一六一
ベルンハルト・ルーデンブルク卿は、赤獅子館に席を持つハヴィナ八家門に列する名門貴族ルーデンブルク家において当主ヤン・ハウント・ルーデンブルク卿の四男として生を受けた。
名家に生まれ、衣食に事欠くことはなく、高い教育を受けることもできものの、彼の立場は生まれた時から気楽と言えるものではなかった。
ベルンハルトの母親はハヴィナの下級貴族ハルン家の出身で、その美貌に惚れ込んだヤン・ハウントが娶った女性である。
ヤン・ハウントには帝都貴族出身の先妻との間に数人の子があり、後妻との間の子はベルンハルトのみであった。彼は生後間もない頃より腹違いの兄姉と打ち解けることができず、高貴の生まれと誇る異母兄姉から一段低く見られて育つ。
かくして、他人の心を許さない偏屈で厄介な人格を形成した彼はレッケンバルム卿の妹と婚約することになる。この婚約は前々より良好とは言い難い両家の間柄を改善しようという目的をもったものであったが、その効果は期待した程ではなかった。
ヤン・ハウントの没後、家督を継承し、宮廷の侍従長となったベルンハルトの長兄ランベルトとレッケンバルム卿は辺境伯領の悪化した財政を立て直す方策を巡って対立し、レッケンバルム家の婿であるベルンハルトは余計に一族の中で孤立を深めていく。
しかし、家中で冷遇されていたことが彼の運命を変えることとなる。
ランベルトが急死すると、その子ヨハンスが家督を継承するが、彼はサーザンエンド継承戦争においてブレド男爵やガナトス男爵に味方するという失敗を犯し、ハヴィナを追われることとなる。
この結果、勝者となったレオポルドに付いていたレッケンバルム卿の妹婿にして、家中で孤立し、冷遇されていた為、戦前のルーデンブルク家の責任と無縁とされたベルンハルトが家督を継ぐこととなった。
さて、こうしてルーデンブルク家の当主となったベルンハルトであったが、義兄にして恩人であるところのレッケンバルム卿は彼に仕事を与えた。
それはガナトス男爵やそれに従う北部の中小貴族たちを説得し、新たなサーザンエンド辺境伯レオポルドの軍門に降らせることである。
ルーデンブルク家は一時ガナトス男爵の傘下に入っており、ベルンハルト自身も男爵と顔見知りではあったが、顔と名前が一致するくらいのもので、会話といえば時候の挨拶程度しか交わしたことがない。
とはいえ、レッケンバルム卿の指示に逆らうことができるはずもなく、ベルンハルトは渋々とサーザンエンド北東部ガナトス男爵領へ向かう。
元より偏屈で人間不信のベルンハルトには外交交渉などといった相手の信用を得、また、相手を信用するといった仕事は明らかに不向きであったが、彼は我慢強く自らの職責を果たさんと努めた。
不信感を露わとするガナトス男爵やその家臣、更にはアーウェン人の将軍とも何日にも渡って話し合いを重ね、ハヴィナへと帰参したのはサーザンエンドの長い長い夏の足音が聞こえ始める頃であった。
ハヴィナ城に参上し、灰古城の小会議室に並み居る高官たちを前にしてベルンハルトは平素と同じような無表情で言い放つ。
「ガナトス男爵は我が方の条件を呑み、閣下の軍門に降るつもりはないようです」
彼は必要とならない限り口を開かない無口な性質で、話す必要があるときは基本的に端的かつ率直な言葉を選ぶ男だった。
「身の程知らずの愚か者めが」
ベルンハルトの義兄レッケンバルム卿が不機嫌そうに言い捨てる。
「我が方が提示した条件は謀反人相手としては極めて寛大なのですが、これを拒むとは信じ難いことですな」
外務長官のキルヴィー卿が口髭を撫でつけながら呟くように言った。
レオポルドがガナトス男爵に提示した条件は、反逆の罪を赦す代わりとして当主であるラヨシュ・ガナトス男爵をサーザンエンドから追放することであった。これを呑めばガナトス男爵家の存続を認めようというのである。無論、サーザンエンド辺境伯レオポルドに服従することが前提であることは言うまでもない。
「アーウェン諸侯を頼りにしておるのだろう。忌々しき異端の酔っ払いどもをっ」
怒りが収まらないといった様子のレッケンバルム卿の言葉に居並ぶ貴族たちが頷き、上座に着いたレオポルドは不機嫌そうに顔を顰める。
ガナトス男爵はアーウェン人を祖とし、代々アーウェン諸侯とも婚姻を結んでおり、アーウェン人からすれば同胞なのである。となれば、彼らが男爵を支援するのは至極当然というものであろう。実際、先の戦いにおいてもアーウェン諸侯は大陸でも精強と名を馳せる槍騎兵を援軍に送り込み、レオポルド軍を散々に破っていた。その敗北はレオポルド自身も危うく虜囚の身となりかねない程に危険なものであった。
レオポルドがガナトス男爵に大変寛大な条件を提示して和睦を望んでいるのは戦費が惜しいという理由もあるが、アーウェン諸侯の存在に因るところも大きい。
男爵の軍勢は先の一連の戦いで大きな損失を受け、極めて弱体化している。おそらくは動員できる兵力は三〇〇〇もあれば良いだろう。サーザンエンド辺境伯軍の敵ではない。
しかしながら、アーウェン諸侯が大規模な援軍を寄越してきた場合、辺境伯軍は勝利を掴むことができるだろうか。
相手は無敵にして不敗と誇るアーウェン槍騎兵なのである。その突撃を阻むことができる戦列はなく、迎え撃つことができる兵はなく、立ち向かうことができる兵はなく、逃げ延びることができる兵はない。と云われる程である。
「兵を進めて圧力をかけるべきであろうっ」
怒鳴り声と共にテーブルに拳が打ち付けられる。
発言の主は軍事評議会議長を務めるケッセンシュタイン将軍である。
将軍は辺境伯軍の司令官などを歴任した生粋の軍人であり、老齢にて半ば隠棲していたが、高級士官の不足に悩まされたレオポルドが現役に復帰させていた。
頑丈そうな太い首に支えられた大きな四角い顔に豊かな白髭を蓄えた老将軍は真紅の近衛連隊の軍服と同じくらい顔面を真っ赤に染め、怒り心頭といった様子である。
「ケッセンシュタイン将軍。落ち着かれよ」
宮内長官のアイルツ卿が宥めるように言った。
細く鋭い目にツンと尖った高い鼻、きっちりと整えられた髪と髭の紳士の見本とも言うべき人物である。アイルツ家はハヴィナ八家門に列し、教養や学識を尊ぶ家柄だという。
「兵を動かすのは最後の手段。その前に打てる手を全て試しても遅くはあるまい」
「しかしですなっ。交渉が決裂した今となっては軍を動かす以外、他に手はありませんぞっ。ガナトス男爵は今この瞬間にもアーウェン諸侯に援軍を求めていることは間違いないのですっ。我々が手を拱いている間に、アーウェンの軍勢がサーザンエンドに雪崩れ込み、取り返しの付かぬことになりかねませんぞっ」
アイルツ卿の言葉にケッセンシュタイン将軍は口角泡を飛ばしながら反論する。
「まぁ、確かに、将軍の言葉にも一理ある」
尚書長官の任にあるハルベルヒ卿が口を開く。
「アーウェン軍が来援する前に事を済ませてしまえば良いのではないか」
「いや、仮に我が軍がガナトス男爵領を速やかに平定できたとしても、アーウェン諸侯がこれを黙って認めるとは思えぬ。必ず戦になるだろう」
ハルベルヒ卿の言葉をアイルツ卿は否定した。
「アーウェン人は同胞意識が強い上に義を尊ぶ。必ず同胞を助け、また、同胞が敗れたとなれば、必ずその報復を行うであろう」
卿はアーウェン人の気質をよく理解しているらしい。
「一方でアーウェンの国会はアーウェン士族一人一人が各一票を持ち、原則として全会一致により事を決す為、中々に議決が為されぬことが多い。我が方が先に手出しをする等、彼らに大義名分を与えぬ限り、大きな動きは取れないのではないか」
卿の推測はかなり正確なものであった。
というのも、レオポルドはアーウェン地方にあるクロヴェンティ司教領とレガンス司教領に立ち寄ったことがあり、司教やその高官と繋がりを持っていた。
両司教領は元々アーウェン王冠領と呼ばれる国会の選挙によって選べれたアーウェン王が統治する領地に置かれている。
アーウェン戦争と呼ばれる戦争の後、アーウェン王国が神聖帝国に臣従し、神聖皇帝がアーウェン王を兼ねるという現在の仕組みになった際に時の皇帝は王冠領を西方教会に寄進し、クロヴェンティ司教領とレガンス司教領が置かれることとなったのだ。
両司教はアーウェン諸侯の動向を監視し、反乱の動きがあれば西方教会総本山や神聖帝国政府に通告する役割を担っており、平素より情報収集には余念がない。
レオポルドはその司教領の高官たちと連絡を取り合い、密かにアーウェン情勢を探っているのだ。アーウェン諸侯を警戒し、その勢力を弱体化させたいと希望することにおいて、両者の利害は一致しているのである。
司教たちから寄せられた情報によれば、アーウェンの国会ではガナトス男爵からの支援要請に対して、如何な行動を取るべきか連日に渡って議論が続いているらしいが、アイルツ卿が予想する通り、簡単には結論が出そうにない状況であるという。
アーウェン軍を動かすとなれば、アーウェン士族は自弁で装備や馬、糧食、従者を用意して出陣しなければならないが、当然ながらこれには多くの金がかかる。
その上、騎兵を守る歩兵や物資を輸送する人夫は主に農民が動員されるが、彼らには兵役の義務はない為、給金を支払う必要があり、装備や武器弾薬、糧食を用意するにも金がかかる。この資金もアーウェン士族が分担して供出することになっている。
要するに軍事行動には金がかかる。特に金のない下級のアーウェン士族には大きな負担だ。
よって、アーウェン国会ではガナトス男爵への支援について、援軍を送るのか否か。のみならず、兵を動かすとするならば、どの段階で、どの程度、どれくらいの期間、どの程度まで、といった議論が延々と続けられているとのことであった。
しかし、アイルツ卿が指摘した通り、万が一、サーザンエンド軍が一方的にガナトス男爵を攻撃し、その領土を併呑したとなれば、義を尊ぶアーウェン諸侯は一挙に兵を出すべしという結論に向かうことが予想されよう。藪を突いて蛇を出すような真似はしたくないものだ。
「このまま交渉を続けても、ガナトス男爵に戦の準備を整え、アーウェン人どもが来援する時間を与えるだけなのは明白というものっ。手遅れになる前に兵を送り、圧力をかけて、ガナトス男爵に降伏を迫るべきですぞっ」
興奮した様子のケッセンシュタイン将軍はそう言って再び拳でテーブルを叩く。
「テーブルを叩くのは止め給え。蛮族でもあるまいし」
レッケンバルム卿が不機嫌そうに窘めると、さすがに老将軍も気まずそうに口を閉じた。
「しかし、ケッセンシュタイン将軍の言うことも尤もである。これ以上、ガナトス男爵と話し合って事が済むとも思えぬ」
そう言ってレッケンバルム卿は顎鬚を摘まみながらレオポルドを見やった。
「国境付近まで兵を進め、脅しをかけるのも一つの手かもしれませぬな」
レオポルドは決断を迫られた。言うまでもなく、サーザンエンドの君主は彼なのであり、全ては彼が決せねばならない。
その上、最終的な責任は全て彼が負うこととなるのだ。
君主とは孤独なものである。とは、古の哲学者の言葉だっただろうか。とレオポルドはぼんやりと思った。
ハヴィナを南北に貫く石畳の大通りを、揃いの白い軍服に濃灰色の三角帽を被り、マスケット銃を担いだサーザンエンド・フュージリア連隊の兵士たちが進む。
軍楽隊が喇叭や笛、太鼓、鐘によって奏でる華々しい行進曲に合わせ、きびきびと行進する兵たちを沿道に並んだ市民が見送る。彼らは戦場へと向かう自らの父親や息子や兄弟や夫や恋人に声をかけ、別れを惜しみ、再会を約す。
サーザンエンド・フュージリア連隊のの後ろには第三サーザンエンド歩兵連隊、第四サーザンエンド歩兵連隊が続く。砲兵中隊と糧秣や武器弾薬を積み込んだ荷駄隊は三個歩兵連隊の次にハヴィナを出る予定だ。
第一サーザンエンド騎兵連隊は昨日のうちにハヴィナを発って、サーザンエンド北部へと進軍している。
サーザンエンド・フュージリア連隊の先頭を進むのは、この軍勢を率いるジルドレッド兄弟で、ハヴィナ市民の歓呼に見送られて、悠然と馬を進めていた。
彼らが率いる三個歩兵連隊と一個騎兵連隊及びそれに付随する諸部隊、およそ五〇〇〇近い軍勢はサーザンエンド北部の都市コレステルケで合流し、補給を済ませた後、進路を東へと向け、ガナトス男爵領近くまで進軍し、砦を建設する予定である。
また、元々コレステルケに駐留していた第五サーザンエンド歩兵連隊と第六サーザンエンド歩兵連隊にはアーウェンとの国境沿いに展開し、アーウェン軍の動向を警戒する任務が与えられた。
サーザンエンド・ドレイク連隊、第一サーザンエンド歩兵連隊、第二サーザンエンド歩兵連隊には全将兵に動員準備の指示が出され、ファディに駐留していた第一ムールド人歩兵連隊、第四ムールド人歩兵連隊、ムールド人軽騎兵連隊にはハヴィナへの移動が命じられている。
この他、レオポルドはムールド人から成る軽騎兵連隊をもう一個編成するよう指示し、既存のムールド人軽騎兵連隊の名称には第一が冠されることとなった。
全てはアーウェン諸侯の動きを警戒し、その軍事行動に備えたものであることは言うまでもない。
「これだけ大々的な軍事行動を取りますと、アーウェン諸侯を大いに刺激することとなります。衝突は避け難いものになるでしょう」
ハヴィナ城の塔から市街を北へと進む兵士たちを見送るレオポルドに宮廷軍事顧問官の職にあるバレッドール将軍が告げる。
「しかし、アーウェンの国会はサーザンエンドを攻撃する計画について議論しているのです。それに備えた行動を取るのは当然でしょう」
レオポルドの傍に控えたキスカがいつもの如く無表情で言い返す。
「狩人が刃を研ぎ、その刃先を向けようという時に、それを黙って見つめている獣などいません」
ムールドの諺か何からしい。
「それはそうだが……。しかし、今度は我々が刃を研ぐ方になってしまったのではないかね」
バレッドール将軍の言葉にキスカは薄い唇を噤む。
「それに我が軍が接近すれば、ガナトス男爵も兵を出さざるを得なくなるでしょう。兵が近くに寄れば、我々が望まぬ予期せぬ事態が発生しかねません。ジルドレッド将軍は軽率な行動を取る方ではありませんが、十分に慎重とも言い難いかと」
バレッドール将軍に比べれば大抵の指揮官は軽率に見えてしまうだろう。将軍は極めて慎重で防衛的な戦術を好む性格なのだ。
「我が軍の動きを見て、ガナトス男爵が賢明な選択をすることを期待したいところですな」
バレッドール将軍の隣に立った辺境伯官房長レンターケットが言ったが、本心から期待しているとは思えない言い方であった。
賢明な選択とは、即ち、ラヨシュ・ガナトス男爵自身が家督を一族の誰かに譲り、アーウェンにでも亡命することだ。そうすれば、ガナトス男爵家とその領土は安堵され、戦いは避けられるだろう。アーウェン人たちも金のかかる戦を避けることができて本心では喜ぶに違いない。
しかし、レオポルドはじめ、この場にいる面々は口にはしなかったものの、同じように考えていた。期待とは裏切られるものである。