一六八
サーザンエンド軍は占領した小さな町サイタの北側に強固な防衛陣地を築いていた。
サイタの北側を半円状に取り囲むように二重の濠と馬防柵、土塁が設けられ、要所要所に物見櫓と大砲を備えた砲兵陣地までが設けられ、その後方に一万以上の兵が寝泊りする天幕が整然と連なり、町の北側に隣接する辺りに本営を置く。武器弾薬糧秣などの物資は町の各所に保管され、外側の家々も強固に補修され、町を丸ごと要塞化して、一部を北側に張り出したような様相となっている。
これだけ強固な防衛陣地となれば、並の騎兵では正面突破は不可能であろう。精強と名高きアーウェン槍騎兵をもってしても躊躇せざるを得ないもので、防衛論者のバレッドール将軍の面目躍如と言っても良い野戦築城であった。
これを見たアーウェン軍もさすがに拙速な攻勢を避けたのであるが、サーザンエンド軍の一部の高官たちが見抜いた通り、麦の収穫期を控えている彼らとしては長期の戦陣を避けたいというのが本音であった。
とはいえ、ガナトス男爵を見捨てて陣を畳んで帰るというわけにはいかない。助けを求める同胞を見捨てたとなればアーウェン士族の名折れであるという名誉と矜持を大義名分としているが、これは彼らにとっては安全保障の問題でもあった。
サーザンエンド辺境伯は帝国諸侯でありながら、帝国本土や他の帝国諸侯と隔絶された地を統治している為、孤立した状況に置かれてきた。更には長年に渡る異民族との紛争、慢性的な財政難に苛まれ、近年は短命弱体な辺境伯が続いたこともあって極めて弱体化していた。
これはアーウェン人にとって極めて好都合なことである。
アーウェン王国は歴史的経緯から神聖帝国皇帝を国王に頂き、帝国とは同君連合を組む関係にあるが、人種も文化も言語も宗派も異なる全く別の国である。独自の政府と国会と軍隊を持ち、帝国政府の干渉を排除してきた。当然、皇帝との関係は良好ではなく、帝国政府の中にはアーウェンへの干渉を強めようと画策する者がいる一方、アーウェン士族の中には皇帝を排除し、純然たる独立を求める者も少なくない。
万が一、両者の関係が急速に悪化して衝突へと至った場合、アーウェンは帝国本土の皇帝直属軍とサーザンエンド辺境伯軍に挟撃される形になってしまう。
そういったことから、アーウェンはサーザンエンド辺境伯の弱体化を歓迎していたのである。
ところが、つい先頃まで継承問題に揺れていたサーザンエンドは数年の間にレオポルドによって統一され、あろうことか長年の問題となっていたムールド諸部族との関係を改善させ、新たな経済・財政政策を積極的に実行し、財政まで改善しようと試みている。
その上、アーウェンにとってはサーザンエンドと同じくらい厄介な存在であるレウォント方伯と婚姻までしてしまう。
アーウェン王国にとって、急速に台頭してきたサーザンエンド辺境伯レオポルドは重大な危機なのである。
そこで彼らはガナトス男爵を支援してサーザンエンドの統一を阻害し、軍事的緊張を強いることによって軍事費を出費させ、弱体化を誘おうと考えたのである。
とはいえ、アーウェン士族とて財政に余裕があるわけではない為、軍事遠征は早めに切り上げたい。
短期決戦を目論むアーウェン軍首脳が攻め手を探っていたところにやってきたのがこの地域では珍しい大雨であった。
彼らはこの雨を利用し、雨中を突っ切る強襲を仕掛けることとした。
サイタを含むガナトス男爵領南部は粗い白灰色の砂によって構成された土壌で、極めて水はけがよく、ぬかるむことは殆ど無い。
この地を支配するガナトス男爵は当然これを知っており、男爵を通じてアーウェン人たちもこれを知ることとなった。
とはいえ、さすがに大雨の中では視界が極めて限定される為、敵の場所や味方を見失う危険性がある。そのような危険を冒してまで攻撃を敢行する程、彼らも蛮勇ではなかった。
しかし、雨が弱まり、視界が確保されれば話は別だ。
帝国南部では珍しい大雨をやり過ごし、今朝になって雨が弱まるとアーウェン軍の指揮官たちは直ちに攻撃を決意した。
雨の中の攻撃はサーザンエンド軍も予期していないと思われ、絶好の強襲になると期待された為である。
果たしてその通り、アーウェン槍騎兵の雨中突撃にサーザンエンド軍は上から下まで混乱し、右往左往していた。
サーザンエンド軍の陣中では各所からバラバラな調子で吹き鳴らされる喇叭と連打される太鼓の響きに急き立てられるようにマスケット銃を抱えたサーザンエンド兵が駆けまわっている。
「並べ並べっ。整列だっ。急げっ」
走り回る兵たちの間で馬に乗った将校が怒声を飛ばす。
サーザンエンド軍は雨を避けて天幕に入っていた兵たちを叩き出して、どうにかこうにか整列させ、戦列を形成しようとしているようだった。
しかし、それはもう手遅れというものであろう。数百人もの兵を整然と並ばせるのは容易なことではなく、訓練された兵であっても一定の時間を要する。
そして、戦列が完璧に形成されるよりもアーウェン槍騎兵の長い槍の穂先が届く方が早いのは明白であった。
そこへ別の士官が馬を乗り入れて来て全く別のことを言い出す。
「全軍後退っ。後退せよっ。直ちに下がれっ」
上官の命令を受けて自分の持ち場に並ぼうと駆けていた兵たちは新しい命令を聞いてどうしたものかと狼狽え、士官たちの顔色を窺う。
「何を言っているんだっ。今更後退なぞしては敵の追撃に遭うだけだぞっ」
「それでも退けとの御指示ですっ。兵を散開させ、後退させろとのこと」
兵たちを整列させようと指揮を執っていた中隊長の怒声に伝令の将校が言い返す。
「将軍たちは何を考えているんだっ」
中隊長は頭を掻き毟りながら叫ぶ。
今しがたまで整然と戦列を形成しろと急き立てられていた兵士たちはアーウェン槍騎兵の突撃を避けて、後退しろという先程とは全く正反対の新しい命令を受け、慌てふためきながら来た道を逆戻りしていく。
サーザンエンド軍中央の前衛を担っていたサーザンエンド・フュージリア連隊は戦列を組むのを中断し、二つの大隊は各々左右方向へ移動し、フュージリア連隊の後方に展開しようとしていたサーザンエンド・ドレイク連隊は南のサイタの町へと退く。
小雨が降りしきる中、一〇〇〇騎以上のアーウェン槍騎兵が遮る者も迎え撃つ者も守る者もいないサーザンエンド軍の陣地へと突入した。
勇猛果敢なるアーウェン槍騎兵は濠を飛び越え、馬防柵を打ち破り、土嚢を乗り越えて陣中へと乗り込んでいく。
後退途中のサーザンエンド兵はアーウェン槍騎兵の突進に追い散らされ、無抵抗なその背中は馬蹄と長槍の餌食となる。
とはいえ、アーウェン槍騎兵にとって左右に散った敗残兵を追いかけ回すことは副次的な目的に過ぎない。敵の戦列を破り、陣中深くまで浸透し、敵軍を完全に分断することこそが第一の目的なのだ。
敵の第一列を破った段階で突撃を中断してしまうと敵の第二列や後方に控える予備に反撃され、突撃の効果が減少しかねない。
「逃げる臆病者どもに構うなっ。目指すは敵本営っ。サーザンエンド辺境伯レオポルドの首であるぞっ。進めっ。兄弟たちよっ」
軍勢を率いるサバロフ将軍がサーベルを振り回しながら叫び、アーウェン槍騎兵は喊声を上げながら南方向へと突進を続ける。
後退中だったサーザンエンド・ドレイク連隊も迎撃できずに追い散らされ、兵たちは思い思いの方向へと駆けていく。
そのままアーウェン槍騎兵はつい先程までサーザンエンド兵が雨から身を隠していた天幕が並ぶ中に突っ込み、天幕を打ち倒し、逃げる兵を追い回す。
彼らはそのままサーザンエンド軍の本営へと乱入したが、そこはもぬけの殻であった。レオポルドどころか近衛連隊の姿もなく、アーウェン槍騎兵は拍子抜けしたような気分で馬を駆けさせる。
「糞っ。奴らは何処へっ」
「敵はサイタへと後退したのでは」
「我々から逃げ切れるとでも思っているのか」
「いや、町に籠るつもりではないか」
目標を見失ったアーウェン槍騎兵たちはやや困惑した様子で話し合う。
「狼狽えるなっ。敵は敗退しておるのだっ。追撃を中断するは敵を利するのみっ。敵を追い続けよっ」
サバロフ将軍は部下たちを叱咤し、サイタへと馬首を向けた。
サイタは小さな町であり、城壁などというものとは無縁で、町の周囲には獣除けの柵が巡らされている程度で、アーウェン槍騎兵はそのような柵は易々と飛び越えてしまう。
障害となったのは柵ではなく町に建ち並ぶ家々であった。
逸早く本営を放棄し、後退していた近衛歩兵連隊はサイタの町の家々に立て籠もり、窓という窓からマスケット銃を突き出し、進撃してきたアーウェン槍騎兵を狙撃し始めたのだ。
いくらアーウェン槍騎兵が抜群の打撃力を誇る重騎兵とはいえ、家の壁に突っ込んでいくのは無茶というものだ。窓から覗く敵兵を槍で突くとなれば馬の脚を止めねば難しく、動きを止めれば別の家や部屋に潜む敵兵に狙い撃ちされる。
しかも、この頃にはさすがのアーウェン槍騎兵も体力をかなり消耗していた。強襲の為、彼らは普段よりも速く馬を駆けさせたし、既にサーザンエンド軍の陣中からサイタの町まで相当の距離を走っている。
その上、普段であれば敵を突いて槍を折った騎兵は体力を温存している後列と交代するのだが、今回は前を遮る敵が少なかったので交代することなく、そのまま走り続けていた。
目標を見失い、脚を止め、動きが鈍ってしまえば、派手な装束で目立つアーウェン槍騎兵は家々に潜む歩兵にとっては格好の獲物であった。
近衛歩兵に狙撃された槍騎兵は断末魔の叫び声や呻き声と共に落馬して泥水の中に突っ伏し、鉛玉に貫かれた馬は悲鳴を上げながら高い水飛沫を上げる。
バレッドール将軍は不意を突かれた強襲を満足に迎撃することができないと考え、サーザンエンド・フュージリア連隊とサーザンエンド・ドレイク連隊を無駄な犠牲を出す前に後退させ、その隙に後退した近衛歩兵連隊が立て籠もるサイタの町でアーウェン槍騎兵を迎え撃つことにしたのだ。
サーザンエンド軍はこの町を物資集積所として活用しており、家々は改築や補修が為されており、兵が籠って騎兵を狙い撃つに十分な隠れ家となった。
アーウェン槍騎兵の前衛が傷付き、泥水の中に突っ伏していく最中、その後列はまた別の危機に遭遇していた。南北に長く伸びきったアーウェン槍騎兵の隊列の側面に左右両翼から移動してきたサーザンエンド軍の歩兵部隊が展開し始めたのである。
レオポルドは両翼の部隊に中央へ移動してアーウェン槍騎兵の側面を攻撃するよう指示していた。本来であればこの両翼の部隊を抑えるのはアーウェン軍の歩兵部隊の役割であったが、強襲という作戦の性格上、高速で前進する騎兵に歩兵部隊は付いていけず、前進が大幅に遅れていたのだ。
側面に展開した部隊に支援されて、槍騎兵に追い散らされた二つの連隊の兵たちも逃げる足を止め、士官たちは散り散りになった兵たちを掻き集めて再編制しはじめる。
前衛がサイタに籠る近衛歩兵を撃破できず足が止まり、側面からの攻撃に脅かされたアーウェン槍騎兵を見て、サイタの町の東西に待機していたサーザンエンド軍の騎兵部隊が動き始める。町の外周に沿うように移動し、町から撤収を始めたアーウェン槍騎兵前衛部隊の後背を突く。
こうなれば最早アーウェン槍騎兵に残された手は少ない。犠牲が少ないうちに逸早く後退するのみである。
後退の喇叭が吹き鳴らされ、アーウェン槍騎兵たちは北へと一目散に駆けていった。
「やれやれ、どうにか追い返したか……」
サイタに建ち並ぶ家の一軒に逃げ込んでいたレオポルドは駆けていく槍騎兵の背中を見て胸を撫で下ろす。その手には逃げる途中で落として泥だらけになってしまった帽子が摘ままれていた。帽子だけではなく、衣服は全て雨に濡れてしまっている。
町に逃げ込み、家々を盾として迎え撃つというのは元より計画した策というわけではない。バレッドール将軍が咄嗟に思い付いて提案したものである。慎重派である将軍が思い付きの策を具申するのはかなり珍しいことだ。
「追撃させますか」
「いや、止めておけ」
同じく濡れ鼠になっているキスカの問いかけにレオポルドは首を横に振った。
「連中の底力を甘く見るべきじゃない。前衛にはある程度の損害を与えたと思うが、後列はほぼ温存されているだろう。調子に乗って追いかけたら手痛いしっぺ返しを食らうに決まっている。早々に騎兵を呼び戻し、歩兵部隊を再編制させ、陣地を固く守らせよ」
バレッドール将軍でなくても、これだけアーウェン槍騎兵に痛い目に遭ってくれば慎重にもなろうというものだ。