一六六
サーザンエンドにしては珍しく激しい雨が降っていた。
帝国南部は基本的に乾燥した地域ではあるが、全く雨が降らない干からびた土地というわけではない。山脈沿いや高地、海岸部は比較的雨が多く、内陸においても少ないながらも降雨がある。
とはいえ、土砂降りというのは珍しい。年に数度あるかないかといったところで、地を叩くような激しい雨が一日中続くというのは数年に一度或いは十年に一度と言っても過言ではなかった。
ガナトス男爵領の南西の隅にある小さな町サイタに布陣したサーザンエンド軍の陣営も雨に包まれている。町の家々よりも多い数百もの天幕が設けられ、幾重もの馬防柵と土塁、濠が陣営を囲むように巡らされていた。
警戒に当たる兵達は合羽を着込み、頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れになって、むっつりと北の方角を睨んでいる。
「ひでぇ雨だ。いい加減止んでくれねぇかな」
「雨が止んだらアーウェンの槍騎兵が突っ込んでくるだろうが」
歩哨に立っていた第三サーザンエンド歩兵連隊の兵士が不機嫌そうに呟きに、隣に立った同僚が答える。
「あの向こう何マイルか先に槍騎兵が三〇〇〇騎もいるんだぞ。奴らに突っ込んでこられちゃあ、ひとたまりもねぇ」
第三サーザンエンド歩兵連隊は先の戦いでは右翼前衛を担い、アーウェン軍左翼の歩兵を相手に戦っていたが、中央に布陣した味方の部隊の戦列が呆気なく突破され、散々に蹂躙された結果、全軍が敗走状態に陥った。敗走の最中、第三サーザンエンド歩兵連隊の兵も多くが長槍の餌食となった。
彼らはアーウェン槍騎兵の大陸最強の騎兵という謳い文句が伊達ではないことをその身をもって知ったのである。
「てことは、俺たちの命は雨が止むまでってことかい」
「いや、この雨だ。地面がぬかるんで走り難かろう。地面が乾くまで一日くらいは様子を見るんじゃねぇか」
「一日くらい伸びてもなぁ」
二人の兵士は鳴り響く雨音に掻き消えそうな声で囁き合う。
歩哨の最中にだらだらと任務に関係のない世間話をしているのが上官に聞かれてしまった場合、職務に専念していないとして処罰される可能性があるのだ。
とはいえ、雨の中、外に出て兵士の勤務態度を監視する程、物好きな上官は少ない。
歩哨は定期的に交代し、その合間には下士官が巡回していた。
そもそも、歩哨が立つ間隔はそれほど広くもない為、異常あれば隣に立つ組がすぐに関知できる状況なのだ。目くじら立てて保障の勤務態度を見張ることもないのである。
しかしながら、サーザンエンド軍には風紀に厳しく、兵士から悪魔と恐れられる士官がいた。
「無駄口を叩いている暇があったら真面目に見張りをしていろ」
背後からの声に二人の兵士は飛び上がらんばかりに驚き、慌てて背筋を伸ばす。
「伍長っ」
女性にしては短い銀髪を雨に濡らしたキスカは頭の先から流れ落ちる水滴を気にする素振りもなく、今しがた怠慢を見咎めた二人の兵士を睨み付けながら、鋭く下士官を呼びつける。
「二人の名前を記録せよ。配給の麦酒を半パイントに減らしなさい」
呼びつけた伍長に彼女は冷徹な声で命じた。
通常、兵士の夕食にはパンやスープの他に一人一パイントの麦酒が支給される。これは娯楽のない軍隊生活を送る兵士たちにとってはささやかではあるが、日々の貴重な楽しみであった。
その楽しみを半分に減らされてしまった二人の歩哨は明らかに落ち込んだ様子であったが、賢明にも抗議の声を上げることなく、黙ってしゃっちょこばっていた。
理不尽なことであろうとも一兵卒が士官に反抗するなど軍隊という組織では許されることではないのだ。抗議したところで麦酒が一パイントに戻ることはなく、食卓から麦酒がその姿を完全に消すだけである。
彼らはそのことを十分に理解していた。
しかし、キスカの処罰に兵士たち以上に我慢できない者がいた。
「お待ち下さいっ」
騒ぎを聞きつけて駆けてきた中隊長は困惑と怒りが混ぜこぜになった顔をして叫ぶ。
「一体、何だって私の中隊の兵を処罰するのですかっ」
中隊長は自分の部下がキスカによって処罰されることに我慢がならないようだ。
伍長と二人の兵士は困惑顔でキスカと中隊長の顔色を窺う。
「この者たちは歩哨中に無関係の私語を交わし、任務を疎かにしていた。これは職務怠慢である」
中隊長の抗議にキスカは冷然と答える。
「怠慢っ。たった二言三言私語を交わしたことが怠慢とはっ。行き過ぎではありませんかっ」
「私語を交わしたこと自体が罪なのではない」
キスカは眉間に皺を寄せ、氷のような表情で言い放つ。
「私語を交わすことに夢中になって、背後に立った私に気付かなかったことが問題なのだ。背後に忍び寄ったのが私ではなく、陣に忍び込んだ敵であっても彼らは気付かなかっただろう」
彼女の指摘に中隊長は一瞬言葉を失うが、自分を注視する部下たちの目に促されるように再び口を開いた。
「しかしですな。敵陣は前にあるのですぞ。前を十分に警戒していれば、後ろにはそれほど……」
彼の言葉にキスカは明らかに苛立たしげな表情を浮かべた。
「大尉。君は我が軍が何故本営とその後方に部隊を配置しているのか理解していないようだな」
敵は前から来るなどという根拠のない思い込みなどというものは、一兵卒ならばいざ知らず、士気を取る者が抱いてはならないものである。
「それに、我が中隊は御覧の通り、隣に立つ歩哨が見える程度の距離を取って警戒をしております。その合間の一組くらい……」
中隊長の言葉を全て聞くまでもなく、キスカは目の前の男に蔑むような視線を突き刺し、その鋭い眼光だけで黙らせた。
「雨の中で長話はしたくない。とにかく、処分は下った。これ以上の議論は無用だ」
彼女は吐き捨てるように言い放ち、その場を後にする。
「そ、そもそもっ、何の権限があって、貴女に私の中隊の兵が処罰されねばならんのかっ」
立ち去ろうとする背中に再び抗議の声を浴びせられ、キスカはスープ皿の縁に止まった蠅でも見るような表情で答えた。
「私はサーザンエンド辺境伯レオポルド様の副官であり、閣下から全軍の風紀を監督する権限を与えられている」
そんなことも知らないのか。とでも言いたげな彼女は更に付け加える。
「それと、この中隊は君のものではない。サーザンエンド軍は全て辺境伯閣下の軍である。君は閣下より中隊の指揮権を与えられているに過ぎない。私の、などと言うな」
それだけ言うと、彼女は今度こそ前を向き、振り返ることなく迷いなく歩を進めた。
陣中を颯爽と歩くキスカの姿を一瞬でも目にした将兵は直ちに背筋を伸ばし、まるで石像にでもなったかのように硬直する。
彼女は固まった兵士たちに鋭い視線を注ぎながら速足で陣中をぐるっと歩いて回り、本営の中心に設けられた一際大きな天幕に入った。
「只今、戻りました」
「あぁ、御苦労」
天幕に入った彼女の声に、天幕の奥側に設けられた寝台に寝そべったレオポルドが応える。
レオポルドは上着を脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外した身軽な恰好で、仰向けに寝転びながら本を読んでいたが、びしょ濡れになったキスカの姿を見て、顔を顰めた。
「やっぱり、びしょ濡れじゃないか。こんな雨の中を見回りすることはないだろう」
彼は呆れたように言い、彼女に早く着替えるように促す。
レオポルドの天幕の内部はいくつかに区切られており、人目から離れて着替えることができるスペースもあるのだ。
「雨の中だからこそ、将兵の気も緩むのです」
キスカは区切られたスペースに入りながら頑なな声で言った。
このやりとりは彼女が見回りに出発する前にも交わした内容で、レオポルドは今更言っても無駄だと考えたのか、呆れ顔で本に視線を戻す。
「実際、危惧した通り、見張りを怠る不届きな兵がおりました」
「まさか、君、その兵士を鞭打ちにしたりしてないだろうな」
「……レオポルド様は私の地獄の獄吏か何かと勘違いしていませんか」
キスカの声は何となく心外そうだった。
「冗談だ。いくら何でもこの雨の中、鞭打ちをやるとは思ってないさ」
「……麦酒を半パイントにしただけです」
レオポルドは本を下ろし、何かを言いたげに口を開いたが、結局何も言わず読書に戻った。
袖が無く丈の短いシャツにぴっちりとした短いズボン姿に着替えたキスカはレオポルドを厳めしい顔つきで見つめる。
「レオポルド様。遺憾ながら我が軍の将兵の中には緊張感に欠けた者が少なくありません」
「そうか。警戒を厳にせよと指示しているが」
「確かに歩哨の数は多く、体制としては敵に備えております。問題は将兵の意識です」
「意識、ねぇ」
そう言ってレオポルドは天幕の向こうの雨音に耳を澄ませる。雨粒が天幕や地面を激しく叩く音が止むことなく延々と続いている。
「この雨だからな。敵も動かんだろう」
「レオポルド様まで、そのようなっ」
キスカはレオポルドが寝転ぶ寝台の傍に寄って、けしからんとでも言いたげな様子で彼を見下ろす。
「馬の上で育つというムールドの民である君に言うことではないが、この土砂降りでは土がドロドロになって地面はぬかるんでいるだろう」
言うまでもなく、土と水が混ざり合い、泥だらけの地面になれば人も馬も足を取られ、動きは鈍くなる。
「騎兵を主力とするアーウェン軍が、わざわざ、自軍にとって不利な状況で戦を仕掛けてくるとは思えんだろう。地面が乾いて馬が走り易くなってから我々を蹴散らせばいい」
「それは油断です」
「だから、万が一にも敵が動いた場合に備えて、十分に警戒させているのだ。ムールド兵は散々嫌がったがな」
ムールド人は水気は健康に悪いと信じており、雨に濡れることを極度に嫌う。
その為、軍の左翼を構成する二個のムールド人歩兵連隊は雨中の歩哨に強い難色を示したのだ。
結局、キスカが歩哨を拒否する者は斬首するという警句を口にした為、ムールド兵は渋々と歩哨任務に立っていた。
ちなみに、キスカもムールド人であるが、風呂好きなレオポルドに付き合っていたせいもあって、水気に対する忌避感は殆どなくなっていた。慣れたのだろう。
「それに雨の中を強引に突撃してきたとしても、地面がぬかるんでいれば、いつもよりも速度も勢いも落ちる。アーウェン槍騎兵の最大の武器は突破力だ。それが十分に発揮されなければ、我々の戦列は持ち堪えることもできよう」
「それはそうですが……」
遊牧民として生まれ育ったキスカは雨に濡れてぬかるんだ地面で馬を走らせる困難を十分に理解している。いつもより速度が出せないことは勿論のこと、脚が取られないように馬を操ることも難しくなるのだ。下手をすれば、泥に脚を滑らせ、乗り手ごと転倒しかねない。
戦場で馬を上手く乗りこなせず、立ち往生したり、転倒したりすれば、自らの命に直結することは言うまでもないだろう。
「随分と心配性だな。バレッドールに影響されたか」
レオポルドのからかいにキスカはムッとした顔で唇を曲げた。
「それよりもだ。リーゼロッテの子の名前をどうするか悩んでいるんだ。パウロスはどうかな。聖パウロスは初代の総大司教と云われる聖人だ。偉大な名だが」
そう言ってレオポルドは難しい顔をして本を睨む。
彼が読んでいるのは西方教会が列聖した諸聖人の事績をまとめた書であった。帝国や西方諸国では我が子に、聖人にあやかった名を付けるのが一般的なのである。
半月程前にハヴィナを発ったレオポルドであったが、その背中を追うように早馬が駆けてきて、リーゼロッテの懐妊を知らせたのである。以来、レオポルドは暇さえあれば三人目となる我が子の名前を考えるのに忙しかった。
「まだ男子と決まったわけではないでしょう」
「そうなんだが……」
キスカの呆れ声にレオポルドは歯切れ悪くもごもごする。
リーゼロッテは教会が唯一認めレオポルドの正式な夫人であり、その子はレオポルドの持つ称号や財産、諸権利の殆どの継承権を持つこととなる。
帝国の法では女子であっても継承権を有すものの、女子は余所の家へと嫁に入ってしまうものである。余所の家の男と結婚してしまえば、称号も財産も権利も婿の家へと移ってしまうのが一般的な継承法であった。
フェルゲンハイム・クロス家を未来へと存続させるならば、なんとしても男子の後継者が必要なのである。
レオポルドは渋い顔で諸聖人の事績を目で追いながら、ぽつりと呟いた。
「もし、リーゼロッテが男子に恵まれなかったら、どうにかしてルートヴィヒを嫡子にできる方策が無いか考えるか」
「それはなりません」
キスカははっきりと言い放つ。
レオポルドは少し驚いたように視線を向けると彼女は断固とした表情で見つめ返した。
「そのようなことを為されば、多くの人々がレオポルド様とルートヴィヒを怨み、妬み、憎み、大きな禍根を残すでしょう。必ずや争いや諍いの種となります」
異民族や異教徒が多く住む帝国においては異民族出身の愛人を抱える帝国人も少なくなく、帝国諸侯と言われる最上級の貴族であっても異民族や異教徒の愛人を囲い、子を産ませる者は数知れないだろう。
しかしながら、その身分は必ず愛人となる。異教徒を正式な妻として迎えることは教会が許さず、改宗していたとしても諸侯が異民族出身の女を正式な妻に据えるなどということは社会的に許容されないことであった。
となれば、諸侯の恋人となった異民族・異教徒の娘は愛人の座に留まるより他なく、その子は庶子と見做される。
小貴族や平民の家であっても庶子が家を継承するとなれば、一族や関係者から大きな抵抗がある。諸侯ともなればその比ではなかろう。
万が一にもレオポルドがキスカとの間の子ルートヴィヒを後継者に据えれば、サーザンエンド貴族は大反対の合唱となろう。異民族と肩を並べることすら嫌悪する者が多いというのに、異民族の血が流れる者が君主となることに耐えられようか。今はレオポルドに好意的な貴族たちですら敵対者となりかねない。
そうなればサーザンエンドは後継者の地位を巡って大きな争いの渦に飲み込まれていくだろう。
「そのような争いや諍いの渦中に飛び込むような真似をさせたくはありません」
キスカの真剣な表情にレオポルドは気まずそうに頬を掻いた。
「戯言だ」
異民族の愛人という身ながら、第一の副官にして第一の恋人でもある彼女は、寝台の傍らにしゃがみ込み、その手を取った。
「私は、レオポルド様に愛して頂けるだけで十分に幸せです。例え、妻と見做されなくても平気です。レオポルド様からとても大切な、大事なものをたくさん頂きましたから」
「キスカ」
レオポルドは本を傍の机に置き、彼女を寝台に引き上げた。
「ぁ、レオポルド様、駄目ですっ。御夕食の前ですからっ」
「君から誘ってきたんじゃないか」
「そ、そのようなつもりで言ったわけじゃありませんっ。んぁっ」
寝台の上で囁き合う二人の様子を、天幕の出入り口から覗き見た近衛歩兵連隊のサライ少佐は天幕の出入り口を閉じ、困った顔をして突っ立っている従兵に小声で告げた。
「閣下の御夕食はまだ後にせよ」