一六五
ジルドレッド軍敗北の報がハヴィナに届いたのは戦いが行われた三日後のことであった。
レオポルドは直ちに軍事評議会を開催し、事後の対応策について検討するよう指示した。
「野蛮なアーウェン人どもに敗れるとは何たる恥辱かっ。直ちに反撃すべきであるっ」
軍事評議会の議長であるケッセンシュタイン将軍が赤ら顔で怒鳴り、バレッドール将軍とレッケンバルム准将は顔を顰める。
「無論、その通りです。しかしながら、我が軍は大きな損害を被っており、直ちに反撃に移るのは難しいと言わざるを得ないでしょう」
ラ・コーヌ准将の指摘は至極当然というものだろう。ジルドレッド軍は全軍の一〇〇〇もの損害を出して潰走したばかりである。兵の補充と再編成、馬や糧秣、武器弾薬の補給にはある程度の時間を要す。
仮に再編成ったとしても、殆ど損失のないアーウェン軍に何の策もなく再戦を挑んで勝利を得ることができるだろうか。
「ならば増援を送らねばなるまいなっ。我輩が自ら指揮を執り、雪辱を晴らさんっ」
少し前まで隠棲していた老将軍はとにかく前線に出て指揮を執りたいらしい。本人が出るだけならば勝手にしてくれというところだが、現役から長く離れた老将に下手な指揮を執られて軍に損害が出てしまうのは問題である。バレッドール将軍とレッケンバルム准将は上司の指揮能力をあまり信じていなかった。
とはいえ、そんなことを率直に言えるわけもない。同じ組織に属する人間との間に無用な軋轢を生む程、彼らは愚かではないのだ。
しかし、先の戦いで敗北したばかりのジルドレッド将軍再び指揮を執らせるのも考え物であろう。援軍によって増強されたくらいで勝てる程、アーウェン軍が弱体だとは思えない。
かといって、後任にバレッドール将軍やレッケンバルム准将といったジルドレッド将軍よりも格下の将軍を送れば、彼の矜持と名誉を大きく傷付けかねない。
となれば、選択し得る手段は限られてくる。
「援軍を送るとなれば、サーザンエンド軍のほぼ全軍を前線に投入することに他なりません。となれば、軍の最高司令官であるレオポルド閣下に御出馬頂く他ありますまい」
バレッドール将軍の提案にレッケンバルム准将が同意するように頷く。
君主であるレオポルドを最高指揮官として出馬させれば、宮廷武官である両将が君主の補佐として前線に赴き、実質的な指揮を執ることが可能であり、ジルドレッド将軍よりも格上であるレオポルドが指揮を引き継ぐ形を取れば、将軍の名誉を必要以上に傷付けることもあるまい。
「成る程。辺境伯閣下直々の御出馬となれば、敗退した将兵も意気軒昂となろう」
バレッドール将軍の提案にケッセンシュタイン将軍は意外にも素直に納得した。
「なれば、我輩が随行し閣下を輔弼せん」
その言葉にバレッドール将軍たちは慌てる。
それでは軍事評議会の会議で毎度の如く繰り返す口論を前線でやることになってしまう。
前線において攻勢論者であるケッセンシュタイン将軍と防衛論者であるバレッドール将軍の意見が対立するのは目に見えている。強敵であるアーウェン軍を相手に、自軍の指揮に乱れがあっては勝利は覚束ないだろう。
「いや、将軍にはハヴィナの守りをお願い致したい」
「ハヴィナの守りはマルクスに任せよう」
「しかし、万が一にも再び我が軍が不運にも敗北に見舞われるような事態となった時、ハヴィナに残る予備をもって敵を阻む指揮官が必要となりましょう。その最後の決戦において指揮を執るべきは将軍でしょう」
「む。そうか。我輩は最後の盾ということか」
「さようです。サーザンエンドの最後の盾にして、最期の剣たるは我が軍を代表する指揮官である将軍しかおりますまい」
懸命の説得にケッセンシュタイン将軍は納得し、辺境伯の随行はバレッドール将軍とされた。
宮廷軍事顧問官を務めるバレッドール将軍はレオポルドの執務室がある青い小宮殿へと赴き、コレステルケに後退したジルドレッド軍の状況を説明し、更なる増援を送り込み、サーザンエンド軍の総力をもってアーウェン軍と対すべき。との軍事評議会の意見を述べ、ついては、サーザンエンド辺境伯直々のご出陣賜りたい。と要請した。
それに対して、レオポルドはうんざりした様子で呟いた。
「暑い」
「レオポルド様っ」
傍らに控えたキスカが眉根を吊り上げて窘める。
「しかし、この暑さは堪らん。風呂に入って汗を流したい」
「入浴ならば、つい先刻済ましたばかりではありませんか」
「風呂に入っても、この暑さでは直ぐにまた汗が噴き出るのだ」
レオポルドは気だるげに言い、机の前に立っていたバレッドール将軍に椅子を勧めた。
「しかし、確かに今日は蒸しますな。今年は例年よりも暑くなるやもしれませんな」
執務室にある応接セットのソファに腰を下ろした将軍の言葉にレオポルドの顔色はより一層暗くなる。
寒冷な気候である帝都に生まれ育ったレオポルドにとってサーザンエンドの酷暑は何度経験しても慣れず、未だに彼は夏が来る度、辟易としているのだ。
それが例年よりも暑くなるとなれば、レオポルドの意気も落ち込もうというものだ。
キスカは「余計なことを言うな」といった目でバレッドール将軍を睨み付け、将軍は気まずそうに咳払いしてから口を開く。
「とにかく、閣下には御出陣頂かなければなりません」
「ケッセンシュタイン将軍では駄目なのか」
レオポルドが嫌そうな顔で言うと、将軍は更に嫌そうな顔をした。
「ケッセンシュタイン将軍が指揮権を持ったならば、全軍の先頭に立って、こう言うでしょう。全軍、アーウェンに向かって突撃せよ。決然たる攻撃こそが勝利である。最後の一兵まで退くことなく、突き進むのだ。そうして、我が軍はアーウェン槍騎兵の餌食となり、将兵は原野に躯を晒すことになりましょう」
慎重な防衛論者であるバレッドール将軍にとっては攻撃一辺倒のケッセンシュタイン将軍の主張は愚かなで無謀な蛮勇に思えるのだろう。
「閣下が御出馬なされば将兵の士気も上がるというものです」
「私の面を見たくらいで士気が上がるか」
レオポルドは自身が将兵からそれほど支持されているというわけではないことを理解していた。将兵だけではなく、多くのサーザンエンド人にとってレオポルドは余所者の帝都人の若造なのである。相続法により成り行きで君主になった人物に数年足らずで真からの忠誠を抱く者は多くない。
「忠実なるムールド人はレオポルド様に忠誠を誓っております」
キスカは胸を張って言うが、全てのムールド人がレオポルドに忠実というわけでもない。
二四あるムールド諸部族の内、キスカやアイラの出身部族や早くからレオポルドに臣従し、信頼され重用される部族がある一方、最後まで抵抗を続けた為に冷遇される部族もある。当然、後者の忠誠はあまり期待できまい。
とはいえ、大半のムールド人はこれまで異民族・異教徒として蔑視してきたサーザンエンドの帝国人とレオポルドは大きく違うと感じているだろう。
部族の娘を公然と事実上の妻としているだけでなく、レオポルドは議会の議席をムールド人にも与えたばかりか、これまで帝国人に限られていた辺境伯政府や辺境伯軍の高官にもムールド人を抜擢しているのだ。
より一層の忠誠を示せば、これまでにない栄達が期待できるとなれば、彼らの働きも大きく違うのは当然というものであろう。
そういうわけで、レオポルドはムールド人の自身への忠誠を半分くらいは当てにすることができた。
「誇りあるムールドの戦士たちはレオポルド様自らの御出馬となれば、より一層奮起することでしょう」
とはいえ、キスカの言葉は多少誇張が過ぎると感じるレオポルドは胡乱な視線を向けたものの、余計なことは言わずに口を閉じていた。
彼が自らの出陣を渋っているのは酷暑に辟易としているからというわけではない。無論、それも一つの大きな理由ではある。野戦となれば、易々と入浴することは出来ないのだ。
そもそも、彼はハヴィナで行う仕事を多く抱えていた。
新しい辺境伯領政府や辺境伯領議会が発足し、統治機構の形は整い、組織は動き、各々の仕事を始めているが、まだ完全に軌道に乗ったとは言い難い。新しい統治の仕組みは作ったものの、実際に動いてみると、予期せぬ不都合が生じるといったことも予想されるのだ。
また、旧来からの法律や制度、仕組みの整理整頓は最近になって、宮廷法律顧問の職にあるシュテッフェン博士が中心となって取り組み始めたばかりであった。サーザンエンドに辺境伯が置かれてから百数十年の間に制定された数多の法律や制度のうち、形骸化しているものや不要なものを廃止したり、現状に適合するように改正したりする作業は極めて難儀な仕事である。
サーザンエンド法の権威であるシュテッフェン博士をしても大きな難題で、愚痴と不満を漏らす博士を宥める為、レオポルドは酒好きな博士に大量の葡萄酒を差し入れていた。
この作業によって廃止或いは改正すべきとされた法律を実際に廃止や改正するのは辺境伯議会の権限となる。
サーザンエンド辺境伯議会はサーザンエンド貴族や聖職者、諸都市の代表、ムールド諸部族の代表から成るが、議席の半数近くはサーザンエンド貴族が占めている。
しかし、廃止案や改正案を議会に提出する前に枢密院を通す必要があった。
枢密院を構成しているのはハヴィナの有力貴族たちと数人の上級聖職者、数人の有力なムールド人の有力者であるが、半分以上がハヴィナ八家門によって占められている。彼らの協力なくして議会が法案を可決する可能性は低く、レオポルドは枢密院に席を持つ有力者たちと度々会談を設けて協力を取り付ける必要があった。
サーザンエンド銀行と南洋貿易会社を活用した金融工作めいた財政・経済政策についても予断を許す状況にない。現在のところ、南洋貿易会社株は概ね上昇を続け、レオポルドの思惑通りに事は進んでいるが楽観は出来ない。
南洋貿易会社株が高値を維持しているのは、その事業が莫大な利益を出すと予想されている為である。これが万が一にも事業経営が不安視される状況に陥れば株価は暴落するに違いない。貿易による利益が予想を下回っていた場合や貿易船団が遭難したり、敵対勢力に襲撃されたりして帰還できなかったりすれば、株券は紙屑同然となろう。
他にもサーザンエンド全土で取り組んでいる道路・水道建設などの公共事業、農業や鉱工業などの産業振興、ハヴィナに会堂や劇場、浴場を建設するといった再開発事業、ハヴィナ城の改築などなど、取り組んでいる仕事は山ほどある。
無論、全ての事業をレオポルド一人でやっているわけではなく、各事業には責任者や担当者が決められ、大半の実務は彼らが担っており、レオポルドは大まかな指示を下し、適宜に進捗状況を確認すれば良いだけである。
にも関わらず彼は殆ど全ての事業の進捗や状況を常に確認し、事細かい部分にまで目を配り、常に修正や見直しをしなければ気が済まない性質なのだ。彼の書斎には毎日大量の書類が積み上げられ、報告に来た役人が列を作っていた。
その上、レオポルドには個人的にもハヴィナを離れたくない理由があった。
結婚から半年を過ぎたリーゼロッテに懐妊の兆しがあるという医師の診断があったのである。
リーゼロッテはレオポルドの教会法における唯一の正式な夫人であり、その子は嫡子となる。一方、帝国の法では正式な夫人と見做されないキスカとアイラの子は帝国では庶子と見做される。
つまり、レオポルドの後継となるのはリーゼロッテとの間の子に他ならず、その誕生は父親となるレオポルドのみならずサーザンエンドにとって極めて重大な関心事であることは言うまでもない。
これらの理由だけでも出陣を渋るに十分な理由だが、中でも最も大きな理由はレオポルド自身が出陣しても確実に勝利が見込めない為であった。
ジルドレッド将軍や配下の将軍が敗北するならばまだしも、君主であるレオポルドが率いた軍が敗北したならば、サーザンエンド辺境伯の権威は大きく傷付くだろう。自身が出陣するならば確実な勝利が見込めなければならない。
多少の増強とレオポルドの出陣、バレッドール将軍の指揮で最強と名高きアーウェン槍騎兵率いる敵軍を破ることが出来るだろうか。
「ジルドレッド将軍は準備不足だったのです。より慎重に、より防御を固めて、万全の態勢でアーウェン槍騎兵を迎え撃つべきなのです」
生粋の防御論者であるバレッドール将軍はそのように主張する。
「ムールドの軽騎兵を敵の背後に機動させれば勝機は十分にあると考えます」
元来遊牧民であるムールド人のキスカは機動戦に勝機を見出そうとしているらしい。
万が一にもケッセンシュタイン将軍が指揮を執ったならば積極的な攻勢に打って出るだろう。不運にも敗将となってしまったジルドレッド将軍はどう考えているだろうか。
いずれにせよ、意見の異なる将軍たちを纏め上げ、指揮権を一本化させるにはレオポルド自らが前線に赴くしかなさそうだった。
ハヴィナでの仕事は勿論重要で、自らが敗北し、サーザンエンド辺境伯の権威が傷付くことも避けたいが、サーザンエンド軍に更なる壊滅的な打撃が加えられ、戦争がずるずると続き、莫大な戦費を消耗することは何としても避けねばならないことである。
そういうわけで、レオポルドは渋々と重い腰を上げることにした。
サーザンエンドの夏の盛りが始まる頃、レオポルド率いる増援部隊がハヴィナを出立した。率いる軍勢は近衛騎兵連隊、近衛歩兵連隊と編成されたばかりの第二ムールド人軽騎兵連隊と砲兵、工兵の一団。それに大量の糧秣と弾薬を積み込んだ輜重部隊であった。
レオポルドが率いる増援が合流すれば、アーウェン軍と対決するサーザンエンド軍は七個歩兵連隊と四個騎兵連隊、戦力は先の戦いの損失を差し引いても一万三〇〇〇程度。アーウェン軍を上回る大軍となろう。
戦場の優劣は兵力によってほぼ決すると言っても過言ではない。基本的には敵よりも多くの兵を集めれば勝利は確実となる。古今東西を問わず通用する戦場の原則だ。
しかし、アーウェン槍騎兵は例外だ。
アーウェン槍騎兵は少数精鋭によって大軍を打ち破ることを目的とし、それを成し遂げてきた強兵なのである。
それ故、レオポルドは軍勢を率いてハヴィナを出立し、隊列の先頭で馬を歩ませながらも、未だに自軍の勝利を確信できずにいた。
「レオポルド様。顔色が優れませんが、御気分が優れませんか」
馬首を並べたキスカが心配そうに尋ねる。
「これだけ暑ければ気分爽快とはいかんだろう」
レオポルドは不機嫌そうに言い、きつく締められた首元を引っ張る。軍服に限ったことではないが、帝国風の紳士の装束は襟が詰まっていて服の中に熱が籠るのだ。
「レオポルド様も我々と同じような衣服を着てみては如何でしょうか」
そう言ったキスカはだぼっとした白い長ズボンに袖の無いシャツを着て、その上に紅いゆったりとした上着を羽織り、ムールド人には欠かせないフードを被っている。強い日差しから肌を守ると共に通気性を重視した造りの衣服なのだろう。フードを被るのは家族を除く他人に頭(特に頭頂部)を見せるのは失礼或いは恥であるという価値観によるが、頭を日差しから守るという役割も果たしていそうだ。
彼女の言う通り、多くの地域が寒冷な気候である帝国において着用されている帝国風の装束を着続けるよりもムールド風の衣服に変えた方が利に適ってはいるだろう。
「ハヴィナ貴族の前で俺がムールドの服を着てみろ。連中は魂まで異民族に売ったと陰口を叩くぞ。背教したと教会に密告する輩もいるかもしれん」
「たかが衣服です」
「確かに、たかが服だ。赤い服を着ようが、緑の服を着ようが、そんなもん大したこっちゃない。それでも、そういうツマランことを非難する輩は少なくない。まぁ、これは貴族に限ったことじゃないが」
レオポルドはつまらなそうに言い捨てて、被っていた縁の広い帽子を手に取って煽ぎ始めた。飾られた巨大な白い羽が至極邪魔そうだった。