一五
サーザンエンドに入っても辺りの風景はまるで変わらなかった。天高く晴れ渡り雲一つ見当たらぬ青空、乾いた茶色の大地に萎びたような草木、遥か彼方に見える地平線。動くものといえば、温い風に舞い上がる砂埃と歩く自分たちとその影くらいのものだ。
ほとんどアーウェン南部の景色と変わりなく、自分たちが本当にサーザンエンドに入ったのか疑わしい気持ちになる。実際、アーウェンとサーザンエンドの領域の境目は極めてアヤフヤで、明確に線を引けるものではないのだ。
レオポルド一行は延々と変わり映えの無い乾いた地面を歩き続けた。周辺には町も村も見えず、ひたすら見渡す限りに茶色い土と砂の大地と澄み切った青空が広がっている。
周囲を見ても農業をしている様子はない。それもそうだろう。足元の土を見る限り農業に向いている土には全く見えなかった。実際、植生も豊かではない。生きているのか枯れているのかよくわからない灌木や茂みがぽつりぽつりと見えるばかり。
「サーザンエンド北部はまだ農業ができる地域ではなかったか」
レオポルドは首を傾げながら呟く。以前、キスカから聞いたサーザンエンドの地勢についての話ではそのような説明があったような気がする。
「農作物はもっと南のオアシスの近郊や川沿いで作られています」
確かにこれだけ乾ききっているところで農耕はできまい。
「この辺りは水源から遠く、町も村も少ないのです」
「だから、さっきから人影一つないのね」
キスカの言葉にフィオリアが納得する。
「で、次の町まではどれくらいかかるんだ」
レオポルドの問いにキスカは暫く考えてから答えた。
「三日ほど歩いた先でしょうか」
乾ききった土の上を延々歩き続けていたせいで、すっかり消沈していた一行の気持ちが更に落ち込んだことは言うまでもない。
キスカの言葉どおり、日暮れまで歩いたが町や村どころか小屋すらも視界に入らず、一行は観念するように野営の準備に入った。
長い旅の間に何度か経験しているとはいえ、やはり、野営は避けたいところであった。野営に比べればどんなにみすぼらしい安宿でも屋根があって床が平らなだけまだマシというものである。
野営となれば、布を敷いた下はただの土なのだ。草地では草がちくちくするし、石が多ければ背中がゴツゴツする。砂地であったなら風で砂が舞い上がって寝ている顔に降り注ぐ。どれも安眠を損ねるには十分だろう。
その上、外で寝るとなれば常に風雨に晒される可能性を含んでいるし、気温の低さも屋内に比べて厳しい。日中は暑苦しい砂漠や荒野であっても日が沈むと驚く程に気温が下がるのだ。
更には野盗や盗賊といった無法の輩、狼や熊などの獣に襲われる危険すらあるのだから、野営は常に危険と隣り合わせなのである。
とはいえ、見知らぬ土地を寝ずに歩き続けることはそれ以上に危険な行為である。旅において最も重要なことは決して無理せず、しっかりと睡眠と休息、栄養と水分の補給を欠かさぬことだ。
というわけで、レオポルドたちは望まぬ野営をすることになった。野獣と良からぬ輩の襲撃を防ぎ、暖を得る為に火を焚き、見張り番を一人置いて交代で休むことになった。見張りは全員で交代して行う。
今夜の見張り当番はキスカから始まり、レオポルド、ソフィーネ、フィオリアという順番であった。
いつものように石みたいに硬いパンと乾ききった干し肉を齧り、皮袋の水を回し飲みした後、見張り番のキスカだけが焚き火の傍に残り、他の連中は思い思いの場所に布を敷き、毛布を被って横になった。
レオポルドが寝床に選んだのは干からびたような木の傍で焚き火からもそれほど離れていない場所だった。あんまり近すぎると寝ている間に火が燃え移る危険性があるので気を付けなければならない。
しかし、どうにも寝辛い。布一枚のすぐ下は地面の為、ごつごつと背中が痛いし、寝返りを打つこともままならない。ごわごわの毛布にも慣れない。肌に触れる部分がちくちくするのが非常に気になるのだ。
そもそも、一介の帝国騎士とはいえ、貴族の家柄に生まれ育ち、羽毛がたっぷりと入ったふかふかの寝台で寝てきた彼は中々野営に慣れることができないでいた。実を言うと安宿の硬い床で眠ることにも未だに慣れておらず、ここ最近はずっと寝不足気味であった。
一方、遊牧民の出身で仲間たちよりも長い旅を続けているキスカはすっかり慣れており、その気になれば岩の上でも木の上でも眠れるようであった。
ソフィーネは清貧であることが義務である修道院で生まれ育った為、固い寝床には慣れているようで安宿にも野営にも比較的早くに順応している。
フィオリアも育ちはレオポルドと同じではあるが幼少期は劣悪な環境の孤児院で育ち、クロス家においてもレオポルドの姉のように育てられてはいたが、その立場は使用人としてのものであったから、寝室も屋根裏の使用人用の部屋が与えられていた。それ故にレオポルドよりは劣悪な環境に慣れるのが早かった。
つまり、未だに安宿にも野営にも順応できていないのは貴族の御曹司であるレオポルドだけであった。
暫くの間、硬い土の上でごわごわした毛布に包まりながら寝苦しい時間を過ごした後、じっとしていることに耐え切れなくなったレオポルドがのそりと起き上がるとキスカが無言で視線を向けてきた。もの問いたげな顔で見つめてくるが声をかけてくる様子はない。
「中々寝付けなくてな」
レオポルドは乱れた髪を撫でつけながら焚き火の傍に座り込む。
キスカは何か言いたげに口を薄く開いたがすぐに唇を閉じ、焚き火に視線を戻す。
レオポルドはキスカを横目に見ながら荷物を漁って革袋を一つ手にした。それはレガンス司教のところで土産に頂いた葡萄酒を入れた革袋であった。
暑さの厳しい砂漠や荒野では革袋が非常に便利である。水などを他の入れ物に入れておくと熱であっという間に温められて湯になってしまうが革袋の場合、小さな穴から少しずつ中の水が蒸発して気化熱を奪われていくので温度を上げることなく持ち運べるのだ。元々は砂漠の遊牧民の知恵と聞く。
レオポルドは革袋に直接口をつけて葡萄酒をいくらか飲んでから口を拭う。温いが味は悪くない。
「君も飲むか」
葡萄酒の入った革袋を差し出すとキスカは迷うように視線を揺らした。
「フィオはあまり酒を飲まないし、ソフィーネは修道女だからな。誰も酒に付き合ってくれないんだ。一人くらい酒に付き合ってくれる者がいると助かる」
「それなら、頂きます」
レオポルドが助け舟を出すように言うとキスカは革袋を受け取った。同じように直接革袋に口をつけて中の赤い酒を飲む。
「味は悪くないと思うのだが」
「はい。美味しいです」
「君の部族にも酒はあるんだろう。どんな酒を飲んでいるんだ」
「主に乳酒を飲みます」
「乳酒っていうと、乳から作るのか。珍しいな。どんな味だ」
レオポルドはキスカの言う乳で作る酒に興味を持った。帝国にも西方諸国にも酒は数多あるが葡萄酒を代表とする果実酒、麦酒をはじめとする麦から作られる酒、蜂蜜酒など、いずれも植物を原料とするものばかりである。少なくとも帝国本土においては動物由来の原料で作られる酒は出回っていなかった。
「あまりキツくはなく、甘く酸味があり、独特の匂いがあります」
「なるほど。それは飲んでみたいな」
会話をしながら二人は代わる代わる葡萄酒を口に流し込んでいく。
いつも飲んでいるレオポルドは当然ながらキスカも酔う様子はなく、顔色にも変化は見られない。見張り番をしなければいけないので、あんまり酔うようであったら酒をしまおうと思っていたレオポルドはキスカの強さに感心した。
「中々強いな。故郷では結構飲んでいたのか」
「いえ、あまり。それほどは」
キスカは謙遜するように言い、少し顔を赤らめる。女性にとって酒に強いことはあまり褒められたことではない。という風潮が世の中には根強い。
しかし、レオポルドは世の風潮を意に介すこともなく、機嫌よく葡萄酒を勧め、キスカは断らずに淡々と葡萄酒を口にした。
「ところで、君はいくつなんだ」
散々酒を飲ませておいて、レオポルドはこの時、初めてキスカの年齢が気になった。飲酒に関する年齢制限など法律で定められてはいないが、やはり、酒は大人の飲み物である。寝つきの悪い子供に飲ませることもあるが、基本的には子供が口にするものではないし、若い頃の飲酒は慎むべきとされている。
キスカは少し躊躇いを見せ、言い難そうな顔をしつつ答える。
「今年で二十歳になります」
その返答にレオポルドは驚く。高い背に見事なプロポーション、大人びた顔立ちと落ち着いた人柄からそれほど若い印象はなかったが、まさか自分よりも年上だったとは思ってもいなかったのだ。
そこで彼は考え込む。フィオリアはその生まれの経緯から生年がはっきりとしないが、小さい頃はレオポルドよりも一足早い成長を見せていたから、おそらくは彼よりもいくらか年上であろうと思われている。ソフィーネも同じように生年不明だが、見た感じでは自分よりも年上に思われた。そして、キスカはレオポルドよりも二つ年上だという。
ということは、旅を共にする全員が自分よりも年上ということである。自分が最年少だということにレオポルドは少なからぬ衝撃を受けていた。
「そ、そんな歳なのか」
レオポルドは動揺のあまりそんなことを口走っていた。
キスカが恥ずかしそうに顔を伏せたのを見て、レオポルドは前の自分の発言が失言だったことに気付く。
女性に年齢を聞くということ自体が大変に失礼であるにも関わらず、その上に「そんな歳」とは紳士にあるまじき発言である。
この時代の結婚適齢期は非常に早く。十代後半には多くの者が伴侶を見つけることが一般的である。二十歳を超えると結婚が遅いと言われ、二十代も後半を超えれば完全に行き遅れと見做される傾向が強い。三十路を過ぎても結婚しない者は余程の変わり者か容姿や性格に難のある者、困窮故に結婚資金もない者、病気で結婚できない者、それ以外は修道女くらいである。良いことか悪いことかは別として、それが常識とされている。帝国では万事において古い因習と慣例が強い影響力を持っているのだ。
しかも、ムールド人をはじめとする遊牧民の結婚時期は帝国人よりも更に早く。十代半ばには多くが伴侶を見つけており、二十代まで独り身となれば完全な行き遅れと見做されるどころか一族の恥とまで思われてしまう。
女の仕事は家事だけでなく、子を産んで育てることという考え方が支配的なのである。というのも、家族単位で生活する遊牧民にとって子供は重要な労働力であり、子供は多ければ多いほどよいからだ。その為、女は早くに嫁いで早くに子を何人も産むことが重要視されている。嫁ぐのが遅ければ、その分、子を産める期間が短いのだから晩婚が忌避されるのは言うまでもない。
キスカは悄然として俯いてしまっていた。彼女自身、結婚が遅いことを気にしているらしい。
その様子にレオポルドはすっかり慌ててしまう。
「あ、いや、その、他人より少し結婚が遅いくらいどうということはあるまい。フィオもソフィーネも結婚していないしな」
レオポルドはそう言いながらも、この弁は苦しいと自覚していた。基本的に恋愛が禁止されている女中であるフィオリアはともかく、ソフィーネに至っては聖職ではないが、貞節を守ることが義務付けられている修道女である。これでは慰めにはなるまい。
「それに、君には婚約者がいるだろう。それならば、もう結婚しているも同然だ」
こちらの言葉は十分に説得力があるだろう。彼女には婚約者がいるという話を以前聞いている。婚約者がいるのならば、後はもう式を挙げるだけで、結婚が少々遅いくらい大した問題でない。
「あちらが私との結婚を望んでいるのは、私が族長の娘だからです」
レオポルドの言葉にキスカはいつも通りの無表情ながら、どこか気落ちしたような様子で呟く。
話を聞くにキスカの亡父は前の族長で、子はキスカのみであったらしい。その財産はほとんど彼女が相続している。
つまり、前族長の唯一の遺児と結婚すれば、その遺産がまるっと全て手に入るというわけだ。
しかも、世襲が原則である族長の地位継承に当たっても族長の遺児と結婚していることが非常に有利であることは言うまでもない。
要するにキスカの婚約は財産目当ての政略結婚というわけだ。この時代ではよくある話ではある。よくある話ではあるが本人としては納得できるものではない。
「あちらは私自身に魅力を感じているわけではないのです。私に女性的な魅力などないのでしょう」
キスカは自分の立場というものをよく理解しているようであった。そして、彼女はどうにも悲観的な思考をしているらしい。
「いや、君は十分に女性として魅力的だ」
自分の言動のせいで、すっかり落ち込んでしまったキスカを励まそうと、レオポルドは彼女を称賛する。
「背は高いし、スタイルも見事だ。非常に魅力的な女性だと思うが」
「女としては長身すぎるのはないでしょうか」
キスカは膝を抱えて体育座りしながら呟く。
確かに彼女の身長は並の男と同じくらいに高い。彼女はそれをコンプレックスとして感じているらしい。
「いやいや、そんなことはあるまい。スラリとして素晴らしいではないか。その銀髪もまるで銀細工のように綺麗だと思う。黒い瞳と褐色の肌のエキゾチックで帝国の女とは違う美しさだ」
レオポルドはそのようにアレコレとキスカの外見を褒め称えた。魅力的な女性を称賛するのも紳士の嗜みというものである。
暫くの間、黙ってレオポルドの言葉を聞いていたキスカは顔を赤らめ、彼をじっと見つめて尋ねた。
「そ、そう、ですか」
「そうだとも」
「じゃあ、レオポルド様は、私のことを魅力的だと」
「勿論。一人の女性として、非常に美しく魅力的な女性だと思っている」
レオポルドはそう言ってから気付く。これではなんだか自分がキスカのことを口説いているようではないか。先程まで自分が熱弁した言葉を思い返して彼は赤面した。顔から火が出そうな気分に陥り、気まずい気分で視線を彼女から外す。
レオポルドとキスカは二人して真っ赤な顔で黙って焚き火を見つめた。
「あ、あの」
何か思い立ったようにキスカが口を開いたとき、二人の間にソフィーネがぬっと顔を出してきた。
レオポルドとキスカはぎょっとして飛び退き、目を丸くして無言で顔を突っ込んできたソフィーネを見つめる。
「何を恥ずかしい話をしているんですか」
「いや、別に」
訝しげな顔で尋ねるソフィーネにレオポルドは赤い顔を隠すようにそっぽを向く。
「まぁ、お二人が何を話していても別に構いませんけども」
そう言ってソフィーネは二人に鋭い視線を向ける。
「何かの気配を感じます」
彼女の言葉に、顔を赤らめていた二人は居住まいを正して周囲の気配に注意を払う。
「狼か」
「この辺りの荒野にはヌーラという肉食獣も出ます」
「そいつはどういう獣だ」
キスカの言葉にレオポルドが尋ねる。帝国本土では聞き慣れない名前の獣だ。
「大きな黄色の猫です」
「猫ならばどうということはあるまい」
「ただ、狼よりも大きく、中には人よりも大きなものもいます。牛を襲って食うこともありますし、人が襲われて食われることもあります」
大きな猫とはいっても油断ならない獣であるらしい。
二人が話している間にソフィーネは長剣を携えて、近くの岩の上に立ち、周囲を見渡していたが、やがて、張りつめていた気を緩めた様子で焚き火の傍に戻ってきた。
「どうやら獣だったようですね。私たちを襲うのは止めたようです」
獣は非常に慎重で警戒心が強い。単独ではなく、また、眠ってもいないし、油断してもいない人間に襲い掛かるほど短絡的ではない。
ましてや、獣にとっても人間は天敵なのだ。人間は家畜を襲う害獣である肉食獣を殺すことも多いのだから。
レオポルドたちを観察していた獣は狩りの成功率が極めて低いと判断し、早々に場を離れたようだ。実際、それは非常に賢明な判断であろう。寝込みを襲われるのではなく、三人も起きて警戒しているところを獣に襲われても返り討ちにできる自信がある。
「では、私は見張りの当番の時間まで寝ます。後はお二人で愛でも何でも語っていて下さい」
そう言ってソフィーネは毛布を被って横になる。
「いや、我々はそういうことを話していたのではなくてだなっ」
「寝るので静かにして下さい」
反論するとソフィーネに素っ気なく言い放たれ、レオポルドは閉口した。
「……キスカ。君も、もう休むといい。次は俺が見張りをするから」
「しかし、時間が」
「いや、いい。元々、上手く寝付けなかったからな」
レオポルドはそう言って、キスカを休ませた。キスカは遠慮しつつも最終的には休むことに同意し、毛布を被って地面に横になった。
こちらに背を向けて寝入るキスカの背中に視線をやりながらレオポルドは己が言った恥ずかしい台詞の数々を思い出し、赤面した顔を仰いで熱を冷まそうとした。荒野の夜風が火照った顔に心地よい。
一方、横になったキスカは毛布を被り、横になってじっと目を閉じていたが、目は覚めていた。彼女もまた少し思うところあって暫らく眠れぬ夜を過ごした。