一五九
アイナン族の族長ヘルベルとの謁見を終えたレオポルドは灰古城を去り、青い小宮殿に戻るなり風呂に入った。外出から帰るとすぐに入浴というのもいつものことである。
入浴後はキスカとアイラの二人と共に中庭で午後のお茶を楽しむ。
テーブルにはムールド風の焼き菓子、果実や木の実の蜂蜜漬けや砂糖漬けなどが並び、三人は穏やかに世間話をしながらティーカップを傾ける。
「今日のお茶は宮殿の方でなさると思っていましたわ」
「……何故だ」
アイラの言葉にレオポルドは考え込むような顔をして尋ねる。
「宮殿まで行かれたのですから、リーゼロッテ様とお会いになるでしょうから」
サーザンエンド辺境伯夫人リーゼロッテは灰古城の歴代辺境伯夫人が住まいとしてきた「后の間」に住んでいる。
灰古城に入ったのだから、当然、夫人であるリーゼロッテと顔を合わせ、丁度良い時間なので、午後の茶を共にするというのは自然な流れだと言えるだろう。
「リーゼロッテと会う予定はなかったからな」
レオポルドの答えにアイラは動きを止める。いつも通りの穏やかな微笑を浮かべているが、その顔は大理石から掘り出されたかの如くピクリとも動かない。
キスカはどこか気まずそうな顔で黙り込んでいた。
「いくつかお聞きしても宜しいでしょうか」
暫くして生気を取り戻したアイラがゆっくりとティーカップをテーブルに置きながら言った。
「旦那様は度々宮殿の方に行かれていますが、リーゼロッテ様にはお会いになっていらっしゃらないのですか」
「用事がある時は会っている」
公式な晩餐などの場では夫婦で出席しなければならないことが多く、そのような場合はリーゼロッテを伴うことが常であった。が、それだけである。それ以外で彼女と顔を合わせることは全く無かったのである。
レオポルドの答えを聞いたアイラは渋い顔をして腕を組む。
「旦那様。率直にお聞きします。リーゼロッテ様との御婚礼から半月程経っておりますが、婚礼の初夜から今日までの間、リーゼロッテ様とは何度閨を共になさいましたか」
「ぶっ」
その問いにキスカが折しも飲みかけていた茶を噴く。
「なっ、げほっ、ごほっ、な、なん、何てことを聞いているんだっ」
飲みかけていた茶が喉の良からぬ場所に入ったらしく激しく咽ながらキスカが叫ぶ。その顔は真っ赤に染まっている。
「そのようなことを聞いてどうするんだっ」
「あら、夜の営みは夫婦にとってとても大事なことですわ」
キスカに質されたアイラは平然と答える。
確かに夫婦にとって閨事が重要なことは言うまでもない。基本的に離婚というものを認めない正教においても何かしらの要因により性交渉が不可能だった場合は特例として夫婦関係の解消が認められているくらいに重く見られる事柄である。
「そうだけど、だからって、そんなことを聞かなくても……」
キスカにしては珍しくもごもごと歯切れが悪い。
「さあ、どうなのですか」
多くの将兵から悪魔と呼ばれる程に恐れられている副官を黙らせたアイラに気圧されたレオポルドは渋々と口を開いた。
「あ、あー、最初の夜だけだが……」
「まぁっ」
その答えを聞いたアイラは形の良い眉根をきゅっと寄せた。
「旦那様はなんて罪作りな御方なのですか」
「罪とはいくらなんでも……」
「初夜の後、半月も放ったらかしになさるなんて罪以外の何ものでもありませんわ」
困惑気味のキスカが口を挟むとアイラがはっきりと言い切る。
「キスカお姉さまだって、旦那様が理由もなく半月も通ってこられなければ耐えられないでしょう」
「そ、れは、まぁ、そうだけれど……」
そう言ってキスカはレオポルドの視線に気付き、顔面を一層朱に染め上げて俯く。
「いや、まぁ、君たちはそう思うかもしれないが、リーゼロッテは違うだろう」
話が厄介な方に向かいつつあることを意識しながらレオポルドが弁解するように言う。
「知っての通り、リーゼロッテとの結婚は政治的な意図によるものだ。過分にも君たちは俺のことを好いてくれているが、彼女は私と望んで夫婦となったわけではない」
「私たちとの婚礼も政治的な意図が無いわけではありませんわ」
言われてみれば、確かにキスカとアイラとの結婚もムールド部族との結びつきを強化する意図があり、政治的に無関係な結婚というわけではない。
もっとも、結婚の動機が政治的なものであっても、仲睦まじい夫婦というのも古今に少なくない。無論、その逆も然りであるが、政略結婚が必ずしも不幸な夫婦生活と運命づけられているわけではない。そのならない可能性も十分にあるのだ。
「いや、まぁ、そうだが……。それに……」
レオポルドは微かに赤い顔で言い淀んだ後、意を決して口を開く。
「その、初夜のときに、リーゼロッテに散々文句を言われたしな。痛いとか二度としないとか」
「あら、私の初夜のときは優しくなさって下さったと記憶しておりますけれど。キスカお姉さまは如何でした」
「うえぇっ。あ、いや、そ、そんなことは覚えていないっ」
アイラに尋ねられたキスカは大いに狼狽し、テーブルの上に置かれていた水差しを倒して、床に水を撒き散らす。
「あらあら」
「も、申し訳ありませんっ」
キスカは慌てて手許の鈴を鳴らして使用人を呼ぶ。
「床を拭けっ」
愚図な兵士を叱責するような調子で命令され、哀れな若い女中は泣きそうな顔で床を拭く道具を探しに駆けて行く。
「旦那様。今宵の晩餐にはリーゼロッテ様をお呼びしますね」
アイラの言葉にレオポルドは否とも言えず、黙って渋い顔をしていた。
今宵の晩餐の献立は鶏の香草蒸し焼き、仔牛の炙り焼き、羊の臓物煮込み、松の実、干し葡萄、ひよこ豆などが入った焼き飯、トマトと茄子とアスパラガスの冷製スープ、オリーブ油で煮込まれた野菜の他、しっとりとした甘酸っぱい白パン、ヨーグルトに各種のチーズが並び、新鮮な果実が食卓を飾る。
「さぁ、リーゼロッテ様。ムールド式の食事作法は粗野に思われるかもしれませんが、遠慮なさらず召し上がって下さい」
「格式ばった帝国式の晩餐は私も好みではないから、料理が一度に色々と出るのは簡潔で良いと思うわ。食卓の上が賑やかで華やかに見えるしね」
アイラに声をかけられたリーゼロッテが素っ気ない顔で答え、橙色のスープに口を付ける。一口目を飲むと眉根を寄せ、口を真一文字に噤む。
「お口に合いませんでしたか」
「いえ、とても美味しいです」
やや不安げにアイラが尋ねると、リーゼロッテの隣に座ったニーナ・アレクシア・フライベル嬢が答えた。
リーゼロッテの妹ニーナは婚礼の後もハヴィナに留まっており、灰古城に一室を与えられて、姉と共に生活していた。
アイラから唐突な晩餐の誘いを受けたリーゼロッテはニーナを同伴できれば出席すると返信し、アイラは喜んで姉妹を小宮殿に招待した。
そうして。日が暮れた頃にフライベル姉妹は灰古城から青い小宮殿へと向かい、いつもレオポルドたちが食事をしている食堂の席に着いたのであった。
食卓には今宵の晩餐の企画者であるアイラの他、レオポルド、キスカ、フィオリア、ソフィーネといったいつもの面々が揃っていた。
アイラ以外の四人は現在の状況に付いていけず、ひたすら黙って料理を口に運んでいる。
「不思議な味わいです。さらりとして飲み易く、それでいて濃厚な味わいがします」
どうやらニーナは気を使ったわけではなく、素直に美味しいと感じているようだ。リーゼロッテも表情と違い、口に合わなかったわけではないようで、すぐにスープ皿を空にした。
「では、こちらの焼き飯は如何でしょうか」
アイラはにこやかに微笑みながら大皿に盛られた焼き飯をフライベル姉妹に取り分ける。
次の料理はスープ以上の高評価で、客人たちは存分にムールド料理に舌鼓を打った。
「小宮殿にはとても良い腕の料理人がいるみたいね。私たちの宮殿にも一人くらい分けて欲しいわ」
大方の料理を胃に収め、葡萄酒をグラス二杯空にした後、リーゼロッテが顰め面で言った。
「昨日の白身魚を貴方たちに食べさせてあげたいわ。塩辛さと言ったらなかったわね。塩の塊を齧っているみたいだったわ」
歯に衣着せぬ姉の物言いを普段窘めることが多いニーナも気まずそうに黙っていることからして、どうやら昨夜の料理の出来はお世辞にも弁護できないものであったらしい。
レオポルドは明日一番に灰古城の料理人を追い出そうと心に決める。
その時、ふと彼はリーゼロッテからの視線を感じ、顔を向けたが露骨に顔を背けられてしまった。
ここ最近、婚礼後、彼女とはずっとこのような状態で、何かの機会で同席しても、ろくに目も合わせず、挨拶程度の言葉しか交わせないでいた。
とはいえ、初対面の時からリーゼロッテはずっと不機嫌で、いつも何かしら怒っているような印象があり、いつも通りと言えなくもない。
「リーゼロッテ様。こちらの蜂蜜酒は如何ですか」
不機嫌そうな顔をして葡萄酒の杯を傾けるリーゼロッテにアイラが蜂蜜酒を勧めた。
「ムールドの酒といえば臭くて酸っぱい山羊乳酒じゃなかったかしら」
「ご安心を。今宵は山羊乳酒は封印です。御存知と思いますが、蜂蜜酒はアーウェンの特産です」
リーゼロッテの失礼極まりない言葉を穏やかな微笑みで受け流したアイラが蜂蜜酒を杯に注ぎ入れる。
アーウェン地方はリーゼロッテの故郷レウォントの西隣に当たる。アーウェン東部の高地地方では蜂蜜酒が盛んに造られている。
アイラの属するカルマン族は交易を盛んに手掛ける部族なので、遠くアーウェンの酒であっても手に入れることは容易いのだろう。
「旦那様もどうぞ」
アイラに蜂蜜酒の杯を押し付けられ、レオポルドも蜂蜜酒のとろりとした甘みを味わった。
チーズを齧りながら蜂蜜酒を何杯か空けるうちに夜も更け、フライベル姉妹は灰古城に戻らず、小宮殿に宿泊することとなった。小さいと呼ばれてはいるものの、客人用の寝室すらないというわけではない。
早寝早起きという健康生活を送っているらしいニーナは早々と割り当てられた寝室に入り、ソフィーネは「夜更かしは堕落の兆し」などと言って部屋に戻り、フィオリアも今夜中に片付ける仕事があるとかなんとか言って自室に引っ込んだ。
レオポルドも自室に戻りたかったものの、アイラに止められ、居間に場所を移し、引き続き蜂蜜酒を振る舞われた。
そうして、幾十本もの蝋燭に照らされた夜の居間には主人と夫人、二人の妾が残された。
延々と蜂蜜酒を呷り続けたリーゼロッテの白い肌は段々と赤みを帯び、すっかり目が据わっている。終いにはソファにしな垂れかかるような淑女らしからぬ恰好で座り、捲れた衣から白く長い脚が露わになっていた。
甘すぎる蜂蜜酒を飲み慣れないレオポルドはまだそれほど杯を重ねていなかったが、なんとも言い難い状況に落ち着かず、控え目に舐める程度のキスカも同じく居心地悪そうにしていた。
アイラだけはいつも通りの様子で給仕に彼是と指示を出して、追加の酒や果実、チーズなどを持ってこさせたりしている。
「それで」
給仕が部屋を出たところで、口を開いたのはリーゼロッテだった。
「わざわざ、私を呼び出して何の用なの」
ギラつく金色の瞳に睨み付けられレオポルドはアイラを見る。彼女が今夜の晩餐に呼ばれた理由を聞きたいのは彼も同じなのだ。
「古来、アーウェンでは新婚の夫婦は一ヶ月家に籠ったそうですわ」
アイラはそう言って黄金に輝く蜂蜜酒に満たされた杯を手にする。
「その間、新婦は蜂蜜酒を新郎に飲ませて子作りに励んだそうです」
「げふぉっ」
キスカが咽た。
「旦那様とリーゼロッテ様もそのようになさるべきだったのですよ」
アイラの言葉にレオポルドとリーゼロッテは唖然とした顔で言葉を失う。
「なっ、何を言っているんだっ」
物言う能力を一時的に喪失している辺境伯夫妻に代わってキスカが立ち上がって叫んだ。
「意味が分からないっ」
「あら、私は単純明快なことを申しているだけですわ」
レオポルド軍の将兵から鬼、悪魔と恐れられているキスカに迫られてもアイラは悠然と微笑む。
「夫婦たるもの愛を交わすことは至極自然なことです。しかも、婚礼を挙げて半月しか経っていない時期ですから尚のことです」
視線を向けられた結婚半月の新婚夫婦は揃って気まずそうな顔で蜂蜜酒に口を付けていた。
「また、全ての妻を平等に愛することは夫の責務です。恐れながら旦那様はその責任を果たしていらっしゃいません」
レオポルドは何か言おうと口を開きかけたが、三人の妻の視線を受け、蜂蜜酒の瓶を空にする作業に戻った。
「これは私とキスカお姉さまの責任でもあります。本来ならば私たちは遠慮せねばならない立場。旦那様のご寵愛を受けてさえいれば良いというものではないのです。旦那様とリーゼロッテ様の関係についても知っていなければならなかったのです」
その言葉にキスカは難しそうな顔をして考えていたが、やがて、同意するように黙って頷いた。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよっ」
怪しげな場の雰囲気を打ち破ろうとするかのようにリーゼロッテが喚く。
「あんたたちに気を使ってもらう必要なんてないわっ。知っての通り、これは政略結婚で、あ、その、恋だの愛だので結ばれたとかいうお伽噺みたいな結婚じゃないんだから」
「それは十分に存じておりますわ。私も一族の為に旦那様に嫁いだ身です。けれども、私は不幸な結びつきだったとは思っておりません。きっかけはそうであったとしても、旦那様は私を愛でて下さいますし、私も旦那様をお慕いしておりますわ」
アイラはそう言ってレオポルドに微笑みかけ、その旦那は気恥ずかしさと気まずさが入り混じったような顔で蜂蜜酒を飲み干す。
「ですから、リーゼロッテ様も」
「あたしはっ、別に、彼に、いや、彼と……」
平素は雪のように顔を太陽のように赤く染め上げたリーゼロッテはいくらか言葉に迷った挙句、蜂蜜酒を飲み干し、その場に立ち上がって叫ぶ。
「あたしは、彼が来なくて寂しいとか何だとかそういう感情になることは、ないっ」
リーゼロッテはそう断言したものの、その口から否定形とはいえ、「寂しい」などという単語が出ること自体が何を意味するかは言うまでもなかろう。
そして、そんなことも察することができないような鈍感はこの居間にいなかった。
「だから、あたしに気を使う必要はないわっ。レオポルドがここにずっと住み続けることにも文句なんかない。ニーナが帰って一人になっても平気だし、だから……」
話している途中で自分が喋っている内容を理解したリーゼロッテの声は段々と小さくなり、終いには唇を固く閉じて顔を背けた。相変わらず怒ったような顔をしているが、その表情の裏には様々な思いや感情が渦巻いていることだろう。
静まり返った居間でアイラがゆっくりと立ち上がり、リーゼロッテの方へと歩み寄り、怪訝そうな顔をする彼女の耳元にそっと唇を寄せて囁く。
「初夜に失敗なさったと思われているのではありませんか」
リーゼロッテの顔色はこれ以上ない程に紅潮する。咄嗟に口を開くも言いたことが言葉にならず、無闇に口を開け閉めした挙句、彼女はぐっと息を飲み込んで眉間に深い深い皺を刻み込み微かに顎を引く。
アイラは小声で言葉を続ける。
「初めての経験に戸惑い、失敗してしまうことは、多くの夫婦に起こり得ることです。恥じ入る必要はございません。旦那様もリーゼロッテ様に苦しい思いをさせてしまったと気を病んでおられましたわ。きっとお互いに気を使ってしまい、不幸にも気まずい状況になってしまったのでしょう」
リーゼロッテは心底不機嫌そうな顔でレオポルドを睨み付けてから、やはり、ほんの少しだけ顎を引いた。
「次はきっと大丈夫です」
「……そう、かしら」
リーゼロッテは憮然とした顔のまま唇をほとんど動かさず囁くように言った。
「ムールドでは一人の夫に仕える妻たちは姉妹のようなものです。新しく入る妹の為に姉が手伝いや手解きをすることもございますわ」
アイラの言葉を聞いた新妻は一瞬唖然とした表情を浮かべたものの、すぐに不機嫌顔に戻り、更に声を落として尋ねる。
「あなたたちは、その、一緒の床に着くことはあるのかしら。その、キスカとあなたが、レオポルドと……」
その問いにアイラは素直に頷いた。
西方教会が不倫、姦通は悪魔の仕業にも等しき不道徳と説教する帝国及び西方諸国においては信じ難き非常識だろう。
とはいえ、それは表向きの話である。王侯貴族、富裕な者の中には幾人もの娼婦、愛人を侍らす者も少なくない。ただ、その中に正妻も含まれるということは極めて稀に違いない。それも高貴な家柄の淑女ともなれば尚更である。
しかし、初夜の失敗、婚礼後半月の経緯、妹ニーナが去った後のこと、鯨飲した蜂蜜酒の酔い、そして、女性をも引き込むアイラの不思議な魅力にリーゼロッテの顎は再び微かに動く。
「さあ、御部屋を移りましょう。旦那様、キスカお姉さまもこちらへ」
アイラはリーゼロッテの手を取り、他の二人に呼びかけた。
二人はこの後の展開をなんとなく察し、唖然とした表情を浮かべる。
「いや、しかしだな……」
「何故、アーウェンの新婦が新郎に蜂蜜酒を飲ませるかご存知ですか」
レオポルドの言葉を遮るようにアイラが言った。
「蜂は子沢山ですから、子孫繁栄という意味合いがあると云われています。それに蜂蜜には滋養強壮の効果があるとか……」
アイラが艶然とした笑みを浮かべ、リーゼロッテの手を引いて居間を出ていく。
高貴なる辺境伯夫人は憮然とした顔を浮かべ、鋭い眼光でレオポルドを睨んだが、何も言わずに手を引かれるがままに連れられて行く。
残されたレオポルドとキスカは思わず顔を見合わす。
「どうしたものか……」
「どうもこうもないと思います」
レオポルドの言葉に硬い表情のキスカが呟いた。
この夜の後、レオポルドは灰古城にも居室を設け、少なくとも月の半分はそこで寝泊りすることとし、宮内長官ら宮廷高官たちはその準備に奔走させられる羽目となった。
辺境伯の住まいが入ると、既に宮廷高官や侍従、女官たちの部屋に加え、辺境伯議会の議場と高等法院の法廷まで入っていた灰古城は途端に手狭となってしまう。
仕方なく、暫くの間、レオポルドは灰古城に滞在するときはリーゼロッテの居住区域の一角に入ることになった。
高貴な家では夫婦といえど、寝室はともかく居間や衣装室などといった私生活の場は夫と妻で分けられていることが多く、妻の領域の一角を夫が間借りして、そこで過ごすといったことは滅多にないことであった。
これには辺境伯夫人が反発するだろうという宮廷の人々は予想したものの、リーゼロッテは夫との同居をあっさりと認め、貴族たちは一体如何なることかと噂し合うのだった。
また、この状態を解消する為に辺境伯議会と高等法院を別の建物に移すことが検討され、ハヴィナ市中心部の土地を確保して、そこに議会と法廷の建物をそれぞれ建設することが決められた。
サーザンエンドを統治する重要機関が入る建物ともなればそれなりのものでなければ貴族は勿論のこと議員や判事も市民だって文句を言うだろう。
となれば更に多くの金が必要となるのは明白である。
日中の仕事を終え、就寝前の入浴も済ませたレオポルドはそれぞれの建物の建設費用を計算しながら憂鬱そうに嘆息した。
「レオ」
不意に声をかけられて彼は顔を上げる。
彼がいるのは本来は寝室付女官が控える小部屋で、ちょっとした仕事や書き物、読み物はここで済ませてしまうことも多かった。
ただ、あくまでも仕事部屋や書類置き場のような扱いで、彼がそこで寝ることは滅多になかった。
「まだ仕事をしているのかしら」
薄い扉の向こうから尋ねられ、レオポルドは机の上に散らばった書類を片付け、席を立った。
「いや、もう休む」
「あら、そう」
扉を開けて言うと、その前に立っていたリーゼロッテは不機嫌そうな顔で素っ気なく言った。
「お嬢様。お手をお取り下さい」
「何言ってるの。下手糞な素人役者みたいよ」
レオポルドが手を差し伸べると彼女は辛辣な言葉を浴びせて、その手を握った。
そうして、二人はリーゼロッテの寝室の真ん中に鎮座する寝台に向かう。