一六二
ラヨシュ・ガナトス男爵はレオポルドという人間を信用していなかった。
何でも帝都から来た帝国騎士で、サーザンエンド辺境伯フェルゲンハイム家の血筋にあるというが、ハヴィナの宮廷に出入りする多くのハヴィナ貴族たちですら認知していなかったのだから、男爵が知る由などあろうはずもない。
そんな何処の馬の骨とも知らぬ輩がいつの間にやらムールド諸族を従えて、ムールド伯を名乗り、あれよあれよという間にサーザンエンドの大半を支配下に置き、サーザンエンド辺境伯の地位を継承してしまった。三年前には誰も知らなかった若造が今ではサーザンエンドの支配者なのである。
ガナトス男爵が理不尽なものを感じ、釈然としない気分に陥っても致し方あるまい。
そもそも、彼はレオポルドとは会ったことがなかったし、顔すらも分からず、人柄だって知る術などない。レオポルドと敵対したハヴィナ貴族から断片的に聞き及ぶ程度の低い噂話くらいのものであった。
レオポルドを取り巻く側近たちの名前も顔も分からない。帝国本土やらムールドやら来た外国人や宮廷では顔を合わせる機会も無かった中下級の貴族たちばかりなのだから。
レッケンバルム卿をはじめとするハヴィナ八家門の面々とはいくらか顔馴染ではあったものの、アーウェン人の男爵と帝国系の八家門の関係は良好とはお世辞にも言えたものではなく、信頼できる関係とは言い難い。
そういったわけで、男爵はレオポルドの言葉をほとんど信用していなかった。自身が当主の座から退けば、家と領土が安堵されるという反逆者相手にしては好意的に過ぎる条件も何か裏があるのではないかという疑念が渦巻く。
両者の間には必要最低限の信頼関係すら構築されていないのである。
この両者の距離を縮め、ガナトス男爵にレオポルドを信用させる為に派遣されたのがベルンハルト・ルーデンブルク卿だったのだが、偏屈で人間不信な彼には不適切な任務だったと言えるだろう。他人を信用しない者がどうして他人からも信用されるだろうか。
結局、相互の不信感により交渉は決裂した。
さて、そのような相互不信の中、一方が軍事的行動を取ればどうなるか。境界沿いに部隊を展開し、動員を準備し、戦争に備える体制を整備すれば、もう一方はそれをどのように捉えるだろうか。
結果は言うまでもない。
「ジルドレッド将軍からの報告によりますと、ガナトス男爵はおよそ二〇〇〇の兵を率いて、我が軍の北東二〇マイル付近に展開しているとのことです」
バレッドール将軍の報告を聞いたレオポルドは不機嫌そうに顔を顰める。
二〇マイルといえば、歩兵の脚で二、三日程度といったところだ。いつ何時、戦端が開かれてもおかしくない距離である。
ジルドレッド将軍が率いる兵は五〇〇〇近い軍勢で、仮にガナトス男爵軍と衝突したとしても勝てる公算の方が大きい。
しかし、それはアーウェン諸侯がサーザンエンドに介入する大義名分を与えることになろう。大義名分はアーウェン諸侯が動く理由となるだけでなく、アーウェン諸侯が動かなければならない理由ともなる。同胞たるガナトス男爵を助けることができるのに、それをしない、見捨てるという選択をすることは誇り高いアーウェン士族には耐え難い屈辱となろう。
やはり、兵を動かしたことは拙速だったのではないかとレオポルドは後悔を覚えていた。
相互不信の状況で軍事的行動を取ることは、更なる緊張状態を生み出すことに他ならなず、軍事的手段によって戦争を回避することなどできるはずもない。
「ジルドレッド将軍にはくれぐれも先に手出ししないよう厳命すべきです」
キスカの言葉にバレッドール将軍も同意する。
「こちらから先制攻撃をしたとなれば、アーウェン諸侯はガナトス男爵救援の兵を出すより他なくなるでしょう」
逆に言えば、ガナトス男爵から攻撃を受け、これに反撃した場合は、アーウェン諸侯も出兵を躊躇うかもしれない。
とはいえ、それは賭けのようなものだ。躊躇うかもしれないが、躊躇わず援軍を出すかもしれないし、躊躇いつつも援軍を出すかもしれない。そのような不確定な要素に運命を任せる程、レオポルドは軽率ではなかった。
ただ、レオポルドが賭けをしたくなくとも、ジルドレッド軍を動かしてしまった今となっては、賭け金は既にテーブルに置かれた状況と言うべきだろう。今更、賭け金をポケットに戻すことはできない。
レオポルドとバレッドール将軍、キスカの三者は地図をテーブルに広げて話し合い、アーウェン軍との衝突は遠からず避け難いという認識で合意した。
「アーウェン諸侯は如何程の兵を出すだろうか」
「少なくとも一万は動員するかと。その内、槍騎兵は三〇〇〇騎といったところでしょう」
レオポルドの問いに、バレッドール将軍が答える。
アーウェン軍の中でも最も恐るべきは、華々しい羽飾りを身に付け、長大な槍を携えて突撃する槍騎兵である。
大陸全土で精強として広く名の知れたアーウェン槍騎兵の勇名が伊達ではないことをレオポルドはよく知っていた。
昨年初秋のマルサラの戦いでレオポルド軍の戦列はアーウェン槍騎兵に突撃によってズタズタに寸断され、レオポルド自身も狐狩りのように追い回されたのである。終いには女装をしたり、熱を出して動けなくなり、ソフィーネに背負われて、何とか生き延びることができた。
槍騎兵という単語を聞いただけでレオポルドは嫌そうな顔をする。
「どうすればアーウェン槍騎兵の突撃を阻むことができるだろうか」
「幾重にも濠や馬防柵を巡らせれば、さすがのアーウェン槍騎兵も突破は難しいでしょう」
レオポルドが質すとバレッドール将軍は彼らしい防御的な策を提案した。
しかし、キスカが否定的な意見を述べる。
「アーウェンは戦いに長けています。防御体勢が整った陣地に正面から突撃するとは思えません。そのような場合は側面や背後に機動して攻めてくるでしょう」
騎兵の最大の武器はその機動性にある。歩兵や砲兵よりも速く移動し、有利な位置を占め、相手が迎撃する体勢を整えるよりも前に攻撃を仕掛けることができる。
例え、防御側が側面及び後背にも防御施設を設営し、四方を固めた場合、確かに簡単に攻めらることはなくなるだろうが、身動き取れない状況に陥り、弾薬や糧秣、水などの補給を絶たれ、戦わずに敗れることとなろう。
「では、キスカならどう戦う」
彼女はいつも通りの無表情のまま少し考えてから口を開く。
「戦いません」
「確かに戦を避ければ負けることはないが、勝つこともできまい」
「アーウェン人に勝つ必要はないのです」
バレッドール将軍の懸念に彼女ははっきりと言い切る。
「我々の目的はガナトス男爵を屈服させること。アーウェン人はそれを阻む障害に過ぎず、彼らとの戦いに囚われ、目的を見失ってはなりません」
彼女の言う通り、レオポルドとアーウェン諸侯が対立する要因はサーザンエンド領において辺境伯に唯一従属していないガナトス男爵の立場に他ならない。
ガナトス男爵さえサーザンエンド辺境伯の軍門に降れば、両者に対立する理由はなくなり、戦争は回避されるだろう。財政再建に取り組まなければならないレオポルドと経済基盤の弱い中小のアーウェン士族は本心を言えば、戦争などという金のかかるものをやりたくないのだ。
「アーウェン軍との衝突は徹底的に避けるべきです。アーウェン士族は経済的な理由から恒久に出兵を続けるわけにはいかず、ある程度の時を稼げば撤兵せざるを得ないでしょう」
極めて消極的な選択肢であり、アーウェン軍の撤兵まで軍を保持せねばならず、少なくない維持費を支出せねばならないだろう。
とはいえ、勝つ見込みのない勝負を挑んで兵を失い、軍を瓦解させるよりは合理的な戦術と言える。
「アーウェン軍なきガナトス男爵など敵ではありません。また、アーウェンの支援なしに抗戦を続ける程、男爵も愚かではないでしょう」
アーウェン軍さえいなくなれば、ガナトス男爵はどうとでもなる。
また、アーウェン軍との戦いを避け、対峙を続ける間にアーウェン諸侯に接触し、穏便に事を済ませる方策を探ることもできよう。
「まぁ、それが最も妥当な策と言えるか」
レオポルドはそう呟いた後、バレッドール将軍に視線を向ける。
「ジルドレッド将軍には極めて慎重に行動すると共に、アーウェン軍の動きに十分警戒するよう指示せよ。また、アーウェン軍が来援した場合は徹底的に戦いを避け、コレステルケまで後退してもよいと伝えよ」
「承知いたしました」
将軍が頷くと、レオポルドは席を立った。
「さて、では、俺は風呂に行こう」
その言葉に、二人の側近が「また風呂か」と顔を見合わせたのは言うまでもない。
レオポルドの指示は速やかにジルドレッド将軍に伝えられたものの、バレッドール将軍からの手紙を読んだジルドレッド将軍は不機嫌そうに唸った。
「ハヴィナは現場を理解しておらん。楽観的に過ぎるというものだ」
ガナトス男爵軍と対峙する最前線において指揮を執るジルドレッド将軍にとって、先制攻撃不可というレオポルドの指示は不満を抱かざるを得ないものであった。
「アーウェンの援軍が来ても手出しせず、ガナトス男爵軍との合流をみすみす許せというのか」
というのが主たる不満の要因であった。
そして、実際、将軍の危惧は的中してしまう。
アーウェン国会はガナトス男爵からの支援要請、それにサーザンエンド辺境伯の活発な軍事行動を見て、二〇〇〇騎のアーウェン人槍騎兵から成る援軍をガナトス男爵領に送ることを決す。
この動きを察知したアーウェン領内の司教は逸早くレオポルドに情報提供したが、この情報がレオポルドの手に渡ったのはアーウェン国会の議決から一週間後のことで、その頃にはアーウェン槍騎兵の一部はガナトス男爵領に入っていた。
ガナトス男爵領にアーウェン槍騎兵が現れたという情報はジルドレッド将軍の耳にも入り、将軍はレオポルドに指示を求める前に決断を下す。
ハヴィナにいるレオポルドに指示を求め、その返信が来るまでには早馬を全速で駆けさせても数日を要す為、手遅れとなりかねないと将軍は判断したのだ。
アーウェン軍が合流する前にガナトス男爵軍を壊滅させようというのである。これを放置すればガナトス男爵軍は強力なアーウェン槍騎兵の支援を受け、撃破することは困難となるだろう。敵軍が合流する前に弱体な敵を確固攻撃することは戦術の基本であり、ジルドレッド将軍は男爵軍を確固に撃破できる機を逸すことを恐れたのである。
五〇〇〇余のジルドレッド軍は北へと進軍し、二〇〇〇足らずのガナトス男爵軍を数時間の戦闘によって蹴散らした。
敗れたガナトス男爵は残兵をまとめて居城に引き籠り、アーウェン軍の支援を待つ態勢となる。
ジルドレッド将軍はガナトス男爵領に侵入したものの、深追いは避け、適当な場所に陣地を設け、ハヴィナへ現状を報告し、援軍を要請した。
サーザンエンドとアーウェンは、レオポルドもアーウェン諸侯も誰もが望まぬ戦火に巻き込まれていく。