一六九
サーザンエンド軍がサライの町でアーウェン槍騎兵を弾き返した後、両軍は膠着状態に陥った。
生来からの防御主義精神をより強固なものにしたバレッドール将軍は兵たちを動員して陣地を強化させた。濠を更に深く掘り、馬防柵を強化し、土塁をより分厚く丈夫に補強させる。これを三重にして陣地を周囲に巡らせた上、陣の後方にあるサライの町の周囲にも干し煉瓦の壁を建築し、家々の壁も干し煉瓦で補強していった。
慎重で用心深い将軍が連日に渡って自ら工事の現場に立って指導を行い、半月近くも彼方此方に手を入れて強化していった結果、サライを含むサーザンエンド軍の陣地はちょっとした要塞のような状況になっていた。
精強を誇るアーウェン槍騎兵といえど要塞化されたような陣地に突っ込むのは蛮勇というものである。先の戦いで手痛い反撃を食らっていることもあり、彼らは慎重な姿勢となっていて、手出ししてくる様子はなかった。
とはいえ、手出しできないのはレオポルドも同じであった。徹底的に増強された陣地に籠っている間はアーウェン軍の攻撃に怯える必要はないものの、一歩でも外に出れば途端に槍騎兵の餌食になるのは火を見るよりも明らかであった。
バレッドール将軍が構築した陣地の出入り口は極めて少なく狭く、陣外に出て歩兵連隊が整列している間に突撃を食らうことは明白というもので、無事に戦列を組んで攻撃態勢を整えることができたとしても、身を隠す遮蔽物もない荒野を進み、アーウェン槍騎兵の突撃を凌いで打ち破る方策は何もないのだ。
レオポルドたちはアーウェン軍にサライの町を含む陣地に閉じ込められたと言ってよく、アーウェン軍もまたサーザンエンド軍に釘付けにされていると言ってよかった。
つまり、両軍は距離を置いて対峙し、睨み合ったまま身動きできない膠着状態に陥ってしまったのである。
当然、両軍は膠着状態を打開しようと手を尽くした。互いに軽騎兵を繰り出して相手を挑発し、自軍にとって有利な状況を作り出そうと画策したものの、双方とも相手の思惑を十分に承知している為、迂闊に軍を動かすことはなかった。
その間、レオポルドは天幕の簡易寝台に寝転がって生まれてくる予定の我が子の名前をひたすら考えてばかりいたというわけではない。勿論、その時間が大半を占めていたが、御得意の手紙作戦も展開されていた。
相変わらず動きの遅いレウォント方伯に何通もの手紙を書き送るとともに侍従武官を務めるフェルディナント・ネルゼリンク卿に仕事を与えていた。
「ガナトスの強情さには我々も手を焼いておるのだ」
ヴィエルスカ侯ユゼル・スタニスワフ・クレーヴィチは長い栗色の口髭を摘まみながら言った。
侯は大柄な貫録ある体格の老人で、栗毛の髪はだいぶ後退しているが、髭は長く伸び、だらりと垂れ下がっている。長い髭はアーウェン士族の誇りなのだという。
真紅のビロードに金の鎖やボタンを飾った上着に豹皮のマントを羽織り、熊皮の帽子を被った様は威厳に満ちている。纏う装束や装飾品はいずれもレミュー金貨が何枚も吹き飛ぶような品だ。
それもそのはずで、ヴィエルスカ侯はアーウェン士族の中でも特に有力な四侯の内の一人であり、アーウェンでは最も裕福な貴族と云われ、アーウェン士族の半分はヴィエルスカ侯から金を借りていると噂されている。
その富の源は領内に抱えている帝国最大と称される銅山で、その富はアーウェン全体の収益の四分の一とも三分の一とも及ぶという。
その上、侯はアーウェン王国元帥の地位にあり、王国軍を統帥する立場でもあった。
つまり、アーウェン王国の軍事政策及び多くのアーウェン士族の動向に影響力を及ぼすことができる人物なのである。
それに加え、侯は今回のサーザンエンドへの干渉戦争に否定的だという風聞もあった。
ネルゼリンク卿が和平交渉の相手に選んだのは至極尤もというものであろう。
「彼奴めは士族の名誉や矜持を持ち出せば、我々が無償でいくらでも支援するものと勘違いしておる。確かに同胞の苦境を救うは士族の義務と言えるが、最初から他人の助けを当てにする士族に名誉やら矜持やらを語る資格があるものか」
「仰る通りです」
ネルゼリンク卿は追従するように頷いた後、咳払いをしてから本題を切り出す。
「この戦はアーウェンにとってもサーザンエンドにとっても無益なものです。少なくとも辺境伯はアーウェンとの戦を望んでおりません」
「同感だ。無益な流血は避けるべきであろう」
「しかし、我々が一方的に兵を退くというわけにはいかぬ」
ヴィエルスカ侯が示した同意にネルゼリンク卿が期待を抱くよりも前に同席していたアーウェン士族が声高に主張した。
「敗れずして敵前より兵を退いたとなれば、アーウェンの名誉に関わる。ガナトスにしても見捨てるわけにはいかぬ」
ニコラフ・パデレフ将軍は厳めしい顔つきをしたヴィエルスカ侯の側近である。
「勿論、一方的に兵を退けなどと要求するつもりはございません。アーウェン兵が退く時は、我が軍も兵を退きます」
「うむ。となると、問題はガナトス男爵領の扱いだが」
ヴィエルスカ侯の言葉にネルゼリンク卿は口の中に溜まった唾を密かに飲み込む。ガナトス男爵の扱いこそが最も重要な問題なのである。
レオポルドとしてはガナトス男爵をこのまま放置することはできない。男爵はレオポルドと戦火を交えた敵対者であり、一敗地に塗れた後も臣従を拒んだ無礼者である。この罪を問うことなく許容するとなれば道理に反するというものであり、臣下への示しも付かない。
一方、アーウェン士族としては同胞であるガナトス男爵の地位の保障は譲れない問題であろう。
つまり、両者が最も重要と考える点において妥協の余地は極めて小さいのである。
「辺境伯はラヨシュ・ガナトスを罪に問わず、無罪放免とすることは不可能でしょう」
「まぁ、そうであろうな」
ネルゼリンク卿の言葉にヴィエルスカ侯は頷き、長い髭を撫でながら考え込む。
「だが、我々としてもガナトス男爵を見捨てるわけにはいかぬ」
「そうかもしれませんが、主君たる辺境伯に反抗するなどという義に背く行為を犯した男爵を許容などできますまい」
厳めしい顔で主張するパデレフ将軍にネルゼリンク卿は反論する。
卿の指摘に誇り高きアーウェン士族たちは顔を顰めた。
君主に反抗して敗れた挙句、同胞に援けを求めて戦に巻き込むというガナトス男爵の行動はアーウェン士族から見ても見苦しく映るのであろう。
それでも同胞を見捨てるという選択ができないということが彼らを苦しい立場に追い込んでいる。
「辺境伯に反抗したのはブレド男爵も同じではないかね」
テイバリ人のブレド男爵家はサーザンエンド中部に領地を有する領主であり、辺境伯の地位を狙い、レオポルドと対立したが、現在は赦され、男爵の地位と領地を保持している。
ガナトス男爵の置かれた立場とほぼ同じである。
「確かにその通りですが、反乱を企図した当主は既に死去しております。その後、地位を継承した子息は若年で、反乱への関与が認められなかった為に許されたのです」
ヴィエルスカ侯の指摘にネルゼリンク卿が答えた通り、反乱を企図した先代のブレド男爵はレオポルドとの戦いに敗れ、窮地に陥ったところで、ガナトス男爵に内通した弟に暗殺されてしまった。これを見たレオポルドが男爵の子息を唆し、地位と領土を安堵する代わりに内応させたのである。
「成る程」
侯は髭を撫でつけながら唸る。
「つまり、我々を妨げる問題はラヨシュ・ガナトスというわけだな」
「大兄っ」
ヴィエルスカ侯の発言にパデレフ将軍がぎょっとした顔をして言った。
アーウェン士族は互いを兄弟と呼び合うが、年上や地位が上の者には兄、年下や地位が下の者には弟と呼びかける場合もある。その中でも特に有力な士族は大兄と呼ばれる慣わしであった。
侯は将軍を手で抑え、話を続ける。
「ラヨシュさえ除かれれば辺境伯は異論ないかね」
「辺境伯に確認してみましょう。しかし、交渉の余地は十分にあると思って頂いて結構です」
「辺境伯に了解して頂けるならば、ガナトスは説得しよう。ラヨシュも歳だ。子息に位を継いでアーウェンの片田舎にでも引っ込めば良いだろう」
「しかし、男爵の地位と領土の全てを残すことは難しいかもしれません」
「そこは辺境伯の意向を聞こうではないか」
ヴィエルスカ侯はそう言って微笑み、脇机に置かれたグラスに葡萄酒を注ぐ。
「乾杯しようじゃないか」
「まだ和平が成ったわけではありませんが」
ネルゼリンク卿は困惑したように苦笑しつつもグラスを受け取る。
「問題さえ分かれば全ては解決したようなものだよ」
そう言ってヴィエルスカ侯はグラスを掲げ、ネルゼリンク卿は苦笑いしながらグラスを当てた。
「この休戦が長続きすることを祈ろう」
「大兄。宜しいのですか」
ネルゼリンク卿が退室した後、パデレフ将軍は厳めしい顔で言った。
「隠棲し家督を子息に譲らせるなどという取り決めが自分の与り知らぬ場所で行われて、ラヨシュ・ガナトスが納得するとは思えませぬ」
「納得などせんでもいい。文句の言える立場か。彼奴めの為に何騎のアーウェン士族が倒れたと思っておるのだ」
ヴィエルスカ侯は不機嫌そう言い捨て、グラスの葡萄酒を呑み干す。
「辺境伯などと不相応な欲を抱いて失敗した挙句、兄弟に援けを求めて、この有様だ」
「その通りですが、男爵が従わなければ和平も瓦解してしまいましょう」
「男爵が嫌だと言ったら、貸した金を返せと言い返してやるさ」
サーザンエンドの長い夏がようやく半分まで達しようとする頃、サーザンエンドとアーウェンの間で和平というよりは休戦の協定が結ばれた。
その内容は以下の通りであった。
両軍は速やかに兵を退く。
ラヨシュ・ガナトス男爵はサーザンエンドから追放される。
男爵位はラヨシュ・ガナトスの子息マレック・ガナトスが継承する。
新男爵はサーザンエンド辺境伯レオポルドの支配下に入り、その法令に従う。
男爵領の半分はマレック・ガナトス新男爵が継承するが、残りの半分は三等分にされ、ガナトス男爵の妹婿、娘婿たちに分与される。彼らはいずれもサーザンエンド辺境伯の領域に領地を有するアーウェン人系の小領主であった。
この休戦協定によってサーザンエンド・アーウェンは望まぬ無益な戦争から解放されることとなる。
レオポルドはガナトス男爵を屈服させてサーザンエンドの完全な統一を成し遂げたこととなり、その威信は高まるというものだ。サーザンエンド辺境伯領がムールドも含めて完全に統一されたことは過去に一度として無かったことなのだ。
アーウェンとしても、サーザンエンド領内に影響力の及ぶガナトス男爵という勢力を保持できた上、レオポルドにアーウェン軍の強さを十分に見せつけることができたことは成果と言って良いだろう。
ただ、ガナトス男爵だけは国外追放の憂き目となるばかりか、子息に家督を譲ることを強制されたのであるが、自業自得であるばかりか、戦費として多額の資金をヴィエルスカ侯から借りていることもあって文句の言える立場ではなかった。
休戦協定が成立するとレオポルドはジルドレッド、バレッドールの両将に兵の退却を任せ、自身は近衛連隊を率いてさっさとハヴィナへと帰還した。
じっと座っているだけでも汗が滲み出てくるような酷暑の最中、自由に入浴ができない生活にはもう一日たりとも我慢できなかったからである。
レオポルドはハヴィナ城の青い小宮殿に入るなり軍装を解きながら入浴の支度をするよう指示し、入浴の準備ができたと聞くや否や部屋を飛び出し、風呂場へと一直線に向かう。
「あ、レオっ。ちょっとっ」
フィオリアに呼び止められたのは、その途中だった。
「厄介な問題が起きたんだけど……」
「……それは喫緊の問題なのか」
「そうよ」
「俺の入浴よりも優先されるべき問題なのか」
「そうね」
「一分一秒を争うのか」
「それほどではないけど……」
「じゃあ、後だ」
「ちょっとっ。待ちなさいっ」
レオポルドは待たなかった。滲み出る汗、体にこびりついた汚れや垢、脂とはもう一分一秒とも長く付き合ってられないからである。
彼にとって入浴は緊急事態と言えるような最優先事項の次に優先されるべき事柄なのだ。