。面倒見も良いので若い女中たちから頼られる存在となっていた。
「お嬢様っ。お嬢様っ。大変ですっ」
そのお喋りマリアに朝早くから枕元で大騒ぎされたテレジアはいつもよりも大幅に早い夜明け直後に目を覚ますことになった。
「何なの。聖母様か天使様でも御光臨されたの。眠いから昼に出直してって言ってちょうだい」
「罰当たりなことを言っている場合じゃありませんっ」
肩を揺さぶられ、頬を何度も叩かれて、渋々と彼女は枕から頭を上げた。
「本当に大変なことなんです」
見ればいつも明るく元気なマリアの表情は強張り、顔色は青褪めている。十数年の付き合いの中でも滅多に見たことのない顔だった。
「どうしたっていうの」
「こちらへ」
どうやら只事ではないと悟ったテレジアが尋ねると、マリアは彼女の手を引いて部屋の外へ連れ出す。
寝間着のまま部屋の外へ出ることに一瞬躊躇したものの、只ならぬ事態においては些細なことと考え、気にするのを止めた。
廊下に出ると年若い侍女が一人心細げに突っ立っていた。その顔色はマリア以上に青褪めており、目元を真っ赤に泣き腫らしている。
城内には百数十人もの女中が勤めており、言うまでもなくテレジアは全員と顔見知りというわけではなく、顔を知っているのは十数人程度だが、この侍女には見覚えがあった。
「貴女は、確かアガーテの侍女の……」
テレジアは侍女を見つめながら呟く。
アガーテ・ハルンも灰古城に出仕している年若く美しい未婚の女官で、明るく行動的なテレジアとは違い、穏やかで大人しい性質の娘であった。
テレジアとアガーテは半年くらいの付き合いで、特別親しい間柄というわけではないものの同じ塔に住み、同じ勤めをこなしているのだから毎日のように顔を合わせている。当然その傍らに控える侍女の顔を見ることもあろう。
「彼女はアガーテ様の侍女です。私とは友人で」
「一体どうしたというの」
マリアの言葉に頷き、テレジアはアガーテの侍女に気遣うように声をかける。
「ア、アガーテ様の様子が……。まるで……」
彼女はそれだけ言うと涙をぼろぼろと流し始め、両手で顔を覆い嗚咽するばかりとなってしまい、とても話を続けられる状態ではなくなってしまった。
「しっかりして。落ち着いて事情を言わないと」
「いいわ。アガーテの様子を見に行けば済む話でしょう」
事が進まないと感じたテレジアは直接アガーテに部屋に向かうことにする。彼女は考えるより行動する淑女なのだ。
二人の侍女を従えたテレジアは廊下を進み、階段を一つ上がった。アガーテの部屋は同じ塔の四階にある。
女官はそれぞれ個室が与えられており、その扉は施錠ができる。鍵は本人と女官長、お付の侍女が持つ規則だった。
毎朝、侍女は部屋の主が寝ている間に鍵を使って部屋に入り、規則として定められている刻限に間に合うように彼女を起こし、洗顔や着替えといった朝の支度の世話をするのが日課となっている。
今朝もアガーテ付の侍女は毎日と同じように預けられている鍵を使って部屋に入った。部屋の主は寝ているものと思いながら窓のカーテンを開け、ベッドに寝そべるアガーテに目をやって、初めて異変に気付く。
気が動転した彼女は部屋を飛び出し、頼れる友人であるマリアに泣き付き、マリアは主人であるテレジアを起こしたという次第であった。
そうしてやって来たテレジアは扉を開け、真正面に設けられた寝台を目にして直ぐ異変に気が付いた。
既に地平線は明らみ、窓からは朝日が差し込んで、部屋の中を照らしている。
真夏の爽やか朝日を浴びたアガーテの肌はいつにも増して白く見え、口元から垂れる血の赤を引き立たせている。見開かれた目は何も映していない。
ハヴィナ城の女官、女中を統率する女官長を務めているのはカレニア・ザビーナ・ランゼンボルン男爵夫人である。彼女はレウォント方伯配下の有力な貴族の未亡人で、テレジアと同じように辺境伯夫人リーゼロッテに随行してサーザンエンド辺境伯の宮廷に入っていた。
彼女が女官長に就いたのはハヴィナに縁のないリーゼロッテに近しい存在であったからに他ならない。リーゼロッテが宮廷の女主人として振る舞うには信頼に足る片腕が必要不可欠だったのである。
女官を統率する格式高い地位である女官長に外からやって来た新参者が就くという前例のないことに当然ながらハヴィナ貴族のご夫人方は強く反発した。
とはいえ、ランゼンボルン男爵夫人はリーゼロッテの信任厚いだけでなく、家柄と能力からしても多くのハヴィナ貴族のご夫人方よりも格上であることは明らかであった。
実家がレオポルドと同じく帝国騎士の称号を持つ帝都貴族である彼女は帝都で生まれ育ち、皇帝の宮殿である白亜城にも出入りできる身分であった。当然ながら帝都の儀礼格式や振る舞いに慣れ、複数の外国語に堪能で教養があり、有識故実にも通じていた。
しかも、嫁いだ先のランゼンボルン男爵家はレウォントでも特に有力な貴族の家柄である。
その上、男爵夫人は常に完璧としか言いようのない振る舞いを崩さず、毅然として真面目な人柄であった。年齢は三十代半ばで子息を一人前に育て上げていたから、経験不足と言うこともなく、全くケチの付けようも無かった。強いて言えば生真面目過ぎて融通が利かないくらいのもので、女官長として失点とは言い難い。
帝都育ちの教養ある有能な男爵夫人が女官長を務めることにサーザンエンドが帝国の中では遥か南の辺境の地であると自覚し、密かな劣等感を抱いているハヴィナ貴族が反対することは極めて難しいことであった。
実際、男爵夫人は辺境伯宮廷の女官長として全く恥じることなき仕事をこなしている。
彼女の朝は極めて早く、太陽が地平線を仄かに照らし始めた頃には起床するのが常で、多くの貴族のように誰かの助けがなくとも自ら起きて身支度を整え、侍女の手伝いをほとんど必要としない。
敬虔な彼女は礼拝所で朝の祈りを欠かさず、それが終わると早速仕事を始める。
宮殿内の見回り、朝の支度や掃除、朝食の準備をする女中たちを監督する。
朝食の時間になると食堂へ行き、辺境伯夫人らと食卓を囲む。
朝食後も休むことなく、宮内長官や侍従長との打ち合わせ、各種の事務仕事や女官や女中の仕事の監督などなどをこなしていく。
この地位に就いて以来、彼女はこの日課を一切崩すことがなかった。
一番の上司がこんな調子だから配下の女官や女中が朝をぼんやりと過ごすことなどできようはずもなく、灰古城の朝は大変早く、それでいてとても静謐なのが常であった。女官長は喧騒を嫌悪していたからである。
「女官長様っ」
そんな朝に甲高い声を上げ、ノックも無しに部屋に飛び込んでくる者がいれば、男爵夫人のご機嫌が宜しくなるわけもない。
「何ですか。朝から騒々しい」
ちょうど着替えを済ませ、礼拝所へ向かおうとしていた夫人は細い眉根を吊り上げ、部屋に闖入してきた年若い未婚の女官テレジア・イェーネ・クラインフェルトを咎めるように言った。
「良いですか。淑女はいつ何時であろうとも静粛であらねばなりません。しかも、なんですか。その恰好は。いくら殿方の立ち入りがない塔の中とはいえ、寝間着姿で部屋の外に出るなど」
「そんなことを言っている場合ではありませんわっ」
説教を遮られ男爵夫人はムッとした顔をするが、テレジアは気にする様子もなく話を続ける。
「アガーテがっ」
「アガーテ嬢がどうしたというのですか」
アガーテ・ハルンはハヴィナ貴族の中では下級の家柄であるハルン家の出身だが、ハヴィナ八家門に名を連ねる名門ルーデンブルク家の当主ベルンハルトの母親と同族であり、その伝手により女官の地位を得た。
女官の給金はさしたるものではないが宮廷に出仕するとなれば、自然と宮中の内情を通じ、宮廷の有力者の知己を得る機会も多い。権勢のある方々と顔見知りとなれば、一族にも何かと都合が良い。何よりも良縁に恵まれる可能性も高いのだ。
そういったわけで、サーザンエンド貴族の多くはどうにかして子女を宮廷に潜り込ませようと運動するのが常で、アガーテ・ハルンの場合も例外ではない。
ハルン家は八家門ルーデンブルク家の縁戚であり、ルーデンブルク家は八家門の筆頭格であるレッケンバルム家の縁戚でもある。レッケンバルム卿ならば一人二人くらいに女官の地位を与えることは造作もない。
果たして卿の推挙により、アガーテが未婚の女官として灰古城で勤め始めたのは半年くらい前、辺境伯夫妻の婚礼の直後辺りであった。
経験豊かというわけではないし、下級貴族出身のせいか儀礼作法や有識故実に疎いところがあり、気弱そうな印象はあったものの、取り立てて問題を起こしそうな娘ではないと女官長は感じていた。
「死んでるんですっ」
テレジア嬢が発した予想もしていなかった言葉に、さすがの男爵夫人も目を見開いた。
女官長ランゼンボルン男爵夫人は直ちにアガーテの部屋に行って、自らその様子を確認すると侍従長を勤めるハルトムート・ヨハン・ライテンベルガー卿に事態を報告した。卿は辺境伯領議会議長ディルナート・カール・ライテンベルガーの嫡子である。
目覚めたばかりの侍従長は突然の事態に仰天しつつも宮廷医師を呼び、共にアガーテの部屋へと向かった。
女官たちが住む塔は基本的に男子禁制であるが、緊急時にまでそれを制限する程、厳格なものではなく、必要があれば男子といえど出入りは自由であった。無論、用事も無く入れば直ちに咎められる。
アガーテを診察した医師はあっさりと死亡を宣告した。
実際、息が無く、肌は血の気が無く、吐血した跡もあり、素人から見ても生きているとは到底思えなかったので、その場にいた侍従長と女官長、テレジアは動揺することもなく、医師の言葉を受け止めた。
となれば、次の問題が浮かぶ。
「博士。死因は何か分かるかね」
ライテンベルガー卿に尋ねられた医師は顎鬚を撫でつけながら難しい顔をした。
「はてさて、まだ断定的なことは申せませんなぁ」
「無論、そうだろうとも。ただ、昨夜まで健康だった年若い女性が朝起きたら天に召されていたというのは尋常ではなかろう」
「仰る通りです」
侍従長の言葉に医師は頷き、よくよく調べなければ分からないが。と前置きした上で答えた。
「状況からして病死という可能性は低いのではないかと思われます」
その言葉に侍従長と女官長は殊更渋い表情を浮かべ、テレジアは素直に驚いた顔をして、口元に手をやる。
医師は断定を避けながらもその見解を述べた。
「おそらくは何らかの毒物が原因ではないかと思われます」