一六〇
サーザンエンドの短い冬が終わる頃、ハヴィナにおいて南洋貿易会社という名の株式会社が設立された。
その事業目的はサーザンエンド辺境伯の勅許により、南岸部ハルガニ地方の港湾都市ラジアを拠点として南洋諸島との貿易を行うことであり、辺境伯からラジア港の使用料免除と優先的使用権、貿易品に課される関税の優遇措置、船舶を武装させ、外敵と交戦する権限といった数々の特権を与えられていた。
南洋諸島はサーザンエンドやムールドよりも更に南下した先、大陸の南の海に浮かぶ大小千以上の島々の総称である。
彼の地では香辛料や砂糖、珈琲といった商品価値の高い品々の生産地であり、その貿易は大きな利益を見込むことができた。
南洋貿易は古より営まれているが、今日の西方大陸において主にそれを担っているのは東岸エサシア地方のテイバリ人たちであった。彼らは一本か二本のマストに大きな三角帆を張ったダウ船で南洋へと繰り出し、南洋の産物を買い付けて、東岸北部のレウォント地方や西岸のイスカンリア地方へと運ばれている。
半島の南端に位置するラジア港は南洋諸島に最も近いにも関わらず、エサシア商人たちがイスカンリアへの航海の途中に立ち寄る中継地という地位に甘んじていた。
それはラジアに住人であるアスファル族が商業や航海を苦手としていたからというわけではない。
生まれたときから海に囲まれ、海を見て育ち、海へ出て働く彼らは容易く波や風を読み、船を操り、陸を歩くよりも海の上を行く方が楽だと言わんばかりであった。
また、彼らはテイバリ商人から港の使用料や船の通行料を徴収し、彼らがラジアに設けた商館で多くの取引を行って利を得ていた。
では、何故、アスファル族は南洋貿易に関与できなかったのか。
理由は単純である。金が無かったのだ。
南洋貿易は大きな利益が見込めるが、金のかかる仕事だ。遥々南洋の果てまで航海して、商品を積み込むには大きな船が必要となる。当然、大きな船を造るには多額の資金が必要となる。南洋は嵐に見舞われることも空くない荒れる海であるから、頑丈でもなければならないし、整備や修繕を怠ることは難破と同義だ。大きな船を動かすには多くの水夫が必要であり、長い航海では多くの物資を積み込まなければならない。
その上、南洋諸島の国々や部族と交渉し、商品を買い付けるにも多くの金が必要だ。
南岸部ハルガニ地方では最も有力な部族とはいえ、アスファル族だけでは南洋貿易に手出ししてそれを維持することは資金的に難しかったのである。
また、エサシア商人の領分を侵したとして政治問題化することを避けた為でもある。
しかし、レオポルドにはエサシア商人に遠慮などする必要はない。投資をすれば高い利益が見込める商売が目の前に転がっているのだ。目の前の商機を逸する理由はないだろう。
彼はラジアを攻略すると直ちに港湾と造船所の状況を調査させた。さすがに大型船を造る能力のある造船所はなかったものの、ラジア港には頻繁にエサシアの商船が入港し、簡単な整備や修繕も行うことがあった為、大型船の入港や停泊、整備に問題はない。
となれば、あとは船と人と金を確保すればよい。
その金を集める手段が南洋貿易会社であった。
会社にはサーザンエンド辺境伯レオポルドが三分の一を出資し、残りをレイクフューラー辺境伯の配下にある帝国東岸の商会とハヴィナ商人、ムールド諸部族が負担する。
財政が火の車であるレオポルドだけでは費用を全て賄うことができなかったのだが、美味い商売になりそうなのは明白であり、レイクフューラー辺境伯もハヴィナ商人もムールドの諸部族も出資には乗り気であった。
この出資金を元手に会社が船舶を用意し、水夫を雇い、必要な物資を整え、南洋諸島に輸出する商品を買い付けて、交易へと乗り出す。
主な輸出品は銀製品や鉄製品、銃や剣、織物、陶器などである。代わりに香辛料や砂糖、珈琲といった帝国や西方諸国で高く売れる商品を仕入れる。
会社はラジアの他、西岸部の港湾都市カルガーノと帝国本土の港湾都市アルヴィナにも拠点と倉庫を設け、その間でも船を行き来させる予定であった。
つまり、生産地である南洋諸島と消費地の帝国本土を一直線に結ぶ海上交易路を構築し、南洋貿易の主導権を握ろうというのである。
最も南洋諸島に近いという好立地、元手となる資金、サーザンエンド・レイクフューラー両辺境伯による強力な支援があれば、エサシア商人にも十分に対抗できるだろう。
極めて野心的な試みであるが、成功の暁には莫大な利益を上げることが期待できる。
しかしながら、それはレオポルドの目的の一端に過ぎない。それどころか、副次的な効果と言っても良い。主たる目的は別にある。
南洋貿易会社の事業目的と与えられた特権や両辺境伯の支援の内容は会社設立前からハヴィナ、サーザンエンドに留まらず、南部全域、帝都やアルヴィナ、フューラー地方といった帝国本土にも広く知れ渡っていた。
南洋貿易会社は「成功が約束されている」という噂は帝国中に様々な尾鰭を付けながら広まり、香辛料や砂糖の市場価格が下落するほどであった。
では、そのような会社の株式が売り出されれば如何なることになるだろうか。結果は明白である。
人々は南洋貿易会社の成功に便乗しようと、株式を買い求め、それは飛ぶように売れるに違いなく、当然株価は高騰していくだろう。つまり、短期間に莫大な資金を集めることができるのだ。
これがレオポルドの狙いであった。
株価の高騰を利用して、市中から多くの資金を集め、それをもってサーザンエンド辺境伯領政府が抱える莫大な債務を整理しようという計画である。
まず、新規に発行される南洋貿易会社株はサーザンエンド銀行に額面等価で売却され、支払いはサーザンエンド銀行券で行われる。この資金は南洋貿易会社の設備投資と貿易の資金となる。
大量の南洋貿易会社株を取得したサーザンエンド銀行はこれを時価で売却する。例えば、額面一〇〇セリンの株式を二〇〇セリンで売却すると一〇〇セリンの儲けとなる仕組みであった。
多額の資金を確保したサーザンエンド銀行は高利子かつ返済期間が短期な辺境伯債を買い集めていく。
買い集められた辺境伯債は低利で返済期間が長い新しい辺境伯債と交換される。サーザンエンド銀行はレオポルドが設立し、その影響下にある為、新旧辺境伯債の交換に支障が生じることはない。
これにより、辺境伯領政府は債務の返済期間に余裕を得る上、支払利子は大幅に圧縮され、財務は格段に改善されるだろう。
実際の南洋貿易で如何程の収益が上がるか未知数な部分もあるが、株式の売却によって多額の資金を集めて辺境伯政府にとって宜しくない条件の旧辺境伯債を好条件の新辺境伯債に交換しようという作業は迅速に進められるだろう。返済される見込みがあるか信用ならない辺境伯債を手放したい者は少なくないし、辺境伯債を売り払って得た資金で南洋貿易会社に投資した方が儲かると考られるからだ。
また、サーザンエンド銀行は新旧辺境伯債の交換だけでなく、株式の売却によって得る多額の資金と辺境伯債という財産を元手として投資を行い、サーザンエンドの工業化と商業化を推進する役割も担う。
既にムールドでは各地の鉱山の開発が軌道に乗り始めている他、諸部族は絨毯をはじめとする毛織物や岩塩、翡翠といった特産物の製品化と輸出に取り組んでいた。西部高地地域では葡萄やオリーブの栽培に成功していた。
レオポルドが始めた施策が実り始めたムールドとハヴィナを結ぶ道路の整備も進んでおり、街道は年内には南部を南北に貫通し、ラジアへと至る計画であった。
これにより商品や人の流れはより安全で速く円滑になり、生産地と消費地の距離が縮まると共に新たな投資を呼び込むこともできるだろう。
ハヴィナやファディ、ラジアの三都市は、都市の再開発や整備が進み、会堂や市場、集会所、教会、兵舎、公共の水場や浴場といった施設が建設されている。
これらの事業にもサーザンエンド銀行は多くの投資を行っており、南洋貿易会社の設立はサーザンエンド銀行に更なる資金を与え、新たな投資を可能とさせるだろう。
この仕組みを考えたのはレオポルドというわけではなく、彼が帝国本土から招聘した学者の一人であるゲルフェン・スターバロー博士であった。
博士はミハ大学の教授であり、数学や会計の教鞭を執り、市参事会の財務顧問も務めていたが、レオポルドの招きに応じて南部へと赴き、辺境伯の宮廷財務顧問官に就任していた。それと共に南洋貿易会社の設立に伴い、理事兼会計主任も務めることとなる。
博士曰くに、サーザンエンドの行財政組織には会計の仕組みが不足しているとのことであった。資産と負債、収支をきっちりと記録、整理されなければ、健全な財務を保つことなど不可能である。
かくして、辺境伯政府の官吏たちは毎週のように開催されるスターバロー博士の会計研修に出席して、会計を学ぶことが義務付けられ、政府の会計の仕組みや様式なども博士の主導によって整理、統一されていく。
レオポルドは遠からぬ時期にハヴィナに会計学校を設立することも計画していた。
南洋貿易会社の設立とサーザンエンド銀行との取引といった一連の施策には、ハヴィナ商人の協力も必要も欠かせず、ハヴィナで最も富裕な商会の主であるハルハット氏がこれに関与していた。氏は南洋貿易会社に出資を行い、同社の総裁代理に就任している。
彼がレオポルドに協力することになるきっかけを作ったのはアイラである。
アイラの属すカルマン族はサーザンエンド継承戦争以前から帝国人とも頻繁に取引を行っており、その取引相手がハルハット商会で、氏自身も幾度かカルマン族の拠点であるファディに足を運んでいた。その折、アイラは氏が一人のムールド女性に関心を寄せていることに気付き、それを覚えていた。その女性はアイラの従姉妹で、一五歳で他家に嫁入りしたものの、数年で夫を亡くして、実家に戻っていた。
これをアイラから聞いたレオポルドはその女性をハルハット氏に娶らせることを画策し、それによって、自らの影響下に引き込み、協力させようという目論見であった。
レオポルドの指示を受けたレンターケットからその提案を聞いたハルハット氏は一も二もなくこれに同意し、若く美しいムールド女性を妻に迎え、レオポルドの施策に協力することとなった。
この顛末を聞いたハヴィナ市民は、狡猾な利己的な商人にも惚れた弱味というものがある。と囁き合った。
とはいえ、辺境伯と結びつき、南洋貿易会社やサーザンエンド銀行の業務に携わることは自身の利益にもなる為、若く美しい嫁に誑かされたというわけでもなかろう。
南洋貿易会社は夏前までに四隻の武装した商船から成る船団を整え、ラジアを出港し、南洋への航海に乗り出していった。
もっとも、実際の貿易を実施する前から、レオポルドの目論見通り南洋貿易会社株は急騰し、サーザンエンド銀行は一億セリンもの大金を確保することに成功し、その資金をもって、旧辺境伯債の回収を始める。
サーザンエンド銀行は幾度か南洋貿易会社株と辺境伯債の時価での交換を実施し、これには応募が殺到し、僅か数時間で売り切れとなる始末であった。
サーザンエンド辺境伯領政府が抱える莫大な債務の整理は概ねレオポルドの思惑通り進んでいた。
しかし、全てが彼の思惑通りに進むわけもない。
思惑通りに進まないのはサーザンエンド領で唯一レオポルドの支配に服していないガナトス男爵に対する調略である。
男爵の処遇やその領土に係わる交渉はレッケンバルム卿や北部の領主ドルベルン男爵らを通じて行われていたが、その成果は芳しくなく、事態はレオポルドどころか、誰もが望まない状況へと進展していくのだった。