一五四
ハヴィナ城では連日連夜に渡って祝宴が催された。言うまでも無くレオポルドのサーザンエンド辺境伯位継承と辺境伯夫人リーゼロッテの来着を祝うものである。
二人は朝からサーザンエンド貴族をはじめとする高位高官、ハヴィナやムールドの有力者たち、およそ数十人を謁見し、客人を招いた堅苦しい昼食会の後、辺境伯軍の行進を閲兵したり、舞踏会や音楽の夕べを過ごしたり、数時間にも及ぶ歌劇や演奏会を観たりする。その後、昼食会よりも多くの客が顔を揃えた更に長ったらしい晩餐に出席するのだが、これが深夜近くにまで及ぶ。
しかも、晩餐の後、客人たち一人一人から挨拶を受け、更にその後、宮廷の侍従や女官たちと過ごす時間があり、歓談やカードゲームなどをして無為な時間を過ごす。それが終わってようやく寝室に入ることができるというのが一日のスケジュールであった。
これが一週間も続いたのだから、レオポルドとリーゼロッテが辟易とするのも当然というものであろう。二人は共に高貴の生まれでありながら、長たらしく堅苦しい儀礼や祝宴を否定的に見るという貴族らしからぬ価値観を共有していた。
レオポルドは形式や儀礼、慣習を無価値として排除するわけではないが、より現実的で生産的な事柄に関心を示す傾向にあった。この性質は俗物的と捉えられることも少なくなったが、彼は余程の不都合が無い限りは社会や人々の慣習を尊重する姿勢を示す柔軟さを持ち合わせていた為、批判を浴びることは稀であった。
仰々しく堅苦しい儀礼や式典は勿論のこと、慣習によって定められた辺境伯の生活様式を新参者の辺境伯夫妻は遵守しなければならなかった。百数十年に及ぶフェルゲンハイム家の歴史と伝統、サーザンエンド貴族社会の慣習を一昼夜に変えようとすることは大きな反発を招きかねない。
これを理解しているが故にレオポルドは顔の筋肉が引き攣るかと思う程に愛想笑いを浮かべ続けて、サーザンエンド貴族たちとの付き合いを欠かさないように努めていた。その合間にも彼は新しい辺境伯政府と辺境伯軍、宮廷の組織編成や人事、各種の法整備や税制改正の計画、ハヴィナ城の改修工事やサーザンエンド各地において推進している土木工事などの報告を受け、指示を与えていた。更に各地の有力者や知人から送られてくる手紙を読んで返事を書き送ったりもしなければならない。
彼の睡眠時間は極限まで削られ、趣味である入浴も起床後と就寝前の一日二度に制限せざるを得ない状況であった。
とはいえ、灼熱の地サーザンエンドと言えど冬ともなれば暑さを感じることはなく、寒さに身を震わせることもない過ごし易い気温で、入浴を我慢することはそれほど苦ではなかった。
一方、より高貴な血筋を有すリーゼロッテはといえば、レオポルドに輪をかけた程に形式主義を嫌悪していた。時間と金の浪費としか思えない重苦しく長たらしい式典や目的を見失い遵守することが目的化している礼儀や作法、虚飾と建前に塗れた家同士の付き合いなどに彼女は何の価値も見出さず、生産性のない無価値な悪習と見下していた。
とはいえ、無価値と唾棄したとしても、それを無視することができないのが貴族の宿命というものである。
リーゼロッテとて世を知らぬ小娘というわけではない。年若い頃は舞踏会や晩餐会に出るのが嫌で自室に籠城したり、宮殿から単身脱出して城下を巻き込んでの大騒ぎを何度も引き起こしたものだが、さすがにお転婆という時期は既に卒業している。黙って大人しく種々の行事に付き合っていた。
とはいえ、出たくもない行事に嫌々何日も連続して出席していると苛立ちが増し、表情や言動にも棘が出てくるのは致し方ないというものだろう。
そもそも、彼女は客人と他愛もなければ意味もないお喋りしながら食事を楽しむという王侯貴族の習性ともいえる習慣の意義と価値を理解していなかったし、理解するつもりもなかった。にも拘わらず、一週間連続で付き合わされればご機嫌宜しゅうはずもない。
彼女が眼光鋭く唇を固く結んで不機嫌そうに眉間に皺を刻んでいるのは平素からのことであったが、昼食会に最早食べ飽きた仔羊の香草焼きと昨夜の晩餐以来の再会を果たしたところで隣席のレオポルドにだけ聞こえるように舌打ちをして何故か彼を睨み付けた。
レオポルドはリーゼロッテのご機嫌がいつもより宜しゅうないことには気付いたものの、女性特有の日なのであろうなどと考えていただけだった。
昼食会の後、彼らは「白鹿姫」という古典歌劇を観ることとなった。
「白鹿姫」はさる美しい姫が悪い魔女にその美しさを嫉妬され、様々な苦難を課され、挙句の果てには呪いによって白鹿にされてしまい、森へ狩りへと来ていた隣国の王子に討たれそうになるも、何故か唐突に聖母の慈悲によって魔女が滅せられ、姫は本来の姿に戻り、王子に求婚されて幸せに結ばれるというあらすじで、大陸全土において非常に有名な古典にして上演時間が六時間を超える長編である。
誰もが知る有名作ではあるが、昨今の帝都や帝国本土、西方諸国においては陳腐化した作品と見做され、上演時間が長いこともあって倦厭されることが多い。
当然ながらリーゼロッテにとっても見慣れたもので、六時間も黙って座って観なければならないのは一種の拷問に近いと彼女は感じた。再び隣席のレオポルドを睨むも、未来の夫は素知らぬふりを決め込み、上演中には密かに持ち込んでいた書類に目を通したりしていた。
その後の晩餐では当然のことながら、先まで観ていた「白鹿姫」の話題が上がり、紳士淑女の面々は口々に今日の歌劇を誉めそやす。
レオポルドは彼らの他愛もない会話に耳を傾け相槌を打っていたが、その実、ほとんど聞いておらず、手許の紙切れに手紙の返事の下書きやメモを書いたりしていた。
これまでの数年来の付き合いでレオポルドに芸術的な趣味が無いことを知っているハヴィナ貴族たちは聞いているのかいないのかよく分からない彼の反応を気にすることはあまりなかった。
一方、席上では幾度かリーゼロッテには盛んに話が振られた。彼らは新しい辺境伯夫人に興味津々なのである。
無論、リーゼロッテとしても自らが観察され、試されていることくらい理解しており、日頃は無難な受け答えに終始していた。
また、このような席には必ず同席しているレウォント方伯領から随行してきた女官たちも上手くリーゼロッテをフォローして、問題となることを避けていた。
今宵、同席していたのはカレニア・ザビーナ・ランゼンボルン男爵夫人とテレジア・イェーネ・クラインフェルトという二人の女官である。
ランゼンボルン男爵夫人はレウォント方伯領の有力貴族の未亡人で、年の頃は三十代半ば程、飾り気や派手さの無い装束に身を包んだ生真面目そうな夫人である。
一方、テレジア嬢はまだ年若い未婚の女官であり、やはり、レウォント方伯領の有力貴族の令嬢であった。わざわざ、サーザンエンドくんだりまで同行するだけあって好奇心旺盛な性格なのだろう。
「リーゼロッテ様は如何でしたかな」
その発言の主はハルトマイヤー卿であった。卿はレッケンバルム卿に近いハヴィナ貴族であり、レオポルドの宮廷では宮内長官を務めている。これはレッケンバルム卿に配慮する為に行われた所謂バランス人事の産物であり、レオポルドは彼をさほど評価しているわけではなかったが、さほど問題のある人物とも見ていなかった。つまり、無難な人物であると見做していたのである。
ただ、無難なのは卿の政治的な立ち位置と能力に関するものであり、人間的な性質はあまり無難と言えるものではなかった。
「帝都で流行の作品を数多く目にされてきたリーゼロッテ様にとっては、ハヴィナの劇場は物足りないと思われるかもしれませんな」
ハルトマイヤー卿の皮肉めいた言葉にリーゼロッテは眉間の皺を深くしたものの、葡萄酒を一口飲んでから、心を落ち着かせて応える。
「いえ、そんなことは」
「しかし、些か退屈そうに見えました。白鹿姫はお気に召しませんでしたか」
「確かに帝都であれば白鹿姫は少し陳腐な演目かもしれませんね」
自身では平静なつもりだったが、彼女の言葉にはいくらかの苛立ちが混じっていた。
平素であれば、この辺りで女官たちがフォローするところであったが、この時、アルトゥールがランゼンボルン男爵夫人にしつこく話しかけていて、テレジア嬢は席上の退屈な会話よりも向かいに座っているレオポルドに興味を抱いていた。
「閣下。先程から手許で何を書かれているのですか」
「あぁ、失礼。これはレイクフューラー辺境伯閣下への手紙の返事の下書きです」
「あら、食事中に手紙を書かれるなんて、お行儀が宜しくないのですわ」
「勿論、品がないのは承知しているのですが、レイクフューラー辺境伯閣下は手紙の返事が少しでも遅れると矢のように手紙を寄越してくるものですから」
そう言うとテレジア嬢は目を輝かせる。
「まぁっ、レイクフューラー辺境伯閣下も年頃の淑女ということかしら」
「残念ながら、そういう類の手紙ではなくて、借金返済の督促ばかりですよ」
その返事にテレジア嬢は一瞬黙り込んだが、レオポルドが冗談めいた感じに微笑むと彼女も釣られたように笑みを浮かべた。
隣席のレオポルドとテレジア嬢の会話を耳にしながら、リーゼロッテは更に不機嫌な調子で言葉を続ける。
「帝都では白鹿姫はもう大人が観る歌劇とは見做されず、子供向けの童話のような扱いになりつつありますから。歌劇作家のエドワルト・カーセット卿は、白鹿姫のような陳腐な古典は紳士淑女が観るべきものではなく、子供に語って聞かせる類のものであると仰っておりましたわ」
カーセット卿は帝都では最も人気がある歌劇作家とされており、卿の書く作品の多くが大変な反響を呼んでいた。いわば、売れっ子作家というべきものである。
しかしながら、帝都の流行が辺境の地にまで伝播するにはかなりの時間を要すもので、ハヴィナ貴族の多くはカーセット卿を知らないか、名前は知っているものの作品を観たことはなかった。
とはいえ、カーセット卿を知らないなどと正直に言えば、流行遅れと見做されかねない。
「カーセット卿の作品はあまり観たいとは思いませんね」
誰もが口を閉ざす中、末席の若い貴族が抑揚のない声で呟くように言った。
不健康そうな青白い肌にか細く痩せた小柄の青年貴族で、神経質そうな容貌はどこかレッケンバルム卿に似ている。
「卿の諸作品の展開や台詞は古典の使い回しや改変ばかりですし、回りくどい台詞や大袈裟な演出や演技が多用されていて辟易とします。それに肝心なところは御都合的な偶然や奇跡で片付けられていることが多く、あまり魅力的な作品とは思えませんね」
そう言いながらも彼は皿に載った白身魚のフライを細かくバラバラにして骨を一本一本取り除く作業を続けていた。
「貴方、カーセット卿の作品を観たことがあるのっ」
「いえ、歌劇自体は観たことがありませんが、台本や解説本を取り寄せて読んだことがあります。帝国中央図書館長のレットハルト・ビットナー男爵も最近の歌劇に関する評論で僕と同じようなことを述べていました」
ビットナー男爵は帝国中央図書館の館長を務める傍ら歌劇の評論を書いて出版している人物で、その率直で辛辣であるが的確で優れた評論であると云われており、実際、男爵にこっ酷い評論を書かれた後、カーセット卿の諸作品は人気を失っていくこととなる。
「そもそも、最近の帝都では古典作品を黴臭い遺物と見做し、新しい作品ばかりを持て囃す傾向があるようですが、古典には古典の良さがあるというものです。それを長く退屈でもう知っている作品と言って斬り捨てるのは如何なものかと思いますね。古典であっても作品の背景や解釈をよりよく知れば別の見方ができますし、演出の仕方、役者の演技によっても違う印象を受けることもあります」
「いや、アイルツ卿の言う通りだ。古典には古典の良さがある。流行を追うだけが芸術ではあるまい」
ハルトマイヤー卿が破顔して言い、席上のハヴィナ貴族たちは次々に同意の声を上げ、リーゼロッテは不機嫌そうに黙り込んで隣席のレオポルドに視線を向ける。
「あら、閣下は毎日お手紙を書いていらっしゃるんですね」
「文通相手が多いのです。もう誰に何を書いたのか分からなくなってしまうくらいですよ」「じゃあ、私もお手紙を書いて送ろうかしら。そうしたら、閣下はもっとお忙しくなってしまいますね」
「そうですね。しかし、テレジア嬢のようなうら若き淑女からの手紙なら大歓迎ですよ」
相変わらず向かいのテレジア嬢と楽しげに会話をしているレオポルドの足をリーゼロッテは思いっきり蹴飛ばした。
「いったっ」
「閣下。如何なさいました」
「いや、大丈夫です」
レオポルドは愛想笑いを浮かべながら、隣のリーゼロッテを睨む。
「何をするんだ」
「私の女官に色目を使わないで。このスケベ」
リーゼロッテは鋭い視線で彼を睨み付けて言い放つと葡萄酒を一気に飲み干す。
レオポルドは釈然とない気分で、リーゼロッテとは逆の隣席でずっと黙って食事をしながら事の成り行きを見守っていたフィオリアに尋ねる。
「彼女は何を怒っているんだ」
「怒られて当然よ」
フィオリアもリーゼロッテ同様の鋭い視線をレオポルドに向け、きっぱりと言い切る。
「ところで、あそこの席の顔色の悪い若い貴族は誰なの」
白パンを千切りながらフィオリアは先程リーゼロッテに反論めいた発言をした若い貴族の名をレオポルドに尋ねた。
「末席の若いのか。確かヴェステル・エーヴァルト・アイルツ卿だ。ハヴィナ八家門の一家であるアイルツ家の御曹司で、レッケンバルム卿の娘だったか妹だったかの子息だったかと思う」
「ふーん」
「何だ。気になるのか」
レオポルドの冗談めかした問いにフィオリアは不機嫌そうに鼻を鳴らして、ふざけたことを言った弟みたいな野郎の足を蹴飛ばした。